Brynhildi Buðladóttur
夜も明けようかという頃、ガタンという物音が微睡んでいた私を現実へと引き上げる。
続けて隣の部屋から更に物騒な音が聞こえて、周囲は再び静寂を取り戻す。
いや、違う。
よくよく耳を澄ましてみれば、女のすすり泣く声が聞こえるではないか。
(やった。ついにやった!!)
泣き声の主はグズルーン。憎らしいグリームヒルドの娘!!
いい気味だ。龍の心臓を喰らったあの女も、血の通った人間であったらしい。
悲嘆に暮れるその声音が、私の怒りと憎しみを少しはすすいでくれる。
シグルズの死を高らかに嗤おう。
今は暗殺の成功を祝う時だ。
嗤う。嗤う。隣の部屋にも聞こえるように、大きな声で嗤ってみせる。
私の声は館中に反響して、やがて自らの耳に入る。
随分と乾いた笑い声だ。それがおかしくて悲しくて、再び嗤う。
――他のどの女よりも、お前をこそ愛している。
けれどその間中、ずっと彼の言葉が頭の中で繰り返し繰り返し、思い出されていた。
今更そんなことを言われて、私にどうしろと言うのだ。
私はもう彼のものにはなれないのだ。
「どうしてそのような顔で笑えるのだ?
お前は少しも嬉しそうには見えぬ」
ギューキ王の長男であるグンナルが気の違ったように笑う私を心配する。
その目は私の高笑いと、己の計画した暗殺の結果に酷く怯えていた。
……私はこんな男を旦那にしたのだ。
「お前がシグルズの暗殺を企てたのだ。
何一つ不義を働いていないあの人を、お前が裏切ったのよ」
そして、グンナルがそう動くよう仕向けたのは他でもない私だ。
――他のどの女よりも、お前をこそ愛している。
今更だ。そんなことを言われても今更なのだ。
グリームヒルドの魔術で私を忘れ、グズルーンを妻にしてしまったことも。
グンナルに化けて、私を彼に嫁がせたことも。
決して赦すことなどできようもなく……。
あぁ、怒りと憎しみが炎となって心のうちに燃え上がる。
「彼はもう誰のものでもない。
私を縛るものも、もうない。
これを喜ばずしてどうしようか」
もう全てがどうでもいい。
彼のいない世界で生きていく意味なんて、どこにもなかった。
追いかけよう。
冥界の門も、彼の背後ではまだ閉まっていないだろう。
なおも狼狽えるグンナルをその場に残し、隣の部屋へと向かう。
入り口ではギューキ王の末の息子が腰の部分から真っ二つにされていた。
そのすぐ傍には、燃える炎のような刀身を持つシグルズの愛剣グラムが転がっている。
最後の力でシグルズが暗殺者を切り殺したのは、想像に難くなかった。
シグルズとグズルーンに宛がわれた部屋へと入っていくと、
既にそこには騒ぎを聞きつけた従者や使用人たちが集まっていた。
なおも嗚咽を漏らすグズルーンの脇をすり抜け、
血の海となったシーツに横たわるシグルズの頭にかけられた布を取り除く。
死してなお鋭い眼光が、そこには遺されている。
『それを見返せる武人など、存在しなかった』
ファーヴニスバナ。
誰より強く、誰より誇りある、私の”ただ一人の”夫。
「これで満足しました。あとは彼と添い遂げるだけです」
私は言う。
「死なないでくれ」
グンナルが私に縋る。
「お前のせいだ」
グンナルの弟ホグニが、私に向かって言う。
「……」
言葉なくグズルーンが泣く。
その腕には黄金の腕輪が飾られている。
腕輪。そう、腕輪。
かつて初めて会った時、あの人が私に贈った腕輪を、今はグズルーンが着けている。
ギューキの娘グズルーン、この場においてただ泣くことしかできないお前が哀れでならない。
あの方とともに死ぬ勇気もないだなんて笑わせてくれる。
お前みたいな女に、私は……私たちの運命は狂わされたのか。
許さない。許してなるものか。
お前たちは策謀によって私を蹂躙したが、私の心はいつだって、いつまでもあの人のものであり続ける。
私が愛したのは、後にも先にもあの人だけだ。
「もう全て終わってしまったことなのです。
けれどそれらの全てが、お前たちの母親に起因するものなのです。
私を思い通りにしたいのなら、私を組み伏せばよいでしょう。
真実私の旦那であるのなら、それができるはずです。
いいえ、やめましょう。
もうここまで来たら恨み言は不要。私は死出の旅路に着きましょう」
旦那であるグンナル、その弟ホグニ、彼らの部下や従者たちがどのように宥めても、私の心は変わらない。
私はその場にいた全ての人間の静止を振り切り、黄金の鎧を身に纏う。
胸には沸々轟々とした感情が渦巻いていて、これを正しく理解なんてできるわけがないのだ。
それもそうだ。
一体誰が理解できる?
