七月の惑星
1.A long time ago in a galaxy far, far away...
「小学生1枚」
入場券売り場のオバさんが、胡散臭げな視線で、仕切り窓越しに僕を見た。
内心、ドキリとしながらも、僕は極力、平静な顔つきを保ったまま、オバさんを見返し、Gパンのポケットからクシャクシャの千円札を一枚、取り出した。
中学2年の初夏、最初の日曜日。
春くらいから、急に身長が伸び出した僕は、どう見たって小学生には見えない。
「…今回だけだよ」
云われるまでもない。
身長分程度には”大人の階段”を昇り始めていた僕は、ちょっとした罪悪感と寂しさをないまぜにした気持ちで、映画館の入り口へ続く行列に並んだ…。
「ふ〜」
混雑する場内で何とか座席を確保し、ひと息つく。
あたりを見回そうとした時、上映開始のブザーが鳴り、場内は暗闇に変わった。
スルスルと開き始めた緞帳の方へ向き直り、銀幕に集中する。
ほんのひと時だけ、暗闇と静寂が劇場内を支配したあと、派手なファンファーレと共に光り輝くその映画は始まった…。
「ふ〜」
2時間後、上映前と同じようにため息をついた。
しかし、それはまさに今、体験した眼も眩むような映画の興奮から解放されたため息だった。
たった今、僕は主人公たちと共に、昔々、遥か彼方の銀河系を駆け巡る冒険をして来たばかりだった。
今年はスゴい映画ばかりだな。
2月に観たUFOの奴もスゴかったけど、あれとはまた違うスゴさだ。
去年の暮れに観た邦画の便乗モノとはスケールも物語の面白さも、まるで桁外れ。まさに雲泥の差だった。
照明灯がついて、場内が明るくなっても、いまだ熱気の覚めやらない他の観客たちも席を立とうとはしない。
僕もちょっと放心状態気味だった。
その時、隣の席から僕を呼ぶ声がした。
「え?」
「あ、やっぱり。似てるなぁって思ってたんだぁ」
まだ、現実に戻れないでいた僕は、一瞬、隣の席に座っているのが、誰だか判らなかった。上映中も視線は一ミリたりとも逸らさずにスクリーンに釘付けだったし…。
「あ、やぁ」
同じクラスの女の子だった。
教室では、互いの席がちょっと離れているため、特に親しいわけでもない。
それに見慣れた制服ではなく、カジュアルな私服姿だったせいもあって、僕は今の今まで、彼女が隣あわせていたことに、まるで気がついてなかった。
彼女は、にっこり微笑むと、
「良かったぁ。人違いだったら、どうしようかなぁって…」
考えてみたら、僕が彼女とあいさつ以外に、まともに言葉を交わしたのは、これが初めてだった…。
「…それでねぇ」
翌日、僕は、休み時間に教室で、友だち同士で愉しげに話している彼女を、ぼんやりと見ていた。
「お前! 昨日、あれからどうしたんだよぉ!」
向き直った正面には、昨日、一緒に映画を観に行った友だちの不機嫌そうな顔があった。
あまりの来場客数に、急に劇場が変わったり、整然と並んだ行列が崩れて、我先に館内に殺到し出したりする混乱の、彼とは上映前にはぐれてしまっていたのだ。
「いや…。別に。終わってから売店でパンフやポスター買ってたりしてたけど。あ、お前こそ、どうしたんだよ!?」
「お前が出てくるのを、ずっと入り口で待っててやったさ」
「……。何分?」
「3分」
「バ〜カ」
与太話をしながら、さり気なくもう一度、彼女の方を盗み見る。
互いの眼が合い、僕はあわてて視線をそらす。
一瞬、彼女は昨日と変わらない屈託のない笑顔を、僕に見せてくれた。
「今日のミーティングは中止だ」
