敬意
敬意とは何だろうか。相手の立場に立った時に確信を持って相手の言動に賛同できること。何ら疑問の余地を残さないこと。生まれた時からそうすることが自然であると思えること。私ならこうするなどという口を一旦挟まないこと。これが敬意である。
我々が情理を持っているのと同じくらい彼らも情理を持っている。我々が特定の対象に愛を注ぐのと同じように彼らも何らかの対象に愛を注いでいる。そこに対象の違いはあれど様式に明確な違いはない。
法の観点から言えば善悪はつけられるだろうが、それはあくまでも法に則った善悪であり、彼らに善悪が付随しているとは考えないことだ。そんなことがあるとすれば純粋な概念だけだが、人は純粋な概念ではない。我々がしばしば悪とラベル付けする人々。そんな彼らも当然我々のことを悪と評するだろう。彼らは善なる我等に邪悪な奴等が挑んできたと考える。我々の言動は断じて許すことの出来ない振る舞いであり、悪虐卑劣な侵略である。聖戦だ。錦の旗を掲げよ。正義は我にあり。そう、我々が普段考えているのと全く同じ仕方で。
人が人を裁くなんて無謀なことは法の力を拝借しなければ為し得ない。そうだとしても限界があるわけだが。魔女狩りを敢行した頃から何も変わってはいない。勝者が敗者を好きなように裁く。歴史はいつも勝者のもの。死人に口なし。敗者にも。自己弁護。欺瞞に満ちた法。
構成要素が違うからと言って異常と断定するのは野蛮な行いではないか。己の異常さを認識することのない我々は、いつまで経っても開かずの戸を叩き続けている。偏見まみれの人間から「それは偏見だ」と言われたところで、それが偏見でない保証など一体どこにあるのだ。上辺だけ取り繕った神輿など誰が担ごう。すげかえられた首。はからずも勝者は敗者に取り込まれている。生者は死者に呑み込まれている。
敬意。それも等身大の敬意を。空白の箱の内部にありもしない悠久の大地を空目するでもなく、充填された箱の内部を空虚だと言い張るのでもなく。何かが入っているかもしれないし、何も入っていないもしれない箱に素朴に相対する勇気と大胆さを。