黒蛇神との対話
アーロは意を決して、地下渓谷へと身を投げた。
切り立った岩壁から見る渓谷の底。溶岩が煮えたぎる赤色と熱を感じながら、彼は意思を込めて妖精の外套を起動させる。
宙を落下するその身を燐粉の煌めきが包み、浮遊した身体は谷底へふわりと着地した。
一度コツを掴めば、妖精の外套も操作は容易であった。闘装と同じく意思を込めて操れば、装備は彼に応えてくれる。
念のためにと愛のスカーフを起動して自身の周囲の風をコントロールしてもいたが、溶岩からの熱風があまり感じられなかったために止めた。鍛冶神の語る通り、地下渓谷の空気も正常に保たれているらしい。
首元に微かな温もりを感じ、顔や頬には放射熱を感じながら、アーロは地下渓谷を歩む。
谷底は以前に上から眺めたよりも広く感じられ、一部には粘度の高い溶岩が溢れ、溶岩溜まりを形成している。
溶岩の赤い光と、岩肌から突き出た蛍石が周囲を照らしてはいるが、薄明かりだ。岩の亀裂や渓谷の奥は深い闇に覆われている。
「凄まじい光景だな……」
岩と溶岩の融合。闇と赤い光のコントラスト。
この世の物とは思えない異様な光景に、アーロは感慨深さを込めて呟く。
熱風が吹き付ける活火山地帯、暗闇に包まれる地下洞窟や遺跡、防衛設備が蠢く古代の研究施設、曰く付きの迷宮。かつて彼が冒険者時代に探索した地域は、その浅い場所がほとんどだ。今回のように、秘境とも呼べる場所には立ち入った事すらなかった。
それが、なんの因果か深くまで迷い込み、出口を求めてさ迷う羽目になった。
「あの頃はいつか高みへ……なんて思っていたが」
自嘲気味にこぼし、それでも歩みは止めない。
今は既に道を違えたが、彼もかつて冒険を志した者としていつかは秘境へ、誰も見たことがない景色をこの眼で見ようとしていた。
だが実際に似たような光景を眼の当たりにすると、感慨深さとともに複雑な感情が顔を出す。
異世界の地下深く。神の座に近き巨大渓谷。確かに秘境と呼んで差し支えないだろう。
当然、陽の光のない暗闇の中で人は精神を病む。水や食料も少ない場所に滞在はできても、住むことはできない。
特にこの地下は地割れや崩落の危険もあり、今も遠目にする灼熱の溶岩にうっかり滑り落ちでもすればたちまち焼け死んでしまう危険地帯だ。
大いなる自然の前に、神秘の存在の前に、人など塵芥に等しい。
異世界の秘境を眼の当たりにしたアーロは、改めてその考えを深め、噛み締めていた。
「実際に体験すると、長居は御免被るな」
知らぬが吉。
未知故に人は高みを夢想し、挑戦することができるのかもしれない。そうも彼は考えた。
歩む道の過酷さを知った上でなお、挑むことができる者。それこそが真の勇気ある者。勇者ではないだろうか。
であれば、自分は勇者ではない。
秘境へ挑むべき理由も志もなく、共に目指した連れ添いもいない。
だが今は帰るべき家があり、愛すべき者がおり、なるべくならば危険を避けたい。
その答えに辿り着き、アーロは微かに口元を歪めた。
『そう言うな。なかなか居心地が良いだろう?』
アーロの呟きを聞き咎めたのは、地下渓谷の奥でとぐろを巻いて寝入っていた黒蛇神である。
「よう」
『うむ』
軽く手を上げて挨拶をすれば、黒蛇神ディグニカはその紅色の六眼のうち片側の三つを開けた。
意図して抑えているのか無駄を嫌うのか、神に連なるもの特有の、存在が押しつぶされるような圧は全く感じない。
その巨体が動くことはなく、寝そべったまま、短剣のような鋭い歯がずらりと並ぶ大きな口を開き、黒蛇神は喉を震わせた。
『我が檻へようこそ、小さき者。歓待はせぬぞ』
「招かれざる客だとは思ってるよ。神眼世界のアーロ・アマデウスだ」
『黒蛇神ディグニカ。反逆する者。して、我にいったい何用だ?』
