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若き日の恋人への手紙  作者: 古池ねじ、サブロー
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若き日の恋人への手紙







 拝啓 折坂清久様


 立冬を過ぎて朝晩の冷え込みが厳しくなってきましたが、いかがお過ごしでしょうか。

 突然このような便りが届いて、あなたはさぞかし驚いているでしょう。けれどあなたが突然いなくなったときの僕の驚きに比べたら、大したことはないはずです。

 もう七年になります。元の住所には幾度か手紙を送りましたが、すべて返ってきました。今だって、届くのかどうか半信半疑でこの手紙を書いています。自分の書いた文章がそのまま戻ってくるなんてむなしい経験は、繰り返したいものではありません。

 あなたの噂を聞きました。あまり良くない噂です。

 そしてその噂をきっかけに、僕はこの住所を知りました。突然押しかけないだけでも褒めてほしいくらいです。あの頃の僕だったら、考えもなしに訪ねていたでしょうから。

 もう諦めたつもりでいましたが、あなたの名前を耳にした途端、僕は居ても立っても居られなくなりました。だからこうしてペンを取っている。あなたの名前を書くだけで、胸が掻きむしられるような心地です。

 僕たちはこうして離れましたが、それでもあの頃交わした言葉は本物だったと思っています。忘れたなんて言わせません。あなたはうそがつけない人だ。

 もう一度会えませんか。会って、話がしたい。

 そして僕の瞼に、口づけをください。あの頃のように。

 そうしたら、僕はあなたを許します。

 

 この手紙が無事にあなたの元に届くことを祈って。 


 敬具 宗田恵一郎 十一月八日







 ◇◇◇







 拝啓 宗田恵一郎様


 自分宛の手紙なんて久しぶりです。

 面倒な挨拶は省きます。君も随分と立派な手紙を書くようになりましたね。あれから七年ですか。結構な時間です。あの頃のことを思い出しても他人の経験のようにしか感じません。

 噂ですか。どんな噂かは薄々察しています。僕にはもう噂を気にするような体面はありません。君に口づけする義理もない。君の瞼と誠意は君に焦がれるどこかのお嬢さんにでも捧げてください。

 七年経っても物分りの悪い君にはっきり書きます。この返事も押しかけられてはかなわないから書いているのです。

 もう手紙を送って来ないでください。

 二度と、です。  


 敬具 折坂清久 十一月九日








 ◇◇◇









 拝啓 折坂清久様


 お元気そうでなによりです。

 申し訳ありませんが、あなたの言うことは聞けません。僕は物分りが悪いですからね。

 そうです。僕は立派になりました。あの頃とは違います。社会に出て人の間で揉まれ、金を稼ぐようになり、きちんと大人になったのです。もう力のない子供ではありません。僕を侮るのはやめてください。

 やはりあなたはうそがつけない。どこかのお嬢さんに、ですって。そんなこと、思ってもいないでしょう。文字の乱れからわかります。僕にはわかりますよ。誤魔化せません。ずっと見ていたのですから。

 噂については、先日岡嶋から聞きました。二年のときの同級生の岡嶋です。あなたも覚えているでしょう。

 彼は今、出版社の編集者をやっています。ご高名な作家先生方から原稿を頂戴するのは一苦労だとぼやいていました。

 彼が担当するなかでも、とりわけ気難しい先生がいるそうです。あなたがよく話題に出していた作家です。郊外の古いお屋敷に住み、一人の書生に身の回りの世話をさせているそうです。作家先生が出かけるとき、その書生は上着まで肩に掛けてやるそうですよ。度が過ぎているとは思いませんか。


 こんなことを書きたくなかった。

 返事を待っています。    


 敬具 宗田恵一郎 十一月十日








 ◇◇◇







 拝啓 宗田恵一郎様


 寒くなってきましたね。朝晩冷え込むようになりました。

 今日は火鉢を出さなくてはいけません。この屋敷にあるのはひどく立派な重いものです。先生は火鉢でないといけませんので、毎年苦労して書斎まで運びます。

 もう少し寒くなると寝る前に足を擦って差し上げます。冷えると痛みが出るのに靴下を履くのは嫌なんだそうです。人の肌が一番だと。先生はお若い頃から随分お痩せになって背も縮んだようですが、足は未だに大きくごつごつとしてらっしゃいます。

