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慈悲深く残酷な神々の箱庭 序奏  作者: M
第1部 第1章 仏国の少年Eにまつわる挿話(姉ユディット視点)
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第3話 パリからの出航

 父のもとを()したあと、自室への道すがら、私は考えていた。

 あの子はどうして、ここへは帰らないなんて言ったのか。


 兄が生きていた間なら、まだ理解もできた。けれど兄がいなくなった今、なにがあの子をD.C.に引き留めているというのだろう。

 十四歳といえば多感な時期で、むやみに反抗的な態度をとりたくなる年頃かもしれない。けれどあの子に限ってそんなことは、ましてや理由もなく父に反発するなんてことは考えられなかった。

 父に逆らうことの意味を、あの子が知らないはずはないのだから。


 もしかしたら、今はまだ帰れない、そういう意味で言ったのかもしれない。

 しばらくは兄のそばで()に服したいとか、D.C.からの引き揚げ作業に手間取りそうとか。

 ここに戻ってからだって、兄を(いた)むことはできるはずだ。むしろこの屋敷でのほうがよほど、兄との楽しい思い出があふれているくらいだろう。父の前では(はばか)る必要はあるにしても、広すぎるほど広いこの家で、気取(けど)られずにそうすることはできるはずだ。

 別邸の片付けや荷造りなら、他の者に任せてしまえばいい。あの子が身ひとつで帰ってきてもなんの支障もないくらい、あの子の居室はいつでも完璧に整えられているのだから。


 とにかくどうにか説得して、あの子を連れ帰らなくては。

 あんな残忍そうな男に、弟を傷つけさせるわけにはいかない。あの子の痛ましい姿を、もう二度とは見たくないのだから。



 部屋に戻ると、クロエがいた。

 せっかく寝支度をしてくれたのに、着替える羽目になってしまったから、また支度を手伝うつもりで待っていてくれたのだろう。


「服はこのままでいいの。私はこれからすぐD.C.に行きます」


 驚いているクロエに、手短に事情を話して聞かせる。


「あの子を連れ帰るだけだから、滞在時間はそれほどないと思うの。それで……」


 私は迷っていた。クロエを連れていくかどうか。

 これがただの宿泊のない外出であれば、わざわざ彼女を連れていくことはない。けれど今回は、少しばかり事情が違う。


 クロエはつい先ほど知ったばかりなのだ。ずっと想っていた兄の死を。

 一緒にD.C.に行けば、彼女はそれを現実として()の当たりにすることになる。人づてに聞くのとでは大きな差があるに違いない。


 彼女が気持ちの整理をいつ、どのようにつけるかは、私が決めていいことではない。


「あなたは、どうする? どうしたい?」


 だから彼女に決めてもらう。

 クロエはほんの一瞬だけ目を伏せて、そしてすぐに、私をまっすぐに見た。彼女の気丈さを表すようなくっきりとした濃褐色(ブラウン)の瞳が、いつもより(うる)んで見える。


「お供いたします」


 クロエがそう望むなら、そうするのが最良に違いない。


 本当に短い滞在になるだろうから、荷物はそれほど必要ないと言う私に、D.C.もきっと寒いに違いない、お嬢様は極度の寒がりなんですからしっかり準備していかないと、とこぼしながら、クロエが防寒用のコートやブーツをてきぱきと揃えていく。

 それらを大きなキャリーケースにきっちりと収めて満足したクロエは、今度は自らの支度のために足早に自室へと向かっていった。


 クロエが部屋を出て間もなく、ノックの音がした。扉を開けると、そこには父の書斎で見た、上級使用人と思われる青年がいた。


「空港の手配が完了いたしました。あちらに到着次第、最優先での出航が可能です」


 視線を落としたまま、淡々とした声で告げてくる。

 おそらく父の名を出して渡航手続きをしてくれたのだろう。仏国(フランス)国内の上層階級の序列において、父は高い地位についている。階級権限による優先出航を申請してくれたのだ。

 あの子に早く会いたいという私の希望は、叶えられた。空港に着けばすぐにでも、D.C.に飛ぶことができる。


 ふと、クロエとふたり大急ぎで空港に行って、さっさと出発してしまえないだろうかと考える。気持ちが(はや)って、あの男がいないのに気づかなかったと言い訳をすれば、あるいは。


「同伴の者ですが」


 私の心を読んだかのように、青年が言う。


「すでに空港に向かいました。機内で合流がかなうでしょう」


 あの男を置き去りにするのは、どうやら不可能なようだ。


「夜分に手間をかけました。ありがとう」


 気を取り直して、青年をねぎらう。父の名を借りたにしても、私の願いを聞き届けて最短での出航を手配してくれたのだ。

 すると青年は、それまでまったく感情のうかがえなかった顔に、わずかな戸惑いを浮かべる。少しばかり見開かれた目が初めて私に向けられたけど、それはすぐにそらされた。


「仕事ですので」


 素っ気なくそれだけ言うと、用は済んだとばかりに背を向け、去っていく。その後ろ姿を、私はお辞儀で見送った。



 空港での搭乗手続きは滞りなく終わった。

 といっても、すべてクロエが請け負ってくれたので、私がしたことといえば生体認証機に手をかざしたくらい。

 私のキャリーケースを引きながら戻ってきたクロエに礼を言うと、民間機だともう少し煩雑(はんざつ)な手続きがあるので楽なものです、と言っていた。民間機は利用したことがないので、よくわからない。


 待機していた父の専用機にクロエと共に乗り込むと、あの男はすでに機内にいた。巨体を座席に沈めて、客室乗務員に給仕をさせ、我が物顔でくつろいでいる。

 その様子を見て(あき)れ、次いで腹を立てたクロエが男に食ってかかろうとするのをなだめて、離れた席へと移動した。


 父の自家用機は国の要人が搭乗することもあるため、機内はちょっとした応接室のような豪華さだ。座席もひとつひとつがソファのようにゆったりしていて、それぞれの間隔も広くとられている。


「なんなんですか、なんなんですかあいつは。ここをどこだと思って。あんなのが一緒だなんて」


 座席に腰を下ろしてからも、クロエは男の態度に憤慨(ふんがい)しているようだった。私もできることならあの男を(ともな)いたくはないけれど、父が決めたのだから仕方がない。せめてなるべく関わり合いにならないようにするだけだ。


「D.C.に着くまで、少し寝ましょう。私も眠いの」


 私がそう言うと、クロエは慌てた様子で謝罪を口にしながら、クッションやブランケットを寝やすいように整えてくれる。


「あなたも、ちゃんと体を休めておいて」


 私の言葉にひとつうなずくと、クロエは少し離れた座席に落ち着いて、ブランケットに(くる)まる。本当はあまり眠気を感じてはいなかったけれど、私が起きているとクロエは遠慮して眠ろうとしないだろう。

 目を閉じてしばらくすると、まぶたの裏が暗くなる。機内の照明が落とされたようだ。



 私がD.C.の別邸を訪れるのは、これで二度目。

 兄のもとから帰ってこなくなった弟に会いたくて会いたくて、父にさんざん懇願して、ようやく許可が得られたときには、()()()から半年近くが経っていた。


 あの時。二年半前の初夏の、あの日。

 留学のために滞在していたワシントンD.C.の別邸。兄がはるばるパリから遊びに来た弟とともに、お茶の時間を楽しんでいた、その時。


 兄は呪いを受けたのだ。

 けっして()けることのない、死にいたる呪いを。

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