地下渓谷の決戦
《……対象者の魂の昇華を確認。
円環世界システム……起動。
対象者の世界座標特定……成功。
神眼世界人族と判定。
新規神族の登録手続き……完了。
稼働率測定中……稼働率0.6%で安定》
白。
ワールグラン鉱を噛み砕いた途端、アーロの思考は真っ白な光に埋め尽くされていた。
そこは例えるならば、真っ白な海。
情報の奔流に満たされた大海であった。
《円環世界霊的記憶庫へのアクセス試行……失敗。
現在の権限ではアクセスが許可されていません》
その白い海の中では、自分の身体でさえ知覚することが難しい。自身という存在が世界という大きな大きな水、海に溶け込んでしまったかのような、不定形の存在となってしまったかのような感覚。
大海にたゆたう、ちっぽけな存在。自身の思考を知覚し、アーロはぼんやりと眼を開けた。
《神眼世界霊的記憶庫へのアクセスに切り替え。
アクセス試行……失敗。
原因の解析……完了。
経路の変更。
魂の浄化処理実行。
断片化された旧神格排除を実行。
再度のアクセス試行……部分的に成功。
神眼世界霊的記憶庫への限定的な接続を確認》
視界が徐々に晴れていき身体は感覚を取り戻す。
水に浸った身体を起こすようにして、アーロは身体に、四肢に力を込めた。
首、胸、腕、拳。指の先まで。
腹、股、脚、足。つま先まで。
じっくりと時間をかけて、アーロは己の身体を認識した。
《管理者よりメッセージを受領。
『素晴らしい。愛しき我が子よ』
添付ファイルを解凍します……。
認証コード『アマデウス』取得》
思考は晴れ、情報の海の中で肉体を形作る。
今までのちっぽけな自分とは違う。力強く、大いなる存在となったことの証明。身体の奥底から力が湧いてくる感覚。
息を吸い、吐く。拳を握り、開く。
脚を開き、腰を落とす。
眼を見開き、前を見据える。その手に握る大剣の感触が甦る。
身に纏う装備。首元と胸元、股に着けた短剣から伝わる暖かな熱。手にした大剣の脈動を感じる。
《新規神族の認証完了。
電子精霊のサポートを開始します。
状況判断……。
思考しています……。
神眼世界霊的記憶庫に限定アクセス。
武神戦闘機動の模倣開始……。
再現率5%……10%……》
身体に渦巻く力が、形を変える。
身体の中心、心臓から送り出された血液が末端へ届くように。降った雨が大地に染み込むかのように。涌き出た力が身体へと染み渡っていく。
全能感。今の自分ならば何者にも負けないという確かな自身が身体に迸っている。
《警告。
個人記憶庫の容量が不足しております。
警告。
高負荷による神体への悪影響が懸念されます。
この問題の解決には管理者への問い合わせを実行してください。
繰り返します。この問題の解決には管理者への問い合わせを実行してください。
繰り返します……》
そんな全能感に浸る感慨深さも、無粋な警告音に遮られる。
気分を害されたアーロは強い苛立ちを覚えた。
「──黙れ」
アーロの視界を埋め尽くすのは、白い海ではない。それは情報の奔流であった。文字でもあり言葉でもあるがまるで意味不明なそれを、アーロは鬱陶しそうに頭を振って視界から散らした。
無粋な警告音は消え去り、そして……。
「ハッハァー!」
アーロは笑った。
しかし笑った本人にさえ、なぜ笑ったのか理解が及ばなかった。だが彼が確かに感じていたのは、幸福であった。
これが多幸感か。この世のものとは思えぬ快楽と悦楽か。世界の真理、成り立ちに限定的ながら触れたことへの幸福がアーロの神経回路を埋め尽くしていた。
できる、殺れる、自分は勝てる。
根拠は全く無いが、アーロは口角を吊り上げた。
身体に渦巻く力は際限がないかのように力強く湧き、己を鼓舞していた。
「ハハハハッ! アガハァッ!」
しかし口角を吊り上げつつ、アーロは高らかに笑いながら身を折った。
身体中に激痛が走り、視界に火花が散る。
