第5話 別邸での出来事 後編
額にひんやりとしたものを感じた。目を開けると、そこには心配そうに私を覗き込むクロエがいた。
「クロエ」
「気が付かれましたか、お嬢様」
クロエに支えられながら、体を起こす。どうやらソファに寝かされていたようだ。少し離れたところにいた男が、今お水をと言って部屋を出ていく。
誰だろう。ああ、そうだ、最初に玄関で応対してくれた……。そこで私はハッとする。
そうだった。兄の部屋に勝手に入って、目覚めた兄に頸を絞められた。そこへ弟が、エリーが来てくれたのだ。けれどその後、弟が兄につかまった。
部屋を見回す。最初に通された居間だ。そばにクロエが、部屋の出入り口近くに銀髪と赤栗色の髪のふたりがいる。男が水の入ったグラスを手に戻ってきた。弟の姿はない。
「エリーは、あの子はどうしたの!?」
まさかまだあの部屋に、兄のそばにいるのだろうか。
「エリーを助けないと……!」
立ち上がろうとしたけれど、うまく足に力が入らず、へたり込んでしまう。クロエが私をソファへと座り直させながら、動いてはダメですよ、とたしなめてくる。
けれど、あれからどれほど時間が経ったのかもわからない。こうしているあいだにも、あの子がどんな目に遭っているかと思うと気が気でない。
「上の坊ちゃまの部屋に入ることは、下の坊ちゃまから禁じられているんですよ」
男がグラスを差し出しながら言う。
「ですから、ここにいらしてください。お願いですから」
兄の部屋に入ることを禁じられている? 確かにあの時、部屋に入ってきたのはあの子だけ。近侍たちは扉の外にいた。
あの子が兄につかまるのを、彼らも見ていたはずだ。そのあとに聞こえてきた、あの子の悲鳴にも、気づかなかったはずがない。にもかかわらず、彼らはあの子を助けに、あるいは守りに、部屋に入ることはしなかった。
「入ってはいけない部屋に、わたくしが入ったから。そのせいで兄はあんなことを?」
兄に絞め上げられた喉もとに手をやる。
すさまじい力だった。恐ろしい目だった。私のせいで兄が激昂して、あんなことになってしまったのか。
「いえ、そうではなくて」
男が言いかけたとき、ふいに銀髪の近侍が顔をあげた。ソファの肘掛けに置いてあったブランケットを手に、兄の部屋のほうへと駆けていく。もうひとりの近侍も、それに続く。
後を追った私が廊下を覗くと、兄の部屋から出てきた弟を、近侍がブランケットで包み込んでいるのが見えた。
弟の名を呼ぼうとして、言葉を失った。
弟の足もとに、赤い液体が落ちているのが目に入った。一滴、また一滴と増えていく。
血だった。弟の頭部から頬を伝った血が、顎先から床へとしたたり落ちていく。
ひどいありさまだった。乱れた衣服は、ところどころ引き裂かれてさえいる。長い髪の合間から見え隠れする顔は、ひどく腫れて血がにじんでいた。
声もかけられず、動くこともできずにいると、ふと目が合った。弟がばつの悪そうな顔をして、ひきつった笑顔を浮かべる。
「ごめんね、もう少し待って」
絞り出すようなかすれた声。ふたりの近侍に支えられながら、ふらつく足取りで私の前を通り過ぎた弟は、そのまま二階へと上がっていく。
呆然と立ち尽くしていた私は、クロエに肩を引かれて、ふらふらとソファへと戻った。
なんてこと。なんてこと。なんてこと。
私のせいで。私が兄を怒らせたせいで、弟が。あの兄が、弟には誰よりも優しかった兄が、あの子にあんな怪我を負わせるなんて。
険悪な仲だった私にさえ、手を上げたことのない人だったのに。あんなに可愛がって、なによりも大切にしていた弟に、あんな暴力を振るうなんて。
「わたくしが、わたくしのせいであの子が」
「違います、違うんですよお嬢様」
男が話しかけてくる。
「上の坊ちゃまは、その、あれからずっと、ひどい痛みに見舞われていて、それで、その……心を、少しばかり、病んでしまわれて。ときどき、目の前にいるのが誰なのか、わからなくなってしまうんですよ」
どういうことだろう。まるで今の兄が、正気ではないような言い方だった。
けれど、確かに、兄の様子はふつうではなかった。あのとき感じた禍々しさは、狂気だったのだろうか。
