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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

薫視点 本編と短編

僕のノンフィクション

作者: 理春

4月某日、何事も無く大学生活はスタートした。

主席で入学したので奨学金も無利子で借りられることになった。

アパートに関しては、家賃を免除してくれる部屋を探すのに苦労した。

大学に通いながら出来るだけバイトをしても、学生の本文は勉強だ。生活のためとはいえ、勉強の時間を削りすぎることはしたくなかった。

生活費のほぼ半分を持って行かれるであろう家賃は、どうしても安価でなければならない。

1月頃から探していて、3月半ばになってもなかなか見つからなかった。

このままだと入学するまでに間に合わないと思い、背に腹は代えられない・・・俺は先輩に相談することにした。


約束していた文学部の企画で出したノンフィクションの小説を、パソコンで先輩にメールで送った。

そして同時に、少し困ったことがあって相談したい、と会う機会をもらえないか交渉すると、先輩は快く了承してくれた。

3月20日頃だっただろうか、大学の近くのカフェで先輩と顔を合わせた。

店の前で先輩を待ち、スマホをチラチラ確認しながらいると、眺めていた反対側から声をかけられた。


「よ、お待たせ。中で待ってて良かったのに。」


数か月ぶりに会った先輩は、何やらまた少し身長が伸びたように感じた。


「あ、こんにちは。お呼びだてしたのは僕の方なので・・・。」


挨拶もそこそこに店内へ入って、驕り癖のある先輩をしっかり制止しながら、コーヒーを先輩の分も買った。


「んで?また相談ってどうしたんだよ。」


席につくや否や、コーヒーを一口飲んで先輩は尋ねた。


「実は・・・」


俺は今までの諸事情を説明した。

今月までに実家を出なければならないこと、引っ越し先がまだ見つかっていないこと・・・。


「なんだ・・・そんなことならもっと早く相談してくれたらよかったのに。」


先輩はそう言って苦笑いを浮かべた。


「ん~・・・俺が住んでるマンションでも・・・空きが大量にあるから構わない気もするけど・・・。まぁ駅と大学に近い方面がいいよな・・・。」


「いえあの・・・別に多少離れていても贅沢を言う気はありませんので・・・。」


すると先輩はスマホに目を落としながら続けた。


「まぁでもさすがにさ・・・同じマンションに紹介して住まわせるのはちょっとまずいかな。俺が小夜香ちゃんの立場だったら絶対嫌だし・・・。」


ああ・・・そういうことか・・・。

心の中でそう呟きながら、電話をかける先輩を眺めた。


「あ、もしもし?ちょっと確認してほしいことがあるんだけど・・・。大学と駅方面の土地のマンションとかでさ、オーナーが御三家の関係者のところある?うん・・・うん・・・そうなんだ。いや、友達がさ、家の事情で一人暮らししなきゃならないんだけど、家賃免除してもらえる部屋がいいんだって。」


友達、か・・・

先輩の中で俺は、どうやらまだ友達認定されているようだ。

それより・・・これで本当にあっさり部屋が見つかってしまえば、チート使ってる気がして申し訳ないな。

そんな風に思いながら電話する先輩の顔を眺めていた。

相変わらずイケメンだなぁ・・・。頭からつま先まで全部カッコイイんだよなぁ・・・。

その上性格もいいし、優しいし・・・何なんだろうこの人・・・

ボーっと先輩を目に焼き付けていると、電話を切って何でもない様子で言った。


「あったよ、大学の近くに。オーナーは美咲だから融通利かせてもらえるから。」


「ありがとうございます・・・。あの・・・それは家賃が免除になった場合、お兄様が肩代わりするっていうことですか?」


「いや、それはないと思うけど・・・。そもそも土地自体が高津家の物でさ、大家さんは雇ってる人だし管理会社も御三家の関係者だから・・・まぁ端的に言うと誰も損しないってことだよ。」