ミチミチと、ギチギチと身体が鳴っている。
肉体が、魂が、心の奥底が作り変えられていく。全身全霊が悲鳴を上げている。
激痛に身をよじる彼の脳裏に無機質な声が響く。
《神体の脆弱性を確認。
神体の最適化を実行中……。
最適化を行っています……。
最適化を行っています……処理完了。
脆弱性の解消を確認。
武神戦闘機動の適応開始……。
適応完了。再現率13%で安定。
本ソフトウェアの更新、再設定を行う場合は電子精霊のヘルプを参照してください》
《状況判断……。
思考しています……。
周囲に脅威を確認。直ちに戦闘行動に移ります。
電子精霊による戦闘機動のバックアップを開始します。
接近警報!》
脳裏に甲高い音が響き渡り、身を折ったアーロは顔を上げた。
『ガアアァァァッ!』
視界いっぱいに広がる黒蛇神の巨体が迫っていた。玉座のごとき高台で身を縮め、打ち出すようにして頭部を伸ばしたのだ。ギラリと照る牙が並んだ大口が開かれる。
身体の痛みは既に止まり、機敏に動いた。アーロはすぐさま脚に力を込め、身を投げるようにして横へ跳んだ。
「愛のスカーフ!」
《闘装の起動。飛翔補助を実行します》
闘装を起動し、背に追い風を受けて翔ぶ。
鋭く突き出された大蛇神の大顎は獲物を捉える事なく、岩壁に突き刺さった。
一撃を避けたアーロ。着地の際には勢い余ってつんのめりそうになり、靴先で岩肌を抉りながらなんとか堪えて体勢を整える。
自分の身体であるのに、自分のものではないような動きにくさ。否、反応が良すぎて動きが制御できない。思考と動作の齟齬、違和感に眼を細めた。
「ハハハァッ!」
だがその口から漏れるのは疑問ではなく、悦楽の混ざった笑いであった。
体勢を立て直し、手にした大剣を、神を殺すための大剣を正眼に構える。
「よくわからんがいい気分だぞ! 黒蛇神!」
『貴ッ様ァッ!』
「アーロ・アマデウスだァッ!」
叫び、力強く踏み込み、跳躍。
身体を浮かせる妖精の外套により、彼は体重を感じさせないかのように鋭く跳ぶ。その身を銀色の煌めきが包み込む。
「愛のスカーファッ!」
跳躍した身体を、風が押す。
一迅の風、矢のように飛翔したアーロは空中で身体を捻り、全身をしならせるようにして大剣を振りかぶり、伸びきった黒蛇神の胴体へと叩きつける。
想い描いた剣の軌跡を完璧に再現する。否、身体全体の使い方は、想い描いた動き以上であった。
「おおぉぉぉっ!」
鱗を断ち割る硬質な音。
飛び散る血飛沫は、黒い。
今度こそアーロの刃は弾かれる事なく黒蛇神の黒鱗を割り、肉を裂いた。鋼鉄製の片手斧で感じた抵抗は無く、そうあるべき事が当然のように殺神大剣は神の身を断つ。
銀の輝きを纏った殺神大剣は半ばまで胴体に埋まり……しかし骨まで到達することはなかった。
「守りの力ァ!」
アーロはだめ押しとばかりに身に纏っていた銀光を大剣に伝わせる。稲妻のように迸った銀光が爆発し、鱗を剥がし肉を撒き散らす。
『ガァァァッ!』
背を裂かれた黒蛇神は怒声をあげる。ガラガラと岩がぶつかり擦れるような音を喉から響かせ、伸びきった胴体を縮め、のたうった。
その身を守ろうと振り回される鞭のような尾が迫り、すぐさまアーロは胴体を蹴る。埋まった大剣を勢いに任せて引き抜き、跳躍。鞭尾をかわす。
「妖精の短剣!」
《闘装の起動。自律攻撃を開始します》
アーロは叫ぶ。声に呼応して一筋の銀閃が翔ぶ。
投げつけ、岩蛇を貫いていた妖精の短剣の一本が、暗闇を切り裂いてアーロの手元へと戻る。
空中で身を捻り、左手で投擲。地に足着くまでに都合四度。妖精の短剣を引き抜き投擲する。
飛翔した妖精の短剣はアーロが割った背、その傷口へと狙い違わず突き刺さり、肉へと潜り込み内部を抉った。
短剣は悪戯好きの妖精のように縦横無尽に蛇神の体内を飛び周り、筋肉繊維を強引に引き裂いて暴れまわった。
『ゴ、アァァッ!』