 このように僕は暮らしています。もちろん上着だって掛けて差し上げます。忘れるとどんなに寒くてもそのまま出かけてしまいますからね。困った方です。困った方です、と人に話すとき、僕はなんとも優しい、穏やかな気持ちになります。困るのが嬉しいのです。例えば岡嶋くんにはわかってもらえないでしょう。彼が編集者として現れたときには驚きました。お互いなんとなく素知らぬ顔をしましたが、今度は挨拶でもしてみましょう。彼が僕と話す気があればですが。

 僕が今、男妾と呼ばれているのも知っています。ですが本当に、もうどうでもいいのです。隠し事のない生活とはこんなに安らかなものだとは知りませんでした。

 君は立派な大人のつもりでしょうが、二十半ばでそんなことを言えるのは未熟な証でしょう。

 僕だってその頃はそう思っていました。自分の欲望を飼いならし、立派な大人として子供たちを導くのだと。立派な大人、は言いすぎですね。でも、その振りぐらいは出来ると思っていました。

 すべて幻想です。

 あんなことになるなんて、思っていませんでした。あんなことはしたくなかった。僕は僕の期待を裏切った。


 立派な大人のつもりなら聞き入れてください。

 決して会いません。


 敬具 折坂清久 十一月十一日








 ◇◇◇








 拝啓 折坂清久様


 手紙を読みました。

 あなたが今、穏やかな暮らしをしていることはよくわかりました。

 正直なところ、僕はあなたが何かしらの弁明をしてくれるのではないかと期待していました。いっそあなたが作家先生の元にいることすら、岡嶋の見間違いであればいいと思っていた。こんな期待をするのは、僕が子供だからなのでしょう。

 君は困った子ですね、とあなたに言われるのが好きでした。あなたの特別になれた気がして。あなたが笑うときに出る目尻の皺を見たくて、ふざけた振る舞いでわざと困らせたことだってあります。でも、あの頃のあなたは、穏やかな気持ちではなかった。嬉しくもなかった。それもよくわかりました。わかりたくありませんでしたが、手紙を読んで、わかりました。

 思い返してみれば、いつも触れるのは僕からでしたね。僕はあなたが照れているものだと思っていました。どうして抱き寄せることを許してくれないのだろうと疑問でした。そうですか。幻想だった。あなたは初めから望んでいなかった。迷惑でしたね。ごめんなさい。でも僕にとっては現実だった。僕とのことは幻想だったのに、あなたが今、自らの意思でほかの誰かに触れるのが耐えられない。これも迷惑だ。僕も作家を志していたらよかったのかもしれない。ちがう。僕は何を書いているのでしょうね。

 あなたが僕に会いたくないという気持ちも、わかりました。今度こそ、聞き入れます。

 でも最後に、ひとつだけ教えてください。


 どうして僕を捨てたのですか、折坂先生。








 ◇◇◇








 拝啓 宗田恵一郎様


 手紙を受け取ってから鏡の前で笑ってみました。目尻の皺は深くなったようです。あの頃は皺が出来るのが嫌で、なるべく笑わないようにしていました。毎晩白髪を探しては抜いていました。僕は白髪になるのが早いようで、この年でごま塩です。考えてみれば、会って現実を見てもらったほうがいいのかもしれません。

 僕がまだ本当に若かった頃、高校生のときのことです。恋をしました。相手は同級生でした。男の同級生です。僕の自惚れでなければ、彼もまんざらではなかったはずです。僕たちはふとしたときに見つめ合い、二人きりのときには言葉もなく、なんでもないような振りで指先を触れ合っていました。僕はそれだけで幸せでした。僕たちのことが穢らわしい噂になって、彼がはっきりと僕に付き纏われていると言うまでは。

 その場に教師がいたものですから結構な騒ぎになりました。弁解はしませんでした。本当に僕がただ彼に付き纏って穢らわしい遊びに誘ったような気さえしたものです。両親の知るところになり、父は僕の頬を殴り、母はただ泣いていました。それまで僕は優等生だったんです。両親の言いつけを守り、安心させてあげるのが子のつとめと信じていました。出来る自分を誇っていました。笑えるでしょう。ほんの幼い頃からずっと、二人の一番嫌がる存在だったのに。

