21 弦の秘密
鈴が落ち着きを取り戻した奏と共に教室へ戻ってくると、その場にいた他の生徒達が心配そうに奏の方を見て口を開いた。
「奏君、大丈夫?」
「周防、大丈夫だったか?」
口々に尋ねるクラスメイト達を見て、奏は照れくさそうに頬を掻く。
「うん。ごめんね。もう大丈夫」
そう言って、甘い目元を細めて明るく笑った。
「文化祭、僕もクラスの仲間として頑張るから、改めてよろしくね?」
元気を取り戻した奏を見て、クラスメイト達は安心した顔で頷いてくれた。
衣装担当の生徒が、奏の着物を持って駆け寄って来る。
「奏君。もし良かったら、衣装着てみて」
「うん。分かった」
奏が着替える横で、他の生徒が「鈴様、お着物直しますよ」と鈴の乱れた着物を直してくれる。
やがて、二人の衣装が整った。奏は月彦専用の唐紅の着物を着て、周りの生徒に微笑んだ。
「どうかな?」
すると、周りの生徒……とりわけ女子生徒達が、目をキラキラさせて激しく頷くのだった。
「すっごく格好いいよ! 流石奏君!」
「芸能雑誌の表紙みたい……」
「ふふっ、ありがとう」
奏は微笑むと、衣装担当の生徒の手に優しく触れ、柔らかな笑顔を浮かべながら口を開いた。
「素敵な衣装を作ってくれてありがとう。大切に着るね?」
甘い笑顔で微笑む奏を見て、周囲の女子生徒達が黄色い悲鳴を上げる。それを見て、鈴は苦笑いした。
「すごいなあ……」
弦も鈴の傍にやって来て、呆れ顔で奏を見る。
「相変わらずのタラシっぷりだな。たく」
「相変わらずか……周防君も寂しかったんだよ。昔は」
「あいつから何か聞いたのか?」
「うん。ご両親のこととか、お姉さんのこととか……色々ね」
「っ……そっか」
ご両親、と聞いて、弦は目を伏せる。
ちょうど先ほど、両親のことを思い出していたばかりだったから、余計に心臓を握りつぶされそうな思いだった。
しかし、そうとは知らない鈴はそんな彼の様子が不思議で、首を傾げた。
「どうかしたの?」
鈴が尋ねると、弦は慌てて笑顔を作って首を横に振った。
しかし、その表情は明らかにぎこちない。
無理もないことだ。だって弦にとって「家族」のことは、彼の人生で一番の心の傷なのだから――。
「いや、何でもねえよ」
「そうなの?」
「おう。奏も家族と色々あったんだなって思っただけだ。まあ何にせよ、鈴のお陰であいつの悩みが軽くなったんならよかったよ。あんがとな」
(奏も……?)
鈴が違和感に頭を悩ませていた時、学級委員長が「じゃあ全員揃ったし、台本読み合わせて見ようか」と音頭を取った。
その声で我に返り鈴は慌てて、自分の席に戻り、鞄から先日受け取った台本を取りに向かう。
弦はその後ろ姿を眺め、心の中で呟く。
(鈴には、言った方がいいのかな。……俺の過去のこと)
――本当にお金持ちの御曹司なのかな?