黒蛇神の再度の怒声が地下に響き渡る。
それは痛みによる悲鳴ではなく、怒りと苛立ちを孕んだ絶叫であった。
「来いっ!」
声に呼応し、妖精の短剣は蛇神の体内を引き裂きながら皮を裂き、鱗を割って飛び出した。
四本の短剣はふわりと宙に浮く。ひらひらと舞うようにしてアーロの周囲に侍る。
──持ち主の手元に戻り、ある程度自律して飛翔する投擲武器。それが闘装、妖精の短剣であった。
アーロは妖精の短剣を侍らせ殺神大剣を構える。
予想はしていたが、黒蛇神の鱗は硬質であった。一撃で胴体を切り離すべく放った剣撃は肉を裂くに留まった。渾身の一撃は確かに鱗を割り肉を裂き傷を負わせたが、致命的な損傷を与えなかった。
背を割られてなお黒蛇神は痛みに怒りを煮やしただけで健在であった。
不意の一撃だ。傷を受けた相手は油断もせず、より警戒する。初手で殺し切れなかった。
ということは、もう一度、相手の命と自分の命を賭けた大勝負が必要となる。
故に、彼は誇ることも驕ることもせず、ただ剣を構えた。
《戦闘機動の誤差修正……最適化が完了しました》
「……」
《演算バックアップ状況を報告しますか?》
「いらん」
《拒否を確認。報告を継続しますか?》
「いらん!」
脳裏には相変わらず無機質な声が響いていたが、拒否して意識の外へと追いやる。今は些細な出来事が集中を見出し、死に繋がる。気になることは山ほどあったが、全て消し去り敵を見据える。
しかし、自然と口角が吊り上げることは抑えられなかった。楽しかった。
強敵との戦いが、神との闘いが、自らの力を遺憾なく発揮して挑む命のやり取りが。気を抜けば笑い出しそうであり、彼はなんとか笑みを噛み潰した。
構え直せば、黒蛇神はちょうど体勢を立て直したところであった。その身からは鈍色の神秘、闘気とも称するべき神秘を立ち上らせ、縦に裂けた紅色の六眼は全て怒りに燃え、アーロを確かに見据えていた。
『貴様、名をアーロと言ったな』
「ああ。やっと覚えたか」
『覚えたぞ、覚えたとも。異世界の戦士アーロ・アマデウスよ。貴様も忘れるでない。我は黒蛇神ディグニカ。世界を喰らう蛇』
「へぇ……」
にまり、とアーロは頬を吊り上げる。
抑えていた笑いが漏れてしまった。そして、我慢してもどうにもならないと感じ、存分に笑った。
相手と自分。この戦場には二者しか存在しない。
守るための戦い。戦士としてアーロは挑んだ。
喰らうための戦い。神として黒蛇神は受けた。
相手を敵と定め、それを認める。
種族も、立場も、一切合切の関係なく。この戦場において、アーロ・アマデウスと黒蛇神ディグニカは対等であると宣言されたのだ。
「格好いいじゃねぇか! 黒蛇神!」
ならば戦士として全力で挑み。
全力を以って叩き潰すのみ。
「おおおぉぉぉっ!」
アーロは殺神大剣を腰だめに構え走り出す。
ディグニカもまた巨体を揺らし、距離を詰める。
『シャアァァッ!』
威嚇のような鋭い呼気。だが、ただの声ではなく神秘を纏った圧力だ。アーロの耳、身体に伝わった音は身体の動きを鈍らせようとする。
一瞬で身体が重くなり、脚がもつれそうになる。アーロは気を張り、身体から淡い銀の煌めきを発して圧力を吹き飛ばす。
間を開けず蛇特有の横ばい移動を行う黒蛇神から、胴体と尾による凪ぎ払うような一撃が繰り出される。
跳んで避け、すれ違い様に身体の回転を加えた一撃。黒蛇神の胴部分を浅く切り裂く。
しかし宙に飛んだところを狙って振るわれる鞭尾を避けきれなかった。盾のようにかざした大剣ごと叩き落とされる。
窪みが生じるほどの衝撃と共にごつごつとした岩肌に叩きつけられたアーロだが、以前のように傷を負ってはいなかった。
頭を振って砕けた岩を飛ばし、顔を上げたところに、追撃。動きが止まったアーロを潰さんと、杭打ちのように黒蛇神の尾が振るわれる。一度、二度、三度。
「ぬ、ぐ、お……!」
