23 秘めた思い
その日の晩、夕飯に冷やし中華を作った律は、リビングのテーブルにラップをしたそれを置いて、鈴の帰りを待っていた。
時計の針が七時を示す頃、玄関が開いて鈴が帰って来た。
「おかえり」
律が声を掛けると、鈴は「ただいま」と微笑む。彼女の表情は、どこか嬉しそうだった。
何かいいことでもあったのだろうか。
「鈴、何かいいことでもあったの?」
「え?」
「何だかご機嫌だから」
律は、妹の幸せを祝う意図で尋ねた。大切な鈴が幸せなら、律も嬉しかったからだ。
しかし、鈴は顔を赤らめながら言い辛そうに目を伏せる。
「な、何もないよ」
「え?」
「何もない」
鈴はそう言いながら指先で自分の口元に触れる。それを見て、律は目を丸くした。
——鈴が顔を赤らめている。そして、嬉しそうなのに、自分には何があったか言い辛そうにしている。更に、口元に触れている……。
恋愛、日和君、キス、という三つの単語が頭に閃いた。
(鈴、キスしたのかな……そこまで恋愛が進んでたのかな……)
そう思ったら、先ほどまでの妹の幸せを祝う気持ちが、みるみるうちに萎んできてしまった。
寂しくて、涙が出そうだ。
「お兄ちゃん?」
「え? あ、何……」
「私の話はいいから、ご飯食べよう。手、洗ってくるから待ってて」
「ああ……うん」
スタスタと洗面所に歩いて行く鈴の姿を見送って、律はこっそり涙を拭ったのだった。
* * *
夕飯を食べて、風呂を済ませた律は、自室に戻って卒業制作の準備に没頭した。
先日、研究室で歌香と一緒に作ったプロットを元に、キャラクターの台詞を書き起こしていく。
律が担当しているのは中盤以降の台詞で、主人公とキャラクターの関係性がある程度進んでいるため、それなりにむずがゆい台詞も勿論考える必要があった。
クリスマスのシーン、頬にキスするキャラクターの台詞を考える段階で、ペンを動かす手が止まる。
「鈴が……キス……」
弦と幸せそうにキスをする妹を想像して、胸が苦しくなった律は机に突っ伏してしまった。
「応援するって決めたけど、やっぱり寂しい……」
涼風家は、昔から両親が不在の時が多く、律は鈴の保護者のような役割も担っていた。だからこそ、鈴に対しては一般的な妹に対する気持ちより、ずっと大きな感情を抱いてもいた。具体的には、父が娘へ向けるのに近い感情だ。
鈴のことは何としてでも守りたいし、鈴を守るのは自分であって欲しかった。鈴に必要とされたかった。
しかし、将来的に鈴を守るのは弦だ。
今日の鈴の表情で、それが分からせられた。だから、寂しくて苦しいのだ。
「はあ……」
律が溜息を吐いたその時だった。
誰かから電話が掛かって来て、スマホが鳴りだしたのだ。
画面を確認すると、「四宮歌香」と文字があった。
律は何とか心を落ちつけて、電話をとる。
「もしもし」
「あ、律君ですか? 四宮歌香ですけどお」
「歌香さん、どうしたの?」
「シナリオの進捗が気になって連絡したんです。私の方はある程度書き終わったので、今度会う時に確認して欲しいんですけど……律君の方はどうですか?」
「俺は……まだクリスマスまでしか進んでないんだ。ちょっと行き詰まっちゃって」
「あらあ、私で良ければ相談に乗りますよ?」
歌香は優しい声で申し出た。
普段、律が歌香を支える側なだけあって、なんとなく彼女に頼ることに抵抗があった律だったが、せっかくの申し出を無下にするのも申し訳ないと思い意を決して口を開いた。
「妹が好きな人とキスをしたみたいで……」
「へ?」
歌香から、きょとんとした声が返って来る。それはそうだ。シナリオの相談に乗るつもりだったのに、急に家族の話が出たのだから。
「妹さん? ゲームの話……じゃないですよね?」
歌香に尋ねられ、律はハッと息を飲んだ。しまった、歌香を困惑させてしまった。
しかし、話し始めてしまった以上は止める訳にもいかないと思い、「ごめん、家族の話なんだ」と断りを入れて続ける。
「昔から面倒見てた妹の恋愛が進むのが、少し寂しくて。妹は俺が守るものだと思ってたのに、将来的にはそうじゃないんだなって思ったら……すごく辛くて」
「律君……」
電話越しに悲しそうな声が返って来る。歌香を自分の悲しみに巻き込むのが嫌で、律は「話したら楽になったよ」と誤魔化した。
「もう大丈夫。俺もシナリオの執筆に戻ろうかな——」
「律君、私じゃ妹さんの代わりになりませんか?」
「え……?」
思いもよらない言葉が飛んできて、律は目を丸くした。
——歌香さんが鈴の代わりに? どういうことだ?
「歌香さん、それってどういう意味?」
「私が、妹さんの代わりに律君に世話を焼かれます! そしたら寂しくないかもです!」
「……」
やはり、歌香の発想は少しぶっ飛んでいる。きっと百パーセント善意なのだろうが、なんというか、コメントしにくいな……と、律は思った。
しかし、それと同時に笑いが込み上げてきたのも事実だった。
「……はは」
「何笑ってるんですか?」
「いや……ふふ、うん。歌香さんは面白いなって」
律の言葉に、電話の向こうで歌香も微笑む。彼が笑ってくれて安心したのだ。
(やっぱり、律君には笑ってて欲しいな)
そう思い、少し赤い顔で目を閉じる。
瞼の裏に、高校の時に彼が見せてくれた笑顔が浮かんだ。
木崎西高校の同級生だった歌香と律は、修学旅行の班も一緒だった。
美味しいものを求めて京都の町を自由に歩き回る歌香に、律が「歌香さんが迷子にならないように」と着いてきてくれたのだが、その結果二人揃って班のメンバーとはぐれてしまったのだ。
どうやら他の班員は電車に乗って次の行き先に着いた、とのことだったので、二人も慌てて次の電車に乗り込んだ。
「……律君、ごめんなさい」
電車の席に座った歌香は、隣の席に座った律に小さく謝る。目は少し潤んでいた。
「私のせいで、はぐれちゃって」
ぽろぽろと、静かに涙を零す歌香を見て、律は彼女の肩をポンポンと叩きながら口を開いた。
「大丈夫。お陰で、歌香さんが一人にならずに済んだんだし」
歌香が顔を上げると、律が切れ長な瞳を優しく細めて微笑っていた。
「大丈夫だよ」
この笑顔が、五年経った今でも、歌香の胸に甘く焼き付いていたのだった。
「……歌香さん?」
律の声が聞こえてきて、歌香はハッとした。
「な、何ですか?」
「ありがとう。歌香さんのお陰で、元気が出てきたよ」
「ほんとですか! よかったです。また何かあったら、いつでもお話聞きますからね」
「うん。じゃあ、俺の方もシナリオ進めるよ。次会う時に、お互いの分を確認しよう。それじゃあ、おやすみ」
「はい! おやすみなさい」
電話が切れる。
歌香は律のトークルームに表示された「通話 5:30」の文字を見て、頬を赤らめた。
「世話を焼いて欲しいとか関係なく、律君とは、これからもずっと一緒にいたいんだけど……なかなか言えないな」
五年間、ずっと抱えて来た本音が静かな部屋に零れ落ちたのだった。




