前篇
失業した。
不景気だから、会社のためだから、という理由で。
いわゆるリストラというやつだった。
退職金として、三か月は生活できる金を手に入れた。まずは職を探さなくてはならない。
暗い気分を晴らすためにフリーマーケットに行った。どこでもよかったのだが、たまたま通りかかって、楽しそうににぎわっていたところがそこだった。
気落ちしているからか、物欲があまり湧かなくて、目ぼしいものはなかった。
だが、その中でもたったひとつだけ、そそられるものがあった。
そんなものが、品が並べられている机の中央に置かれていた。
『幸不幸変換機』
黒くて細長い長方形の真ん中に、ひとつの銀色のレバーが備わっているだけだ。『ON』と『OFF』と書かれたシールが貼ってあり、『OFF』の向きにレバーは倒れていた。
値段は一万円。ぼったくりではないかと思う。ふざけて、うつむく白髪の店員に尋ねてみる。
「すみません」
店員はこちらを向いた。その顔はひどく真っ青で、しわの深い老婆だった。老婆ははかない眼差しでこちらをのぞくように見る。白目が黄色く濁っていた。
「これはなんですか」
老婆はニヤリとほおを吊り上げる。黄ばんだ歯がところどころに生えていた。
「お客さん。そちらをお求めかね」
「いや、ただ気になって。それで、これはなんですか」
老婆は三秒ほど口をふさぎ、また開いた。
「そのままだよ。おのれに降りかかる幸せと不幸せを変換するんだよ」
わたしはこの機械を侮蔑し、嘲笑する。
「そんな馬鹿な」
「そうかい。なら出ていきな。どうせ欲しいものなんかないんだろ」
機械の周辺の品をながめる。骸骨のレプリカや虹色のハンカチや柄がデコボコした黒いボールペンなどがある。無意識に眉をひそめてしまった。欲しいと思えるもの、実用的なものはまったくなかった。
しかしわたしは、この機械のささやかな魅力を感じていた。今までの人生で不幸のほうが多かったからだ。換わるはずがない、と思っていた。だが、これで幸運をつかめたら。大量の不幸が幸せに換わるのなら。
「これ、ください」
わたしは幸不幸変換機を指差し、ポケットから長財布を取り出す。その中から一枚しかない一万円を取り出して、老婆に差し出す。老婆はそれを受け取り、わたしは幸不幸変換機を手に取った。そしてまたニヤリとほおを吊り上げる。
「まいど」
ヒヒヒと不気味な笑い声を上げ、表情を消し、またうつむいた。わたしにもう用がないということだろう。
わたしはその店から離れた。
*
自宅に帰り、まずは後悔した。
なんてものを買ってしまったんだ。
こんなもので幸福と不幸が換わるわけがないじゃないか。
六畳間の一室で、わたしは嘆いていた。黄昏時になり部屋が暗くなってきたので、電灯を点けようと思っても、動くことさえもつらかった。
ゴミ箱に投げ捨てたくなった。これを見ただけであの老婆の顔を想起させる。あの嘲笑うニタリ顔。そして蔑むような口調。だんだんと苛立っていく。
「ああ、もう」
ゴミ箱に投げ捨てようとした。しかし、これに一万円の価値があると思うと……いや、一万円も払ってしまったものだと思うと、どうしても手離せなかった。
くそ、と機械を畳の上に強く叩きつけてしまった。あっ、と我に返って機械が壊れていないか確認する。見たところ特に異常はない。振ってみた。風切り音しかしない。どうやら部品などは外れていないようだ。
はあ、と深いため息を吐いた。安心感と喪失感が同時に襲ってくる。
「寝よう」
わたしはふすまから敷布団と掛け布団を取り出して床に敷く。布団に入り、目を閉じた。
*
小鳥のさえずりが早朝を告げる。雲白い空から、朝の日差しが六畳間を射していく。
ジリリリリリ――。
目覚まし時計は午前六時三十分を指して、わたしを起こすために鳴り響く。
「うぅん」
わたしは身体を起こさずに、布団を被りながら腕だけで目覚まし時計を探る。
そのとき、目覚まし時計が腕に当たった。止めるためにガチャガチャいじった。しかしどうしても鳴り響くので、無意識にそれを別のものと思い、それを腕でどかした。そしてようやく探しものをつかんでアラームを止めた。