「そう・・・でしょうか。」


「何だよ・・・まぁ確かに納得いく説明出来ないけど、一部屋分の家賃くらいいいよって提供してくれるんだよ。そりゃ周りに同じように住んでる人がいるから悪い気はするかもしれないけど、黙ってればいい話だし・・・薫の事情を考えても免除されるべきだよ。真っ当な方法で部屋を探しても見つからなかったんだろ?だったらもう裏技使うしかないわな。」


先輩はニヤリと口角を上げた。


「・・・まぁ・・・。ありがとうございます。あの、よろしければお兄様にもご挨拶したいんですけど・・・。」


「美咲に?いいって、オーナーの名義が美咲ってだけで、別に経営に関わってるわけじゃないだろうし。直接世話になるわけじゃないんだから。」


「そうなんですか?でもあの、お兄様が知らないうちに独断で契約してしまうのはあれなので・・・先輩の方からご報告していただいてもいいですか?」


「もちろん、事情は説明しとくよ。」


先輩はまたふっと優しい笑みを浮かべた。

安堵してほっと胸をなでおろす。


「お手間をおかけします。よろしくお願いします。」


そう言って俺が頭を下げると、先輩はまたコーヒーを飲んで小さくため息を落とした。


「水臭いな・・・。まぁ薫はそういうとこ真面目だもんなぁ・・・」


「・・・僕はいつでも真面目ですよ。」


苦笑いを返すと、先輩はくつくつ笑った。


「ふふ、まぁそうだな。逆に違和感だよなぁ・・・。真面目じゃない時ってないの?」


先輩は興味本位とばかりに、身を乗り出してテーブルに肘をついた。


「真面目じゃない時・・・」


俺が少し考え込むと、先輩は窓の外に視線をやりながら呟いた。


「ほら・・・例えば言い寄ってくる女の子に対しては適当にあしらうとか・・・」


「・・・それは先輩の話ですか?」


「いや・・・まぁ・・・俺のことは置いといて、適当にあしらう相手はいるだろ?」


「まぁ・・・嫌がらせやいじめをしてくる低能な生徒はあしらってましたけど・・・。自分に対して真摯に対応してくれる人には真面目に答えてますよ。」


先輩は尚も窓の外を眺めたまま言った。


「たまにふざけたくなったりしないの?めんどくさいなぁとか怠いなぁって思うとさ、どうでもいいやってなるじゃん。それか、こういうこと言ったらどういう反応するんだろうなぁとか、悪戯精神というか・・・。人間少なからずあるだろ?」


「怠いと思っている時はまともな対応が出来ないので、別の機会に返答出来るようにしますよ。ふざけて答えていい関係性だったら僕だっておちゃらけることはありますけど・・・。そこまで気を許せる相手がいるかというと微妙ですね。」