「あんたと話がしたかった」
『……我と?』
理解が及ばなかったようで、呆けたように眼を見開いて黒蛇神は聞き返した。
「ああ。俺は嘘を吐かない」
『ククク……ハハハハッ!』
アーロの返答に、黒蛇神は大口を開けて笑った。
笑い声が発せられたたのはわずか数秒で、後はただ岩がぶつかるようなゴロゴロとした異音が喉から響き、地下渓谷の闇を震わせた。
面白がったのか、頭を少しだけ持ち上げ、縦に裂けた蛇の眼の六眼はすべて細められ、アーロの姿を捉えていた。
『ハハハ……。クハハハハッ!』
「何を笑う。黒蛇神」
『これが笑わずにいられるか? 小さき者よ。我は貴様と言葉を交わす理由がない』
「そうか? 案外、神は饒舌に話すかと思ったが」
『勘違いだ。去れ』
大笑いから一転。素っ気ない態度の黒蛇神は気が抜けたのか、またごろりと頭を地に伏せた。開かれていた六眼のうち、残ったのは一つだけだ。
「そう袖にするな。あんただって神の一柱だろう? 小さき者の訴えくらい聞け」
アーロが地下渓谷を訪れた理由は、ただ黒蛇神と世間話をしたかったからではない。
対話だ。
「鍛冶神ガンツ・ガンズ・ガンツより、あんたを殺せと依頼された」
『……ほう』
アーロの言葉を聞き、黒蛇神は紅色の眼を細めた。
笑うとまではいかないが、面白がるような声色だ。
『我の寝込みでも襲う心積もりであったか?』
「まさか。勝てるとは思えん」
『殊勝な心掛けよ。では力で敵わぬと見て言葉でやり込めに来たか?』
「面倒な問答もするつもりはない。ただ、聞きたいだけだ」
『よい。申してみよ』
「……」
やはり神は暇で、会話好きなんじゃないか。
そんなことを考えたアーロだが、おくびにも出さずに相手を見据える。
「黒蛇神ディクニカ。あんたは何故、神を喰らう」
『……ふむ』
「理由は何だ。必ず喰わなければならないのか?」
アーロは鍛冶神より殺神の依頼をされ、説明も受けた。毛むくじゃらの三級神は嘘をついていなかった。
しかし……それは一方の都合だ。
世界を、神を喰らうことは、受ける側としては確かに抗うに足る行為だ。
だが、そんな大それた事を成そうとする黒蛇神もまた、何かしらの理由があるはずだ。
その理由の如何により、アーロは鍛冶神へ協力するか否かを決めようと考えていた。
無論、眼の前の黒蛇神が自身を喰らう可能性も考えてはいたが、どうせ話の通じない暴君ならば遅かれ早かれ喰われる事になるだろうと腹をくくった。
のだが……。
『喰うことに、理由が必要か?』
黒蛇神より返ってきた答えは、至極単純であった。
『我が身は渇望の塊。我が心は底なしの飢餓。我は腹が減っておるのだ。眼の前には極上の飯があり、それを喰らわずにいる理由はないだろう?』
腹が減った。故に喰う。
美味そうな飯がある。故に喰う。
黒蛇神の答えは、ただそれだけであった。
「では、俺はお前たち神の生存競争と食事に巻き込まれたと?」
『助力を願ったのは鍛冶神だろう。文句なら奴に言うがよい』
「もう言ったよ」
『ならば蒸し返すな……。さて、生存競争か。その言葉は間違いではない。元々、我は喰って力を得、高めるように設計されている。飢えと暴食は逃れようのない宿命だ。弱き者を喰らい、動けぬ骸を喰らい、世界を喰らう。腹を満たす度に我はより強くなる。故に喰う。そういう定めよ』
「……そうか」
この説得はおそらく無駄に終わるだろう、とアーロは肩を落とすと同時に、気合を入れる。
ここからは、腹を割った話し合いの場だ。
「黒蛇神。俺は……あんたと戦う理由が無い」
『……ふむ』
「腹が減った? 勝手にしろ。骨だろうが大地だろうが喰いたきゃ喰えばいい。このままだと世界が滅びる? 知らん。神が自力で解決できない程に危険ならば、民は移住すればいい。異世界は数多く在るし、神眼世界の民はきっと受け入れる」
