婚約破棄の次は、愛のない政略結婚。人生詰んだ(と思ったのだが)
「……マジか」
公爵家の令息、リアム・ローウェルはつぶやいた。声を出した自覚はなかったのだが、抑揚のない自分の声が耳に届いて、それを知った。
それからは身じろぎひとつせず、目の前の二人をただ呆然と眺めていた。
帝国主催の舞踏会の夜。会場である大ホールの、輝くシャンデリアの光からは少し離れたバルコニーの一画で、一組の男女が体をぴたりと寄せ合っていた。
ふわりと風が吹いて、リアムのストロベリーブロンドを揺らした。切れ長の、淡い空色の瞳は、まばたきもせずに二人を見つめ続ける。
ふと、リアムの存在に気がついたのか、二人は慌ててその身を離した。しかし一瞬前まで、体だけではなく、唇がしっかりと重なりあっていたのを、リアムはもう忘れることができない。
「……リアム、あの」
「…………」
無言のままのリアムの前で、彼女――リアムの婚約者は、顔を真っ青にしておびえた表情をしていた。
その彼女の細い肩を、彼女の隣の男――ついさっきまで、リアムが友だと思っていた男が、しっかりと抱き寄せた。
「……リアム、お前には悪いが、俺はずっと彼女を――」
「やめろ」
リアムは怒気を含んだ声で制した。真っ白になっていた頭が、ぐらぐらと沸騰をはじめる。
いつからだ、とか、どちらからだ、とか。何で、とか、どうして、とか。
色々な言葉が、がんがんと頭の中でこだましていた。だがそのどれもを、リアムは口にしなかった。
ただ拳を強く、強く握りしめて、真っすぐに二人を見つめながら、告げた。
「婚約は、破棄する」
「……リアム!」
彼女の悲鳴のような声に、リアムは背中を向けた。
目の奥がつんとして、喉の奥もひりひりする。頭がくらくらしていた。早くこの場から離れなければ、どうにかなりそうだった。
急ぎこの場を立ち去ろうとするリアムは、目の前の光景をほとんど認識できていなかった。
「おっと」
はっきりとした、明るい声があがった。誰かにぶつかりそうになって、リアムは焦って足を止める。
ハッとして見れば、すらりとした女性がそこに立っていた。リアムより頭一つ分程は小柄だ。だが何故か彼女は、見る人に実際よりも背の高い印象を与えた。細身で、すっと姿勢が良かったせいだろう。
光沢のある、ゆるやかに波打つ金髪に、表情豊かで生き生きとした、深く鮮やかな海の色をした瞳。
この国の第二皇女、アナスタシア・カレンだった。リアムと同じ十八歳で、帝国学院の同級生でもある。
瞳と同じ、夜の月に照らされた海のような美しい青いドレスには、満天の星が零れてきたように、ダイヤモンドの粒がちりばめられている。それが非常に良く似合っていて、人目を惹いていた。
「皇女殿下」
リアムは頭だけを下に向けて敬意を表しながらも、アナスタシアの視線から逃れようとする。
「……リアム、泣いているのか?」
リアムが顔を上げると、アナスタシアは小首をかしげていた。リアムは目をつり上げて、怒ったように答える。
「いいえ。まさか」
「ふうん」
アナスタシアは何を思ったのか、舞台女優にも負けぬほどの美貌で、しげしげとリアムを見つめてくる。
「今しがた、婚約を破棄したのだろう?」
「……見ていたのですか?」
「見ていた。リアム、本気か?」
何故、アナスタシアがこのような質問をしてくるのか、リアムには分からなかった。
裏切られたことに対しての、体が千切れるような怒りと悲しみ、そしてそれを見られたという気まずさで、どうしていいか分からなくなる。だが相手は皇女だ。ずけずけと無遠慮に尋ねられても、答えないわけにはいかない。
アナスタシアの存在のおかげで、リアムは少し冷静になっていた。
婚約を破棄するという決定を覆すつもりはなかったが、ああやって言い捨てて終わり、とはならないだろう。まずは父に、承諾してもらわねばならない。
「……本気ですが、最終的には、父の許可が要るでしょう」
