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慈悲深く残酷な神々の箱庭 序奏  作者: M
第1部 第1章 仏国の少年Eにまつわる挿話(姉ユディット視点)
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第6話 異国の墓地にて

 あのあと結局、クロエを兄に会わせてあげることはできなかった。

 今の兄には会わせられないことを謝罪する弟に、(すこ)やかだったころの兄を記憶に(とど)めておいてほしいと言われて、クロエは目を(うる)ませてうなずいていた。


 それから、私がD.C.に行くことはなかったけれど、弟は数ヶ月に一度はパリに帰ってくるようになった。

 けれどもそれは大抵、父から言いつけられた役目を果たすときで、滞在時間も、一泊することがあればいいほう。

 D.C.で弟は兄の世話をほとんどひとりでしていたから、別邸を長時間離れることはできなかったのだ。


 めったにない弟の帰国の機会に、私は毎回立ち会えたわけではなかった。

 あとになって弟が帰っていたことを知ったこともあったし、一度は私の帰宅と入れ違いに弟を乗せた車が空港へと走り去っていったこともあった。そのときは悲しくてたまらなくて、取り乱してクロエをずいぶん困らせてしまった。


 パリに滞在中、弟はあまり兄のことを話そうとしなかったから、私もあえて聞き出そうとはしなかった。

 それでも、数ヶ月おきに会えた弟と夜をともにするたび、その体に傷痕が増えていくことには気づいていた。

 弟は灯りを落とすことで隠そうとしていたけれど、触れればどうしたってわかってしまう。なめらかな肌のところどころに残る、不自然な凹凸(おうとつ)に、涙が出そうになるのを幾度も我慢しなくてはならなかった。

 兄はきっとわざと、痕に残る傷をつけていたのだと思う。


 私が初めてD.C.を訪れた年の夏。

 兄が呪いを受けてちょうど一年が経とうとしたころ、別邸で暗殺未遂が起きた。そのときに弟は、顔に傷を負った。額から右目をとおって頬にいたる、大きな切創(せっそう)だった。


 暗殺者の狙いは弟の命で、刺客を差し向けたのは、兄だった。




「お嬢様、間もなく到着です」


 クロエに肩を揺すられて、私は目を開いた。いつの間にかすっかり眠ってしまっていたようだ。なんだか長い夢を見ていたような気がする。


 クロエがキャリーケースの中から引っ張り出した防寒具を手に、私のところへやってくる。


「思った通り、だいぶお寒いようですよ」


 そう言って、D.C.の現地気温を表示した電光掲示板を示してくる。その数値を見ただけで、私は身震いした。クロエに支度を任せてよかったと、しみじみ思う。


 二年ぶり、二度目に訪れた別邸に、弟はいなかった。留守を任された男は、弟がいるという墓地を教えてくれた。


 兄の葬儀は、ごく簡素におこなわれたようだ。棺に納められた兄を見ずにすんだことに、なぜだか安堵した。

 上層階級の基準でさえまだ準成人にすらなっていない弟が、使用人たちの手を借りたとはいえ、兄の葬儀と埋葬のすべてを取り仕切ったのかと思うと、その場にいて弟を支えてやれなかったことに、心が痛んだ。


 墓地は別邸から西の方角、川をわたった対岸の地区にあった。

 広大な土地に、見渡す限り無数の墓標が見える。案内所で家名を告げて、兄が埋葬された場所を確認しようとしたけれど、該当がないと言われてしまった。少し考えて、言い直す。


「イサイアス・ロジェ」


 今度は見つかった。兄は除籍されていたから、家名では登録されていなかったのだ。


 本来なら兄は、屋敷の敷地内にある墓所に、兄の生母アリエノール様が眠るその隣に、埋葬されるはずだった。父は兄が死んだあとでさえ、彼が屋敷に戻ることを許さなかったのだ。


 この寒さのせいか、墓地に人影はなく、閑散としていた。だから目指す場所はすぐに見つけることができた。


 ふたりの青年が立っているのが見えた。銀髪と、赤栗色の髪。弟の近侍たちだ。そのそばに、まだ墓標の立てられていない、真新しい墓があった。

 仮の平らな墓石が置かれている。その石に手を置いて、こちらに背を向けてしゃがみ込んでいる少年がいた。背中を覆う、目が覚めるような(あか)い髪。弟だ。


 暗殺者による襲撃があり、顔に大きな傷を負ったあと、弟は少し様子が変わった。髪を、染めるようになったのだ。それも、鮮血のような真紅に。

 最初は、一房(ひとふさ)の髪の先を、ほんのワンポイントのように。けれどそれは月日が経つごとに面積を広げて、今では肩の上あたりから胸の下の毛先まで、髪全体の半分以上が紅い。

 もとが見事な金髪なだけに、それをまるで血に浸したかのように染めてしまった弟が不可解で、何度か染める理由を聞いたけれど、いつも笑ってはぐらかされる。

 今ではもう、きらめく長い金髪をなびかせていた弟の姿は、おぼろげだ。


「エリー」


 近付いて声をかけると、気づいた弟が、立ち上がってこちらを振り向く。私の姿を認めると、ふんわりと花のように微笑む。私の大好きな弟の笑顔。けれどそれは今、右半分を包帯に覆われている。


 あの夏に負った傷は、丁寧に治療さえすれば、それほど目立たないものになるはずだった。それを、治りかけるたびに、兄は爪でもって(えぐ)り立てたのだ。くり返し開かれた傷は、醜い傷痕として、弟の顔にはっきりと残されてしまった。


