15 奏の闇
夕方十七時。図書部の活動も終了時刻になった。
「次の活動は来週の月曜日です。では、お疲れ様でした」
部長の挨拶に「お疲れ様でした」と返し、鈴は文化祭の読み聞かせで使う『シンデレラ』の絵本を鞄に仕舞う。荷物をまとめて第二図書室を出ると、かすかにピアノの音が聞こえてきた。
(ピアノ……たしか、「亡き王女のためのパヴァーヌ」だったかな。いと君が教えてくれた曲だ)
遠くから聞こえる音だが、間違いなく弦のピアノだ。珍しい、今日は学校に残っていたのか。
弦は基本、学校でピアノを弾くのを好まない。しかし、生徒達が部活やバイトに行ってしまった夕方の時間帯以降に限って、ごくたまに第二音楽室でピアノを弾いている。そういう時は大体、課題や職員室での用事があって帰りが遅くなったときだと以前聞いた。
(居残りする用事があったのかな)
そう不思議に思いながらも、鈴は吸い寄せられるように第二音楽室に歩いて行った。
弦の邪魔はしたくなかったが、もっと近くで彼の音楽を聴きたかったのだ。それに、せっかく居残りしているなら、顔だけでも見て帰りたかった。
第二音楽室の前に到着すると、扉が少しだけ開いていた。
鈴はちらりと中を覗く。すると、ピアノを弾く弦の背中と共に、彼の傍に座る女子生徒の姿が目に飛び込んできて、思わず息を飲んだ。
黒い三つ編みの女子。その特徴の生徒を鈴は一人しか知らない。
(しらべさん……!)
鈴の脳裏に、先日ドレス選びをしたときのことが蘇る。
——興味があっただけです。日和君が心を奪われた人が、どんな人なのか、ね。
やはり、しらべも弦のことが好きだったのか。
そして、そんな彼女を弦は受け入れたのか。
——今まで、ピアノを弾く君の傍は、私の特等席だったのに……。
そこまで考えて、自分が嫉妬していることに気が付き、胸が苦しくなる。
(王子様が嫉妬だなんて……絶対にしちゃいけないのに)
自分のことが急に醜く思えてきて、耐えられなくなった鈴は急いで第二音楽室を立ち去った。
廊下を早歩きで歩く。階段を下りて、職員室を通り過ぎて……やがて、正面玄関前に差し掛かった。
息が乱れて、視界が涙でぼやけてくる。
(嫉妬しちゃいけない。嫉妬なんてしたくない。なのに……しらべさんが、羨ましくて堪らない)
頭が痛い。身体が熱い。気持ちが悪くて、鈴はその場にへたりこんでしまった。
動かないといけないのに、上手く体が動かせないのは、体調不良のせいなのか、それとも悲しいせいなのか。それすら分からなかった。
「鈴ちゃん?」
柔らかく低い声が、上から降って来た。ゆっくり顔を上げると、そこには不思議そうな顔をした奏が立っていた。奏は鈴の赤い顔を見て、顔色を変える。
「具合悪いの?」
「う……うん。少しだけ」
「少しじゃないでしょ。顔が真っ赤だ!」
奏は慌てた様子で鈴を抱え上げると、保健室に向かって走り出した。
「ちょっと、そんなに慌てなくても……」
「熱があるんだよ? もしかしたら、大事に至るかもしれない!」
「そんな……大げさな」
「鈴ちゃん、もう喋らないで。ほら、保健室が見えてきた」
奏は保健室のドアを勢いよく開けた。驚いた養護教諭の女性がこちらを見る。
「先生、鈴ちゃんが熱を……」
「落ち着いて。体調不良の子ね。まず熱を測ろっか」
養護教諭に「下ろしてあげて」と促されて、奏はベッドの上に鈴を下ろす。養護教諭に渡された体温計で熱を測ると、三十七度八分だった。
「思ったより高いな……」
鈴がぼんやりと呟く。すると、養護教諭がマスクを手渡して困った顔で微笑んだ。
「病院に行った方がいいと思うわ。ご家族に連絡しましょう。誰か連絡がつく人はいる?」
「ああ、兄なら電話に出られると思います」
「お兄さんね。分かったわ」
養護教諭が電話をしにベッドから離れる。それを鈴がぼんやりと見ていると、奏が不安げに彼女の傍の椅子に座った。
「ねえ、鈴ちゃん。横にならなくて平気?」
その言葉に、鈴はマスクをして頷いた。
「うん。大丈夫だよ。ごめんね、心配かけて」
「大丈夫なの?」
「う、うん」
「死んだり……しない?」
「大丈夫だよ。多分、ただの風邪だから」
鈴が微笑むと、奏は泣き出しそうな顔で声を震わせる。
「よかった……」
彼のただごとじゃない様子を見て、鈴は不安げに首を傾げた。
「ねえ、周防君こそ大丈夫? 君の反応、なんだか……おかしいよ」