――見えないよねー。
鈴のファンのいつもの捨て台詞が、間違いではないということ。
これを打ち明けることで、彼女がどんな反応をするのか分からない。もし、これまで通りの関係を保てなくなったら……そう思うと、弦は怖くて堪らなかった。
しかし、彼女だって、可愛いもの好きなことを打ち明ける時、きっと同じような気持ちだったはずだ。
鈴は全てを打ち明けてくれた、だから俺も――。
弦は密かに覚悟を決め、台本の読み合わせに加わっていった。
* * *
その後、六時間目が終了するまで台本の読み合わせは続き、残りたい生徒は放課後も居残りで練習することになった。
しかし、部活の出し物や家の都合などでどんどん生徒が帰っていき、ギリギリまで残っていた奏も「帰る前に寄りたい場所があるんだ。ごめんね」と教室を出て行ってしまった。その結果、今、教室にいるのは鈴と弦だけだ。
時刻は夕方十八時半。もうすぐ夏とはいえ、そろそろ暗くなって来る頃合いだ。最終下校時刻は十九時半だが、兄に居残りの連絡をしていなかった以上、遅くなりすぎても心配されてしまう。
「最後にもう一回読み合わせて、解散にしようか」
鈴の言葉に、弦も頷く。
「そうだな。俺と鈴のとこだけ、順に読んでくか」
「うん」
二人はお互いの台詞を読み合わせ始めた。
許されない逢瀬を重ねる二人。菖蒲姫の結婚が決まったその日の夜の台詞を、弦が読み上げる。
「俺が、平民だったばっかりに……何もできずに、本当にごめん。月彦様と、どうか幸せになってくれ」
その言葉に鈴が答える。
「生まれなんて関係ないわ! 私は、あなたが平民の生まれだとしても、あなただけを愛しているのよ! 身分も生まれも関係なく、二人で一緒に幸せになれる場所へ逃げましょう?」
「っ……」
鈴の台詞が終わり、次は弦の「……ああ。俺も生涯、君以外を愛することなど出来ない。一緒に逃げよう」という台詞だ。
しかし、弦は台詞を読もうとしない。教室の中に、沈黙が訪れる。
「……いと君?」
「鈴。あのさ……俺も、朝霧と同じなんだ」
「え……?」
弦の言っている意味が分からず、鈴は戸惑いを浮かべた表情で彼を見つめた。
「どういうこと?」
尋ねる鈴に、弦は真剣な顔で口を開く。
「俺、本当は日和家の人間じゃないんだ。金持ちで由緒正しい、日和家の息子じゃない。普通の家の、普通の子どもだったんだ」
唐突な告白に、鈴は目を丸くする。
やはり、そういう顔になるだろう……と、その驚いた顔に苦笑いしながら、弦は続けた。
「前の父さんと母さんさ、交通事故で死んじゃったんだ。そこを、知り合いだった今の父さんと母さんが引き取ってくれた。ずっと塞ぎこんでた俺にピアノを教えてくれたのも、今の両親だ」
「そう、だったんだ」
「おう。……俺、拾ってくれた両親に認めてもらいたくて必死だった。でも二人にはもう子どもがいてさ。俺の義理の姉ちゃんと兄ちゃん。二人ともすごい芸術家なんだ。だから、両親に認めてもらうには……日和家に相応しいすごい人間にならなきゃいけないと思ってさ。それで、色々頑張った。だけど俺、礼儀も何もなってなくてさ、上手くいかなかった」
「そうなの……?」
鈴は驚きを隠しきれなかった。まさか、弦にそんな秘密があっただなんて。
しかし、それと同時に合点がいく部分もあった。
たとえば、由緒正しい家柄なのに、弦の振る舞いは不良そのものだったこと。特に、鈴が出会ったばかりのときの弦なんて、素行も悪ければ成績も悪かった。普通であれば家族から厳しい教育がありそうなものだが、養子であるならば納得がいく。きっと、お互いに距離があって両親も注意すらままならなかったのだろう。
他にも、鈴は弦と知り合ってから、彼の両親を見たことが無かった。家に遊びに行くことも何度かあったが、そういう時は使用人の香田がもてなしてくれるだけで、両親の姿は見たことが無い。もしかしたら、親子関係が上手くいっていなかったのかもしれない――。