 つまらない話をしましたね。代わりに面白い話もしましょう。僕の先生はご両親に恋人との関係を咎められたとき、日本刀を持ち出して大立ち回りをしたそうです。この話は僕のお気に入りで、機嫌がいいときの先生につい強請ってしまいます。先生だってその度繰り返してくれるのですから、気に入っているのかもしれません。いつもの仏頂面の先生が日本刀、と言うたびに僕は笑い転げます。日本刀だなんて。しかし、僕もそうすればよかったのでしょう。戦うことも出来ないくせに、いつまでも望まない自分を捨てられない。何故僕はこんなにも小心に生まれ、こんなにも強固な嗜好を持つのでしょうか。

 感傷的になりました。とりとめのないことばかり書きましたね。書きたかったことは一つだけです。


 君を捨てたのは、君が悪かったからではないのです。

 ただ僕が悪いのです。そして今も悪い人間です。

 どこかのお嬢さんと君は幸せになれるでしょう。本当に、僕はそれを望んでいます。

 本当に、望んでいます。


 敬具 折坂清久 十一月十三日








 ◇◇◇








 拝啓 折坂清久様


 返事が遅れたことを謝らせてください。

 あなたからの手紙が届いたとき、この封を切ったら今度こそ終わりかもしれないと思い、なかなか読むことができませんでした。捨てた理由を教えてほしいと言いながら、僕は答えを知りたくなかったのです。

 あなたはあの頃、僕を恐いもの知らずで大胆だ、と言ってくれましたが、それこそ幻想です。僕は臆病者で器の小さな男です。あなたに拒絶されることが恐ろしくて、今もこの手紙も書き直して五回目です。あなたからあれほど文章の作法を教わったのに、どの言葉を選んでも間違いのように思えます。

 七年前にあなたが突然学校から去ったとき、僕は悲しみよりも怒りに駆られていました。あなたに弄ばれ、裏切られたと思った。僕たちの関係は密やかなものでしたが、交わした思いは本物だと信じていましたから。今だからこそ打ち明けますが、卒業して社会に出たら、あなたと一緒になりたいと申し込むつもりでした。本気の本気です。子供の考えです。そして僕は今も子供です。

 返事が遅れた理由はもう一つあります。

 あなたの手紙を読んで、鈍い僕も察しました。あなたは同性間の情を穢らわしいと考えている。穢らわしい、と書くことすらいやな気分ですが、おそらくあの頃のあなたもそう感じていた。あなただけではなく、周囲も。

 両親を問い詰めました。彼らはあなたがいなくなったとき、なぜか大いに上機嫌でしたからね。あなたの名前を出した途端、父はあからさまに顔を顰めました。けれどあの人たちはどこまでも僕に甘い。最後には白状しました。僕たちの関係は知られていたのですね。

 僕のせいです。僕の我儘があなたから職と居場所を奪った。けれど、あなたに言い寄らなければよかった、とも思いません。

 あなたが必要だった。指先が触れるだけで痺れるような喜びでした。あなたを悪い人間だと謗る人がいるのなら、僕が日本刀でもピストルでも振り回してやります。

 あの頃、傲慢で孤独だった僕を救ってくれたのはあなたです。

 願いも祝福もいりません。

 口づけをください、折坂先生。

 

 敬具 宗田恵一郎 十二月十日







 ◇◇◇







 拝啓 宗田恵一郎様


 誤解がいくつかあるようですね。

 僕は同性間の恋愛を穢らわしいと思っているわけではありません。先生の作品に出会ったのは中学生の頃でしたが、自分が先生の讃美する性別と嗜好を持つことを密かに誇ってさえいたものです。ただ僕個人の情熱は、僕と周囲を決して幸福にはしないというだけのことです。僕の恋はいつだって誰かの汚点です。

 僕が職を辞したのは君のせいではありません。君はただ不適切な相手に不適切な感情を抱いただけです。それは罪ではない。僕は教師で、それに応えるべきではなかった。あれは罪です。男同士かは関係がない。君は輝かしくて、いつも射るような目で僕を見ていました。教壇に立つと至るところに視線が突き刺さって、丸裸にされている気分でした。僕は目が眩んだ。愚かで穢らわしいことでした。チョーク塗れで白髪の出始めた男が、君みたいな美しい少年に惹かれるなんて。

