第1話 冬の夜に
物語の舞台は「地球を模して創られた世界」であって、地球ではありません。
地球に存在した人類の文明・文化をも模倣しているため、実在する地名等が登場しますが、現実世界のものとは何のかかわりもありません。また、地球世界とは異なった法や習わし等があります。
年少者や弱者への暴力行為が含まれる場合があります。キーワード等をご確認のうえ、合わないと思われましたら即座にブラウザバックをお願いいたします。
キーワードは後日追加する場合があります。
兄が死んだ。
就寝前のホットココアを置いて下がったはずのクロエが、数分もせずに駆け戻ってきて告げたのは、遠く米国の地にいる兄の訃報だった。
「そう」
出た言葉はそれだけだった。
もう、そう長くはない。そんな話を耳にしてから二月は経っていた。早ければ年内にもと思われていたものが、今はもう年が明けて最初の月が終わろうとしている。
思いのほか、保ったものだ。
そもそも、二年も前に兄は当主である父によって廃嫡、除籍された身だ。とうに死んだものとして扱われていた者の死を改めて知ったところで、どうということもない。あるとすればせいぜい、ああ、ようやく終わったのだ、という思いくらいだった。
「ああ、お嬢様」
カップに残ったココアに目を落としたまま押し黙った私を、歩み寄ってきたクロエがやんわりと抱きしめてくる。クロエは優しい娘だから、私がショックを受けて言葉を失っていると思ったようだった。
私をなだめるように、ゆっくりと背中をさすってくれる、その手がかすかに震えていた。異母とはいえ妹である私などよりも、報せをもたらしてくれた彼女のほうがよほど、兄の死を悲しんでいた。
クロエが私付きのメイドを志願したのは、兄との接点を期待してのことだった。
この屋敷に使用人見習いとしてやってきて間もないころ、彼女は兄を見かけたらしい。通常なら、上級使用人でもない者が上階の住人の姿を見るなど、あってはならないことだ。だが彼女は偶然にも兄の姿を垣間見る機会に恵まれ、そのわずかな時間で恋に落ちたのだ。
兄と私は不仲だった。
生まれながらの貴公子で選民意識の強い兄にとって、使用人を母に持つ私は、妹とは認めがたい存在だったのだ。
当主の嫡子に想いを寄せ、上級使用人を目指そうと励むクロエに、周りの使用人たちが兄と私の険悪さを教えることはなかった。
使用人たちもまた、母の身分を理由に私をさげすみ世話を厭わしく思っていたから、何も知らずに私付きのメイドになりたいなどと宣言する夢見がちな少女は、恰好の生贄だったのだ。
私付きのメイドになったその日にようやく、クロエは事実を知った。
知ってなお、辞めるとも言わずに今日まで完璧に職務を果たしてくれたのは、彼女のプロ意識の高さゆえか、あるいは未来に兄と私の和解を期待したのか。
不仲に加え、私と兄の居室は遠く離れていたため、せめて兄の姿を見たいという彼女の願いがどれほど叶ったのか、私にはわからない。
そのうえ兄は大学進学を機に父の母校があるワシントンD.C.の別邸に居を移すことになり、年に数度しか帰ってこなくなった。留学中に父に絶縁されたあとは、仏国に帰国するどころかD.C.の別邸から出ることも許されず――許されていたとしても、兄はそうできない状態にあったのだけれど――そのまま死去してしまった。
兄への恋心を支えに、懸命の努力でもってわずか十代で私付きのメイドになってくれたクロエの想いは、報われることなく終わってしまった。
もともとの身分差や兄の気性を思えば叶うはずのない想いだったとしても、彼女があまりにも不憫で、私は兄のためではなく彼女のために、ほんの少しの涙をこぼした。
「それで、お嬢様」
しばらくののちに私から腕をはなし、一歩下がって姿勢を正したクロエは、さらなる報せを告げた。
「旦那様が、お呼びとのことです」
思わず落としかけたカップを、クロエが私の手ごと支えた。そして私の手から取り上げたカップを、寝台脇のテーブルへと預ける。ココアはまだ少し残っていたから、クロエが受け止めてくれなかったら、絨毯を汚して彼女の手をわずらわせていたことだろう。
「お、お父様が?」
兄の訃報よりもよほど、動揺してしまう。クロエが確かにうなずくのを確認してから、私は就寝のためにゆるく編んでいた髪を大急ぎでほどき始めた。
「すぐに着替えます」
言い終わる前には、クロエはクローゼットに飛びつき、服を選び始めていた。さすがに彼女も心得ている。深夜と言える時間帯だからといって、寝衣姿での対面が許されるほど、私と父の関係はくだけてはいない。
胸リボンをほどき、寝衣を足もとに落としたころには、クロエが選び出した服を手にこちらに戻ってきていた。
手早く着付けられながらも、髪は自分で梳かして一部を編む。本来は髪結いもメイドの仕事なので、クロエが文句を言いたそうにしているが、かまわずに整える。彼女が私付きになってくれるまで、私の着付けをしたがる使用人などいなかったから、慣れたものだ。
「お父様はどちらに?」
私の問いに、クロエは一瞬だけ顔をゆがめる。
「申し訳ありません、お嬢様。存じ上げません」
そう言って、くちびるを噛む。どうやらクロエに父からの言付けを伝えた者は、居場所までは言わなかったようだ。
「いいのよ。……ごめんなさい」
クロエが首を振る。
よくあることだった。クロエの主人である私が軽んじられているから、彼女までぞんざいに扱われてしまう。
歳は若くとも、クロエは傍付きメイドとして非の打ち所のない仕事をしてくれる。そんな彼女を使用人たちの軽視から守ることもできない、無力な自分が歯痒くてならない。
この時間であれば、父は恐らくまだ執務中だ。ならば居場所は執務室を兼ねている書斎、でなければ自室か、寝室か。いずれにしても、父が居そうな場所を端から捜せばいいだけのことだ。
室内履きから踵のある靴に履き替え、大きな姿見の前に立った私を、クロエがぐるりと見回して、満足げにひとつうなずく。
「よろしいですよ」
クロエのお墨付きに、私はほっと息をつく。深夜の急な呼び出しだからと言って、父との対面に非礼があってはならない。
私は短時間で身支度をすませてくれたクロエに礼を言うと、自室を出た。
父の居住区もまた、私の居室がある棟からは遠く離れている。良家の娘が屋敷内を走るなど、本来はあってはならないことだが、急く心に比例するように、私の足も速まる。廊下に敷き詰められた絨毯が足音を吸ってくれるのがありがたかった。
父の書斎の前で、乱れた呼吸と身だしなみとを慎重に整えたあと、私は重厚な扉を震える手でノックする。
「お父様、わたくしです。ユディットです」
呼びかけると、さほど間を置かずに、扉は内側から開かれた。