愛してもいない王と結婚させられ、
隣の部屋では毎晩のように想いを誓い合った男が他の女を抱いている。
その不快な声が聞こえるたび、私は寝室を抜け出して凍てつく海辺を一人で歩くのだ。
毎晩のように、一人で。
後にも先にも、私が愛したのはあの方だけなのです。
この狂おしい感情を、一体誰が理解できようか。
灼熱のような想いを、変わらずに抱き続けてきた。
ギラギラ輝く瞳に、顔を近づける。
あの日と変わらぬ想いで溢れた胸を重ねる。
思い出の全てが胸に去来しては涙となって身体から流れていく。
今日だけは許されますように。
そっと口づける。
幸せの絶頂で私は死ぬ。
私は神の娘。誰にも文句は言わさぬ。
「あぁ、そうだ。最後にヴァルキュリャらしいことをしてあげましょう。
呪いの結晶たるアンドヴァリの財宝に、更なる呪いを捧げましょう。
グンナルもホグニも、そう長くは生きることができますまい。
我が兄アトリ、偉大なるフン族の王を恐れて、眠れぬ日々を過ごすがいい。
グズルーン。哀れな女。
お前には様々な未来が待ち受けている。
そしてそのどれもが虚しい顛末となることでしょう」
準備は既に終わった。あとは死ぬだけだ。
床に転がっていたグラムを手に取り、一息に胸を刺す。
レギンの鍛え上げた剣の切れ味は凄まじく、痛みすら感じないほどであった。
けれど流れ出る血に、自らの命がもう長くないということは明らかであった。
「グンナルさま。
あなたにとって私は酷い妻ではありましたが、これが最後のお願いでございます。
ふたりの為に薪を高く積み上げ、山のような祭壇を設えてください。
あの方と私が一つ床にあがって夫婦の名を誓い合った昔と同じように、私たちの間に抜身の剣を置いてください」
きっと悲しみを埋め尽くすように雪が降ることでしょう。
私は純白に包まれて、あの方に逢いに行くのです。
欺瞞も、策略も、なんの関係もないところで、幸せに暮らしましょう。
勇士が戦場で死ぬことなく冥府へと下ることを、隻眼の賢者はきっと悲しんでいることでしょうね。
あなたの娘は2度もあなたの意志に逆らった。
けれど死んでまで引き裂かれるのは嫌だもの。
もうこれで、誰も私たちを離すことはできないわ……。
幸せを思い出す。
かつてヒンダルフィヤルで眠り続ける私を目覚めさせてくれたこと、
フリュムダルで炎を乗り越えて私に逢いに来てくれたこと。
知ってたわ。あなたが本当はその時には全て思い出していたこと。
アンドヴァリの賜物を私から奪って、グズルーンに与えたこと。
逢えたら少し愚痴ってやろうかしら。
けど大丈夫。
私も、あなただけを愛しているから。
私はブズリの娘、ブリュンヒルド。
誓いを破るようなことはしないわ。
――後にも先にも、愛しているのはあなただけよ。
意識が暗転する。
次に目を覚ましたのは薪でできた祭壇の上であった。
聞き分けのない戦乙女ではあったが、オーディンが私に最期の時間をくれたのだろうか。
顔を横に向けると、そこにはシグルズが横たえられていた。
……グンナル王が私の望むままにしてくれたのだ。
雪は薪の上に降り積もっていて、まるでそれが純白のシーツを被せた褥のようになっていた。
なおも私の身体からは血が流れ出ていて、雪の上に滲んでいる。
それが初夜のシーツのように、鮮やかな花が咲かせていた。
パチパチと炎が燃える音がする。
それは次第に大きな炎となり、ごうごうと燃え盛る炎になる。
その上に横たわる私たちは、まるで虚偽の婚姻を交わした頃を思わせる。
けれど、それでも幸せだったのだ。
あの日々が永遠に続けばよかったのに。
轟々たる炎は降りしきる雪を水へと変えることもせずに昇華させてしまう。
やがて炎と煙に満ちて、もう何も見えなくなる。
私の命もここまでのようだ。
けれど、そう。
あの夜と違い、私の手はグラムを乗り越えて彼の冷たい手に触れる。
冥府へ行っても、生まれ変わっても、再び結ばれるために。
「愛しているわ」
残された力で誰憚ることなくつぶやくと、私の心臓はその活動を止めた。