第7話 神の法のもと
ひしゃげたような奇声が響いた。それは、弟の声ではなかった。
何事かと顔をあげてみれば、弟の前に、あの男が両膝をついていた。だらりと垂れ下がった右腕を、もう一方の手でかばうように押さえている。その口から漏れる、引きつったような不明瞭なうめき声。喉が潰されているようだ。
低い位置にある無防備な男の頭部を、弟のしなやかな指が両サイドから捕らえた。苦痛にうめく男を、なだめているようにさえ見える、優しい手つき。
けれども次の瞬間、男の顔面には弟の膝蹴りが叩き込まれていた。なにかが砕けるような鈍い音とともに、男が盛大に鼻血を噴き出しながら、のけぞるように倒れる。
弟があお向けに倒れ込んだ男の体をまたいで立つ。鼻血をまき散らしながら、ひいひいと声をあげる男を、弟は見下ろしていた。微笑を浮かべながら。
身を屈めた弟が、男の前頭部を掴み、顔が真上を向くように固定する。もう片方の手が、指をまっすぐに揃えた形で構えられている。いやな予感がした。
「やめて!」
思わず声をあげた。弟が動きを止める。その指先は、男の眼球に突き込まれる寸前だった。
「やめて、エリー」
弟は一瞬だけ私に目を向けると、手をはなして男の上から退いた。弟から解放された男は、起き上がることもできずに地面の上で悶えている。
いったいなにが起きたのか。目の前で起きたことなのに、理解が追い付かない。
弟はこんな子だっただろうか。兄にあれだけの暴力を振るわれても、反撃どころか、身をかばうことすらできずにいたのに。
誰かを傷つけるなんてことが、できるような子ではなかったのに。ほんとうに天使のような子だったのだ。自分自身が傷つくことも厭わずに、人に寄り添い守ろうとする、そんな子だったのに。
「どうして、どうしてこんなこと」
私の言葉に、弟が首をかしげる。
「どうしてって、宣言されたもの。ぼくの手足をへし折るって。これは当然の防衛行為でしょう?」
そう言って、肩からすべり落ちた紅い髪を、わずらわしげに背中へと払う。
上層階級の人間には、身を守るための殺傷が許されている。
そもそも、上層階級の所有するもの、その生命と地位と財産は、力によって奪い取ることを許されている。そして奪うため、奪われないための殺傷が、それぞれに許されているのだ。神の定めた法によって。
身に危険を感じた弟が、防衛のために相手を撃退する行為は、神により認められている正当な権利だ。
「姉さんは、ぼくがこいつにやられることがお望みだった?」
「いいえ!」
そんなことない。そういうことじゃない。
ひどく手慣れた様子だった。男を加害するのに、ためらいも抵抗もない。だからわかってしまう。私が知らなかっただけで、この子はずっとこういうことをしてきたのだと。
弟は守ってもらえない子どもではなかった。守ろうという気があればいつでも、他人の力を借りずとも、自分で自身を守ることができたのだから。
「父さんがよこしたのがこの様なんだから、ぼくを連れ帰れなかった言い訳は立つね」
姉さんが責められずにすんでよかった。そう言って、花のように微笑む。
弟に歩み寄った銀髪の近侍が、自分のマフラーをはずして弟に巻き付けている。弟の服に散った男の血を隠しているようだ。あとでお着替えを、とささやきかけているのが聞こえる。
近侍たちも、きっとそうなのだ。弟を守らないのではない。守る必要がなかったのだ。
私などよりもはるかに長い時間を、弟とともに過ごしている彼らが、弟のこの側面を知らないはずはない。
現に彼らは、弟の凶行を目の当たりにして、驚きも怯えもしていないではないか。彼らもまた、見慣れているのだ。弟のこういう姿を。
「そうだ。姉さん」
弟に呼びかけられて、びくりと震えてしまう。弟を怖いと思ったことなど、これまで一度だってなかった。けれど今は、怖ろしいという気持ちがわき上がってしまう。
弟はコートのポケットから、ハンカチを取り出した。それを広げて見せてくる。そこには、一束のダークブロンドの髪があった。
「兄さんの。埋めてあげて。できれば、母様の近くに」
兄の遺髪だ。
屋敷の墓所に埋葬することを許されなかった兄のために、せめて遺髪だけでも家に、彼が愛した母のそばにと、そう考えたようだ。
どうしてだろう。つい先ほど、あの男にあんな暴力を振るったばかりだというのに。まるでそんなことはなかったかのように、兄を思いやる姿を見せる。
こういう優しさは、昔のままなのだ。そのことに、少しだけ安堵する。
丁寧に包み直して、差し出してくる。父さんには内緒ね、という言葉とともに。少しの逡巡ののちに、私がそれを受け取ると、弟は嬉しそうに顔をほころばせる。
「それじゃ、ぼくはもう行くよ」
兄さんに挨拶したら、そのまま行くつもりだったから、ここで会えてよかった。そう言いながら、私の頬に口付けをしてくる。
そのまま離れていこうとする弟を、私はとっさに肩を掴んで引き留めた。
「待って、行くってどこへ? D.C.に留まるのではないの?」
「さあ。ぼくにもわからない。でもここは離れるつもりだよ」
要領を得ない。どういうことだろう。
「わからないわエリー、きちんと話して?」
私がそう言うと、弟は少し考えるようなそぶりを見せる。
「会いたいひとがいるんだ。でも、どこにいるのかはわからない。だから捜しに行くの」
「人捜しくらい、お父様にお願いすればすぐに」
弟が首を横に振る。
「知ってるのは、顔と声だけなんだ。名前もわからない。でも世界のどこにいても、きっと見つけ出して、会いに行く」
途方もない話だ。顔と声しかわからない人間を、どうやって捜し出そうというのだろう。この世界には二十億もの人間がいるというのに。
ようやく兄がいなくなったというのに、次はその人に、名前も知らないような人に、弟をとられるのか。どこの誰なのかもわからないその人のために、弟は父に逆らったというのか。
なぜいつもいつも、私を選んではくれないのだろう。どうして、私のそばにいてくれないんだろう。
「行かないで」
口に出したら、止まらない。気持ちがあふれてしまう。
「行かないで。行かないでエリー、わたしのそばにいて」
掴んでいた肩を引き寄せて、しがみつくように、弟の体をかき抱く。
弟は薄着だけれど、私が着こんでいるせいで、直接触れられるところがほとんどないのが悔しい。それでも、少しでも弟のぬくもりを感じ取りたくて、その首筋に顔を埋める。
頬になにか硬いものが当たった。弟の耳朶に穿たれたピアスだ。数ヶ月前よりも数の増えたそれに、口付ける。
「お願い。愛しているのよ、エリアス」
弟の体を抱きしめる両腕に、いっそう力をこめる。それに応えるように、弟も私を抱きしめ返してくれる。
「ぼくも愛してるよ。でも」
弟のくちびるが、私の耳元に寄せられる。そこでささやかれた言葉に、私は目を見開いた。