燃え盛る森と逃げる者
森が、燃えていた。
火噴き鳥がその名の通り、火を噴いたのだ。
着火した際の小規模な爆風に煽られて伏せていた場所から弾き飛ばされたため、アーロはほんの少しの間気を失っていた。
そして覚醒してすぐ、辺りを見回す。生木が燃やされているためか、立ち込める煙により視界はすこぶる悪い。
時刻はまだ昼だが、もとより茂る枝葉により森の中は薄暗かった。そこに煙、さらに炎が燃え上がり揺らめく。木立に遮られて、周囲以外の状況は把握が出来なかった。
立ち上がり動き出そうとして、左腕の感覚が全く無いことに気が付くアーロ。
まさかと思い己の左腕を見れば、その腕は無残にも焼け爛れ黒ずんでいた。
「まずいな……」
とっさに左腕で弾き落としたのは、火噴き鳥が吐き出す可燃性の吐瀉物だったのだろう。
腕を振るったことでいくらかは散らされていたが、粘性の高い液体を全て落とすことは出来なかった。そこに着火されたのだ。無事では済まないだろう。
装着していた[鉛の腕甲]は弾け飛んだように壊れ、鉛は溶けてもはや形を成していない。だがこの闘装は壊れる瞬間、ため込んだ神秘を開放し、炎を散らして装着者を守ったのだ。それがなければ今でも腕が火達磨になっているか、骨まで炭化していただろう。
アーロは動かない左腕を一瞥し、頭を切り替えた。左腕はもう使えない。おそらくはひどい火傷によるものだろうが、痛みを感じないことも今はありがたかった。
無事な右腕を支えに立ち上がり、叫ぶ。
「エリィー! ウェイン! マヤさん! ぐ……」
火噴き鳥に発見される危険性が増すが、まずは仲間の安否を確かめるためだ。
煙を吸い込みむせ、声を出すだけで傷に響く。左腕に大やけど、左肩にはくちばしによる刺し傷、爆風に煽られて全身を強打、重傷である。
「アーロっち! 無事!?」
「アーロォ! どこだ! げほっ」
「エリー! 叫んじゃダメ!」
呼びかけに応えたのはウェインだ。続いてエリーとマヤの声も上がる。
ひとまずは無事のようだ、と安堵するアーロだが、声はすれども三人の姿は見えない。
「あぁ、なんとか生きてる! 俺が見えるか!?」
「よかった! けどぜんっぜん見えない! ジャンプしてジャンプ!」
「出来るか! くそ!」
エリーを突き飛ばし、自らは離れるために逆方向に倒れ込んだ。
その直後に爆風に吹き飛ばされたので、三人がいるのはおそらく──。
「炎の向こうかよっ!」
だが、吹き飛ばされて気を失ったことで、どの方向かは検討がつかない。
地面に吐き散らされた火噴き鳥の吐瀉物は、勢いが衰えることはなく燃え盛っている。壁のように広がる炎を越えることは出来ない。さらに炎は下草や落ち葉、朽木などに既に燃え広がり始めている。ぐずぐずしていると炎に巻かれて逃げ場がなくなるだろう。
抜け道はないかと移動しつつ周囲を見回すアーロ。煙を極力吸わないように低姿勢を心がけるが、全身はひどく痛み歩みは遅い。
そして、抜け道ではなく、今一番見たくないものを見つけてしまう。
黒い火噴き鳥だ。
火噴き鳥は通常ならば吐瀉物を吐き散らし、自らは飛び上がって安全圏から着火するのだろう。だが、翼の片方を根元から破壊された黒い吹き鳥は飛ぶことが出来なかった。
それでも、黒い火噴き鳥は火を噴いた。爆風や炎は己をも焼き焦がすことは分かっているだろうが、それでも噴いたのだ。
「よう……。お互い辛そうだな」
思わず、そんな言葉が漏れるアーロ。
炎により橙色に照らされた火噴き鳥は、満身創痍と言ってもよかった。
ウェインに射抜かれた右眼、胸部。エリーの槍にもぎ取られた左翼。アーロの拳撃も内臓に少なからず損傷を与えているだろう。そして、下半身全体にわたる火傷。着火した際に炎に炙られたと思われる脚は焼け爛れ、腹部の羽は焦げて縮れている。
だがそれほどの傷を受けてもなお、紅い片眼はアーロを鋭く睨む。
