眼覚めるは……
彼の者は暗闇で眼を覚ます。
そして最初に感じたのは強烈な餓えであった。
堪らず身をよじり、のたうつ。そのまま自らを拘束する邪魔くさい殻のような膜を破り、外へと飛び出した。
殻から出でた先は岩肌に囲まれた暗い空間。
そこで彼の者の六つの赤い眼に映ったのは、同じような薄暗闇の中で共食いを行う同胞たちだった。餓えに耐えかねた兄弟たちが互いを喰らっていたのだ。
彼の者もまた抗えぬ飢餓感に支配され、眼についた手近な個体へと喰らいつく。身体全体で相手を押し潰し、頭部を絞め砕き、餌を呑み込む。
そのおこぼれに預かろうと数匹の兄弟たちが寄ってきたが、眼光で威圧し尾を振り回して撃退する。
最初の獲物を腹に納めてから、味をしめた。近づいてきた兄弟たちへと襲いかかり、喰らい、呑み込む。
喰らった最中のみ、彼の者は強烈な飢餓感を忘れられた。だがそれは一時のことであり、すぐさま腹の底から滲み出すような感覚を覚え、それを振り払うように兄弟たちへ牙を向ける。
彼の者はそうして喰らって喰らって、喰らい尽くした。
はたと気がつけば数多くいた兄弟たちも、その揺りかごであった殻さえも、眼につくものは何も無くなっていた。
もう何も喰らう物は無い。
だがしかし、飢餓感は消えない。
────!
彼の者は声なき声を上げ、絶叫する。
逃れ得ぬ飢餓感は消えないのか。これから先いったい自身はどうするのか。
焦燥感と怒りに悶絶し、彼の者は身を振り、尾をしならせて地を、壁を打った。
かつん、と。
暗闇の中で小さな音が響く。
鋭敏になった彼の者の感覚はすぐさま関知し、大した確認もせずに喰らいついた。動くものは喰い、腹に入れば何でもよかった。
彼の者が眼にすることは無かったが、呑み込んだのは小さく、白色の石のようなものだった。
────!
その何かを口にした瞬間。
彼の者は一時、安堵と幸福に包まれる。あれほど自分を苦しめていた飢餓感が消えていた。
満腹感。彼の者はその喜びを享受した。
──そうダ。受けとれ。それは褒美ダ……。
残響と共に響く何者かの声も、幸福に包まれた彼の者は気にも留めなかった。ただ満腹感を感じ、とぐろを巻き、腹から伝わるじんわりとした暖かさを噛み締めていた。
その間に体は内部から作り替えられていく。彼の者の体は太く長く成長し、その鱗は硬度を増して牙は鋭くなっていく。
だが、その至福の時は長く続かない。しばらくすれば飢餓感は再び腹の底から滲み出してくる。
────!
まだか。まだ足りないのか。
彼の者は憤怒とともに絶叫する。
太く長い尾で周囲の壁や床を打ち付け、巨大な体躯を揺らして壁に体当たりを繰り返す。
──欲しけれバ、自ら求めよ。
そんな言葉と共に、ずずず──と岩肌が割れ、通り道が生まれる。
その暗闇の先から感じる微かな振動と熱。生命の気配。もっと近づけばその姿を捉えることもできるだろう。
ある。喰い物が。もしかすれば再度満腹感を感じるための何かが。
────。
もとよりここにはもう何も、腹を満たす物は無い。
一時で消えてしまった儚き幸福を求め、彼の者は自ら生まれ出でた場所を離れ、暗闇へと身を投じた。
◆◆◆◆◆
奇妙な満腹感。それに次いで息苦しさと口の中に侵入した水気を感じて、アーロは眼を覚ます。
まず視界に映ったのは、彼の顔を心配そうに覗き込む小さな妖精。リリであった。
「あ」
眼が合う。口をぽかんと開け、驚いたように固まっている。
「お、お兄さーんっ!」
そのまま叫び、寝たままのアーロの首ったまにかじりつくように突進する。
「眼を覚ました! よかった!」
目尻に涙を浮かべ、羽根をぶんぶんと振り、ぐりぐりと頭を擦り付けて喜びを表すリリ。
先の一言は姿の見えないアビゲイルにでも呼び掛けているのか。
「……久しぶりだな。リリ」
「うん! うんっ!」
喜びを全身で表現する妖精を摘まんで引き剥がすが、アーロはリリの片腕が肩口から先が無くなっていることに気がついた。
「リリ。お前、その腕……」
「あ、これ? 気にしないで。すぐ治るから!」
「いや腕がないのは相当……。なるほど」
寝ている間の奇妙な満腹感と水気について、アーロの中で合点がいく。