読んでいる雑誌から顔を上げないまま、部長はひと言、三々五々集まり始めた部員に告げる。
ミーティングと云っても、放課後に部室に集まって、ダベっているだけだったが、秋口の文化祭での16ミリ映画上映会以外、活動内容が不明瞭なウチの映画研究部にとって、それなりに重要な行事だった。
特にそれが月曜日ともなれば、尚更だった。週末に観た映画の話題で持ちきりになるからだ。
だから、普段は顔を出さない部員も、月曜だけは部室に集まってくる。
釈然としない空気が部室に淀み始めたころ、しかたがなさそうに部長は、重い口を開いた。
「俺はなぁ。…よんどころない事情で、まだ観に行ってないんだ! だから、ミーティングは来週まで中止だぁ!」
そう云うことか。
自分が観ていない映画の話しをされるほど、腹が立つことはない。
「まぁ、よんどころない事情じゃあしょうがないよなぁ」
ニヤニヤしながら、僕らと部長のやり取りを見ていた3年の先輩が、意味ありげに呟いた。
「な、何だよ!?」
「別に〜。いやぁ、昨日、駅前で歩いているお前ら、見ちまってさぁ」
”お前ら”の”ら”の部分を強調され、部長の顔が一気に赤くなる。
「あ、てめ…」
「まぁ、デートじゃなぁ」
部長が制止するよりも早く、その先輩はからかい気味に部室にいる全員に聴こえるように叫ぶ。
「え〜!!」
一斉に部員の声があがり、3年生の間からは野次が飛んだ。
「とにかく中止ったら中止だぁ。お前ら! もう帰れ!」
運動部ほど上下関係がはっきりしているわけではないが、2年や1年の部員が、部長をからかいのネタに出来るはずもない。
「じゃ、失礼しま〜す!」
しかたがなく、下級生の僕らは、まだ熱気覚めやらない部室を後にした。
特に予定がある訳でもない僕は、どうしたものかと考えあぐねつ、廊下をぶらぶら歩いた。本屋に寄ろうにも、今月分の小遣いは、昨日のうちに大半が消えてしまっていた。
本か…。
ありがちで短絡的な連想が働いた僕は、踵を返すと校舎の2Fへと向かった。
2.Childhood's End
放課後の図書館は、相変わらず閑散としていた。
帰宅部の連中はとっくに帰ったあとだったし、部活のある奴らは顔を出すはずもなかった。
期末試験にはまだ少し早かったから、勉強してる奴もいない。
僕は、少しでも涼しげな風の入ってきそうな窓際の閲覧机にカバンを置くと、本棚へ向かった。
何か興味を惹きそうな本はないかと物色しているうちに、ふと窓際の掲示板に気がついた。
30枚くらいのハガキサイズのカードが整然と並んで貼られている。
近寄って見てみると、それは”本のおススメ”だった。
1枚1枚が手書きで、本のタイトルと作者の名前、出版社名までが書いてあり、簡単な書評までついていた。
文芸部の部員たちが手分けして書いたものらしい。
妙に硬い文章で書いてあったり、イラスト入りのものまであったりする。
退屈しのぎになりそうだった。
「あ、クラーク」
知っている作家の名前を見つけ、足を留める。
「”地球…幼年期の終わり”?」
知らない本だった。
出版社は、創元か…。
なるほど、知らないはずだ。
「それ、私が書いたんだよ」
背後から急に声を掛けられ、僕はちょっと驚いて振り向いた。
笑顔を浮かべた彼女が立っていた。
「クラーク、好きなの?」
「うん。だけど、これは読んだことない」
「えぇ! 何で? 代表作なのにぃ」
「ハヤカワの文庫で出てる奴しか読んでないから…」
こんな簡単な説明で彼女は判るだろうか?
