山岳世界の朝
朝。
アビゲイルはいつものように眼を覚ます。
自慢ではないが寝起きはいい方だ。昨日の仕事を手伝った疲れもなく、意識はしゃきっとするのだ。
すぐに寝床から這い出して身だしなみを整える。といっても髪は肩口で短く切り揃えられており、さらさらである。
丸太を組んで作られたログハウスの二階。部屋の窓を開けて朝の澄んだ空気を胸一杯に吸い込む。窓からは村の様子がよく見える。いつもと変わらない静かな時間。
そして遠くに見える山。朝日を浴びて金色に彩られるのは皆の生活を支える鉱山だ。
その山の麓にあるあちこちの家からは朝食の支度を行うための煙が上がっており、この家も同様であろう。
村でも気の早い者は既に仕事を始めているのか、コーンコーンと金属音が響いている。
特に支度に時間をかけることもなくアビゲイルは自室から出て家族の待つ食卓へと向かう。父親は既に起き出して席についており、母親は朝食の準備中だ。
清々しく気持ちのよい朝だが、アビゲイルにとって家族と顔を合わすこの朝食の時間は気が重い。
「起きたか。アビゲイル」
「あら、早いのね、アビィ」
「おはようございます。【親方】。お母さん」
朝の挨拶もいつも通り。
厳格な父も優しげな母もいつもの通りだ。
アビゲイルの父、ゲルナイルは偏屈で頑固者である。子に自らの事を【親方】と呼ばせることからもその片鱗は窺えるだろう。
そんな頑固な父とは正反対に優しいのは母、フィルヘイルである。料理に炊事、鍛冶を愛し、家計を支えるしっかり者でもある。
いつも通り一家揃っての朝食の席だが、そこにアビゲイルとゲルナイルの会話は、無い。
母フィルヘイルが何の気にもせずゲルナイルやアビゲイルへと話題を振り、それぞれが応えるのみの一方通行の会話である。
「そういえばあなた、鉱山に大きな岩蛇が出たんですって」
「ああ。若い衆が騒いでいた。大の男を丸呑みできる大きさだそうだ」
噂話でも聞いたのだろう。朝食の用意をしつつ台所から声をかけるフィルヘイルに対してゲルナイルはその髭もじゃの口元をもごもごと動かして答える。
父の隣に座るアビゲイルは返答こそしないが、巨大な岩蛇という単語にはぴくりと反応した。アビゲイルは蛇のつるつるとした体は好きだが、それは大きさによる。人を丸呑みできる大きさの岩蛇と戯れようとは到底思わなかった。
それに岩蛇は特段好戦的というわけではないが、獲物を探して徘徊するときはたいてい腹を空かせており、口に入るものなら何でも飲み込んでしまう。
男衆が酒を飲むときに酔いに強くどんどんと酒を呑む輩を『腹を空かせた岩蛇のようだ』と称すのも、何でもかんでも飲み込む姿からだ。さらに腹が満ちれば丸まって寝てしまう。
アビゲイルは自らが岩蛇に丸呑みされる様を想像し微かに身震いした。蛇の朝御飯にはなりたくない。
「岩蛇は問題ない。ワシが出れば駆除できるだろう。若い衆でも可能だが、怪我人が出る。ワシにお株が回ってくるだろう」
「さっすがあなた。頼もしいわね」
ゲルナイルの落ち着いた答えにフィルヘイルは安心したように笑う。アビゲイルもまた静かに安堵のため息をついた。
数多いる鉱夫の中でもゲルナイルは腕が立つのだ。小さなアビゲイルとは裏腹に、見上げれば小山のような良い対格。鉱山仕事で鍛えた肉体は鋼のように強靭で腕っぷしは強く、義理堅い。
【岩砕き】のゲルナイル。または【親方】と呼ばれて若い鉱夫からの称賛を浴びる偉大なる父なのだ。
「だが問題はそこではない。ワシではすぐに対処できない可能性がある」
父ゲルナイルの重い口調にアビゲイルは内心首を傾げた。岩蛇は父ならば倒せると言うので、なにも問題ではないじゃないか。
