第4話 離れていった手
あの時、手をはなさなければよかった。
ワシントンD.C.の兄のもとへと弟が旅立つ日。見送りに来た空港で、私はぐずぐずと弟の手を両手で握り締めて、はなせずにいた。
「どうしても行くの?」
「うん」
このやりとりを、何度くり返したことだろう。
出発時間は迫っていたから、少し離れたところで弟を待っている二人の近侍が、先ほどからチラチラとこちらに視線を送っているのを、視界の端に感じていた。目の前の弟も、少し困ったように私を見上げている。
行かないで。行かないで。私のそばにいると言って。
弟を困らせているとわかっていても、私は聞き分けのない子どものように、弟の手をはなすことができない。
思えば、弟が生まれて以来ずっと、兄と私は弟を取り合ってきたように思う。
もともと私の出自を理由に兄とは不仲だったけれど、弟が現れたことでさらに悪化したのは間違いない。
屋敷の庭園の隅で、初めて会った十歳年下の異母弟は、まるで天使のように可愛らしい子どもだった。
生母のエレイン様は『春の木漏れ日の君』と称えられた嫋やかな美姫で、野心家の父が政略も打算もなく真実愛して求めた、ただひとりの女性だった。
屋敷で催された夜会で彼女を見初めた父は、そのまま彼女を帰すことなく第二夫人に迎えたというのだから、その熱愛と執着ぶりがうかがえようというものだ。
そして弟はそんな彼女の見事な金色の髪と、翠玉のようにきらめく瞳と、可憐な顔立ちとをそっくり受け継いでいた。
愛らしい容姿に加えて、誰にでも無邪気になついた天真爛漫な弟は、私や兄は言うに及ばず、周囲のすべての人間を魅了してやまなかった。
兄と私の関係が良好であったなら、ふたりで仲良く弟を可愛がることもできたのだろう。けれども現実にはそうではなかったから、私たちは弟を巡ってよりいっそう溝を深めたのだ。
だから父が兄に米国留学を命じたときは、嬉しくてたまらなかった。兄の留学中は憚ることなく私が弟を独占できるのだ。こんなに嬉しいことはない。
兄は何かと理由をつけては帰省してきたけれど、父が数日間の滞在しか許さなかったのは幸いだった。
けれど兄はそれならばと、夏季休暇中の自分のもとへ弟を招いたのだ。
父が弟の渡米を阻止してくれることを期待したけれど、ふだんは厳しい父も、亡きエレイン様の面影を色濃く残す弟には甘いところがあって、ねだられるままにD.C.行きを許可してしまった。
「一週間で帰ってくるよ」
だから、ね? と私の顔を覗き込んでくる、その花のような笑顔に、私はいつもほだされてしまう。弟は優しいから、自分から私の手を振りほどいたりはしない。それでも弟が困っているのはわかっていたから、私はそれこそ断腸の思いで、不承不承に手を緩める。私の手の中から、弟の手が離れていく。
「行ってくるね」
まだ私よりも背の低い弟は、ほんの少しだけ背伸びをして私のくちびるに口付けをすると、にっこりと微笑んで身をひるがえす。
近侍のもとへと走っていく小さな背中で、長く伸びた金色の髪が揺れている。弟のぬくもりが残るくちびるに指先を当てて、私は去っていくその姿を、見えなくなるまで見送っていた。
約束の一週間目の夜になっても、弟が帰ってくることはなかった。
きっと兄が弟を引き留めて帰さないのだろうと、そう思った。弟の優しさにつけ込んで、泣き落としでもしているのだろう。あるいは弟の従順さを利用して、帰るなと命じているのかもしれない。
あのとき空港で、手をはなさなければよかったと後悔した。
十日経っても弟は帰らず、なんの報せもない。さすがに父にはなにか連絡を入れているはずだと思ったけれど、忙しくしているのか父すら捉まらない。
弟の帰国予定日から二週間が過ぎ、いよいよおかしいと思い始めたときになってようやく、父に呼ばれた。