「あ、そうなんだ。でも、これは読んでみると面白いよ」
「ふ〜ん」
通じたようだった。何となく、それが嬉しい。
彼女も、自分が書いたおススメを読んで、その本に興味を示す奴が現れたことに、嬉しそうに笑っているように見えた。
「これ、返すよ」
このことがきっかけで、僕と彼女は、お互い、自分が持っている本を貸し借りするようになった。
いくら興味があったところで、映画だ、本だと、中学生の僕たちにには、全部に手が出せるはずもない。
古本屋を回る手段もあったが、これはこれで手軽な方法でもあった。
「どうだった?」
「う〜ん。期末前に借りるんじゃなかった…って云う感じかなぁ」
図書室の閲覧机に向かい合って座りながら、僕はカバンから取り出した”地球幼年期の終わり”を彼女に手渡す。
試験の結果を、本に責任を押しつけても仕方がない。どうせ、本を読んでいない時は、深夜放送のラジオを聴き耽り、ひたすら、笑いこけてたのだから。
「やっぱり、イギリス人やアメリカ人にとっては、カレルレンの姿って衝撃的だったんだろうか?」
「多分、そうなんじゃないかなぁ。海外のSFって、そう云うテーマが多いみたいだし」
批評とは、とても呼べない他愛ないやり取りだった。
でも、ジュブナイル小説を卒業し始めた僕たちにとって、文庫で続々と出版され始めた海外のSF小説は”格好の遊び場”だった。
僕のきっかけは映画の原作本だった。
だから、ハヤカワなのだ。
彼女のきっかけは6歳上のお兄さんの影響なのだそうだ。
訊けば、お兄さんの部屋には、壁一面の本棚にハードカバーまで揃っているらしい。一人っ子の僕には、まったく羨ましい話しだ。
僕が持っているハードカバーの翻訳物と云ったら、映画の原作本が、3、4冊くらいのものだった。
そして、その数少ない僕の”蔵書”のうちの一冊が、彼女の手許に置かれている。
今月の初めに”一緒に観た”映画の小説版だ。
もうすっかりお馴染になった宇宙船が飛び交う表紙の方より、その上に置かれた彼女の細い指先の方を、僕は何とはなしに見つめていた。
「で? そっちは?」
視線を上げ、やっぱりお馴染になりつつある彼女の笑顔を見る。
「うん。面白かったよ。あとがきにもあったけど、ビッグスの出てくるシーンってもっとあったんだねぇ」
「映画だと、ちょっといきなりだもんなぁ。何だよ、知り合いなのかよ? みたいな…」
「そう云えば、この翻訳の人もよく名前見るよねぇ」
「あ、何かね。TVの”ポンキッキ”作ってる人らしいよ」
「”およげ!たいやきくん”の!? 私、レコード持ってるよぉ」
「ウチにもあるよ。あ、それで思い出した。この前、レコード屋でサントラ盤探してて”たいやきくんの人”がこれのテーマソングを日本語で唄ってる奴、見つけちゃったよ」
「えぇ! ちょっと想像つかない!」
「俺も…」
話しは行きつ戻りつし、時には脱線したまま、あらぬ方向へ行ったりもした。
けれど、僕にはなんとなくではあったけど、彼女との取りとめもない会話をする時間そのものが愉しかったのだ。
期末試験も終わり、もうすぐ夏休みがやって来る。
セミの声が、校庭の並木の方から聴こえていた…。
3.Slaughterhouse-Five or The Children's Crusade
「え? ほんと? "屠殺場5号”あったの?」
「うん…。私は読んでないけど、お兄ちゃんの本棚にあったよ」
”屠殺場5号”。
少なくとも、中学2年生の男女が、一学期の終業式が終わったお昼前、閑散とした校舎の下足置き場で口にするには、あまりにも不似合いな言葉だった。
でも、その映画化作品”スローターハウス5”は、僕にとっては、特別な思い入れがある映画だった。