「ふぅん・・・。まぁ、薫俺に対しても真面目だもんな。」


「別に先輩に気を許していないとかそういうことではないですよ?」


先輩は、そうなのか?と言いたげに首を傾げて見つめ返してきた。


「先輩にふざけた返答をしないのは、単純に失礼にあたることをしたくないのと。先輩ですし、尊敬の意を込めて、気安い態度を取らないようにしてます。」


「クソ真面目じゃねぇかよ・・・。んでもたまにふざけて嘗めたこと言うことあるじゃん。」


「・・・先輩、そういう言葉遣いを小夜香さんに対してしてませんよね?」


俺がそう咎めると、先輩は声を出して笑った。


「してるわけないだろ?世界一大事な小夜香ちゃんにそんな暴言吐くわけないじゃん・・・。」


先輩は消えて行くようにそう言いながら、スマホを眺めて何やらニコニコしていた。


「・・・何ニヤニヤしてるんですか?」


俺が呆れたように聞くと、先輩はまたニヤリと笑みを浮かべた。


「待ち受けを小夜香ちゃんの写真にしてんの。可愛いからにやけるんだよ・・・。本人には内緒だけど・・・。」


「はいはい、ごちそうさまです。」


幸せそうな先輩は、コーヒー片手にスマホを親指で横にスクロールしていく。

恐らく小夜香さんと撮った写真でも見返しているんだろう。

窓から次第に夕日が差し込んでくる。俺はゴクリと苦みを喉につたわせながら、部室にいた時を思い出した。


「そういえばあの・・・」


「ん~?」


その時俺は、送った小説はどうでしたか、と聞きたかった。

けれど、少し・・・ほんの少しだけど、また「先輩、好きです。」と言いたくなって飲み込んだ。


「・・・僕が書いた短編、読んでくれましたか?」


すると先輩は思い出したようにパッと顔を上げて笑顔を作った。


「ああ、送られてきた時ちょうど旅行に行ってたんだけど、その後帰ってからそっこー読んだよ。」


「・・・そうですか。」


俺がそれ以上何も言わないで視線を落とすと、先輩は少し心配そうに言った。


「何だよ・・・感想聞くの怖い?」


「いえ、そうじゃないですけど・・・。先輩の話を書いてるので、不快にさせたりしなかったかなぁと思いまして。」


「いや・・・事実を書いてるノンフィクションなんだから不快も何もないだろ・・・。でもあれだな・・・人物名とか詳細は伏せてるにしてもさ、俺とは一学年しか違わないし、お前が文芸部で関りがあった男の先輩って、俺のことだって誰かが知ってたら、お前の小説読んだらピンのくんのかな。」


そう言われて思わずゾワっと鳥肌が立った。


「・・・確かにそうかもしれません・・・。すみません、考えが及んでませんでした・・・。僕・・・先輩と肉体関係があったことまで書いてしまったのに・・・。」


どうしよう・・・。1年2年と同じクラスだった生徒も少なからずいるはず。

俺のことに執着していた誰かがいるなんて考えもしないけど、先輩のことをずっと好きだった人なんて山ほどいるはず。

だったら先輩が文芸部の幽霊部員だったってことも知られているかも。

もし俺の小説をチェックされていたら、関係性は露呈するだろう。

幸い今のところ俺に小説の話をしてきた人や、かつてのクラスのグループラインなどでも話題になっていたことはない。

けど俺のことを知っている生徒で、興味本位で読んでしまっていたら・・・


「おい、薫・・・大丈夫か?」


頭の中で考えがぐるぐる回って酔ってしまいそうな程だった。


「・・・すみません・・・。」


男と関係を持っていたなんて知られたら・・・先輩はどうなってしまうだろう。

先輩は学校内で、あの高津家の後継者だってことは有名だった。


「心配しなくても、何も実害はないって今のところ。」


「先輩は・・・最悪の場合、世間に知られてもいいと思ってるんですか?」


「はは、週刊誌にでも書かれると思ってんの?そんなの誰が興味あんだよ・・・当主は美咲だったし、誰も世間は俺のことなんて知らないよ。飯のネタにもなんねぇって。」


「そうだとしても、お兄様を始めとして、お兄様の奥様や小夜香さんとか、お身内の方全体に知られることもあるかもしれないんですよ?」


俺がそこまで言うと、先輩は真顔で俺をじっと見つめた。

マネキンのようなその端正な顔立ちが、時々瞬きするだけで俺に目を合わせている。

それを逸らせなかった。お前のせいで顔に泥を塗られた、と言われる日がもしかしたらくるかもしれないんだ。

先輩は次に口を開いた時、まるで若気の至りを語るような悟った目をした。


「あのさぁ・・・ちょっとヤバイ話があんだけどさ・・・」


「・・・え?」


「俺さ、中高生の頃は結構女遊びしてたって話したじゃんか。まぁなんていうか・・・中2の時に友達んち遊びに行って、その時友達のお姉ちゃんに食われてさ、それが初体験だったんだけど・・・。ああ、なんかセックスってこんなもんなんだ、ってタガか外れたっていうか・・・拍車かかったっていうか・・・家のことに悩んでて自暴自棄なのもあって、遊ぶようになって。それでいつだったかな、高3の時だったと思うけど、1回か2回関係持った子がさ、ヤクザの組長の娘だったんだよねぇ。」