久しぶりに対面した父は、ずいぶんと憔悴しているように見えた。こんな父を見ることはめったになかったから、なにかあったらしいことはすぐに察せられた。
まさか向こうで弟になにかあったのかと、それだけが気がかりだった。
ところが父が口にしたのは、兄のことだった。兄を廃嫡し、除籍したこと。今後当家とは一切かかわりのない者として扱うことを聞かされた。わけがわからなかった。
「お兄様に、なにかあったのですか」
兄はこの家の正統な後継者だ。父もそのつもりで幼いころから養育し、わざわざ遠く離れた米国の母校へ留学にやったのだから。それを突然廃嫡したと言われて、納得できるわけもなかった。そのことと弟がいまだに帰らないことが関係しているならなおさらだ。
長い沈黙のあと、父はようやく口を開いた。
「あれは、イサイアスは呪詛を受けた。早ければ二年で確実に死にいたる。解く手立てはない」
にわかには信じがたい話だった。けれども父の険しい表情が、それが嘘でも冗談でもないことを物語っていた。本当の話なのだ。
呪詛。それは加護と同じく、神の御業によってもたらされるもの。
まれに神の意思で授けられることもあるけれど、多くは人間が供物を捧げて神に願い、聞き届けられることで執行される。
神の意思によるものは避けようもないけれど、人が願ったものであれば、しりぞける術はあるはずだ。解く手立てがないというなら、それは。
「兄は、神の怒りに触れたのですか?」
「いいや。人によるものだ」
そう言って父は、机の上にあった紙を私に見せた。そこには私には読めない文字で、三行ほどの文章が書かれていた。下に、訳文と思われる仏語がある。
『我が最愛の女性を奪った者へ 汝の最愛の者を奪い返礼とす かの者と同刻の辛苦を』
なにかの詩だろうか。
私が顔を上げると、父は大きく息をついた。
「イサイアスの胸に刻まれた呪紋だ」
思わず自分の胸を押さえる。こんなものが、兄の体に刻み込まれたというのだろうか?
もう一度、紙面に目を落とす。くり返し訳文を読んで、私は首を傾げた。なんだろう、なにかが奇妙だった。
一見、恋人を奪われた人物からの恨み言のように思える。けれども、兄に特定の女性がいたことはない。なかったはずだ。
使用人たちは上階の住人のそういった話題に、こと敏感なのだ。兄にそういう女性がいたなら話の種にならなかったはずはない。そしてそれが、兄を想うクロエの耳に入らないなどということも。
仮に、兄に誰かから奪ったような女性がいたとして、二文目につながらない。呪われているのは兄自身なのだ。兄の最愛の者にも、呪いが降りかかっているのだろうか。
兄の最愛の者。まさか。
「それで、あの子は。あの子はなぜ、帰ってこないのですか?」
あの兄が愛する者など、思いつくのは弟くらいのものだ。まさか弟にも呪いが? それであの子はいまだに帰ってこられないのだろうか。
慌てふためく私を、父が手で制する。
「落ち着け。あれの身には何も起きていない」
父は部屋の隅に控えていた小姓にお茶の支度を言いつけると、私に座るよう促した。間もなく小姓が運んできたお茶が、それぞれのそばに置かれる。
そうして父は、逡巡ののちに、重い口を開く。
「文言にある『汝』とは、わたしのことだ」
兄の胸に刻まれた呪いの言葉は、父に向けられた怨嗟だった。兄ではなく、父に最愛の人を奪われた誰かが、その意趣返しとして、父の最愛の者、つまり後継者である兄を呪ったのだという。
人による呪いをしりぞける方法は、二つある。
一つ目は、呪いをかけた本人に、呪いを返す方法。いわゆる呪詛返しだ。ただしこれには、呪いをかけた人物を特定する必要がある。
二つ目は、同じだけの供物を捧げ、同じだけの時をかけて、神に加護を願うこと。加護によって呪詛を打ち消す、あるいは呪詛の進行を食い止めるのだ。
