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慈悲深く残酷な神々の箱庭 序奏  作者: M
第1部 第1章 仏国の少年Eにまつわる挿話(姉ユディット視点)
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第7話 神の法のもと

 ひしゃげたような奇声が響いた。それは、弟の声ではなかった。


 何事かと顔をあげてみれば、弟の前に、あの男が両膝(りょうひざ)をついていた。だらりと垂れ下がった右腕を、もう一方の手でかばうように押さえている。その口から漏れる、引きつったような不明瞭なうめき声。喉が(つぶ)されているようだ。


 低い位置にある無防備な男の頭部を、弟のしなやかな指が両サイドから捕らえた。苦痛にうめく男を、なだめているようにさえ見える、優しい手つき。

 けれども次の瞬間、男の顔面には弟の膝蹴(ひざげ)りが叩き込まれていた。なにかが砕けるような(にぶ)い音とともに、男が盛大に鼻血を噴き出しながら、のけぞるように倒れる。

 弟があお向けに倒れ込んだ男の体をまたいで立つ。鼻血をまき散らしながら、ひいひいと声をあげる男を、弟は見下ろしていた。微笑を浮かべながら。


 身を(かが)めた弟が、男の前頭部を掴み、顔が真上を向くように固定する。もう片方の手が、指をまっすぐに揃えた形で構えられている。いやな予感がした。


「やめて!」


 思わず声をあげた。弟が動きを止める。その指先は、男の眼球に突き込まれる寸前だった。


「やめて、エリー」


 弟は一瞬だけ私に目を向けると、手をはなして男の上から退()いた。弟から解放された男は、起き上がることもできずに地面の上で(もだ)えている。


 いったいなにが起きたのか。目の前で起きたことなのに、理解が追い付かない。


 弟はこんな子だっただろうか。兄にあれだけの暴力を振るわれても、反撃どころか、身をかばうことすらできずにいたのに。

 誰かを傷つけるなんてことが、できるような子ではなかったのに。ほんとうに天使のような子だったのだ。自分自身が傷つくことも(いと)わずに、人に寄り添い守ろうとする、そんな子だったのに。


「どうして、どうしてこんなこと」


 私の言葉に、弟が首をかしげる。


「どうしてって、宣言されたもの。ぼくの手足をへし折るって。これは当然の防衛行為でしょう?」


 そう言って、肩からすべり落ちた(あか)い髪を、わずらわしげに背中へと払う。


 上層階級の人間には、身を守るための殺傷が許されている。

 そもそも、上層階級の所有するもの、その生命と地位と財産は、力によって奪い取ることを許されている。そして奪うため、奪われないための殺傷が、それぞれに許されているのだ。神の(さだ)めた法によって。


 身に危険を感じた弟が、防衛のために相手を撃退する行為は、神により認められている正当な権利だ。


「姉さんは、ぼくがこいつにやられることがお望みだった?」

「いいえ!」


 そんなことない。そういうことじゃない。


 ひどく手慣れた様子だった。男を加害するのに、ためらいも抵抗もない。だからわかってしまう。私が知らなかっただけで、この子はずっと()()()()()()をしてきたのだと。


 弟は守ってもらえない子どもではなかった。守ろうという気があればいつでも、他人の力を借りずとも、自分で自身を守ることができたのだから。


「父さんがよこしたのがこの(ざま)なんだから、ぼくを連れ帰れなかった言い訳は立つね」


 姉さんが責められずにすんでよかった。そう言って、花のように微笑む。

 弟に歩み寄った銀髪の近侍が、自分のマフラーをはずして弟に巻き付けている。弟の服に散った男の血を隠しているようだ。あとでお着替えを、とささやきかけているのが聞こえる。


 近侍たちも、きっとそうなのだ。弟を守らないのではない。守る必要がなかったのだ。

 私などよりもはるかに長い時間を、弟とともに過ごしている彼らが、弟のこの側面を知らないはずはない。

 現に彼らは、弟の凶行を()の当たりにして、驚きも(おび)えもしていないではないか。彼らもまた、見慣れているのだ。弟の()()()()姿()を。


「そうだ。姉さん」


 弟に呼びかけられて、びくりと震えてしまう。弟を怖いと思ったことなど、これまで一度だってなかった。けれど今は、怖ろしいという気持ちがわき上がってしまう。


 弟はコートのポケットから、ハンカチを取り出した。それを広げて見せてくる。そこには、一束のダークブロンドの髪があった。


「兄さんの。埋めてあげて。できれば、母様の近くに」


 兄の遺髪(いはつ)だ。

 屋敷の墓所に埋葬することを許されなかった兄のために、せめて遺髪だけでも家に、彼が愛した母のそばにと、そう考えたようだ。


 どうしてだろう。つい先ほど、あの男にあんな暴力を振るったばかりだというのに。まるでそんなことはなかったかのように、兄を思いやる姿を見せる。

 こういう優しさは、昔のままなのだ。そのことに、少しだけ安堵する。


 丁寧に包み直して、差し出してくる。父さんには内緒ね、という言葉とともに。少しの逡巡ののちに、私がそれを受け取ると、弟は嬉しそうに顔をほころばせる。


「それじゃ、ぼくはもう行くよ」


 兄さんに挨拶したら、そのまま行くつもりだったから、ここで会えてよかった。そう言いながら、私の頬に口付けをしてくる。

 そのまま離れていこうとする弟を、私はとっさに肩を掴んで引き留めた。


「待って、行くってどこへ? D.C.に(とど)まるのではないの?」


「さあ。ぼくにもわからない。でもここは離れるつもりだよ」


 要領を得ない。どういうことだろう。


「わからないわエリー、きちんと話して?」


 私がそう言うと、弟は少し考えるようなそぶりを見せる。


「会いたいひとがいるんだ。でも、どこにいるのかはわからない。だから捜しに行くの」


「人捜しくらい、お父様にお願いすればすぐに」


 弟が首を横に振る。


「知ってるのは、顔と声だけなんだ。名前もわからない。でも世界のどこにいても、きっと見つけ出して、会いに行く」


 途方もない話だ。顔と声しかわからない人間を、どうやって捜し出そうというのだろう。この世界には二十億もの人間がいるというのに。


 ようやく兄がいなくなったというのに、次はその人に、名前も知らないような人に、弟をとられるのか。どこの誰なのかもわからないその人のために、弟は父に逆らったというのか。


 なぜいつもいつも、私を選んではくれないのだろう。どうして、私のそばにいてくれないんだろう。


「行かないで」


 口に出したら、止まらない。気持ちがあふれてしまう。


「行かないで。行かないでエリー、わたしのそばにいて」


 掴んでいた肩を引き寄せて、しがみつくように、弟の体をかき(いだ)く。


 弟は薄着だけれど、私が着こんでいるせいで、直接()れられるところがほとんどないのが悔しい。それでも、少しでも弟のぬくもりを感じ取りたくて、その首筋に顔を埋める。

 頬になにか硬いものが当たった。弟の耳朶(じだ)穿(うが)たれたピアスだ。数ヶ月前よりも数の増えたそれに、口付ける。


「お願い。愛しているのよ、エリアス」


 弟の体を抱きしめる両腕に、いっそう力をこめる。それに応えるように、弟も私を抱きしめ返してくれる。


「ぼくも愛してるよ。でも」


 弟のくちびるが、私の耳元に寄せられる。そこでささやかれた言葉に、私は目を見開いた。

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