20 信じて欲しい
七月十二日の文化祭まで、残り約二週間。木崎学園高校の生徒達も、文化祭準備に本格的に動き出した。高校全体としても、毎週木曜日と金曜日の午後の時間割は全て文化祭準備に当てていいことになり、土曜日も文化祭準備の生徒向けに高校を開放している。鈴達のクラスも順調に準備が進み、今日は衣装合わせと台本の読み合わせが行える状態だった。
「鈴様! 菖蒲姫の衣装ができたので着てくれますか?」
「分かった」
鈴は衣装担当の女子生徒から着物を受け取り、他の生徒に手伝ってもらいながら学校指定の半そで短パンの上から袖を通した。
手作りのため、布は安価なものだ。しかし葵色の上品な色合いは一国の姫である菖蒲姫にぴったりで、薄黄色の帯の上の茶色い帯紐には、着物と同系色である深い紫色の丸い帯飾りが通されている。
「すごく綺麗だね……これ、手作りなの?」
「そうですよ! 鈴様に着てもらえるならって、みんなで張り切って作ったんです!」
衣装担当の生徒は得意げに笑う。
他の生徒達も、鈴を見ながら口々に感心の声を上げていた。
「すごいの作ったなー」
「鈴様に似合ってる。すごく美しい……」
「涼風って、そういうのも似合うんだなあ」
肯定的な声を聞いて、鈴は頬を染めながら衣装担当の生徒に頭を下げた。
「ありがとう。私に似合うように、頑張ってくれて……こんなに素敵な衣装が着られるなんて、嬉しいよ」
「そんな、頭を上げてください! 私も、鈴様のお姫様姿が見られてすごく嬉しいです!」
「ふふ……ありがとう。本当に、お姫様になった気分だよ」
心から嬉しそうな笑顔を浮かべる鈴を見て、他の生徒達は心の中で「鈴様、なんだか可愛いな」と声を揃えた。
確実に、周囲の鈴を見る目は変わってきている。弦はそれを感じ取って安心していたが……正直、可愛い姿の彼女が他人に見られて面白くなかった。思わず、赤い顔で眉間に皺を寄せる。
(周りの奴に見られたくねえ……くそ)
彼女が自分らしく好きな格好で笑顔になれるのはいいことなのに、今まで自分が独占していた彼女の笑顔が他人にも知れたとなると、どうも腹が立ってしまう。思いのほか、弦は独占欲が強いようだった。
弦が難しい顔をしていると、衣装担当の生徒が「日和君も衣装着てみてよ!」と、着物を持ってきた。
「分かった」
弦は着物に袖を通して、自分で帯を締める。すっかり着慣れた様子の彼を見て、鈴は目を丸くする。
(やっぱり、お金持ちの家って着物とか着慣れてるのかな?)
他の生徒達も同じような感想を抱きながら、弦の着替えを見守った。
「……こんなもんか?」
弦は青い帯をパンパンと叩いて、首を傾げた。
弦が演じる朝霧は平民であるため、着物も地味な水色で、布も薄く軽い様子だ。刀で戦うシーンがあるのも考慮してか、動きやすそうな素材で作ったらしい。
実際には裕福な家に暮らす弦だったが、このように質素な衣装も不思議とよく似合っていた。
「日和君、似合うじゃん!」
「ほんとだなー。ちょっと意外だけど、かっこいいんじゃね?」
「ねー! あ、ちょっと鈴様と並んでみてよ!」
衣装担当の生徒に促されて、弦は鈴の隣に並ぶ。すると、周囲のクラスメイトから黄色い声が上がった。
「ひゃー! めっちゃお似合い!」
「王子様二人が並ぶと眼福だわあ」
「ブロマイド撮ったら高値で売れそうだな」
はしゃぐクラスメイト達を「こら、撮るんじゃねえ」と睨みながら、弦は溜息を吐く。
「着物着ただけで大げさなんだよ」
そんな彼に、鈴は明るい笑顔を向ける。
「いと君、すごく似合ってるよ」
「おーおー。そうかよ。まあ、お前の隣に並んで褒められるのは、悪い気はしねえな」
「ふふ」
「何笑ってんだよ」
「いや、本番はその衣装で格好よく刀振ってるいと君が見られるんだなーと思って」
「ああ……まあ、期待に応えられるように、頑張ってやるよ」
弦は顔を赤らめて頬を掻く。鈴はそんな彼に微笑んで、衣装担当の生徒に「他の役の衣装も作ったの?」と尋ねた。
「ああ、はい。今日できたのは、二人の他に殿様役と、あと奏君の月彦の衣装ですね。でも、奏君、今朝お仕事してたからなあ」