アーロには、黒蛇神と戦う理由が無い。
神々の諍いに首を突っ込む理由もまた、無い。
招かれ、一方的に依頼され、面倒な役目を押し付けられようとしている立場だ。
だからこそ真実を見極めようとしていたし、戦いによって解決する以外の手段があればそちらを選べと言いたかった。
喰わずに済むならそれでよし、争わずに済むならそれでよし。危機を避けられればよし。そのための転移門は開かれている。
『否』
だが、黒蛇神は否定を告げた。
『逃さんぞ。否、逃げても無駄よ。我はこの世界の全てを喰らう。民も、物言わぬ獣も、大地も空も、神も全てよ。どんな異世界に隠れようが必ず見つけ出し、一欠片も残さず腹に納める』
「……逃げても追う。世界を渡るというのか」
『もちろん。だがそんな屑飯は後回しよ。手始めに、我を創造し戯れに地下の檻へ捕らえ、尽きぬ飢餓の宿命を課した鍛冶神を喰らう。一時の腹を満たし、永き時の復讐を果たしてくれよう』
「……鍛冶神を喰えば、怒りは収まるのか」
『否! 怨むべきは鍛冶神を創造したこの世界そのもの。残らず食んで喰ろうてくれる! そうでもせねば腹の虫が治まらん』
「……」
『それに、気がついたのだ。異世界の者よ……』
黒蛇神の紅色の眼が、きゅっと細められる。
幼子が自身の興味を引いた玩具を見るような、小腹が空いた時にちょうどいい菓子を見つけたような、そんな眼。
『異世界の神秘というのも、存外に良い匂いがするではないか。なぁ?』
黒蛇神の面白がるような眼線はアーロではなく、その首元に向けられていた。
紅色のスカーフと、胸元の結魂証に。
「貴様ッ──!」
アーロは思わず腰元の片手斧へ手をかけ、引き抜き構える。身体全体から燐光が染みだし、ほろほろと零れる。
『無駄なあがきと伝えておこう。遅かれ早かれ、我はこの世界の全てを喰らい、神を喰らうだろう。しかし我の飢えはそんなものでは収まらぬ。山岳世界を平らげた後、次は異世界よ。貴様らがどこぞの世界の者かは知らんが、匂いに釣られて放浪を楽しむとしよう』
「貴様は、異世界を侵略すると?」
『ハハハハッ! そのように睨むな! たいそうな事ではないだろうに! ただ我は、少し摘まみ喰いがしたくなっただけだ。貴様は言ったではないか。世界は数多あるとな! そして我は逃がさんと言った!』
ゲラゲラと、ガラガラと。
喉を鳴らして黒蛇神は嗤うが、相対するアーロは歯噛みしていた。
眼の前には大いなる存在。神を前にした己のなんと小さきことか。
その手に握る武器は倒神の剣ではなく、その身に纏うのは神代の鎧でもない。
だが彼がその背に守るものは多く。
背負う気持ちは、とてつもなく重かった。
事がここに至り、アーロは自身が呼ばれた意味を理解した。そして、鍛冶神の言葉の真意も。
これは異世界の神同士の問題では済まない。他人事ではない。自らも当事者の一人なのだ。
「放置すれば明日は我が身ってわけかよ!」
黒蛇神は山岳世界を喰らい力を蓄えるだろう。遠くない未来には一つの世界、数多の神秘を内包する存在となる。
この神の原動力は飢餓。満たされる事は無く、止まることもない。飢え、怒り、喰らう事に何の躊躇も感じない。そんな暴威の権化が異世界から渡って来るとすれば、自らの世界で暴れればどうなるのか。被害は検討もつかない。
そして何より。黒蛇神は喰らうと宣言した。
アーロの知る世界を。そこに生きる者を。
帰るべき場所を。守るべき家族を。愛する者たちを。
「やめろ。と言っても聞かんだろうな」
事は神々の内輪揉めや生存競争ではなく、世界を、民を巻き込んだ破滅への序章だった。
アーロは他人事の傍観者から、舞台の壇上へ引きずり出されたのだ。