再度盾のように大剣をかざし、アーロは衝撃に耐える。一撃一撃が重く、身体が押し潰されるような衝撃に膝や肘の間接が耐え難く震え、ぎちぎちと身体が悲鳴を上げる。
いつまでも打たれるわけにはいかなかった。
《状況判断。守りの力の出力調整。回避機動を行います》
アーロは身体に銀色の輝き纏わせ、殺神大剣の腹に手を添えて押し、四度めの叩きつけを弾き返す。
すかさず横へ飛び、窮地を脱する。
急な動きにもついてきた妖精の短剣一本を手に取り、投擲。
投げ放った銀閃は黒蛇神の紅色の六眼の一つに突き刺さり錐のように回転し、ずたずたに引き裂いて眼を潰した。
痛みに眼を細めた黒蛇神は頭を振り、潰された眼の瞼を強く閉じる。
アーロが短剣を手元に戻そうとしたが、反応が無い。どうやら妖精の短剣は眼の損壊と引き換えに推力を失い絡め取られたようだった。
上出来だ、とアーロは判断する。
異世界由来の物質でなければ、黒蛇神へ傷を与えられない。しかし鋼鉄製の片手斧は神眼世界の鉄を使った良質な武器であったが、容易に弾かれ無力化された。妖精の短剣は小さな刃備えであるが、確かに威力を発揮した。
ではこの違いは何か。
答えは闘装。神秘を内包する武器であった。
多大なる神秘を内包する存在に対抗するには、神秘を纏った存在でなければいけない。
眼には眼を。毒には毒を。神秘には神秘を。
そうアーロは理解していた。
ならば神秘を喰らい力を得た自分の肉体と、己の手の内にある多大な神秘を内包する剣。これを以って神を殺すべし。
眼を潰された事で警戒したのか、黒蛇神はしゅるしゅると舌を出し入れしながら様子を窺っている。
殺神大剣を握り直し、これ幸いとアーロは敵を観察する。戦闘の基本は対象の観察である。これができない三流に、強敵は殺せない。
生物の頭蓋骨というものは恐ろしく硬い。蛇だろうが神だろうがそれは同じだろう。眼を狙った短剣の投擲も脳までは貫通しなかった。しかし殺神大剣により背の鱗は断ち割ることができた。腹側の皮はより柔らかいだろう。
《パターン試行。敗北。再試行。
パターン試行。敗北。再試行。
パターン試行。敗北。再試行》
突きにより眼から脳を破壊。しかし脳を壊したところで神が止まる保証はない。
山岳世界の二級神ワールグランズは身体を千々に別たれてもなお生きているという。その心臓さえ無事ならば、神は生きているのだ。ならば世界を喰らう蛇、黒蛇神ディグニカも同様ではないか。
では弱点はどこか。アーロは思考を回す。この山岳世界の成り立ちを。アビゲイルから教えられた神話の神とその逸話を。
この世界の鍵は神の身体、そして心臓だ。
殺しきるには。神を屠るには。
狙うべきは腹、そして心臓。そう定まった。
《パターン試行。敗北。再試行。
パターン試行。敗北。再試行。
パターン試行。敗北。再試行》
では如何にして奴の心臓に牙を突き立てるか。
不用意に懐へ入れば巨体で押し潰される可能性がある。相討ちでは意味がない。殺しきらねば。
正面から向かえば硬い頭蓋と鋭い牙が立ち塞がる。睨みを効かせている残り五つの眼は視界が広いのだろうか、もしかしたら獲物の動きをよく捉えるのかもしれない。
しからば後ろから。狙うべき心臓は遠く、死角から鞭のように振るわれる尾の威力は身をもって味わったばかりだ。
観察と推測。思考と試行を止めどなく繰り返す。
戦闘においては無防備にあたる思考時間。
しかしアーロの感覚は研ぎ澄まされ、情報を大量に処理をし続けて思考する。その間には微かにも黒蛇神は動いていなかった。
《パターン試行。敗北。再試行。
パターン試行。敗北。再試行。
パターン試行。敗北。再試行。
パターン試行。……最適な経路を選択します》
アーロの脳裏に一筋の光明が見え、彼はにやりと笑った。
「おぉぉぉぉ!」
《守りの力の出力調整。機動力の向上を行います》
アーロは吠えた。