「え・・・・マジですか・・・」


先輩は苦笑いを浮かべてまたコーヒーを一口飲む。


「んでさ、困ったことにその子は俺のこと本気だったらしくて・・・そしたらやっぱ親が出てきちゃうもんで・・・学校帰りにヤクザが乗ってるような黒い車に横づけされてさ、穏便に済ませたいから家で話をさせてくれって言われて・・・。どう考えても穏便に済まないじゃん?俺もまぁ常に警護人はいるからさ、その人たちがその場に駆け付けはしたんだけど、騒ぎになりかねないと思ったから大人しくついていったんだよ。正直その子がヤクザの娘だったなんてその時初めて知ったし、本当に話をしたいだけなら聞こうかなって思って。んで家に行ったら立派な応接室に通されてさ、強面のお父さんとその子が待ってて・・・娘はお前に本気みたいだし、体の関係持ったなら責任とれ、的なこと言われたんだよねぇ。」


「・・・予想通り過ぎて怖い以外にないですね・・・。」


「まぁ・・・他にも下の人が何人か周りに居たし、怖いことは怖いんだけど・・・。俺的には、なあんだ、そういうことしか言えないんだ、って思ってさ・・・。俺の素性を知ってるのかどうかもわからなかったから、俺と彼女は付き合っているわけでもありませんし、本人も遊びだと合意の上でした、真剣交際してほしいっていう話ならそもそも本人から告白するものであって、責任という言葉を持ち出されるのはおかしいと思います、って言ったんだよ。」


「・・・先輩の方がやばくないですか?」


「はは、だってそうだろ?交渉するにしてももうちょっとなんかあるじゃん・・・。んでも圧かけて脅せばどうにかなる小僧だと思ってるからそうなるんでしょ?こっちは別に付き合う気はないし、そういう話はそもそもその子と最初からしてるもん。そしたら聞いてた彼女もお父さんが怒り出す前に制止してくれてさ、一目会ってお別れ言いたいだけだったから、呼び出してごめんなさいって言われて・・・。」


「お相手がまともな方でよかったですね・・・。」


「そもそもまともそうな子じゃなきゃ抱かないよ・・・。」


先輩は残り少なくなってきたコーヒーカップを回しながら眺めた。


「結局その件はあっさり事なきを得たんだけど、後々調べて俺の素性を知ったんだろうね、その娘さんや俺が関係ないところで、組長は高津家に連絡してきたんだ。その時はすでに美咲が当主だったから、美咲に対して『弟が娘に手を出してきた、週刊誌に出されたくなければ手打ちの場を設けろ。』ってね。」


「それは・・・ゆすってきたってことですか?」


「そ~ヤバイだろ。」


飄々と話す先輩がやっぱり一番ヤバイ気がしてならない。


「それで・・・お兄様どうしたんですか・・・。お金で解決したってことですか?」


「ん~・・・こっから先は俺が言いたい事と関係ないからなぁ・・・。要するに何が言いたいかと言うとさ、俺お前と関係持った時、母さんの具合が悪化した頃で・・・その時やったのが1回。亡くなって精神的にボロボロになってた時に1回・・・なんだよ。薫がどういう気持ちだったかとか、少しも考えてなかった。だから本当にただの遊びだった。確かに好きでもない相手とセックスすることは、よろしくないことだし立場がある人間だったら尚更ダメだとは思うんだけど・・・。俺は家のこととか関係なく仲良くしてくれた薫が大事だし、別に後悔してないんだよ一ミリも。それにさ、誰かに知られたらいやだなって思ってるんなら、お前が小説書くって言った時に止めてるよ。」


「・・・それは・・・まぁそうですけど・・・。」


先輩は無くなったコーヒーカップを見つめながら、背もたれに体を預けた。


「薫はさ・・・恥ずかしいと思ってんの?同性を好きになる自分を。」


「いいえ。」


「そうだよな。俺も思ってないよ。今まで男を好きになったことはないけど、そういう薫をおかしいとは思わないし、誰でも誰かを好きになる分には同じだと思ってる。あのノンフィクションを書いたのは、薫が薫である証明だろ?ただまぁ、周りにまだまだ公表しづらいっていう世間体があるのはわかる。でも俺は何も恐れてないから、堂々としてろよ。お前もそれくらいの覚悟あって書いたんだろ?俺に危害が及ぶかも、とか考えなくていいから。」