『分かっておるなら口にするな! 無駄に腹が減るぞ! いやそもそも、貴様がここに来た事すら無駄の塊よ! 我は止まれぬ、飢餓は尽きぬ! 怒りは積もり、衰えることはないのだ!』
黒蛇神は愉快そうに嗤っていた。
怒りと口にしてもなお楽しげに。自らの言葉そのものを口の中で転がすように、味わうようにして嗤っていた。
『我は反逆の蛇。我は黒蛇神ディグニカ! 我は世界を創造した大いなる存在を許せぬ。神という存在を産み出した事を後悔させてやろう! 一級神に成り上がり、神という神を喰らい尽くすまで、我は止まらん!』
「貴様は、どこまで行くつもりだ」
『分からぬ! 我がどこから生まれどこへ行き着くのか、そんなものは皆目検討もつかん! だが! 腹が疼くのだ! 喰えと、喰らえと! 餓えと渇きが魂を突き動かすのだ! 暴れ、狂うこの衝動に抗う術など、生まれ落ちた時より持ち合わせてはおらぬわァ!』
いつしか、いつしか巨大な黒蛇がアーロの眼前にそびえ立っていた。
『もう一度問うぞ! 異世界の小さき者よ』
黒蛇神の楽しげだった口調は激情を孕み、開かれた紅色の六眼には確かな怒りが宿り、薄暗闇の中で燃えるように爛々と光る。アーロを睨んでいるようで、もっと他のものを見ている。そんな瞳。
『喰うのに、生きるのに理由が必要か!』
黒蛇神の言葉と共に、その巨体から染み出す鈍色の神秘。
辺り構わず撒き散らすような神秘の風は、確かな圧力を以てアーロに叩きつけられた。
「ぐ、ぬ……っ!」
腹に力を込めて踏ん張るアーロの瞳も、神秘に反応して金色の輝きを増す。
彼が身体全体に感じるのは、確かな怒り。そして狂おしい程の飢餓と、焦燥感。
「黒蛇神! 貴様は!」
紅色の眼の黒蛇と視線を交わせば、アーロは確信する。熱に浮かされた虚ろの夢で感じた小さな存在と飢餓感。それは、この神のものだ。と。
「あの蛇は貴様か! 貴様を造り出したのは鍛冶神。あの、小石は!」
黒蛇神ディグニカが巨躯に内包するのは、怒り。
永きに渡って地下で熟成された濃密な怒り。
同胞を喰らい、飢餓に精神を焦がした狂える神。
『フハハハッ! 反逆の蛇の毒を内包し、我と繋がったか! 珍妙なことよ! ならば我は自らを喰らうということか。そんなことは未だ経験がないぞ! 面白い!』
高らかに笑うその姿はまさに、蛇蟲の呪いが産んだ狂気。
『いいか! 異世界の者よ! 我の生は我の物語。我の望む通りに喰い、我の望む通りに進もう。全てを喰らい、邪魔は全て排除する。我はそのつもりだ。そうやって生き延びてきた! 今の貴様なら分かるであろうか!?』
「あぁ分かるとも。お前に何を言ったところで止まらねぇってのもな!」
『ならば善し! 我は喰うことを邪魔する者は、どんなに小さな障害であろうと喰い潰す!』
「そうかい!」
『小さき者よ! 人の身でありながら神に挑む勇者よ! 我を止めたければ、命を賭けてかかってくるがいい!』
かかってこい、と。受けて立つ、と。
黒蛇神は威風堂々と告げ。
神へと挑む小さき者を見据え、牙を剥いた。
「おぉぉぉッ!」
アーロは全身から淡い燐光を吹き出し、身に纏い、そのまま燐光を脚に纏わせ、踏み込む。
踏み抜いた岩肌が陥没するほどの跳躍を、はためいた妖精の外套が浮かせ、愛のスカーフが風を掴み、背中を押し翔ばす。
一瞬で黒蛇神の頭部へと接近したアーロは、片手斧を両手で握り込み、全力で眉間へと叩きつけた。
ガギッ。
と金属が軋むような音を立て、片手斧は黒蛇の頭頂部、額の鱗と噛み合わさり──。
斧の頭は硬質な鱗に弾かれ、粉々に砕け散った。
「なっ!」
砕け散った片手斧に纏った燐光が弾け、鱗を撫でる。破壊的な力を与えるはずの力は、鱗の表面を焦がしたのみであった。
『……所詮は、悪足掻きか』
驚愕したアーロとは裏腹に、黒蛇神はつまらなそうにこぼす。細められた六眼に浮かぶのは、失望と呆れ。