己の内に満ちる力を引き出すには、吠えるのが最適であった。意思を示せば身体は応える。叫び力を籠めるならば、より強く。身体に溢れた銀光は脚にまとわりつき、輝きを増す。
「愛のスカーフッ!」
《飛行補助を開始。飛行パターンを割り出します》
再度吠え、アーロは跳躍した。
両足に銀光を纏った彼が踏み込む力はより強く。
踏み込んだ脚が岩を砕き、飛ぶ姿は流星の如く。より速く、より鋭く。
『一つ覚えか!』
嘲笑うような一喝と共に振るわれる鞭尾。
既に何度も見せている手の内だ。読まれていた。
飛翔する軌道に添い合わせるように迫る尾。
避けようとするが飛び出した速度が乗り、急には軌道を変えられない。
黒蛇神の尾が身体を捉え、弾かれたアーロは地下渓谷の地面へと強かに叩きつけられた。
「チッ……」
瓦礫を押し退けて立ち上がったアーロの額から、赤黒い血が垂れる。打撃による損傷か、彼の額が割れていた。
しかし痛みがはしったのは一瞬。手で拭う暇もないため頭を振るい垂れた血を飛ばすと、既に傷は塞がっていた。
《神体の損傷を確認。治癒を開始します》
アーロの割れた額に熱が走る。彼は感じる、肉が盛り上がったような感覚。
自然治癒の促進か、無理矢理に血を止めているのか。とにかく傷は塞がった。神の体とやらは傷をものともしないらしい。
負傷した分にはありがたいと感じたが、相手も神だ。黒蛇神を注意深く見れば、アーロが断ち割った背の肉がミチミチと音を立てて盛り上がっているところであった。さすがに鱗の形成はされていないらしく、僅かに安堵する。
『大蛇神の威を借る……忌々しい輩よ』
「文句は鍛冶神へ言え」
言葉通り憎々しげに吐き捨てた黒蛇神に注意を払いながら、アーロは油断なく状況を精査する。
自身も相手も多少の傷などものともしない。
黒蛇神はやはり致命的な一撃を与えねば殺せない。幸い、潰した眼は再生する様子がない。徹底的に破壊すればいいのだ。
では己はどうか。懐に入り込もうと力を機動力に注いだ。その結果が負傷だ。しかし守りを固めたところで勝ちの眼は無かった。
思考と試行を繰り返した上で辿り着いた最高の一手。それを再現するためには、まだ速さが足らない。鋭さが足らない。
守りを捨て、攻めに回らねばならない。
《守りの力の出力調整。機動力の向上を行います》
アーロは響く音声を思考の端に追いやる。
もとより一挙一動をしくじれば塵芥の如く吹き散らされるだろう。今さら守りを固めたところで無駄であった。
大剣を油断なく構え、しかし観察を止めない。
二度。黒蛇神から振るわれたのは尾、どちらも尾だ。牙は一度だけ。眼を潰してからは様子を窺うように距離を取って迎え撃っている。
消極的だ、とアーロは感じた。
もちろんどれも、まともに受ければ無事ではすまない打撃であったが、そうではない。
黒蛇神は闘いによる消耗を嫌っている。
それもそうかと思い直す。
黒蛇神の目的はアーロを叩き潰すことではなく、この山岳世界を、神を喰らい尽くすことだ。その後は異世界へも食指を伸ばすだろう。
格下とはいえ、こんなところで無駄に闘い消耗することは避けたいのだろう。
ならば、そこにつけ入る隙があった。
しかし隙はあるが、打ち込む力が足りなかった。
「──もっとだ」
《肯定。武神戦闘機動の再現率向上……14%……15%。
警告。
高負荷による神体への悪影響が懸念されます。
これ以上の再現率向上は危険です》
腹に力を込めれば、燐光が噴き出す。
練り上げ、密度を増した燐光を腕に、肩に担いだ殺神大剣へと這わす。そして脚に纏う。
脚に力を込め、踏み出す。足元で燐光が弾け、アーロは稲妻のように駆け出す。
侍る短剣を左手で掴み、投擲。またもや眼を狙った投擲は、振るわれた尾に弾き散らされた。手元には残り二本。
「もっとだ!」
《肯定……武神戦闘機動の再現率向上……17%……18%。
警告。
神体への深刻な影響が懸念されます。中断を提案します》