たった一度きり、偶然入った名画座の併映上映で観ただけ。
めぐまるしく過去と現在と未来が錯綜する不思議な映画だった。
もちろん、その時は、何が何だか判らない印象の方が強かったが、それでも僕が”映画”にハマるきっかけとなるには充分だった。
印象的なタイトルだけを手掛かりに、古本屋を廻り、公開当時のパンフレットを見つけた時には、その場で飛び上がらんばかりの感動だった。
監督は、ジョージ・ロイ・ヒル。
”スティング”の人か。
そんな風に自分の中でバラバラになったパズルの断片が繋がっていく快感を覚えたのも、この映画が初めてだった。
”編集”と云う作業によって、あの不思議な映像感覚が作られていたことも知った。
映画の話しなら、部活でも出来たが、”スローターハウス5”は、監督が有名であるにも関わらず、少なくとも僕の周囲では全く知られていない作品だった。
文化祭で上映しましょう!とミーティングで提案し、即却下された。
先輩たちですら、監督の作品リストでタイトルを見かけた程度。
ましてや、その原作ともなると情報はまるで手に入らなかった。
古本屋や街の図書館を探してもなかなか見つからない。
僕にとっては”幻の本”だった。
所詮は、ローカルな街に住む一中学生の限界とばかりに、僕はすっかり諦めていた矢先の出来事だった。
3日前の放課後の図書室。
僕と彼女は、この夏休みのあいだに、お互いの手持ちの本のリストを作って来ると云う”宿題”で盛り上がっていた。
その方が貸し借りもしやすいし、ダブって持っている本があれば、共通の話題もふくらむ。
とは云え、僕の方は大した作業ではないが、彼女の方は大変そうだった。
何しろ、彼女のお兄さんの蔵書は膨大なのだ。
いつもの笑顔で「大丈夫」と云ってはくれるものの、こちらも申し訳ないと思ってしまう。
「じゃあ、こうしよう」
僕は、カバンからレポート用紙を取り出し、シャープペンで作家の名前を思いつくままに書き出した。
「取り敢えず、僕が興味がある作家を書いてみるよ」
興味深そうに机越しに覗き込む彼女の顔が、思ったより間近にあって、ちょっとドキリとした。
さりげない髪を搔き上げる仕草にも、思わず眼が泳いでしまう。
彼女に気取られまいとして、僕はリストを作ることに集中した。
そして最後に、ふと、無理だろうなぁと思いながらも”屠殺場5号”の原作者”カート・ボネガット・Jr”の名前も書き加えた。
で、彼女は僕が手渡した作家の名前を辿り、自宅の本棚から”屠殺場5号”を見つけ出したと云う訳だ。
もちろん、まだ”宿題”は出来上がってはいない。
ただ、昨夜、彼女は軽い気持ちで、作家リストと本棚をざっと見比べてみただけだったらしい。
思わぬところで思わぬものが見つかってしまった。
「ねぇ。ちょっと大丈夫?」
固まってしまった僕の顔を怪訝そうに覗き込みながら、彼女が呟く。
しかし、その時の僕は、まさに”ビリー・ピルグリム”だった。
4.Straanger in a Strange Land
何だか妙に落ち着かない気分だった。
座布団代わりに出されたクッションの上に正座しながら、彼女が戻って来るのを待つ。
成り行きと云うよりも、勢いで”ここまで”来てしまったが、彼女は迷惑に思っていないのだろうか?
キチンと整理整頓された部屋をグルリと見渡す。
向う正面の壁際に置かれた整理タンスの上にちょこんと座っているクマの縫いぐるみと眼が合った。
とたんに僕は、今、女の子の部屋にいるんだと云う現実に気がついた。
そんな戸惑いを知ってか知らずか、窓際に置かれた扇風機が、呑気に首を振っている。
その動きに合わせて、自然に僕の身体も揺れた。
いったい、何をやっているんだ?
僕は?