そう考える鈴の表情に、弦は「拒絶」を感じなかった。しかし一方で「肯定」も感じることもできない。
全て打ち明けた時、彼女がどんな顔をするのか怖くて、弦は拳を震わせながら続ける。
「……おう。唯一出来てたピアノも、小五のとき、父さんと母さんが家に帰って来なくなってから辞めてたしさ。きっと、俺の出来が悪くて呆れられたんだと思う」
弦は目を閉じて、当時のことを思い返す。
弦が五歳の時のことだ。
実の両親が交通事故で亡くなった。
幼少期のことで、今はその時のことがもう殆ど思い出せない。
ただ、病院で目を覚ました時、今の両親が自分のことを心配そうに見つめていたこと。そして、彼らから「お父さんから君のことを頼まれている。一緒に暮らそう」と伝えられたことは、どうしてか鮮明に覚えていた。
あの頃は喪失感のせいで今の家族からの愛情を素直に受け取ることができず、弦はずっと自室に籠りきりだった。
そんなある日のことだ。
両親が、業者に頼んで弦の部屋にグランドピアノを搬入した。
見たことのないぐらい大きな楽器を前に、弦は戸惑いを隠しきれなかった。
「あの……それは?」
「グランドピアノだよ。鍵盤を鳴らすと音が出るんだ。弾いてごらん」
父に促され、弦はグランドピアノの白鍵を押す。すると、澄んだ高いドの音が部屋に響いた。
その音があまりにも綺麗で、弦は思わず頬を紅潮させる。
「綺麗……」
弦がそう零すと、今度は母が優しい声で弦に告げる。
「好きなだけ弾いていいのよ」
「え……?」
「音楽には、人の心を動かす力があるの。だから、ピアノを弾いたら、弦君の心も楽になるかもしれないわ。ね、お父さん」
「ああ。弦君、もし何か弾きたい曲があったら、楽譜を用意するから教えてね」
父に優しく微笑まれ、弦は少し遠慮がちに「何でもいいの?」と尋ねる。
すると、両親はゆっくりと頷いてくれた。
その穏やかな表情に心を溶かされ、弦は目を潤ませながら口を開く。
「父さんと母さんと、教会で聴いてた曲が弾きたい……」
弦の瞳から、涙がポロポロと零れ落ちていく。
「もう一回、聴きたい……」
この家に来てから弦が見せてくれた初めての泣き顔。それを見た両親は安心したように顔を見合わせ、彼の背中を擦りながらこう言ってくれた。
「勿論。もう一回聴こう。楽譜を用意するからしばらく待っていてね」
「そうね。弦君の思い出の曲、一緒に聴きましょう」
その数日後、両親は弦に楽譜を渡してくれて、読み方も教えてくれた。
慣れない手つきで弾いた、バッハの「コラール 一番」は、今の弦の演奏よりずっと弱々しくて、でも懐かしい音がしたのだ。
その日から、弦はピアノに没頭するようになった。
才能にも恵まれ、めきめきと上達していく弦。そんな彼のことを、天才だと噂する人も少なくなかった。
しかし、上には上がいる。
弦のピアノは、どのコンクールに出ても、最優秀賞を獲ることができなかった。
両親の期待に応えたかったのに、あの日、ピアノを教えてくれた両親の気持ちに報いたかったのに……。
弦は次第に、ピアノを弾くのが怖くなっていった。
そんな日々が続き、いつの間にか弦は小学四年生を終えようとしていた。
三月。桜のつぼみが芽吹くある日の夕方、両親は大きな荷物を持って家を出ようとしていた。
きっと仕事なのだろうと、弦も始めはそう思っていた。
しかし、彼らが家を出る準備をする部屋から、弦の執事の香田の強い声が聞こえてきたのだ。
「小学生の坊ちゃんを家に残して海外に行く? これが坊ちゃんのためだと言うのですか!?」
「圭さん、落ち着いてくれ。僕は何も、弦君に寂しい思いをさせたい訳じゃないんだ。ただ、あの子のピアノが認められないから――」
父のその言葉を聞いて、弦の頭が真っ白になった。