突撃が弾かれたことで、アーロの身体もまた推力を失い、宙で固まる。そこへ間髪容れずに襲い来るのは黒蛇の迅尾。
『そらァッ!』
風切音を立てて振るわれた太くしなやかな尾によってアーロの身体は木の葉のように払われ、弾かれる。空中で踏ん張りがきかないまま、吹っ飛んだアーロは地下渓谷の斜面、断崖の岩肌に激突する。
「がっ……は……」
衝撃で肺の空気が全て押し出され、身体を打ち付けた苦痛とともに吐き出される。
断崖へめり込むほど強かに打ち付けられたアーロは、明滅する視界で迫り来る巨体を捉えた。
『ガアァァァァッ!』
巨体を誇る黒蛇神が、大口を開けて突っ込んで来た。身をくねらせ、しかし頭の軸はぶれず。邪魔な大岩を弾き飛ばし、一直線に。
岩肌へ激突することを何とも思わぬ突進。断崖ごとアーロの身を喰らわんとする大口は恐るべき速度で迫り──。
断崖まであと一息という直前。
突如、地面から生えた石の杭に阻まれた。
『ぬァっ!』
先端が尖った石の杭が地面から次々と生える。
口を閉じた黒蛇神の顔を、腹を貫かんとばかりに杭は数を増やし、それらを避けるために黒蛇神は身をくねらせ、後退する。
「ぐ……ゲホッ」
衝撃で内臓が傷ついたのか、アーロは咳と血を吐く。額が切れたのか、垂れた血の赤が混じる視界で、身を翻した黒蛇神を見やる。
突進は避けられなかった。断崖へ叩きつけられたまま、周囲の岩もろとも彼は喰われていただろう。
杭に救われなければ、既に死んでいた。
「無事か?」
岩にめり込んだ身体を引っこ抜こうともがくアーロの傍に、毛むくじゃらの身体が下り立つ。
鍛冶神ガンツ・ガンズ・ガンツ。石の杭を用いて黒蛇神を引き剥がしたのは、三級神であった。
「ッ……あんた、戦えるじゃないか」
「まさか。あの程度、脅しにしかならん」
鍛冶神に肩を貸され、アーロは立ち上がる。
強かに打ち付けられたが、五体は満足であった。
彼は握っていた折れた斧の柄を放り投げる。武器の残りは拳のみだ。
荒ぶる神へと挑むには、少しばかり心許ない。
『弱き神よ! 食事の邪魔をするな!』
「ふん、存外に口は達者ダな。檻で遊ベ」
黒蛇神が吐き捨て牙を剥くが、鍛冶神は気にした風もない。肩を貸したアーロを今度は抱え上げ、地を蹴って飛び上がり、岩の絶壁を登っていく。
「ゆっくり……頼む……ケホッ」
「ああ。任せろ」
「嘘をつくなよクソッタレが……」
揺さぶられたことで腹が激痛を訴え、血を口の端から垂らしはしたが、アーロは耐えて運ばれるに任せた。
『ええいっ! 忌々しい!』
身を貫かんと生える石の杭を、黒蛇神は尾を振って弾き散らす。脅しという言葉通り、初撃で不意を突いたのみで、後は障害物でしかないようだった。
腹側の肉、おそらくは心臓を狙って突き出される杭を避け、尾の一撃で多数を打ち崩していく。
先程アーロが身を投げた壁の穴に鍛冶神共々辿り着く頃には、杭を粗方破壊し終えた黒蛇神が地下渓谷の底から、去っていく姿を見上げていた。
『小さき者を尖兵と仕立て上げたところで無駄よ。せいぜい足掻くといい。掻く足すら闇に沈んでいることを思い知れ』
「まダダ。まダ、打つ手はある」
『……ふん。興が削がれた』
黒蛇神は小さくつぶやき、巨体を翻した。
「待て……」
「無謀ダ。異世界の戦士よ」
『無駄だ。異世界の戦士よ。貴様との対話は存外に楽しめたが、何も生まぬ。これ以上は余計に腹が減るだけよ』
幸いに、我はこれから至上の馳走を喰らうつもりなのでな。しばしの空腹を楽しむとしよう──。
そう告げたきり、黒蛇神は地下渓谷の奥へと這っていく。黒い巨体はそのまま闇に紛れ、消える。
抱えられたアーロがかすれ声をかけれども、いかなる言葉へも返答を寄越すことはなかった。