「では、公爵には私が話をする。リアムの心が決まっているのなら、それでいい」
「……皇女殿下が?」
意味が分からず、リアムは混乱した。
アナスタシアとは、それほど仲が良かった記憶はない。目撃者として、リアムには非がないと、味方になってくれるつもりなのであろうか。
そのリアムの想像に反して、アナスタシアは燦然と輝く太陽のような笑顔を見せた。
「リアム・ローウェル、私と結婚しよう」
リアムは一瞬、呼吸をするのを忘れた。
「……は?」
「さっそく陛下に話をしに行こう。きみも来い」
ぐいっと片方の手首をつかまれて、その細く美しい手に一瞬目を奪われる。
引っ張られるように少し歩いたところで、リアムは、訳が分からないといった様子で抵抗した。
「ちょ、いやいや。冗談ですよね?」
「何故、私が冗談を言う必要がある?」
「とりあえず、ちょっと待ってください」
「待たない。行こう」
「いや無理ですって!」
少し声を張ると、ようやくアナスタシアは足をとめ、振り返ってくれた。引いていた手が放される。機嫌を損ねてしまったのだろうか、アナスタシアは美しい眉を少し寄せた。
「何か問題が?」
「いや、問題ありまくりでしょう! 突然こんな……。皇女殿下の結婚相手は、皇帝陛下がお決めになるのでは?」
「閣僚から推薦された候補者の中に、もともとはきみもいた。恋仲であった侯爵家の令嬢と婚約するということで、候補から外れたが。だが、きみの婚約は破棄になる。だったら私はきみと結婚したい」
「いやだから、何故そうなるんですか。まさか、俺を――」
そこでリアムは、言葉に詰まった。
しかし、きょとんとしてこちらを見ているアナスタシアに、ややして言いづらそうに尋ねた。
「俺を、好きだった、とでも言うんですか?」
「…………」
「…………」
「…………」
「……無言ですか」
ひくりと唇の端をあげたリアムに、アナスタシアは腕を組んで小首をかしげた。
「いや。きみの言う、好き、がどういう意味なのかを考えていた。きみが言うのはつまり、愛していると、そういうことかな?」
「ま、まあ……」
「愛してはいないな、今はまだ。それほど私はきみを知らない」
きっぱりと言われて、リアムは、はあと大きなため息をついた。
「……ですよね。だったら何故、俺なんですか。他にもふさわしい相手がいるでしょう?」
「愛してはいないが、好ましく思っている」
「…………」
「学院の魔法騎士選抜試験できみは、歴代で最高の成績を収めた。私を抑えて」
「それは、まあ……。そんなこともありましたね」
とはいえ、わずかな差だったと思う。
アナスタシアは水魔法を矢のように放って、ターゲットを次々と落としていっていた。伝説にある、戦いの女神が具現化したのなら、きっとこんな姿であるに違いないと、多くの生徒が口にした。
リアムは剣と雷魔法を併用して、大型のターゲットを狩ったので、総合点ではアナスタシアを上回った。
「きみのその才能を、好ましく思っている。私の力になって欲しい」
真っすぐに、射抜くような強い瞳で見つめられてリアムは、返答に困った。
この国の貴族として、何ができるかを自分に問うた時、政治の世界に入るよりは、帝国を守る魔法騎士として生きる方が向いている、と思ってはいたのだ。
「……帝国のために力を尽くすことが、公爵家に生まれた人間の宿命だと思っています」
「帝国のために尽くすのと、私の力になるのとは、同義ではないか?」
「分かっています。でも結婚は――」
「結婚は?」
「……愛し合う二人がするものだと」
「…………」
リアムの言葉に、アナスタシアは、大きな目をぱちくりさせた。
無言で見つめられてリアムは、頬が熱を持ったのを感じた。何かとても、恥ずかしいことを言ってしまった気がする。
高位貴族で、そんなことを堂々と言う人間は、はっきり言って少ない。実際、リアムの父と母だって、政略結婚だ。二人の間に、愛がないわけではないだろうが、一度父の浮気が発覚して、母が激怒して実家に戻ったことがあった。