先輩のその根拠のない慰めで、何故か不思議と肩の荷が下りた気がした。


「・・・いいんですか?小夜香さんにもし知られて、愛想つかされても・・・。」


俺がそう言うと、先輩は少し怒ったような目を向けた。


「小夜香ちゃんがそんなことで俺を軽蔑するわけないだろ。てか・・・小夜香ちゃんは何となく俺と薫の関係感づいてるよ・・・。」


「ふふ、そうなんですか・・・。」


俺は冷めてしまったコーヒーに口をつけて、オレンジ色が降りていく窓を眺めた。


「先輩・・・」


「・・・ん~?」


どうせなら、全部伝えたいことは伝えてしまおう。


「僕、先輩と密会してるような文芸部の部室が好きでした。先輩が好意を持ってる相手を思わせぶりにからかう癖があるのを知りながら、それをあしらってみたり、誘いに乗ってみたり、妙な駆け引きをあの部室でするのが好きだったんです。けど先輩はいつも、僕の本気の気持ちを傷つけないように線引きをしてた・・・。踏み込み過ぎずに、ちゃんと僕を・・・一人の人間として分かろうとしてくれてましたよね。その全部が・・・」


そこまで言うと、急に勝手に涙は溢れた。


「・・・その全部が・・・好きだったんです。」


先輩の好きな窓際の席で、他のお客から目を逸らすように、外を眺めていた。


「先輩のようになりたいと思いました。誰かから受けた愛を優しさで誰かに返せるような・・・」


零れる涙が止まらなくて、俺はそこまで言って諦めた。

自分が滑稽でならなかった。

ただただ先輩に憧れて好きになって、友達と言ってくれるなら関係を築いていたくて、あの日告白したとき・・・作品を書くうえで締めくくる最後の一ページになるよう、祈るように好きだと言ったのに・・・。


俯いて涙が止まるまで堪えていると、小さなテーブルを挟んだ向かいから、先輩はハンカチを差し出した。

滲んだままの視界で恐る恐る先輩の顔を見ると、まるで弟を慰めるかのように困った顔をしていた。

ハンカチを受け取って拭うと、先輩はテーブルに腕をくんで預け顎を乗せた。

そして上目遣いで俺を見て言った。


「なぁ・・・それやるからさ・・・もう泣くなって・・・。」


「・・・・え・・・ハンカチくれるんですか・・・?」


「うん・・・。でも頼むからさ、もし万が一小夜香ちゃんに会うようなことがあっても、目の前で使うなよ?話もするなよ。別にまだ付き合ってるわけじゃないけど・・・変に勘繰られたらやだし・・・。」


「はい・・・。」


涙で滲んだハンカチを見つめた。

綺麗に四角く折りたたまれて、アイロンまでされてるそれを見ると、先輩の律義さを感じた。

先輩は先ほどの俺と同じように、沈んでいく夕日を眺めていた。


「何とも思ってなかったんだよ・・・薫が大事に思ってた時間を・・・。ごめんな。」


「・・・いいんですよ。」


その日はそうして先輩とカフェを後にした。

別々の方向へ帰って行くことを、寂しいと思い続けていたのは俺だけで

いつもその背中を見えなくなるまで見送っていたのも、俺だけで

けれどその日、改札を抜けた後、駅まで送ってくれた先輩の背中を眺めていると、彼は振り返ってくれた。

それで何でもないように大手を振って、俺が振り返すとまた歩いて行った。

その時、ポケットに入れた先輩のハンカチをぎゅっと力を込めて握りしめた。


先輩の近くに引っ越して来れる。

先輩が紹介してくれた場所に住める。

先輩のハンカチをもらった。

先輩の・・・

今日見た先輩を全部覚えておこう。

胸を張って階段を上がって、駅のホームに立つ頃、浮かれている自分に気付いた。


「先輩を覚えていたいから、今日も生きていけるんですよ・・・」


目の前で過ぎ去る電車の音に紛れて、また独り言は吸い込まれた。


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