第2話 父との対面
扉を開けたのは、十二、三歳ほどに見える少年だった。父の小姓だろうか。傍仕えにしては若すぎる気がする。
少年は私の姿を確認すると、ごく軽く一礼をして、身振りで入室を促してくる。どうやら父はここにいるようだ。捜し回ることは苦ではないけれど、気が長いほうではない父をあまり待たせたくはなかったから、一箇所目で当たりを引けたことにほっとする。
書斎に足を踏み入れると、少年はすぐに扉を閉ざしてその脇へと直立する。
室内へと目を向ければ、扉からはだいぶ離れた位置に設えられた書斎机に座して、書類をめくっている父が見えた。
「聞いたか」
書類から顔を上げることなく、父が問うてくる。いつ聞いても心が震えるような、低音の美しい声。とくに張り上げているわけでもないのに、距離があっても明瞭に聞こえるのだから不思議だ。
私にはできない芸当なので、声が届くだろう位置まで急いで歩み寄って、口を開く。
「は、はい。先ほど。お兄様が、その」
「それは当家には関係のないことだ」
冷たい父の声色に、身がすくむ。失言だった。父が兄の除籍を決めたその瞬間から、こと父の前では兄に関する発言は厳禁だったのに。
「では……?」
ではなぜ、私は呼ばれたのか。
父が顔を上げる。凍てついた氷のような蒼い瞳に見据えられて、私は息をのんだ。察しの悪い私に苛立っているのだろうか。
父の不興を買ってしまったかもしれない。そう思うと体どころか心まですくんでしまって、何も考えられなくなってしまう。
「あれを連れ戻せ」
父の言葉に、はっとする。
そうだ、あの子がD.C.の別邸に留まる理由はもうなくなったのだ。兄が死んだ今、あの子は、弟はようやく兄の束縛から解放されて、自由の身になったのだから。
あの子に会いたい。叶うなら、今すぐにでも。けれど私は、父の許可なくして仏国から出国することはできない。
「わたくし、わたくしが行ってもよろしいのですか、あの子を迎えに?」
「許す。行け」
お許しが出た。会いに行っていいのだ、あの子に。最後に会ったのは何ヶ月前のことだろう。嬉しさのあまり胸が高鳴って、息が苦しいくらいだ。
父が呼び鈴の紐を引くと、ほどなく一人の青年が姿を現した。お仕着せではないところを見ると、上級使用人だろうか。屋敷内の使用人を把握できるほど関わりがあるわけではないので、推測するしかない。
青年は私には目もくれずに、父のそばへと足早に歩み寄っていく。
「ユディットをD.C.へ遣る。手配を」
青年は一言も口をきくことなく、ただ父の指示にうなずきを返す。
「あ、あの、お父様」
青年が父のそばを離れようとするのを見て、私は慌てて呼びかける。
「わたくし、早くあの子に会いたいのです。一刻も早く」
私の意図は、父に正確に伝わったようだった。父が青年に視線を向けると、青年もまた、心得たようにふたたびうなずいてみせる。
青年が書斎を出て行くと、父がついと手を挙げた。それを合図に、部屋の隅で彫像のように微動だにせずにいた黒服の男が、父のそばへと歩み寄る。
「これを連れて行け」
なぜ、と思う。
闘神の化身のような偉丈夫の父と比べても、それほど見劣りしないような、屈強な男だ。服の上からでも、その鍛えあげられた肉体がうかがい知れる。おそらく父の護衛の一人だろう。
ただ弟をD.C.から連れ帰るだけのことに、わざわざ護衛を同行させる必要があるとは思えなかった。
私自身に守られるほどの価値はなく、弟は弟で、護衛を兼ねる近侍がついているのだから。
戸惑う私を気にもせず、父は男を手招くと、身を屈めた男の耳へとささやきかける。
「必ずあれを連れ帰れ。抵抗するなら多少手荒にしてもかまわん」
漏れ聞こえた父の言葉に、耳を疑う。
「お父様!? なにを、何をおっしゃるのです、どうしてそんな」
「あれは一度、わたしに叛いている」
ふたたび向けられた父の目に宿る険しい光に、私は言葉を失う。
「二年前のあの時、わたしはあれに命じた。枷を砕いてでも、わたしのもとへ戻れと。知っているな?」
父の言葉にゆっくりとうなずきながら、私は震える手を胸に押し当てた。
そうだ、二年前のあの日。兄が除籍された、あの時。
父はあの子に命じたのだ。あの子を放そうとしない枷を砕いてでも、自分のもとへ戻るようにと。
弟はその命令には従わなかった。兄を殺すことはもちろん、見捨てることもせずに、兄が望むまま、兄が死んだ今に至るまで、そのそばに居続けたのだ。
この二年、正確には二年と半年におよぶ期間、弟がここパリの屋敷に滞在していたのは、数ヶ月に一度、父の召喚に応じたほんの数日間のみのことだった。
二年前のあの時に一度命じて以降、父があの子を連れ戻そうとしたことはなかった。だから父は弟のわがままを許したのだと、そう思っていた。
だがそうではなかった。父は自分の命令に叛いたあの子を、許してなどいなかったのだ。
「ですが、ですがお父様、あの時とは事情が違います。だって今回は、あの子が帰らない理由など、ないではありませんか」
あの子は生来、とても素直で従順な子なのだ。
父に逆らってまで見限られた兄のそばを離れなかったのも、その優しい気質ゆえのこと。こんな大男まで伴って、脅しかけるように連れ帰ることはないはずだ。
弟を守るべく言い繕おうとする私を、父が怪訝な目で見てくる。
「聞いていないのか」
何をだろう?
「あれが言ってよこした。パリに帰る気はないと。だからおまえを遣るのだ」
「え!?」
そんな話は聞いていない。でもそうか、そうだったのだ。
どうして最初におかしいと思わなかったのだろう。父が私の出国を許すなんて。あの子の帰国を待つのではなく、わざわざ私をD.C.まで迎えにやるなんて。
おそらくクロエは、父からの言付けを正確には教えてもらえなかったのだ。父の居場所もそうだが、肝心の用件を。
帰国を拒否したあの子を連れ帰ること。私が呼ばれた理由はそれだったのだ。
私が直接迎えに行って、私の説得にも応じないようなら、この男を使って力尽くででも連れ戻せということだったのだ。ようやく得心がいった。
「案ずるな。腕の一本、足の一本失ったところで、あれは充分に使える」
父の酷薄な言葉に、男はくちびるの片端をつり上げて笑っている。
本来ならば使用人が上階の住人に乱暴を働くなど、到底許されることではない。ましてや弟は、今や父にとってはただひとりの息子だというのに。
けれど、他ならぬ父本人がそれを許可したのだ。
あの子が少しでも抵抗するそぶりを見せたなら、この男は嬉々として弟に手を上げるのだろう。そしてそれは、父に逆らったあの子への当然の報いというわけだ。
この家で父に叛くというのは、そういうことなのだ。