「そうなったとき、上の坊ちゃまをなだめられるのは、下の坊ちゃまだけなんです。なだめるといっても、暴れて疲れ果てて眠るか、痛みで気を失うか、お気を取り戻されるかを、待つしかないんですが」
なんてことだろう。錯乱した兄がおとなしくなるまで、弟は自分の身を犠牲にしているというのか。
弟はまだ子どもなのだ。たった十二歳の。母親に似て華奢で小柄な弟が、あの兄から、満足に身を守れているとはとても思えない。
「ですから、お気に病まれないでください。お嬢様のせいではないんです」
とんでもないことだ。ときどきにでも、この館ではこんなことが起きていて、弟はそれにたったひとりで対処しているということになる。
ここに来る前に、密かに考えていたのだ。弟をどうにか説得して、連れ帰ることはできないかと。うまく事が運べは、父も喜ぶに違いない、そう思って。
でももう、父がどうという問題ではなかった。どうあっても、あの子を連れ帰らなくては。兄からあの子を守るためにも。
しばらくして、服を着替え、手当てを受けた弟が、ふたりの近侍とともに居間に戻ってきた。
「待たせてごめんね」
そう言いながら、テーブルを挟んだ向かいではなく、私の隣に腰を下ろしてくれる。
「びっくりした。急に来るんだもの」
「驚いたのはわたくしのほうだわ。いったい、いつからなの」
私の問いに、弟は首をかしげ、ああ、聞いたんだね、とつぶやく。それから少し考えるようなしぐさをして、三、四ヶ月前くらいかな、と答えた。
信じられない。そんなに前から、こんな暴行を受けていたというのか。
「そんなに頻繁にあることじゃないんだよ、たまになんだ。ときどきね、人が変わったように、なってしまうだけなんだ」
弟が兄をかばうように言い繕う。今回が初めてではない、それだけでもう充分だった。弟の両手を握り締める。
「帰りましょう、エリー。お兄様を置いて、今すぐに」
こんなところに、もう一時だって弟を置いておきたくはなかった。
けれど弟は目をみはったあと、ゆっくりと首を横に振る。
「どうして!?」
「呪いを受けて、兄さんはすべてを失った。これまで築いてきたものも、家名も、地位も、アリエノール母様から受け継ぐはずだったあの屋敷も、約束されていた未来も、なにもかも。そのうえ命までも、奪われようとしている。兄さんの手にはもう、なにもない」
弟が伏せていた目を私に向けてくる。
「せめて、ぼくひとりくらい、兄さんの手もとに残ったっていい」
兄は確かに可哀想だ。兄自身にはなんの落ち度もなく、ある日突然に、死にいたる呪いを受けたのだから。けれど、だからといって弟をこんな目に遭わせていいわけはない。
額に貼られた大きなガーゼ。痛ましいほどに腫れた頬。切れたくちびる。服の中の体がどうなっているのか、考えるのも恐ろしい。
弟の両手はきれいだった。傷ひとつ、擦れた跡すらない。弟は兄に反撃するどころか、手で顔や体をかばうことすらしていないのだ。
「痛いでしょう?」
「うん。でも」
弟の手が、自身の胸もとを押さえる。
「兄さんのここにね、刻まれているんだ、呪紋が。それは癒えることなく、生傷としてずっとあるの。昼も夜も、際限なく続く苦痛って、想像できる?」
恐ろしくて想像することさえできない。涙があふれてくる。
弟が自分の腫れた頬に、手を当てる。
「こんな怪我は、治るんだ。時間が経てば。でも、兄さんに刻まれた呪紋は、ずっと兄さんを苛み続ける。ずっとずっと。兄さんが死ぬその瞬間まで。ずっと終わらない」
エリーが私の手を握る。震えの止まらない私の手を、なだめるようにゆっくりと撫でてくる。
「ぼくはここにいる。兄さんのそばに。でも、姉さん。お願い。できればもう、ここには来ないでほしい」
涙が止まらない。胸が苦しくて、なにも言えない。
弟が微笑むのが見えた。花のような笑顔。私が愛してやまないその表情を、こんな痛々しい姿で見る日が来るなんて、思いもしなかった。
「泣かないで。ぼくは大丈夫だから」
弟が私を抱きしめてくる。小さいころと変わらない、体温が高めのあたたかな体。幾度となく私を救い、癒してくれたぬくもり。
まだ小さなこの体を張ってでも、弟は守りたいのだ。あの兄を。
「来てくれてありがとう。会えて、嬉しかったよ。今度はぼくが会いに行くから、待ってて?」
耳もとでささやかれた言葉に、泣きながらうなずいた。うなずくしかなかった。