かつて森林世界でも似たような出来事があった。そのときは渇きだったが、今回は満腹感も味わっている。
どうやらまた、この妖精に助けられたようだった。
「……ありがとうな」
「ううん! 当たり前じゃない!」
目尻に溜まった涙を片手で拭い、えへへと笑うリリ。
その頭を指で撫でながらアーロは体の調子を確認していく。
硬い石の寝台でずっと眠っていたようで、体の間接や筋肉が凝り固まっている気がした。さらに頭もまだはっきりと動かない。だが不思議と調子はよかった。
そして、彼が目覚めるまで見ていた夢のような何か。
未だ左眼に微かな熱を感じる。それはこの場所が神域と呼ばれる神秘の溢れる空間なのか。それとも他に要因があるのか。
とりあえず必要なのは情報であった。自らの状態、周囲の環境、そして仲間の現状。知らなければいけないことは多くあった。
「どれくらい眠ってたんだ?」
「八日くらいよ! 心配したんだから!」
そんなにもか、とアーロは腕を組む。
彼は小部屋で倒れてからの記憶が全く無かった。
だが武器や外套といった装備品は外されて置かれており、服もそれほど汗や埃で汚れている訳ではない。
どうやら寝ている間に体を拭かれたり服を一旦剥かれたりして世話をされていたようだ。と思案する。
また、脇にたたまれた外套の上に白銀の結魂証を見つけて安堵した。手繰り寄せ、身に付ける。
「……よし」
先行きは全く不明だが、とんでもない高さを落下し、横穴に転げ落ち、毒を受けて尚生きていること事態が幸運だ。と彼は考え直す。
元より楽天的な彼だ。そうと決まれば考えを中断し、周囲の観察を始める。
倒れる前の記憶はおぼろ気だが辺りを見回すと眼に入ったのは、見覚えのある岩肌と小部屋だった。
「ここは……」
「神域よ! 三級神の! よくしてもらってるんだから!」
「あー。なるほど? 今は賢いリリだったか」
「うーん、六割くらいかしらね?」
「それだけ頭が回れば上出来だ。おかげで助かった」
「えへへ」
普段よりも遥かに頭が回り、遥かに突拍子もないことを言い出し仕出かすが、賢いリリはなかなかに頼もしい。アーロの予想もしない手立てを見つけるのが彼女の持ち味である。
だがそれを受けて、わけがわからないとごねる人物がいるはずだ。
「アビィはどうした?」
「近くにいるはず。さっき大きく揺れる前に、洞窟の奥の様子を見てくる、って」
「大丈夫かそれ……」
アーロは思わず半眼になる。
ここは地下だ。以前に体験した通り崩落の危険性は常にあるためだ。
だがその危惧は杞憂に終わった。
わふわふっ! と鳴き声をあげ、暗闇から犬精霊のケルクが飛び出してきたのだ。
「ケルク! 久しぶりだな!」
言葉が分かっているのか、わふ! と応えるケルク。そのままお座りをして首だけを小部屋から延びる道、洞穴へと向ける。
ケルクがいるということは、もちろん彼女もいるだろう。
「アーロッ! 無事!?」
上半身を起こして体をほぐし始めた彼の視界に飛び込んできたのは、慌てた様子のアビゲイル。
「目覚めたか! 異世界の戦士よ! 待ちかねたゾ!」
そして……毛むくじゃらである。
小部屋を照らす蛍石の薄暗闇に、アーロの左眼がぎらりと光った。
「どうにも最近、神と名のつく存在が気安くないか?」
互いに自己紹介を済ませ、三級神、鍛冶神ガンツ・ガンズ・ガンツを前にひざまずいたり驚いたりした後に腰を落ち着かせ、アーロはぽつりとこぼした。
そうなの? とアビゲイル、ケルク、リリは首を傾げるが、彼女らには預かり知らぬことだ。
リリと関係がある森林世界に、自らの世界である神眼世界。そして山岳世界でも神と名乗る存在と繋がった。
その邂逅はどれもが唐突で、そして気安い。
「それダけ神に愛されているということダ。異世界の戦士よ」
「ふん……。神に愛された、ね。俺は疫病神にも好かれてるってか?」
「ズけズけと言う。ダガ嫌いデはない」
「そうかい」
「やはり遠慮の無い者はいいな。喋らぬ這いずる者や地に住む者よりも面白い」
どこか嬉しそうに言葉を弾ませる鍛冶神をアーロは呆れながら睨んだ。
だが呆れを含んだ視線すらも楽しげに受けとるのだ。神というものは相当に会話の応酬に飢えており、暇らしい。