「そうだね。今日、来られるかな……」
鈴はそう呟きながら、教室の扉の方をちらりと見た。すると丁度その時、扉が開いて奏が入って来たのだ。
「ああ、周防君。お仕事お疲れ様」
鈴は笑顔を作りながら声を掛けた。
奏は彼女に笑顔で返そうとして……目を見開いた。
——葵色の着物。大切な彼女によく似た顔。
心臓がドクッと脈打つ。頬に冷や汗が伝った。
ずっと、鈴に会いたかったはずなのに、彼女に会えば、波立った心も落ち着くと思ったのに……。
「……葵衣」
「え?」
「ごめん」
そう言うや否や、奏はバタバタと教室から飛び出して行ってしまった。
「奏君!?」
周囲の生徒が驚きの声を上げる。そんな中、鈴は迷わず、着物姿のまま走り出した。
「私が追いかける! みんなはそのまま準備を続けて」
「え!? あ、ああ……はい!」
文化祭準備で賑わう廊下を逃げていく奏を、鈴は必死に追いかける。
「周防君! 待って!」
精いっぱいの声で呼びかける。しかし、奏は立ち止まらない。それでも、鈴は諦めずに走った。
(見失っちゃダメだ。絶対に捕まえないと! 周防君と向き合わないと!)
奏は階段を上がって、特別教室棟へ走っていった。鈴は着物を乱しながらも、なんとか彼に追いついていく。
やがて、奏は扉の空いた教室の中に入って行った。バタン、と勢いよく扉を閉める。鈴が確認すると、そこは第二音楽室だった。
「はあっ、はあっ……周防君! お願い、開けて!」
鈴の声を聞きながら、奏は扉の前で浅く呼吸をしていた。彼女がドアを開けられないように、ドアノブを強く握る。向こう側からドンドンと扉を叩く音がした。
「私、君と向き合えないままなんて嫌だよ。君が何か抱えてることにも、君が私を好きだって言ってることにも、もう逃げたくないんだ。……お願い。少しでいいから話をさせて」
「……ごめん」
震える声が、第二音楽室に零れ落ちる。
「どんな顔をして、どんな声で、どう話していいのか分からないんだ」
泣き出してしまいそうな彼の声が聞こえて、鈴は息を飲む。
「今、君と話したら……君に、嫌な思いをさせるかもしれない」
「……それでもいいよ」
「国民的アイドルの僕しか知らない鈴ちゃんは、きっと幻滅するよ」
「そんなことない。だって……周防君が、アイドルである前に一人の高校生だってこと、私は知ってるから」
「え……?」
「だから、安心して」
優しい声を必死に作って、鈴は奏に語りかける。
彼の心の傷が、どれほど深いのか、鈴には分からない。分かることもできない。
だって、自分の痛みは自分にしか分からないのだから。
しかし、それでも……その痛みに寄り添うことはできる。大丈夫になるまで、傍にいてあげることはできる。昔、同級生に襲われて、涙が止まらなかった鈴の傍に弦がいてくれたように。
だから、鈴は奏を諦めなかった。
「……君を、信じてもいいの?」
奏は潤んだ声でそう尋ねた。
その声に、鈴は迷わずに頷く。
「信じて欲しい」
彼女の力強い声に心を動かされ……奏は、ゆっくりと扉を開けた。
* * *
鈴と奏が出て行ってしまった教室は、すっかり混乱状態だった。
「奏君、大丈夫かなあ。なんか顔色悪かったけど……」
「さっき、『あおい』って言ってたよね? 誰のことだろ」
「てか、涼風も大丈夫なのか? 着物のまま走っていったけど……」
口々に心配するクラスメイトを、弦も不安げに見つめていた。
(こいつらの不安も分かる。奏の様子は明らかに変だったし、鈴も走りづらい格好で追いかけていったし。でも……あいつはきっと、鈴にしか救えない)
だって、他ならぬ弦もそうだったのだから。
心に空いた穴は、別の何かで埋めるしかない。
弦の脳裏に過去のことが蘇る。
小学生に上がりたての年の梅雨。自室で弾いていたバッハの「コラール一番」を聴いて、両親が嬉しそうに微笑んでいてくれた時のこと。
二人の笑顔を見ているだけで、弦は幸せだった。
しかし、小学四年生の春休み……。
「小学生の坊ちゃんを家に残して海外に行く? これが坊ちゃんのためだと言うのですか!?」