「黙れッ!」
叫び、更に短剣を手繰り寄せ、投擲する。
燐光を纏った短剣は尻尾を避けてジグザグに翔び、黒蛇神へと迫る。
しかしそれでも一本は弾かれ、軌道を逸らされる。尾を掻い潜った一本は眼に突き刺さり、銀光が弾けて二つめの眼を潰した。痛みに頭を振るい、怨嗟の声を吐き出す黒蛇神。
「もっと力を寄越せ!」
《……肯定。武神戦闘機動の再現率向上……20%。
システム、負荷限界超過。危険です》
アーロの胸、心臓。身体の奥底から力が、燐光が湧き出す。煌めく燐光は腕に、脚に纏った燐光と合わさり、ついに銀色の炎を上げた。
熱は無いが、ちりちりと身を焦がす感覚。
不快感は無いが、揺らめく炎の燃料として、己の力が吸われていくようであった。
長くは身体が保たない。
しかし今までとは一線を凌駕する、確かな力であった。
「妖精の短剣!」
弾き散らされた妖精の短剣が手に戻り、一本を投擲。警戒されていたが、銀の炎を纏った妖精の短剣は複雑な軌道を描いて飛翔し、またも眼を刺し潰す。
地下を揺らす絶叫と共に怯む黒蛇神。
残り三眼に対して、短剣は一本。
投擲と眼を潰したその間にもアーロは距離を詰める。
薙ぐような尾と胴体の一撃を、跳躍してかわす。
尾も、胴体も、今は構わなかった。
「愛のスカーフッ!」
叫べば、力が湧いてくるようであった。
無防備な空中への跳躍も、背を押す風があれば更なる加速となり得る。
追い風を受けて着地。地を蹴り、跳ねる。跳ぶ。
銀の雷と化したアーロは一挙に距離を詰め、驚愕に口を開いた黒蛇神へ肉薄する。
目指すは伸びきった胴体。無防備な腹。
『シャアァァァッ!』
鎌首をもたげた黒蛇神は口を開き、鋭い呼気と共に牙の先から毒々しい黒色の霧を噴射した。
「風!」
《闘装を起動。防御膜を形成》
アーロは咄嗟に愛のスカーフを起動。
身を包み込むように生じた突風が、噴射された毒液を吹き飛ばす。
黒い液体は飛沫となって散らされ、付着した岩肌が臭気を上げて溶けていった。
毒液を吹き散らされた黒蛇神は残る三つ眼を見開いた。驚愕か、もしくは危機が迫った恐怖によるものかもしれない。
奥の手か、苦し紛れの一手か。どちらにせよ先の観察と実体験により、相手が岩蛇を祖とする限り何らかの毒液を用いることがアーロには分かっていた。
「おおぉぉっ──!」
アーロは大地を踏みしめ、蹴って前へ。攻撃を凌ぎ、彼は遂に懐へと入り込んだ。
尾は既に振るわれている。懐に入ったいま、鞭のようにしなる長い胴体も活かしようがない。もたげた首と頭は毒液を吐き出した体勢で固まっている。
行き掛けの駄賃とばかりに最後の妖精の短剣が飛翔。錐のように回転した短剣が四つめの眼へ突き刺さり、眼球内部を滅茶苦茶にかき回して暴散。眼を破壊した。
アーロを眼で追っていた黒蛇神だが、眼への攻撃により僅かに頭を引く。防御のためか瞼が閉じられる。視線が外れる。
「殺神──!」
その決定的な隙を、アーロは物にした。
「大剣!」
アーロは大剣の銘を叫ぶ。
激に呼応し、刀身が輝き脈動する。
燐光が迸り、腕から伝った銀色の炎が大剣を包み込み、神を殺すために造られた剣が真価を発揮せんと滾った。
アーロは殺神大剣を両手で握り、腕を引き絞る。
狙うは黒蛇神の心臓。刺突の構え。
「アァァァァッ!」
もはやアーロは意味のある言葉すら発していなかった。ただ力を引き出すための雄叫び。彼の声に応じて燐光が噴き出し燃え上がり、殺神大剣の刀身が更なる煌めきに包まれる。
脚に纏う燐光が地を踏みしめると同時に爆発。
燐粉を撒き散らし、背に風を受け飛翔したアーロの身をさながら削岩機のごとく回転させ、燃える銀の矢と化す。
殺神大剣の切っ先、そして刀身が深々と黒蛇神ディグニカの胸部へ突き込まれ──。
「守りの力ッ!」
迸る銀の燐炎が黒蛇神の内部で暴れ狂い、心臓、そして臓腑のことごとくを破壊し、アーロは黒蛇神の胸部を断ち割った。