自分でもよく判らなかった。
その時、ドアが開き、お盆を持った彼女が戻って来た。
「お待たせしましたぁ」
部屋の中央に置かれた小さなガラステーブルの横に座り、僕の前にジュースの入ったコップを置く。
「ごめんね。オレンジジュースくらいしかなくて。アイスコーヒーとかの方が良かったかなぁ?」
図書室では閲覧机をはさんだ向かい側の席に座っていた彼女が、今は右斜め前、それもすぐそばに座っている。
「あ、いや。お構いなく…」
妙にしゃちほこばった僕の口調が可笑しかったのか、彼女はクスクスと笑う。
薄いピンク色のTシャツに水色のカラージーンズ姿の彼女を横目に見ながら、僕はテーブルの上に置かれたコップに手を伸ばした。
この際、オレンジジュースだろうとアイスコーヒーだろうと関係なかった。
暑さのせいばかりではなく、僕はさっきから喉がカラカラに乾いていたし。
ゴクゴクと一気に飲み干し、やっとひと息ついた。
そのあまりに無遠慮な僕の行動を、ポカンとした表情で一部始終見ていた彼女は、また、クスクスと笑い出した。
「お替わり、持って来るね?」
彼女はそう云って立ち上がると、再び階下へと消えた。
まったく…。
僕は、本当に何をしているのだろう?
要するに僕は、2学期が始まるまで待ちきれなかったのだ。
下足置き場で固まってしまった僕を見かねた様子の彼女が尋ねる。
「…だったら、ウチへ取りに来る?」
「え?」
「その本…。今日は買い物があるからちょっと無理だけど。明日なら」
そうだった。
僕は、彼女の家に”屠殺場5号”を借りに来たんだった。
僕は、いろいろなことを愉しげに話す彼女を見つめながら、2杯目のジュースを飲んだ。
コップの中の氷が少し溶け、カラリと相槌を打つ。
「あ、何か、私ばっかり喋ってる。ごめんね」
「え? あ、いや…。そんなことないよ」
学校では気楽に話せるのに。
実際、今日の僕は、上手く会話が出来ないもどかしさを感じていた。
何気なく視線を落とした先に”ジョナサンと宇宙クジラ”が置いてあった。
一昨日、僕が貸した本だ。
閉じられた頁の後半辺りに、ピンクのリボンがついた栞が挟んである。
途切れかけた会話の続きを見つけたような気がした。
「これ、どう?」
「あ? うん。結構、好き…」
彼女は、腕を伸ばし本を手に取ると、ちょっとうつむき加減に呟いた。
「…でも、ちょっと切ないかな?」
窓辺に吊るされた風鈴が、気まぐれな夏の風に揺られ、チリンと鳴った。
しばらくして、階下で物音がして、やがて階段を軽快に上がって来る足音が聞こえて来た。
「あ、お兄ちゃん帰って来たみたい」
ドアと僕を交互に見たあと、彼女は座っていた床から腰を浮かせ、僕を促した。
「行ってみる?」
何て云ったら良いのか?