 君のご両親は正しいことをしました。甘いご両親を持つのは、子供の立場では煩わしく感じるでしょうがたいそう幸福なことです。僕は羨ましくて堪らない。だから君にはその幸福を大切にしてほしいのです。幼い君の傲慢も孤独も、僕から見れば守られてこそ存在する煌びやかなものでした。

 それと、これは僕が誤解を利用したのですが、僕は先生の男妾などではありません。書生の領分は超えているのかもしれませんが、僕にとって先生は、もしこう言うことが許されるならば、父か祖父のような存在です。先生には長い付き合いの恋人がいます。男であるのはともかく、隠しておかなくてはいけない事情のある相手ですので噂を上手に利用なさるのです。僕も噂が嫌ではありません。なんと言うか、本当に安らかなのです。晴れ晴れとした気分です。先生に拾っていただいてここに来るまで無理に隠してきたことすべてがどうでもいいのだと感じます。ここでは僕は身を縮めることなく正しい大きさでいられるのです。

 最後に一番大切なことを言います。僕には恋人がいます。ごま塩頭のおじさんに相応しい、おじさんです。情熱はありませんが、幸福です。僕はこの幸福を守りたい。

 君には君の幸福があるでしょう。僕のことは忘れてください。容易いことです。僕も忘れます。


 敬具 折坂清久 十二月十一日








 ◇◇◇









 清久さん、あなたが好きです。


     恵一郎 十二月二十五日

                 

                 

                    

                    





 ◇◇◇









 拝啓 宗田恵一郎様


 どうして君はそうなんですか。

 そんなことを書かれても困ります。繰り返しますがもうあれから七年ですよ。君が無分別な高校生ではないように、僕ももう三十五です。皺だらけのごま塩のおじさんですよ。この頃は以前より痩せたせいか寒さがこたえます。無分別な恋が出来る歳じゃない。それに、君だって見ればきっと失望するに決まっている。君の中では不意に奪われた恋がどれほど美しく飾られてるか知りませんが、当時の僕だってつまらない男でした。教師という立場が君を錯覚させたんです。職と居場所を失くした僕を哀れに思うなら、せめて美しい幻想のままでいさせてください。あれだけ情熱的だった君の目に失望を見るのは怖い。僕だってすべてを奪った恋が平凡な失望に終わるところを見たくないんです。僕のたった一つの美しい思い出を奪わないでください。

 もう手紙は送りません。

 さようなら。お幸せに。


 敬具 折坂清久 十二月二十六日







 ◇◇◇







 清久様


 僕はあなたを困らせてばかりですね。

 そうです。七年です。僕は七年もあなたを想い、探していました。あなたとの記憶を断ち切ろうと女性と交際したことだってあります。でもだめだった。わかりませんか。だめだったから、手紙を書いたのです。あなたに焦がれて燻った心をどうにかしたかった。

 僕が白髪の数で相手を選ぶ男だと思いますか。今だから言います。あなたは学校にいたころから襟足に白髪がありましたよ。僕はあなたの授業中、ずっと見ていたから知っています。あなたがこちらを向けば必死に目を合わせようとしましたし、背中を向ければ余す所なくじろじろ見ていました。気づかなかったでしょう。あの頃、まばたきをするのも惜しかった。

 後頭部に混じった白髪も、チョークの粉に塗れたセーターの袖も、あなたの一部です。僕はあなたが持っているものを好きになったわけではありません。清久さん。僕はあなたそのものに惹かれたのです。髪が何色だろうとかまうものですか。あなたは哀れな男なんかではありません。

 このままあなたに会えなければ、僕は後悔を胸に抱えたまま生きていくでしょう。一生です。死ぬまでほかの誰かを抱き寄せることはありません。どんなお説教をされてもこれだけは譲れない。

 大人になった僕を見たくないのですか。

 僕は皺だらけのごま塩頭になったあなたに会いたい。会いたいと言ってください。僕だって、失望されるのは怖い。けれどこのまま本当の終わりを迎える方がずっと怖い。毎日毎日、郵便受けを開くたびに心臓が縮まるのがわかります。