幼き頃、兄と一緒に母の実家に連れていかれ、周囲には優しくしてもらいながらも、このまま父と会えなかったらどうしようと不安で仕方がなかったことを、今でも鮮明に覚えている。結局父が半泣きで土下座をして、母に許してもらった。だから、二人の間に愛がないわけではない、と思う。
ややして、アナスタシアは、片手で口元を覆った。笑みを隠そうとして、隠しきれていない。
「……皇女殿下。今、俺を馬鹿にしていますよね」
「していない」
「笑っているの、隠せていませんから」
「いやあ」
と言ってアナスタシアは、片手を下ろして正真正銘破顔した。その無邪気な表情は、それはもう本当に綺麗、というか可愛くて、さすがのリアムも一瞬見惚れてしまっていた。
「どれだけロマンチストなのかな、きみは。たった今、浮気されたばかりなのに」
目を奪われたのは一瞬。それすらもリアムは後悔した。眉を寄せて、不敬だとは分かっていても不愉快さを顔に出す。
が、アナスタシアはおかまいなしに続けた。
「今、きみという人を好きになったよ。結婚しよう」
「お断りします!」
リアムはきっぱりと言いきって、アナスタシアに一礼をするのだけは忘れずに、そのまま舞踏会の会場を後にした。
公爵家へ戻る馬車の中、ほんの僅かな時間に目まぐるしく起こった出来事にリアムは、頭を抱えてうなだれることになった。
◇ ◇ ◇
後日、リアムの婚約は正式に破棄された。リアムの申し出を、父は驚くほどあっさりと受け入れ、信頼を裏切った代償に、相手方に慰謝料を請求する準備を整えているという。
それから更に数日が過ぎた頃、ローウェル家に、皇帝の親書が届けられた。
内容は、第二皇女アナスタシアと、ローウェル家の二男であるリアムを結婚させたい、というもので、婚姻した暁には、二人には新たに西方の領土を与える、とのことだった。
婚約破棄がやけにスムーズだったのも、要するに父は事前に、何もかもを承知していた、ということなのだろう。
「愛のない政略結婚など嫌です」
父の執務室で、無駄だろうと思いつつも、リアムは一旦は反抗してみた。
執務机に座る父、その両脇を固める母と兄は、三人揃って、有り得ないと言いたげな様子で、口を開いた。
「何が、愛だ。お前の元婚約者が何をした。見る目のないお前に決定権はない。有難くお受けしろ。これは父からの命令だ」
「強く美しく聡明なアナスタシア皇女殿下の、何が不満なのです。こんなに名誉なことはありません。有難くお受けしなさい。これは母からの命令です」
「我が公爵家のことなら案ずるな。お前は何も心配せず、西へ行け。有難くお受けするんだ。これは兄からの命令だ」
……詰んだ。
リアムは言葉を発する代わりに、がっくりと肩を落とした。
さりとて、リアムもアナスタシアも、現在は帝国学院に在学中である。二十歳で学院を卒業してからの婚姻となり、それまでの残り一年と少しは、婚約者として過ごすことになった。
公爵家の令息の婚約破棄と、新たなる婚約は、その新しい相手が皇女であるということで、すぐに学院、だけでなく社交界でも話題の中心となった。
どこにいっても質問攻めにあうことにうんざりして、リアムは広い学院の外れにある池のほとりまで避難していた。設置されたパーゴラの下で、ベンチに座ってぼんやりと水面を眺めていた。
「やあ、リアム」
張りのある声に驚いてそちらを向けば、アナスタシアだった。
「皇女殿下」
「アナスタシアでいいよ。婚約者殿」
アナスタシアはにこにことしながら、立ち上がったリアムの側までやってきて、隣に座った。
どうしてここにいるのが分かったのかと、尋ねかけて、やめた。相手は皇女だ。学院中に、彼女の『目』があったとしても、何も不思議ではない。
隠さずにため息をついてから、リアムは再び腰を降ろし、水面に視線を戻した。
「……お断りしますと言ったはずでしたけど」