――俺のピアノが認めてもらえないから、父さんと母さんは家を出ていくんだ。俺のピアノに価値が無いから……。
そうとしか、思えなかった。
弦は三人に気付かれないように早足で自室に戻り、両親が家を出るその瞬間まで、部屋に籠っていた。
両親が弦の部屋に顔を出すことは無かった。
それ以降、弦はピアノを弾くことを辞めた。
その後の弦は、大切な両親に呆れられた悲しみからどんどんと落ちぶれていった。
もともと正義感が強くてハッキリとした物言いをする弦を疎ましく思う児童も少なくなかったようで、弦の元気が無い様子を揶揄ってくる児童が何人もいた。
彼らに揶揄われるたびに、弦は彼らと激しい喧嘩をするようになった。殴り合いになることも少なくなかった。
ピアノの天才だったはずの彼は……素直で、活発な少年だったはずの彼は、いつしか不良となり、周囲から怖がられるようになっていったのだった。
弦は当時の暗い気持ちを思い出して、悲しげに目を伏せる。
彼の言葉を聞いた鈴もそうだったのか……と、眉を顰めた。小五といえば、弦がピアノを辞めた年だ。鈴に出会ってから再開したと聞いていたが、彼が辞めた理由までは知らなかった。まさか両親が家に帰って来なくなったことが原因だったとは。
弦は鈴の驚きと悲しみが混ざった顔を見て、辛そうに笑う。
「奏の技術力には敵わなくて、一回も最優秀賞取れなかったことからも明白だけどさ、俺のピアノには、父さんと母さんを振り向かせるだけの価値が無かったんだ」
「そんな……いと君のピアノ、すごく素敵だよ? なのに、価値が無いなんて」
「事実だよ。でもな、今はそんな卑屈じゃないんだ。……鈴がいるから」
弦は辛そうな目をしながらも、必死に、一生懸命、鈴に向かって笑った。
「鈴が、俺のピアノを好きだって言ってくれてる。ピアノだけじゃねえ。俺自身のことも大切にしてくれてる。だから、俺は今の俺、結構好きだ」
両親が家を出てしまい、今も帰って来ないことは、まだ辛い。きっとこれからも、その心の傷は消えないだろう。
でも、この言葉は嘘じゃない。
彼女が自分を受け入れてくれたこと。認めてくれたこと。好きだと言ってくれたこと――。
それに救われたから、今の弦があるのだ。
彼女に見合う人間になりたいと、必死に努力してきたからこそ、弦は変わることができた。
前の自分に比べたら、今の自分の方がずっと好きだ。
好きなんだ――。
「いと君……」
弦が無理をしているのが嫌でも伝わってきて、鈴は悲し気に顔を歪める。
(……いと君に、伝えたい。君が、君の全部が……私は大好きなんだって)
鈴は覚悟を決め、真剣な顔で弦に歩み寄っていった。
彼の前に来て、その頬に触れる。
戸惑った顔の弦に優しく微笑んで……鈴はそっと、唇を重ねた。
誰もいない、二人きりの教室。沈みかけた夕日に照らされる世界の中、二人の時間は止まっていた。
鈴が、ゆっくりと顔を離す。すると、りんごのように真っ赤な顔の弦と目が合った。
「なっ、お、お前……口……」
動揺する弦に微笑みながら、鈴は口を開く。
「いと君。私、君のことが大好きだよ。誰がどんなに否定しても、私が、君の価値を証明し続けるから」
「っ……」
弦は目を見開いた。
彼女から、キスをしてくれた。
愛のある言葉もくれた。
本当に、彼女は、俺のことを大切にしてくれている。たとえ俺が、日和家の人間じゃなくても――。
言葉に詰まり、照れくささのあまりまだ赤い頬をかいて……小さく呟く。
「……あんがと」
「うん」
「久しぶりに王子様の鈴を見たわ……チッ」
「あれ? 何で怒ってるの?」
「自分に腹立ってんだよ。くそ、次は俺からするからな! 覚悟しとけよ! ぜってードキドキさせてやる!」
もう何度もドキドキさせられてるんだけどな……と、鈴はクスリと笑ったのだった。