鈴に指摘され、奏はハッと目を見開いた。しばらくそうした後、奏は悲しそうに目を伏せ、小さく呟く。
「僕の、大切な人が……昔、熱を出して。でも、親が家に帰って来なくてさ。お金も無くて、何もできないうちに……死んじゃったんだ。鈴ちゃんが具合悪そうなのを見て、もし君もそうなったらどうしようって……怖くて、堪らなくて」
「そうだったんだ……」
「うん。……ああ、でもさっきは取り乱しちゃったよね。ごめんね」
奏はそう言うと、静かに立ち上がった。
「僕、帰らないと。母さんが待ってるんだ」
奏は深く息を吐く。すると、悲しそうに怯えていた表情は消え去り、いつものように柔らかい笑顔が浮かび上がって来た。
「じゃあね。お大事に」
「あ、ありがとう」
鈴はぼんやりとしながら奏が保健室から出ていくのを見送った。
彼の悲しげな顔が、脳裏に焼き付いて離れてくれない。
(周防君も、あんな顔するんだな……)
「涼風さん?」
養護教諭がベッドの方に歩いてくる。
「お兄さん、すぐ迎えに来てくれるって。それまで休んでて」
「ありがとうございます」
鈴は頷き、ベッドに横たわった。
目を閉じると、微かにピアノが聴こえてくる。「亡き王女のためのパヴァーヌ」が、曲の終わりに向かっていた。
それを聴いているうちに、先ほどの弦としらべの姿が頭に過って、思わず目を開ける。涙が出てきてしまう。
(……そっか。周防君も、イベントで私といと君を見た時……こんな気持ちだったのかな)
身が切られそうで、心臓が破れてしまいそうなくらい痛くて……でも、捨てられない「好き」という気持ち。もしかしたら、彼も同じ気持ちだったんじゃないか……そう思えたら、どうしてか安心できた。
(私も、周防君も、普通の人間なのかもしれない……)
鈴は目を閉じ丸くなる。
胸の痛みと、頭痛と、涙が、完璧な王子様ではない自分を証明してくれているようで、心地よかった。
* * *
木崎市街にあるアパートの二〇三号室。奏は、そこのドアの鍵を開けた。
静かに部屋の中に入る。すると、案の定部屋には酒の匂いがして、瓶や缶でいっぱいのゴミ袋で溢れかえっていた。
奏は慎重に足の踏み場を探しながら、リビングに向かって歩いて行く。すると、テーブルに突っ伏しながら泣いている母・美鳥の姿があった。奏と同じしっかりとした黒髪は、手入れを怠っていたのかボサボサだ。
「母さん、ただいま」
そっと声を掛ける。すると、美鳥はゆっくりと顔を上げた。
「奏……」
泣き腫らして真っ赤になった顔を歪めながら、美鳥は奏に寄りかかるように抱き着いてくる。
「母さんには、奏しかいないよ……」
美鳥はそう言うと、泣きじゃくった。
そんな彼女に感情移入しすぎないように、奏は心を殺す。表情は死んでいた。
ちらりと、部屋の隅に置かれた黒い電子ピアノを確認する。ヘッドフォンが刺さりっぱなしのそれには、遠目で見てもホコリが溜まっていた。まるで手入れがされていない。
(父さん、相変わらず帰ってきてないんだな)
淡々と事実を飲み込む。
「ねえ、奏」
「何?」
「父さん、どこにいるのかな……?」
震える声で尋ねられた。奏は同情したくなるのをグッと堪えて、優しい声を作って答える。
「外国でコンサートでもやってるんじゃないかな。きっと忙しいんだよ」
「そうなの……? じゃあ、私は捨てられた訳じゃないのよね?」
「そうだよ」
「ああ、良かった……」
美鳥は表情を和らげ、奏に回していた腕を離す。
「秀平さんが、いつ帰ってきてもいいように……奏もピアノを頑張らないとね」
「……うん」
「ふふ、ああ……安心したら眠くなっちゃった。少し休むわね」
美鳥は朗らかに笑いながら、寝室へと軽い足取りで歩いて行った。
それを見送って、奏は自室へと向かう。
(……僕も、嘘が上手くなったな)
廊下を歩きながら、苦笑いした。浮気性で嘘つきな父のことは大嫌いなのに、母を慰めるたびに彼の血を引いていることを実感してしまい、吐き気がする。自分を嫌いになっていく。父に対する憎悪も、自分に対する気持ち悪さも、全部吐き出せたらどんなに楽だろうか。
自室のドアを開け、勉強机の上に置かれた写真立てを手に取った。
中には、絹のような黒髪をショートボブにした、綺麗な顔立ちの少女が、幼い奏の肩を抱いて微笑む写真が入っている。彼女の顔立ちは、どこか鈴に似ていた。
「……会いたいよ。葵衣」
ぽそりと呟かれた名前と共に、涙が一粒、零れ落ちた。