父は『英雄色を好む』を体現するような人だったから、心当たりはいくらでもあったことだろう。それゆえに首謀者の特定が難しく、呪いを返すことができないのだろうかと考えた。
けれど兄に呪いをもたらした人物は、自らを示す紋章をも、兄の肌に残したのだという。紋章は、アメリカの上層階級の中でも、やや下位に位置する家のものだった。
「現在の当主は、グレゴリー・ロイド・アーミテイジ」
知らない名だった。いや違う、どこかで聞いた覚えがある。どこで聞いたのだろう。
「エレインの婚約者だった男の名だ」
はっとした。
ああ、そうだ。いつだか、エレイン様がなつかしそうにつぶやいていた名だ。そのあとひどくふさいでしまったので、誰なのかと問うことができなかった。
「え、でも、そんな」
だんだんと状況がつかめてくるに従って、私の混乱はよけいに深まっていく。
兄にかけられた呪いの大もとが、父に婚約者を奪われた男の恨みだということはわかった。けれど、それであればなぜ今になって、なぜ今さら、という思いが拭えない。
父がエレイン様をふたり目の妻として迎えたのは、十三年も前のことだ。当時彼女にはたしかに結婚を誓い合った恋人がいたけれど、父は地位と金にものを言わせてふたりの婚約を解消させた。
上層階級において、より上位の者が下位の者の許嫁や伴侶を奪うことなど、よくあることだ。
父が強引に手に入れたエレイン様は、けれど父の妻となってからわずか二年ほどで、この世を去ってしまった。まだほんの乳幼児だった弟を残して。もう十一年ほど前のことになる。
十年以上も経った今になってどうして。なぜ今さら。
そうつぶやいた私に、父がちいさく苦笑を漏らす。
「今になって、ではない。十年以上も前から、なのだ」
父の言葉の意味を理解したとき、ぞっとした。彼女を奪われた時なのか、彼女が自死した時なのか、どちらなのかはわからない。けれども。
兄にかけられた呪いは、エレイン様の元婚約者が十年以上もの時をかけて、ひたすらに練り上げた強大なものなのだ。
早ければ二年で確実に死にいたるという、その二年という期間。それはまさに、エレイン様がこの屋敷に囚われていた年月そのものではないか。
「その、お父様。アーミテイジ氏は、今どこに」
「死んだ。やつの命こそが、最後の供物だったのだ」
思わず目を覆う。
呪いを返すべく本人はすでにこの世にはなく、加護を願えるだけの時間もない。
逃れる術をことごとく潰したうえでの、完璧な呪詛というわけだ。その執念のすさまじさに、体が震える。
「お父様、あの子はこのことを?」
父がうなずく。
「あれは、イサイアスが呪いを受けた時、その場にいた」
なんてことだろう。
自分の母の昔の恋人が、父親を恨んで、兄に死の呪いをかけたのだ。それをあの子は目の当たりにしてしまったというのか。
「あれには帰るよう命じた。枷を砕いてでも、わたしのもとへ戻れと。だが耳を貸さん」
父にとっては、死の呪いを受けた者など、今死のうが二年後に死のうが、どちらでもいいのだろう。救う術はないのだから、二年苦しむくらいなら、いっそすぐにでも楽にしてやるのが慈悲とさえ、思っているのかもしれない。
あの時、手をはなさなければよかった。
遠い地で、あの子の目の届かないところで、兄が呪いを受けてくれていたなら。
あの子が兄のもとへ行きたがったとしても、父が許さなかっただろう。父の権限でもって出国を禁じられたなら、弟はどんな手段を講じたとしても仏国を出ることはできないのだ。
その場に居合わせてしまったがために、弟は兄のもとを離れられない。父に逆らってさえ、そばにいようとする。
D.C.に旅立ったあの日、弟は私に確かに言ったのだ。「一週間で帰ってくるよ」と、そう。
私との約束よりも、あの子は兄を選んだのだ。私ではなく、兄を。