「圭さん、落ち着いてくれ。僕は何も、弦君に寂しい思いをさせたい訳じゃないんだ。ただ、あの子のピアノが認められないから――」
あの日のことが、断片的にフラッシュバックする。
香田の強い声と、それに反論する父の焦った声。
その時、両親の部屋の外で感じた絶望感。
それ以降、弦は不良となり喧嘩もするようになって、何も頑張れずに酷く落ちぶれてしまって……でも。
――別に怖くないよ。日和君、意外と真面目だし、不器用なだけでいい人だよね。
――いと君のピアノ、私すごく好きだよ。なんていうか、すごく……綺麗なんだ。いと君の音色は、透き通って感じる。
鈴の言葉が、優しさが、その心の穴に温もりを注いでくれたのだ。
彼女が救ってくれたから、今の弦がある。
奏のことも、そんな風に温もりを注げる人でなければ救うことができない。
だから、鈴でなければダメなのだ。
逆に言えば、奏にとって重要な存在で、心優しい彼女なら、きっと奏を救うことができるだろう。
「大丈夫だ。信じて待とう」
弦はハッキリと、大きな声でそう言った。
クラスメイト達も落ち着いた様子の弦を見て、顔を見合わせながら頷く。
「そう、だね……鈴様が行ってくれたなら、きっと大丈夫だよね」
「うん、信じて待とう」
徐々に落ち着きを取り戻していくクラスメイト達を見て、弦も表情を和らげる。
(大丈夫だ。鈴なら、きっとあいつを救ってくれる……)
弦はそう強く信じて、二人のことを待った。
* * *
鈴が第二音楽室の扉を開けると、潤んだ目を伏せている奏が立っていた。彼の長い睫毛も、涙で濡れている。
「……周防君。大丈夫?」
「うん。大丈夫。……ごめん、逃げ出したりなんかして。中で少し話そう」
「うん」
奏に促され、鈴は第二音楽室の中に入った。
ピアノの他には、第一音楽室の予備の机と椅子が少しだけ置かれているだけの教室。普段は弦のピアノを聴きに来ているため意識していなかったが、音楽が無いと、恐ろしく殺風景に感じる。外は雨が降っており、サー、と雨音が聞こえてきた。そのせいで余計に第二音楽室の寂しさが増している。
二人は教室の壁際に座り込んだ。
「ねえ、周防君。さっきはどうして逃げたの?」
鈴が尋ねると、奏は寂しそうに苦笑いして口を開いた。
「鈴ちゃんが、あまりにも似てたから、驚いたんだ。……葵衣に」
「葵衣……?」
「うん。僕の、世界で一番大切だった人。もう、この世にはいないけど」
——やっぱり、周防君の心の闇は、大切な人との死別だったんだ……。 鈴はそう思いながらも、彼の言葉に耳を傾ける。
「鈴ちゃんには、前に話したよね。昔、熱を出して死んじゃった大切な人がいたって。それが、葵衣なんだ。葵衣は、僕の腹違いの姉で……顔とか、見た目の雰囲気が鈴ちゃんにそっくりだった。だから、君と初めて会った時……すごく驚いたんだ。葵衣が生き返ったんじゃないかって」
「じゃあ、運命の人だとか、占いがどうとか言ってたのは……」
「うん。咄嗟の冗談。とにかく、君を引き留めなきゃって必死だった。でも、驚いたよ。まさか弦と仲が良い子だったなんて」
奏はククッと笑う。彼の言葉を聞いて、鈴は初対面の時に奏と弦が険悪そうだったことを思い出した。確か、あの時は彼のことを「ピアノの腕を競い合っていたライバル」と言っていたような。
「周防君は、いと君のピアノのライバルだったんだっけ」
「うん。向こうがそう思っていたかは分からないけど」
「いと君に一回も負けなかったんだよね?」
「まあ、結果的にはね。でも……才能は完敗だった。僕のピアノは、楽譜で指定された以上の音色にはならなかったんだ。でも弦の音色は、表情豊かで美しかった。まるで透き通った世界が、目の前に広がるみたいだったよ。あいつの指には、間違いなく神様が宿ってる。父さんもそう言ってたし、僕もそれは認めてた。悔しいけど」
奏は悲しそうに目を細めると、続けた。
「僕の父さんはね、『ピアノの才能がある子供』が欲しい人だったんだ。でも、僕のピアノは凡人だった。だから、僕達家族を見捨てて、家を出て行ったんだ。父さんがいなくなって、経済的に苦しくなって、母さんも弱っていって……そんな中、葵衣が病気で高熱を出した。当時、僕はまだ中学生でさ、何もできなくて……葵衣を、助けることができなかった」
