第六十七話 あなたより弱いのに
頬を打つ風の感触に目を覚ますと薄暗い小道が見えた。
思うように頭が働かず、視線だけを周囲に巡らす。
見覚えのある景色だ。
そこは普段、サフィがアイナの家から宿に戻る道の途中だった。
でも、どうしてこんなところに?
ぼんやりとした頭ではその答えは出なかったが、代わりに自分が誰かに背負われているということに気づいた。
「あ、起きた?」そう言ったのは、黒服の子供――ラピスだった。
「あなた、どうして?」
「おじさんが、僕たちを逃がしてくれたんだ」
「おじさん?」
「お姉さんがステインって呼んでた男の人だよ」
「ステインさん!?」その名を呼んだ瞬間、サフィの頭につい先ほどの出来事が浮かび上がった。
「うわっ、びっくりしたあ! 急に大声出さないでよ」
「ご、ごめんなさい。それより、あれからどうなったの? ステインさんは? 私たちを逃がしてくれたって、どういうこと?」
「あー、もう! いっぺんに聞かないでよ。僕、これでも疲れてるんだから」
ラピスはそう言って足を止めると、サフィを道の端に下ろした。疲れたと言う割に息一つ切らしていない。おそらく魔法で身体能力を強化しているのだろう。
そんなことを考えながら、サフィが尋ねる。
「それで、あれからどうなったの?」
「さっき言ったとおりだよ。おじさんが僕たちを逃がしてくれたんだ」
「じゃあ、ステインさんは……」
「今頃、あの怪物と戦っているんじゃないかな」
「そんなの……」
ほとんど自殺行為じゃない。
さっき見たあの怪物は、先日、遭遇した怪物以上の厄災だった。
到底、人がどうにか出来るものではない。
「無茶だわ」
そう零したサフィにラピスが、「だよね」と同意する。
「でも、あのおじさんなら、一等級の怪物にも勝てるかもしれないよ?」
「え? どういうこと?」
「あのおじさん、精霊使いだよ」
「ステインさんが精霊使い?」
「うん。それもとびきりヤバイ奴と契約してる」
「どうしてそう思うの?」
「僕もそうだからさ」ラピスがそう答えると、彼女の周りに淡く儚い光の粒が浮かび上がった。「もっとも僕が契約出来るのは、こんな自我も持たない木っ端精霊だけどね」
ラピスはそう言ったが、サフィにはその光がとても暖かいものに感じられた。
サフィも魔法で似たような束光を生み出すことが出来るが、それとはまったく気配が異なる生命そのものの輝きだった。
「魔法が使える上に精霊とも契約をしているなんて。あなたって多才なのね」
サフィが素直にそう言うと、「ただの器用貧乏だよ」とラピスは首を振って答えた。
「戦闘じゃほとんど役には立たないし。まあ、それでも同業者を見分けることくらいは出来る。そんな僕から言わせてもらうと、あのおじさんの契約している精霊は規格外だ。あんな精霊を使役している人間を僕は他に一人しか知らない」
「その一人って?」
「マーベッリック総大将だよ」
「マーベッリックさんが?」
「うん。大災厄を生き抜いた旧王国騎士団の筆頭。今、この国で一等級の怪物を単独で撃破出来るとしたら、あの人しかいないだろうね」
「そんな人と同じくらいすごい精霊とステインさんは契約をしているって言うの?」
「多分ね。僕程度じゃ、正確にその力を推し量ることは出来ないから、はっきりとそうは言えないけれど。ただ、もしお姉さんがあのおじさんの救援に行こうって考えているならやめた方がいいよ」
「え?」
「お姉さん、今にもあのおじさんの元に駆け出しそうな顔をしてるから忠告。行っても、足手纏いになるだけだから」
はっきりとそう言われては、サフィも頷くしかなかった。
「ええ、その通りだわ」
「うんうん。分かってくれて良かったよ。じゃあ、僕たちはさっさとこの町から――」
「じゃあ、私は私の出来ることをしないとね」
「は? え?」
「あの時見た光は全部で三つ。あとの二つもきっとこの町のどこかに落ちているはず。だったら早く、町の人たちを助けに行かないと」
「に、逃げないの?」
「何故?」
「何故って、さっきの怪物見たでしょう? あんなのが他にもいるかもしれないんだよ?」
「分かってるわ」
「分かってるなら逃げようよ。どうしてお姉さんがそんなことしないといけないのさ?」
「……どうしてかしら?」と自問したサフィは、一つだけ思い当たることを口にする。「多分、お母さんが生きていたら、きっと同じことを言ったと思うから」
「お姉さんのお母さんは、きっと良い人だったんだね」
「ええ、とても」
サフィがそう答えると、ラピスの顔が少しだけ悲しそうに歪んだ。
「………どうしても行くの?」
「行くわ」
「僕より弱いのに?」
「あなたより弱いのに」
「死ぬかもしれないよ?」
「自分だけ逃げるよりはマシだわ」
「そんなの……、馬鹿だよ」
「うん、知ってる」
自分でも馬鹿なことをしようとしていると思った。
だが、不思議と迷いはなかった。
一つ、気掛かりなことと言えば、ラピスを巻き沿いにしてしまうということだった。
「まあ、あなたには申し訳ないと思うけど」
そう言ったサフィにラピスは諦めたように嘆息を吐いた。
「あー、もういいよ! 分かったよ! こうなったら自棄だ! 僕も一緒に行ってあげる」
「いいの?」
「仕方ないじゃない。どっちにしたって、僕はお姉さんから離れられないんだから」
「ごめんね」
「いいよ、別に。それより怪物の所に行くのなら、まずはその空っぽになった魔力を回復しないと」
「そうね。でも、休んでいる暇なんてないし……」
「だったら、これを使って」ラピスはそう言って、懐から取り出した小瓶をサフィに渡した。
小瓶の中には、泥水のような液体が入っていた。
「これって、ウズネラ?」
「うん。まあ、これは軍から支給された劣化品だけどね。それでも少しは魔力を回復できると思う」
「へえ。でも、これってどうやって使うの?」
「ただ願えばいいよ」
サフィは言われた通り、ウズネラに魔力を回復するように願った。
すると、先程まであった倦怠感が無くなり、随分と体が楽になった。
「すごい。本当に魔力が回復したわ」
「でも、全快には程遠いはずだよ。もし怪物を見つけても、戦おうとか考えちゃ駄目だからね?」
念を押すようにそう言ったラピスに、サフィはつい笑みを漏らした。
「何だか、あなたの方がお姉さんみたいね」
「……そんなこと、ないよ」
ラピスは顔を背けて答えると、サフィの前を歩き始めた。