その本棚は、まさに宝の山だった。ほとんど天井までくっつきそうなほどの高さ、部屋の端から端までが、文字通り、あらゆる本で埋まっていた。
でも、キチンと作家別に整理してあって、目当ての本を探し出すのも実に簡単だった。
「いや、でも。中学生で”ヴォネガット”なんて云うから、どんな奴かと思ったよ」
ひたすら、本に圧倒されて立ち尽くしている僕の背後で、彼女のお兄さんが笑う。
「どんな奴って、失礼じゃない?」
「別にからかっている訳じゃないよ。僕も最初に読んだのは、このくらいの歳だったかなぁ?」
「え? そうなんですか?」
共感めいたものが、僕を振り向かせた。お兄さんは、反対向きに腰掛けた椅子の背もたれに両手を置いて、にこやかに笑う。
「ハインラインも好きなんだって?」
「あ、はい。”宇宙の孤児”とか。まだ、そんな、あんまり読んでないですけど」
「ヴォネガットがいけるんなら”異星の客”も面白いんじゃないかな? そこの棚の…。そう。その左から5番目」
薦められるまま、文庫にしてはやけに分厚い本を棚から取り出し、ぱらぱらと頁をめくってみる。
僕の知らないハインラインがそこにいた…。
その日、僕は”屠殺場5号”と”異星の客”を借りて、わくわくしながら、家路に着いた。
もちろん、”屠殺場5号”が借りられた嬉しさもあったけど、彼女のお兄さんとの話しが興味深いものだったせいもある。
僕と彼女がふたりして、一生懸命に背伸びをしてみても、ついていけない話題もあった。
けれども、それでも対等に話しをして貰えたような気がして、そのことが何よりも嬉しかったのかもしれない。
「私も読んでみたんだけど…。あのね。気を悪くしないでね。私…あんまり好きになれなかったかも…」
ある日、彼女が遠慮がちに”屠殺場5号”の感想を漏らした。
結局、夏休みのあいだ、僕は借りた本を返しに行き、また別の本を借りて…と云うかたちで、度々、彼女の家を訪ねることとなった。
バイトがあるとかで、東京へ帰ってしまったお兄さんは、それでも僕たちが、本棚から自由に本を持ち出してもよいと云ってくれていた。
夏の盛りだと云うのに、部屋にこもって、おのおの本を読み耽っている僕たちを、窓辺の扇風機がいつものように首を振りながら、呆れたように眺めている。
僕は読みかけの”ソラリスの陽のもとに”から眼をあげて、彼女の感想の続きを促した。
「どう云ったら良いのかなぁ。主人公に感情移入出来ないって云うかぁ…」
「そうかなぁ? それはヴォネガットが一歩引いた冷静な視点から描いているからじゃ?」
「そう云うことじゃないのよ。多分…」
彼女は、少しだけ首を傾げながら、思案顔で云った。
「そう…。多分、私がビリーを許せないんだと思う」
5.Rite of Passage
「なぁ。お前らって、ひょっとして付き合ってんの?」
2学期が始まってから、まだそんなに経ってないある日。
いつもと変わらない休み時間の教室。
いつものように、互いに莫迦話しをしていた友だちの唐突なひと言が、始まりで終わりだった。
「は? 何、云ってんの? お前?」
「いや、だってさぁ。よく図書室とかで、ふたりで話しとかしてるじゃん?」
「別にそんなんじゃねぇよ。ただ、本の趣味が一緒なだけで…」
「え? そうなの? 俺はまたてっきり…」
「違うよ! 別に付き合ったりなんかしてねぇよ!」
ほんの少し、僕の声は大きかったかも知れない。
視界の端で、彼女が一瞬、驚いたような表情でこちらを振り向いた。
どこか傷ついた瞳で、僕を見つめているように思えたのは、気のせいだろうか?
それから僕と彼女は、文化祭が近づいていたせいもあって、お互いの部活に時間を取られ、次第に話しをすることもなくなっていった。
文化祭当日。
上映当番になった僕は、暗幕の貼られた教室の後ろの壁にもたれかかりながら”今年の映画”をぼんやりと観ていた。
気がつくと、隣に並ぶようにして、彼女が佇んでいた。
僕と同じように壁にもたれて、正面のスクリーンを黙って観ている。
彼女は最後まで僕を見なかった。
冬休み。
年が明け、初詣にも新春ロードショーにも行かず、何となく暇を持て余した僕は、近所の本屋を物色しに出掛けた。
入り口近くの新刊コーナーには、諸般の事情で改題された上で文庫化された”スローターハウス5”が平積みになっていた。
ちょっと手を伸ばしかけたが、その日は既刊本の棚をぐるりと見て回り、意味もなく”成長の儀式”を買って、店を出た。
初売りの喧騒の中を歩きながら、ふと低く垂れ込めた鉛色の空を見上げる。
こう云う時、映画のラストだと雪でも降り始めるもんなんだけどな。
でも、家に帰る道すがら、そんな”絵空事”は何も起こらなかった。
そう云うものだ。