そう考えるアビゲイルをよそに母、フィルヘイルが用意の整った朝食を食卓へと並べていく。今日の朝食は岩石芋の丸ごとサラダと小さい岩蛇の焼肉、親指の先程の魔晶石の粒がお椀いっぱいだ。
「お父さんはね、大切なお客さまの対応があるのよ」
「あー。なんか異世界の人が来るんだってね。今日だったんだ」
自らへと説明するような母の言葉にやっとアビゲイルは声を上げる。だがそれは、フィルヘイルに対しての反応のみだ。
父ゲルナイルはアビゲイルの言葉には何も言い返さず、黙ったまま朝食へ口をつけた。
「美味しい?」
「うむ、うまい」
岩石芋を大きな口いっぱいに頬張り魔晶石の粒をガリガリと噛み潰しながらも、ゲルナイルの顔色は晴れない。
それは岩蛇のことだろうか。異世界からの客人の対応をすることだろうか。
遥か昔に鉱山から掘り当てられ起動しないことで長らく放置されていた転移門が動き出したのは十年程前のことだ。それがつい最近になってやっと世界間の交流が実施されることとなったのだ。
異世界からの客人の案内は皆からの支持もある実力者としてゲルナイルが任されていた。だが彼としては鉱山に岩蛇が出たとなれば、そちらの対処もしたいのだろう。
鉱山から掘り出される資源は人々の生活の糧であるが、安全のため巨大な岩蛇の駆除が済むまでは目撃された区域の立ち入りが制限されてしまう。それが数日、下手すれば数十日間も止まるということはかなりの痛手である。可能な限り、迅速な排除が望まれた。だが実力者であるゲルナイルは客人の対応に追われ時間がないという。
ゲルナイルは岩石芋をごりごりと噛み砕き、ごくんと飲み込む。
そして、何かを閃いたように眉を跳ね上げた。
「アビゲイル。お前がやれ」
「え? ボクですか?」
「そうだ。やれ」
有無を言わさぬ口調の父に、アビゲイルは縮こまりながら自らを指す。
普段、父ゲルナイルは必要のない時以外はアビゲイルに話しかけない。あったとしても、短いやりとりのみだ。
そんな父から用事を言い渡されることはかなり珍しい。アビゲイルは思わず呆けたように固まった。
「やれるな?」
「え、っと。あ、ええと」
問われて思考が動きだしたアビゲイルは、ぶんぶんと顔の前で手を振りたい気分であった。だがそれも出来ず言葉に詰まる。
自らの細腕で父に代わって岩蛇を退治など、できるわけがない。
「親方。ごめんなさい。ボクにはできません」
「……はぁ」
申し訳なさそうに断るアビゲイルに、ゲルナイルはため息をつき、顎の髭をごりごりと掻いた。
「違う。そっちじゃない」
「アビィ。お父さんは異世界の人の対応を任せるって言ってるのよ」
「あ。そっちならボクでもできるかも。……じゃなくて、できそうです」
口下手な父ゲルナイルに代わり、母フィルへイルが詳細を補う。無愛想で大柄な父、小柄でお喋りな母。凸凹のような二人だが、不思議と呼吸が合うのだ。
そして軽く返事をしたことでぎろりと睨まれるアビゲイルは、慌てて言い直した。
「そうか。では任せた」
できそうですというアビゲイルの返答に、ゲルナイルは素っ気なく告げる。
そこに親子の団らんといった雰囲気の会話はなく、事務的な返答のみである。しかしそれは二人にとっていつものことであった。
そしてアビゲイルが異世界の客人の対応をすれば、父は何の憂いもなく岩蛇の退治に打ち込むことができる。問題は万事解決だ。
「お前には、鉱山の入場許可を出す」
「え、いいんですか?」
「案内に必要だからな。異世界人の案内ついでに中に入るなら数日間。立ち入りは上層のみだ」
鉱山はアビゲイルにとって憧れの場所である。
通常は鉱夫、大人の仕事場だと言われ、まだ成人を迎えていないアビゲイルは敷地内へ脚を踏み入れることもできない。しかもその昔にアビゲイルはこっそりと忍び込んで見つかり、大目玉を食らったことがある。