身体を起こす。背筋を伸ばし、時計を確認する。
「ああ、会社に、行かないと――」
そこでわたしは失業したことを思い出した。もうあの場所に出向く必要はないのだ。
「そうか。辞めさせられたんだ」
脱力感に襲われた。あのときの苦労は、水の泡になったのだろうか。
「……寝よう」
また身体を横にする。これからどうすればいいか考える。
退職金はもらった。少しの間は働かなくても生きていけるはずだ。だけど、その後はどうする。働かなくては、と思った。しかし面倒だ。動きたくない。
目を瞑ったそのとき、部屋の電話が鳴り出した。
再び身体を起こす。わたしは電話の受話器を取って耳にあてがう。
「もしもし」
『もしもし、元気にしてる?』
この声に聞き覚えがあった。
「……母さん?」
『そうよ。あんた、母親の声すら忘れちゃったの?』
「いや、覚えてるから母さんって訊いたんだろ?」
『まあ、そうねぇ』
「で、どうしたの?」
『あんた、仕事辞めちゃったじゃない』
急に胸焼けがした。失業したこと、母に伝えなければよかった。
「うん」
『仕事、見つかったの?』
胃酸が逆流しているのかもしれない。あまりに胸焼けがひどい。
「いや、まだだけど」
『早く探さないと、生活できなくなるわよ?』
そのくらい、理解していた。だけど面倒くさいという気持ちが強いのだ。
「それは、まあ、そうだけど」
『職に就いて、生活を安定させなさい』
「あ、はい」
吐き気がしてきた。下まぶたが痙攣を始める。
『それで、話が変わるんだけど』
「何?」
『今度、北海道行くんだけど、何か欲しいお土産はある?』
胃酸が胃に流れたようで、胸焼けが治った。
わたしは思考を巡らせる。特に欲しいものはなかった。
「なんでもいいよ」
『あ、そう、分かった。じゃあ適当なもの買ってくるから』
「うん。……っていつ行くの」
『ああ、結構先になると思う。たぶん、半年後かもしれない』
それなら北海道に行く前に教えてくれればいいのに。
『話はそれだけ。……あ、それで、いつ帰ってくるの?』
「え?」
『たまには顔を見せなさい。もう何年か見てないから、あんたの顔忘れちゃったわ』
「いや、最近ちょっと忙しくて行けない」
『ふぅん』
明らかに怪しんでいる声色だ。
「じ、じゃあもう切るよ」
『あ、お土産送るときまた電話するから』
「うん、分かった。じゃあ」
『じゃあね』
わたしは受話器を置く。そしてはぁ――とため息をついた。
ついに就職しろと催促されてしまった。今まで何も言われなかったのに。もしかして気遣ってくれたのだろうか。
催促されるとやる気が出なくなる。しかしこれからの生活のためには就職しないといけない。
人生の安寧のために、求人誌が置いてあるコンビニに行くと決めて外に出る。
昨日までは暑かったのに、今日は少し涼しい。
秋を迎えたのだ。
*
コンビニで求人誌を手に入れて、家に持ち帰って中身に目を通す。
探せば探すほど気だるさが湧いてくる。いつのまにかやる気はさっぱりと消えていた。
いつしか天井を仰いでいた。少しシミのある天井。それは三つあり、顔のように見えた。
気分が優れないので、また外に出た。
歩きながら考える。どうやって金を手に入れようか。もちろん職以外で金にありつけるものを探す。
わたしの頭に浮かんだのは、パチンコや宝くじといったギャンブルだった。一瞬だけ闇がよぎったが、それをきれいさっぱり消し去った。
ポケットの財布を取り出す。慎重に中身を確認する。
千円札が二枚、百円玉が六枚、五十円玉が一枚、十円玉が三枚、五円玉が二枚、一円玉が一枚。計二六九一円。
はした金だ。銀行から金を下ろさないといけなかった。
ということで銀行に訪れて五万円を引き出す。まだ金はあるが、この程度だとすぐになくなってしまう。
働かなくてはならなかった。だけど今は働きたくなかった。
簡単に金が欲しかった。
「…………」
落胆のため息をつく。
損が目に見えている。
潔く職を探すことにした。