 清久さん。手紙の最後が滲んでいるのはなぜですか。僕はうそをつきません。あなたもどうか、うそをつかないでください。

 

 僕の幸せはあなたとともにあります。


 恵一郎 十二月二十七日








 ◇◇◇








 拝啓 宗田恵一郎様


 君は無神経です。

 あの頃僕がどんな有り様だったのか君にはわからないでしょう。滑稽な話です。僕は若作りに必死でした。頼まれもののふりをして化粧水まで買ったのですよ。君に見放されないように、そして誰にも君とのことを悟られないように、どれほど気を揉んだか。どちらも無駄な努力でした。君の性能のいい目は僕の隠したかったものをちゃんと見つけていましたし、僕たちの関係は知られていました。徒労でした。身の程に合わないことはするものではないんです。

 君のお父上から連絡があったとき、僕はいっそほっとしました。本当に、本当に、本当に、苦しかったんです。僕はずっと怖かった。いつか終わる恋だと知っていたから、君に見放されるなら他人に壊されたほうがましだった。君にはわからないでしょう。僕は喜んで逃げ出しました。本当に、何を必死になっていたんでしょう。守るべきものなんて元々なにもないのに。

 哀れでないなんて言わないでください。僕は哀れな男です。君にはきっとわからない。わかってほしいわけではないんです。君には無神経でいてほしい。無神経で傲慢で輝かしい男でいてほしい。説教ではありません。元々説教なんて出来る身ではないのです。これは祈りです。

 宗田恵一郎君。

 美しい名前だ。君には僕の知らない場所で、男として持つべきものすべてを手に入れて、幸せになってほしい。君の人生の小さな汚点でいさせてください。それが僕の幸せなんです。君の真っ白なシャツの小さなシミとして生きることを僕に許してください。


 大人になった君になんて会いたくない。


 敬具 折坂清久 十二月二十八日








 ◇◇◇








 清久様

 

 ずっと、あなたが怖かった。

 あなたに見放されたくなくて必死でした。僕は親から与えられたものを見せびらかして、つまらない自分を隠そうとしていました。いつかあなたが僕の虚栄を見透かして、幻滅されるのではないかと怖かった。

 いつも背伸びをしていました。放課後、夕日の差すあの階段で、あなたが瞼に口づけをくれるときだけ安心できた。あなたが僕のために必死になってくれていたと知って、今、嬉しいと思っています。僕は無神経ですから。

 僕は自分の弱さを若さのせいにしてきました。でも違いますね。僕の弱さは生来のものです。僕はあの頃、許しがなくてもあなたを抱き寄せるべきだった。あなたは僕の美点です。これまで、そしてこれからも。

 ひどいことを言いますが、もし僕が見かけに執着する男であれば、あなたを選ばなかったでしょう。僕の性能の良い目は、あなたの外側だけを見ていたわけではありません。

 岡嶋と話をしたとき、彼はあなたのことを「良い先生だった」と褒めていました。字がきれいで話がわかりやすくて、居眠りをする生徒には容赦がなかったと。あなたが最初の授業で僕の頭をはたいたのがよほど可笑しかったのでしょう。

 彼はあなたを嘲ったりしていません。ただ、作家先生のところであなたの姿を見たと教えてくれただけです。僕が「良くない噂」と書いたのは、醜い嫉妬心からです。もう散々傷ついたあなたを傷つけようとしていました。その傷を見るたび僕を思い出せばいいと考えた。身勝手なところは直します。

 僕は今でも、あなたが怖いです。

 あなたが抱えてきたものを、僕のささやかな頭では想像することもできない。肩代わりもできません。しかし今、あなたと手紙を交わして、ようやくあなたの心の内を見せてもらえた気がしています。

 僕はもうあなたの生徒ではありません。美しく輝かしい少年でもない。僕は大人になりました。大人になったのです。もうあなたが許さなくたって、あなたを抱き寄せることができます。あなたに口づけたい。あなたが深い悲しみの底にいるとき、闇雲に手を引くのではなく、隣でともにため息を吐ける男でありたい。


 清久さん、あなたが好きです。

 あなたはもう、あなた自身を傷つけなくてもいい。

 そして冬の寒さに震えなくてもいい。


 この手紙が届く頃、僕が会いにいきますから。


 恵一郎 十二月二十九日












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