だが【親方】と呼ばれ慕われるゲルナイルの言葉と異世界の客人の案内を行うという名分があればそれも覆る。
「途中で見つけた鉱石は好きにしていい。案内はちゃんとしろ」
「あ、ありがとうございます! 親方!」
アビゲイルは喜びが堪えられないという風に顔を綻ばせる。上層のみとはいえ何日間か鉱山への立ち入りが許され、鉱石も堀って持ち帰ってもいいという。
異世界の客人も案内のために共に鉱山へ潜ってもらうことになるだろう。その間、堀り放題である。最高だ。
喜ぶアビゲイルに父ゲルナイルは釘を指す。
「舞い上がり過ぎてへまをするなよ。犬を一匹連れていけ。今日客人を転移門で出迎えるから、それに同伴しろ」
「分かりました! あぁ、楽しみだなぁ。銅、鉄、鉛鉱石、ひょっとしたら輝石もあるかも……」
「アビィ。怪我はしないようにね。危ないところには近づかないこと」
まだ見ぬ鉱山へと想いを巡らすアビゲイルに対し、母フィルへイルは穏やかに微笑み、父ゲルナイルは仕方ないとばかりに苦笑いだ。アビゲイル自身も自覚しているが、父親譲りなのか鉱山や鉱石、石への興味が人一倍強く育ってしまったのだ。
親としてはそこが誇らしくもあり、成人を迎えていない内から危険な鉱山での仕事をしたがることが心配でもあるのだろう。
「よし、ボク、採掘道具とか装備の用意をしてくるよ!」
朝飯をかき込み、うきうきと家の外へと飛び出して行くアビゲイル。背後では厳格な父がため息をつき、優しい母がまぁまぁと諫めるやり取りが聞こえてきた。
いつもならば後で父にお小言をもらうだろうと萎縮するだろうが、今日は違った。
「やるぞぉーっ!」
仕事を任された。また鉱山に入れる。異世界人の対応という代役は少しだけ不安だが、なるようになるだろう。
「ケルク! 起きて。朝だよ」
スキップをしかねないほどの上機嫌のアビゲイルは家の裏手にある犬小屋へと入り、中で丸まって寝ていた一匹の犬に声をかけて起こしてやる。
眠そうに顔を上げ、立ちあがり体をぶるぶると震わせるのは若犬だ。名前はケルク。鉱山に入る際に同行させて危機を探る仕事仲間、そしてアビゲイルの相棒でもある。
おはようと改めて声をかければ、わふっと元気よく答えるケルク。頼もしさを感じるよい返事だ。
「今日はお客さんを出迎えるからね。準備して」
言うことを理解しているのか、わふっと再度吠えてぐるぐると回るケルク。やる気があります! と主張するかのように耳はぴんと立ち尻尾は揺れている。
アビゲイルはその様子にくすりと笑い、犬小屋を出て家の裏手にある倉庫の大きな扉を苦労して開ける。
雑多に積まれた木箱などの中から掘り出すのは、作業用の革製ツナギ、同じく革製のブーツや手袋、顔を保護するマスクとゴーグル、削岩用の装備などだ。
あまり日の目を見ないそれらの装備に活躍の機会が与えられる。掘り出された装備は朝日を受けて誇らしげに輝いているようであった。
「待て。よし偉いぞ。よっ、と。荷物運びをお願い」
倉庫から掘り出した腹巻きのような犬用の荷物帯を取り付けてやれば、ケルクもまた誇らしげに尻尾を揺らす。
その背の鞄に雑多な荷物を放り込み、アビゲイルは一つ一つ指さし確認を終えると、うんと伸びをした。
「よぉし! 今日もお仕事頑張ろう! おいで、ケルク」
行くよ! と元気よく声を上げるアビゲイル。わふっと一吠えしてそれに続くケルク。一人と一匹はその仕事場、鉱山へ向けて歩き出した。
山岳世界 ヨームガルド
豊かな鉱山資源に恵まれた世界。
鉱山とともに生きる者たちと、神眼世界との交流が始まろうとしていた。
雑感
山岳世界 ヨームガルド。
男の夢、鉱山に暮らす人々のお話です。