「話はいろいろとあるガ、まズは見せたいものガある。ついて来るガいい」
そう鍛冶神に促され案内されたのは、小部屋から伸びる洞穴の奥だ。
「そういえばこの先どうなってるか、気になってたんだよな」
「アーロはずっと寝てたからね」
「アビィは探索したのか?」
「うん。そりゃもう、すっごいんだから!」
「ほう。何が……いや。やっぱいい。自分で見たい」
「えぇ? 聞いてよ。この先にはさ──」
「おい止めろ!」
アビゲイルは洞穴の先についての話題に珍しく声を弾ませる。
彼女はどこから調達したのか、辺りを照らす蛍石を装着したランタンのような物を手にアーロの横を歩いていた。
その足元をリリを頭に乗せて尻尾を立てたケルクが追従する。
「すぐに歩けるまで回復してよかったよ」
「岩蛇の毒は弱い麻痺毒じゃないのか?」
「たまにいるんだ。後遺症が残る人。しかもアーロってば異世界の人だからね。下手したらもっと酷くて、意識が戻っても数ヵ月間寝たきりなんてこともあったかも」
「……恐ろしいな」
「心配するな。もう毒は抜けているゾ」
「私が頑張ったんだからね! こう、腕をこう!」
「あぁ、分かった。分かったから」
「いや、腕をどうこうしたことをあっさりと流すアーロって……」
「ね? お兄さんなら受け入れてくれるって!」
「確かにそうだけど君たちの絆ってどうなってるの!」
「うむ。いい関係ダ」
「まとめ方が雑すぎる……」
「神にそういった心の機微は求めない方がいいぞ」
「アーロもなんでそう神について軽く語るかなあ!」
「そりゃ、茶飲み仲間だからな」
「そうそう! 美味しいお茶を飲めばもう仲間なのよ!」
「ほう……。後デ詳しく」
「食いついた!?」
そんなとりとめもないことを賑やかに話しつつ、いくつかの分かれ道を選び辿り着いたのは洞穴の先、袋小路であった。
「行き止まりか……?」
「いいや、違うゾ。下を見ろ」
「下……」
「ほら、アーロ。照らすから」
アビゲイルと鍛冶神に促された先の壁には、大きな亀裂がある。
亀裂へとアーロが近づいて覗き込んでみると、その先には空洞があった。
地下にできた峡谷とでも言うのだろうか。切り立った崖と深い谷。それが暗闇の先どこまでも続いていた。
アーロたちはちょうど断崖の途中に開いた穴から峡谷を眺める位置にいるようだ。
そして、峡谷の底は明るかった。
どろどろに溶けた赤い川。
赤熱した溶岩が流れ、所々に溶岩溜まりを形成して不気味に光を発していたからだ。
だが、アーロが眼にして驚いたのは地下峡谷でも、溶岩溜まりでもない。
蛇。
巨大な蛇が、地下峡谷の谷底でとぐろを巻いていた。
「……岩蛇、か?」
地下峡谷で動かない蛇を見て、アーロは呆けたように言葉を漏らす。
疑問系だったのはその蛇が異様に大きく、そして暗闇に溶け込むような黒い皮をしていたからだ。
とぐろを巻いているせいか小山のような大きさと、溶岩の赤い光に照らされた姿は重厚感がある。
溶岩溜まりの近くで微動だにせず、だが確かな存在感を放つ蛇。
「そう! 岩蛇だよ! それもすごく大きい……。どれくらいの年月をかければあそこまで大きくなるんだろ……」
アビゲイルもまた亀裂から地下峡谷に鎮座する巨大な岩蛇を見やり、観察するように眼を細める。
蛇神の内腑にて彼女の父ゲルナイルが仕留めた個体よりも格段に大きく、そして重厚だ。
何でも腹に入れ、成長を続ける岩蛇。しかしどれ程の年月を要すれば見上げるような大きさになるのか、想像もつかない。
「あいつは……」
黒い岩蛇の姿を眼にしたアーロの左眼が再度熱を持ち、疼く。それが指すことはひとつ。
地下峡谷の主は、ただの生物ではない。
多大なる神秘を内包する存在。世界の管理者。
すなわち、神の一柱。
「三級神。黒蛇神ディグニカ」
いつの間にか隣に佇み、地下峡谷を眺める毛むくじゃら。
自らを鍛冶神、そして三級神と称する存在は、黒い岩蛇を指して神と呼んだ。
そして──。
「異世界の戦士よ。奴を殺して欲しい」
鍛冶神はアーロへと、殺神を依頼した。
雑感
すみません。お待たせしました。
溶岩が地下峡谷にあったらガスや熱気がヤバい?
鍛冶神さまが言ってた。
「大丈夫ダ。問題ない」