奏の瞳から、涙が零れ落ちる。
「僕のせいで、葵衣は死んだんだ。僕にピアノの才能があって、もっとしっかりしてたら……葵衣は死ななかったのに」
「周防君……」
何と言ってよいか分からず、鈴は俯く。
目を閉じて、必死に考えて……ようやく、一言発することができた。
「葵衣さんは、きっと、自分の死を君のせいにはしたくないと思う」
「え……?」
「綺麗ごとかもしれないけど……私も、自分が葵衣さんの立場なら、そう思うから。私ね、もし大切な人と別れることになっても、相手に自分のことを後悔し続けて欲しくない。自分との思い出を悲しいものになんてせずに、楽しかった思い出を懐かしんで欲しいなって思うんだ」
鈴はそう言うと、奏を真剣な目で見つめた。
「周防君も、そうじゃない?」
吸い込まれそうな黒い瞳が、奏を射抜く。この意思の強そうな目まで、鈴は葵衣にそっくりだった。
——楽しかった思い出を懐かしんで欲しいんだ。
まるで、葵衣がそう言っているように感じた。
脳裏に、高熱を出して寝込んでしまった、終末期の彼女の姿が蘇る。
あの日も、今日と同じ雨だった。
ベランダに打ち付ける雨音と、一日のほとんどを眠ったまま過ごしている葵衣。彼女の手を、奏はずっと握っていた。
「……奏」
か細い声が聞こえて、奏は目を見開く。
葵衣が、こちらを見て微笑んでいたのだ。
「私ね、ずっと……親に、愛されたかった」
「え……?」
「お父さんは、ピアノが下手な私のこと、全然気にしてくれなかったし、お母さんは離婚してから一回も顔を見せてくれなかった。それから、美鳥さんはお父さんのことばっかりだったでしょ。だから、すごく寂しかったの。……でもね、奏が私を大事にしてくれたから……それだけで十分幸せだった」
葵衣はそう言うと、奏の手をギュッと握った。
「ありがとう。大好き」
その弱々しい愛の言葉に、奏は涙を頬に伝わせながら、静かに頷いた。
「うん。僕も、大好きだよ。葵衣」
「……そうだね。葵衣は、きっと……僕のこと、責めたりなんてしないね」
奏の瞳から、大粒の涙が滴り落ちる。悲しくて歪みそうな顔で必死に笑顔を作りながら、奏は続けた。
「僕、ずっと誰かから愛されたかったんだ。父さんからは愛して貰えなかったし、母さんも僕より父さんの方が大切な人だったからさ。だから葵衣がいなくなってからは、尚のこと寂しかった。誰かから、大事にされたかったんだ……」
「……うん」
「葵衣に似てる君なら、僕を愛してくれるかもって……この寂しさを埋めてくれるかもって思ってたんだ。だから、君にアプローチしてた」
「そうだったんだね。君の気持ちは、すごく分かる。でも、ごめんなさい。私は、葵衣さんの代わりにはなれない」
鈴はそう言うと、真剣な顔で奏を見つめた。
「だけど、クラスメイトとして……君の痛みを受け止めたいよ。君が辛い時には、頼れるような人になりたい」
鈴の言葉に、奏は目を見開く。
初対面の時からずっと自分のことを警戒していた鈴の口から、そんな言葉が出てくるだなんて信じられなかったのだ。
驚いた顔の奏に、鈴は優しく微笑む。
「同じクラスの仲間として、仲良くできたら嬉しい」
——ああ、本当に、鈴ちゃんは優しい。でも、相手のことを考えて、必死に気遣う控えめなところは、活発で押しの強い葵衣と似ていない。鈴ちゃんは、葵衣じゃないんだ。でも……。
先日のカフェでのしらべの言葉が蘇る。
——友人とは、メリットがあるからなるものではないのですよ。相手を知りたいと思う過程で、自然になるものなのです。
しらべの言葉が本当なら、お互いを知ろうとしていた奏と鈴も、友人になれるはずだ。
恋愛の愛情ではない。でも友人の愛情だって、自分の心の穴を埋めてくれるだろう。今の鈴を見て、奏はそう思えた。
——僕は、もう一人じゃないんだ。
「鈴ちゃん」
奏は鈴に明るく微笑む。
「友達になろう」
まるで憑き物がとれたように笑う奏を見て、鈴は優しく微笑んだのだった。