「公爵が否といえば、諦めるつもりだったよ。公爵は何と?」
「拒否権はありませんでした」
「それは残念だったな」
言いながら、アナスタシアは爽やかに笑った。
リアムは遊ばれているような気持ちになって、彼女を少し睨んだ。少しは反撃してやろうと、ムキになって言い返す。
「言っておきますが、こんな風に婚約することになって……。あなたを愛することなんて、きっとできませんから」
そうすると意外にもアナスタシアは眉尻を下げ、寂しそうな表情になる。
「……それは悲しいな。できるなら、温かい家庭を築きたかったのに」
予想外の反応だった。どうせ「構わないよ」くらいの返答がくるのだろうと思っていたのに。
リアムは声を詰まらせ、内心でうろたえる。言い過ぎてしまったと、さあっと全身の血が引くような感覚に襲われながら、しどろもどろに言葉を選ぶことになった。
「……いえ、あの。……すみません。今のは、言葉が過ぎました」
こちらをじっと見る、アナスタシアの大きな瞳は、どうしてこんなにも澄んで綺麗なのか。
「……取り消します。きっとできないと、断言するには早すぎる、と思いますし……。皇女殿下とは、その、あまり話したこともなかったわけで……」
「では、これからたくさん話そう」
一転して、アナスタシアはにっこりと、ちょうど目の前の水面のように、きらきらとまぶしい笑顔になった。
「そう、ですね」
その明るい表情にほっとして、リアムは先程とは違う意味で、小さく息をついた。
「……とりあえず、落ち込む暇もなかったことについては、感謝しています」
あの時胸に感じた、えぐられるような痛みが、もうなくなってしまったのは事実で。正直にそれを認めたら、リアムは何だか自分の言動が馬鹿らしくなって、少し笑った。
それを見たアナスタシアが、今度は慈愛に満ちた眼差しで、花がほころぶようにほほえむ。
「それは良かった。では、これから私は、きみに幸せになってもらえるように努力するよ。誓うよ。浮気はしない。一生、リアムだけだ」
こんなにもストレートに告げられて、喜ばない人間がいるのなら、教えて欲しい。リアムは瞠目して、それから慌てて顔を逸らした。たぶん今、顔、赤い。
「それは、ありがとうございます……」
アナスタシアの視線から逃げてしまっていたリアムだが、アナスタシアはすすっと距離を詰め、何を思ったかリアムの頬に手を伸ばすと、リアムの顔を自分の方に向けた。
「……!?」
すぐ目の前にアナスタシアの顔があった。視線と視線がぶつかり合う。
「……きみは綺麗な顔をしているな」
それは、あなたの方でしょう、と言おうとするが、何故だか言葉が詰まって出てこない。
あごのあたりに添えられていたアナスタシアの親指がすうっと動き、リアムの唇にそっと触れた。リアムは思わず息をのむ。
「元婚約者とは、どこまでした?」
答えられずにいるリアムに、有りえないほど艶やかにほほえんで、アナスタシアは更に近づいてきたかと思ったら、リアムの頬に、柔らかい唇を押し付けた。
ふわりと届いた、白い花束を思わせる香り。アナスタシアのまとう匂いは、すっきりと爽やかなのに、包み込まれるような甘さもあって、リアムはめまいがした。
硬直していたリアムから離れ、アナスタシアはまるで隙のない所作でベンチから立ちあがる。
「もう行かなくては。午後の授業が始まる」
そう言って、颯爽と立ち去ったアナスタシアの凛とした後ろ姿を呆然と見送った後、リアムはハッとする。途端に顔が火照り、リアムは口元に片手をあてて、自分を落ち着かせようと息をついて目を閉じた。
しかし、胸がうるさいくらいドキドキと強く鼓動して、どうしようもない。リアムにも午後の授業はあったが、今はちょっと何も考えられない。
目を閉じているのに、アナスタシアの顔ばかりが浮かぶ。リアムは自分自身を信じられないといった様子で、無自覚につぶやいていた。
「……チョロすぎ」
――待っているのは、幸せな結婚。
(THE END)