 もとの顔立ちの愛らしさゆえに、刻まれた傷痕は人の目にいっそう(むご)たらしく映り、弟は自分ではなく他者への配慮で、包帯でそれを隠すようになったのだ。


「姉さん。来てくれたの」


 弟のコートが風にはためく。


 雪が降ってもおかしくないような寒さの中、弟は淡い色のドレスシャツの上に、ごく薄いコートだけを羽織っている。私にとっては異様な光景だった。


 子どものころの弟は、私に負けず劣らずの寒がりだった。冬場にはふたりしてころころに着ぶくれて、兄に苦笑されたものだ。


 あまり痛みを感じないんだ、と弟が不思議そうに言うようになったのは、いつごろからだっただろう。

 二年もの間、錯乱(さくらん)した兄からのすさまじいまでの虐待にさらされ続けた弟は、痛覚と温度覚のほとんどを失ってしまった。


 だから、あの寒がりだったはずの弟は、身を切るような冷たい風の中にあっても、まるで春のそよ風に吹かれているかのように、平然としている。


「ごめんなさいね、なにも手伝えなくて」


 そう謝罪する私に、弟は首を横に振る。私の後ろにいるクロエに気づくと、そちらにも笑顔を向ける。


「前に、姉さんと一緒に、館に来てくれた人だね」


 クロエのことを覚えていたようだ。


「お別れを、させてあげていいかしら?」


 私が訊ねると、弟はもちろん、とうなずいた。私が促すと、歩み出たクロエは弟に会釈をしてから、兄の墓石のそばに腰を落とす。

 手袋を外した手を、兄の墓石に置く。名前の他には、生年と没年だけが記された、簡素な墓石。しばらくその表面をゆっくりと撫でていたクロエは、最後に自分のくちびるに当てた指先で兄の墓石に触れると、立ち上がった。


「ごめんね。あのとき、兄さんに会わせてあげられなくて」


 すまなそうに言う弟に、いいえ、と頭を振って答えて、もう一度会釈をすると、私のほうへと戻ってきた。


「すみません、お嬢様。先に車に戻ります」


 目を伏せて、クロエが言う。少しひとりになりたいのかもしれない。私がうなずくと、クロエは口もとを押さえて足早に離れていく。


 クロエと入れ替わるように、あの男がこちらに歩いてくるのが見えた。弟も気づいて、不思議そうに見ている。そうだ。弟を説得しなくては。


「エリー。一緒に帰りましょう」


 帰ると言って。お願いだから。

 けれど私の願いもむなしく、弟は首を横に振る。


「ずっとあの家に帰りたがっていたのは、兄さんだ。ぼくじゃない」


 その通りだ。あの屋敷は兄の生まれ育った家。亡き母から受け継ぐはずだったもの。呪いを受けたあとも、帰りたいと願い続けた場所。


「お兄様のためなの?」


 死んでなお、帰ることを許されなかった兄のために、弟もまた、同じ境遇に(とど)まろうというのだろうか。

 けれど弟は、ふたたび首を横に振る。


「ではなぜ、なぜ帰らないの。お父様もあなたの帰りをお待ちなのよ」


 兄を(しの)びたいのなら、屋敷でだってできる。ここからの引き揚げ作業なら、他の者に任せればいい。

 それらを並べ立てても、弟はうなずこうとはしない。私は困り果ててしまう。


「ねぇ、お願いよ。一緒に帰ると言って」

「面倒くせぇ坊ちゃんだな。もういいでしょ、何発かぶん殴って(かつ)いで連れ帰りゃいい」


 後ろから、あの男が声をあげる。なんて言い草だろう。


「だれ?」


 弟が怪訝(けげん)そうに男を見る。


「お父様がよこした使いよ。お父様は、あなたを」

「坊ちゃんの手足をへし折ってでも連れ戻せとのお達しで。片手片足までは許可を得てますんでね、悪く思わんでください」


 へらへらと下品に笑いながら、男が言う。(おど)かすように、指の関節を鳴らしてみせている。


「エリー。帰ると言って。お願い」


 私は言いながら、弟の後方に控えている近侍たちに視線をやる。それほど遠く離れているわけではない。先ほどからの会話は彼らにも聞こえているはずだ。

 彼らは弟の護衛も兼ねた近侍のはず。弟が危害を加えられそうになっているこの状況で、なぜ動こうとしないのだろう。


 いや、そもそも。二年前にもそうだった。兄の部屋で弟が暴行を受けていることを知っていて、彼らはなにもしなかった。そのあとも彼らは、兄によって弟の体に傷痕が刻まれていくのを、黙視していたのだろう。


 あんなに弟を可愛がっていた兄は、気が触れて弟を虐待した。父はこんな男に、弟への暴力を許した。弟を守るべき近侍たちは、動こうともせずにただ見ている。


 男が弟の前に立つ。大人と子どものような体格差だ。弟は状況がわかっているのかいないのか、わずかに首をかしげて、男を見上げている。逃げようともせずに。


 どうして誰もかれも、弟を傷つけるのだろう。どうして誰も、弟を守ってくれないのだろう。

 そして私も、なにもできずにただ成り行きを見ていることしかできない。


「エリアス! 帰ると言って!」

「ぼくは帰らない」


 男が拳を振り上げる。見ていられず、私は顔を両手で覆ってうつむいた。

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