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中篇2

 わたしは久しぶりに帰省した。


 地元は新しくなっていた。山には昔、多くのみかんが生っていたが、今ではいくつもの巨大なソーラーパネルが設置されている。前まであった家々や田んぼはスーパーマーケットになっていて、駐車場は車で埋まっていた。そこには確か、よく遊びに行った友人の家が二軒あったはずだ。その痕跡すらない。


 ここは本当に生まれ故郷なのか。その事実すら背きたくなる。


 わたしがなんのために帰省したかと言うと、母からしつこく「帰ってこい」とせがまれるからだった。いい加減な理由をつけて断り続けていたが、さすがにこれ以上は申しわけないと思い、今日、帰省したのだ。


 事前連絡はしなかった。サプライズのようなものだ。驚きを隠せない母の姿を見るのが楽しみだ。


 目印がなくなっていたので道を迷ったが実家に到着する。ベルを鳴らしてしばらく待つ。


「…………」


 しかし、出ない。もう一度鳴らす。


「…………」


 やはり出ない。


 耳を澄ます。家の中はシンとしていて、どうやら誰もいないようだ。


 母はどこかに行ったのだろうか。さては、あのとき言っていた北海道旅行にでも行ったのだろうか。


 母は旅行好きだ。定年を迎えてからは、かなりの頻度でどこかに行っている。旅行先の土産が、たびたび届いたものだ。


 ずっといてもしかたないので、わたしは実家を離れた。


 どこかに行ってしまった母とは連絡できない。母は携帯電話が嫌いなのだ。それを持つと、いつも何かに束縛されている感じがするそうだ。


 地元の懐かしさは失われつつある。それを象徴とする商店街に赴いた。


 見渡す限りの灰色に、わたしは喪失感を覚えた。昔、ここには活気あふれた声が四方八方から響き渡っていた。


 魚屋のおじさんはサービス精神が旺盛(おうせい)で、何か買えば魚を一尾や二尾をただでくれた。パン屋のクリームパンは大人気で、ずっと作っているものだから、いつも温かいクリームパンを食べられた。酒屋のおつまみは自家製で、一番酒に合うと町の住人からは評判はよかった。


 これらはすべて、かつてシャッターの向こうにあった話だ。


 シャッター街をさまよっていると、いまだシャッターに覆われていない店を見つけた。


 それは喫茶店だ。しかも昔見たときとあまり変わっていない。変わっているのは、看板に書かれた店名はかすれてしまって読めないところだろう。確か店名はフランス語だと記憶する。そもそもフランス語は読めないので、看板に書かれていても分からなかっただろう。


 ここには一度だけ立ち寄ったことがある。


 ここのコーヒーは奥ゆかしくて美味しい、という曖昧(あいまい)な感想を聞いた小学生のわたしは、実際に注文して飲んでみた。だが、あまりの苦さに吐きそうになって美味しさと奥ゆかしさを感じることはなかった。ちなみに頼んだのに残すのはもったいないと思い、ちゃんと飲み干して、再び吐きそうになった。


 そんな苦汁を飲んだ思い出くらいしかない喫茶店だが、せっかくならと再び入店する。


 扉を開けたとたん、チリンというベルの音とともに、香ばしいコーヒーの香りがわたしを包み込んだ。それらは回顧の念を催させた。小学生のころの記憶が一気に湧いてくる。


「いらっしゃいませ」


 鈴を転がすような女性の声が店内に響いた。


 その声で現実に戻る。


「お好きな席へどうぞ」


「あ、はい」


 設けられた席のほとんどは空いていて、客はわたしを含めて二人だ。カウンター席は三席しかなく、その客は真ん中に座っていて、必然的に隣同士になるので、テーブル席に座ることとなった。


 テーブルの端に立てかけられた一枚のメニュー表を取る。メニューにはさまざまなコーヒーやサンドウィッチがある。サンドウィッチは六種類あったが、そのうち四種類に取り消し線を引かれていて、今は『卵』か『ベーコンレタストマト』の二種類しかない。


「ご注文がお決まりでしたらお声かけください」


 と店員が言ってすぐ、わたしは注文する。


「あの、コロンビアをください」


「かしこまりました」


 店員はポケットから出した注文票に記入し、カウンターにいる老けた男性に伝えた。


 しばらくすると、女性の店員がカップをわたしの前に置く。


「コロンビアです。以上でよろしいでしょうか」


「はい」


 店員は注文票を机の上に置いた。


 昔、わたしはコロンビアを頼んだ。それは小学生のころで、まだコーヒーの美味しさを理解していなかった。今ではブラックコーヒーは日常的に飲めるようになっているので、コロンビアだって飲めると思う。


 わたしはカップを持ち上げ、口に運んだ。昔聞いた奥ゆかしさは確かに感じられたが、それは一瞬だけだった。苦みの衝撃が脳天を貫いて、あのときと同じように吐きそうになった。わたしは必死に飲んだ。一度カップを置いて涙目になりながら心身を落ち着かせると、今まで見えていなかったものが視界に入る。


 立てかけたメニュー表の陰に角砂糖がいっぱいに入った瓶があった。死角にあったものだから気づかなかった。小学生のときもこうやって瓶が隠されてあったのだろうか。


 わたしは瓶から角砂糖を一つ取り出して、コーヒーの中に入れる。溶けるのを待ってから再びコーヒーを飲む。


 さっきよりも苦みが少なくなったように思う。


 ひっそりとある甘さのおかげだろうか、コーヒーの香りを充分に堪能でき、飲み干してしまった。もしかしたらここは苦いコーヒーを提供する喫茶店なのかもしれない。


 一人で納得して席を立つ。会計を済ませてから店を出た。


 地元に帰ってきたのだから、何かひとつ、わたしのための土産でも買おうと決めた。


 とりあえずスーパーマーケットに入って、箱に『十二個入り』と印字された、ありがちなまんじゅうを購入した。わたしはこのありがちなまんじゅうが好きなのだ。


 しばらく放浪して、アパートに帰った。


 まんじゅうの箱を丁寧に開ける。焼き印されていないまんじゅう十二個がきれいに陳列されていた。その中から左上のものを取って食べる。特段美味しいわけでもなく、別段不味いわけでもない。


 だが、餡の甘さがやけに強いと感じた。甘いのが苦手になってきたようだ。





 次の日、職場から帰宅したとたんに部屋の電話が鳴った。


 鬱陶しいな、と思いながらもその電話に出た。


 電話の向こうの話を聞き、わたしの身体は空虚になる。



 わたしの母が、何日か前に亡くなっていた。



 それはあまりに突然で、状態からして一週間前にはすでに亡くなっていたようだ。


 なんてことはない、ただの孤独死だ。


 わたしが実家に訪れたとき、母はとっくに亡くなっていた。


 急性大動脈解離。母は胸が張り裂けるような痛みとともに亡くなったのだ。


 わたしは休暇を取ってから母のもとへ行った。渡辺が亡くなったとき以来着ていなかった喪服で行った。


 母の昔からの意向を尊重し、葬式をせず戒名をつけずに荼毘(だび)に付した。


 遺体はもうわたしの手元にある。骨壺の中に納められている。


 あのときのように、なみだは出なかった。

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