《クココ……》
呼びかけに応えたのか、はたまた単に威嚇か、静かに喉を鳴らす黒い火噴き鳥。
隻眼になっても敵を捉える姿と、闘志が燃えているような瞳。炎に照らされる巨体。こいつはまだ戦う気だ。とアーロは感じ取った。
ならば逃げるか、戦いに応じるかを選ばなければいけない。どちらにせよ、この火の海の中では分が悪い。
「ウェイン! 火が回る前に逃げろ! 二人も連れてな!」
「アーロっちは!?」
「俺は……自力でなんとかする!」
「……分かった! 気を付けてね!」
物分かりが良いのか、それとも見捨てられたのか、とりあえずは離れることを了承するウェイン。
だがそれに異を唱えるのはエリーだ。
「一人を置いて逃げるなんて出来るか!」
炎の向こうから聞こえる、離せだの見損なっただのと叫ぶ声を聞き、アーロはふっと笑みをこぼした。
素直で、愚直で、優しい。いいやつだ、と思ったからだ。
「三人とも、逃げろ。火噴き鳥がこっちにいる。どうやら俺が狙いらしい」
「だったらっ! なおさらだっ! みんなで戦えば勝てる可能性はある!」
確かにそれは正しい。正しいが、現実的ではない。
火噴き鳥が吐き出した可燃性の液体は変わらず燃え盛っているし、下草や乾いた木には火が回り炎の壁があちらこちらに形成されつつある。
火の手の少ない戦場は限定的である。数の利を生かした戦い方は難しい。そもそも、火の壁を突っ切っての合流すら難しく、仮に成功したとして全身火傷を負った足手まといが増えるだけだ。
故に、場を離れなければならない。相手か、自分か。できれば両方だ。
「エリー」
アーロは静かに声を出した。あまり大きな声を出そうとすると、煙を多く吸い込んでしまう。これからの戦闘か逃走かを考えると、それはまずい。
「はぐれちまって悪いな」
声にならない声を上げるエリー。
その光景がアーロの眼に浮かぶようだった。
『いいか、はぐれないようにしっかりとついて来るんだぞ』
いつか森に入る前、先輩風を吹かせたエリーが言い放った言葉だ。森歩きは先達の言葉に従っていたが、それもここまでだ、そんな謝罪の言葉である。
「っ! アーロ! はぐれるなって言っただろう! 行くな!」
「行くぜ。森の案内は毎日してもらったからな。すぐに帰れるさ」
「違う! 嘘をつくな!」
「嘘じゃない。俺には自信がある」
「やめろ……」
「自信はあるんだが、ちょっと時間がかかるかもしれない。その時は、頼むから、探してくれよっ!」
一方的に宣言し、身をひるがえして森を駆け出すアーロ。
目指すは火の手の弱い、おそらくはエリーやウェインがいるのとは真逆の方向だ。
その背を追うように、黒い火噴き鳥も走り出す。
「アーロォッ!」
愛しき長耳族の慟哭を聞きながら、アーロは炎の海を駆けた。
◆◆◆◆◆
どれくらい、森を走り回っただろうか。
アーロは息苦しく弾む鼓動を整えるため、木立に寄りかかりながら深呼吸を繰り返す。
森の中に生み出された火の海から脱出するため、アーロは脇目も振らずに森を突き進んだ。何しろすぐ後ろを憎悪をたぎらせた黒い火噴き鳥が追いすがってくるのだ。樹木に目印をつける暇もなく、特徴的な構造物も目に入らない。
しかし、もし目星をつけていても無駄に終わっただろう。火噴き鳥はその巨体を武器に、立ち樹をなぎ倒し倒木を踏みつぶして追ってきていたからである。
自らと同じく相当に傷ついているであろう黒い火噴き鳥だが、巨体故に生命力は高く、むしろ痛みによって昂ぶっているかのようであった。
アーロはそれに受けて立つようなことはせず、ひたすらに逃げ回った。そして、矢傷によって黒い火噴き鳥の視界が狭まっていたことが幸いし、隠れ潜み撒くことに成功した。
「はぁ、はぁ。くそ……痛ぇ」
荒ぶっていた呼吸を整える。脅威が去ったことに安堵を感じると、途端に痛みが顔を出した。
アーロは腰に吊っていた水筒の魔術具を手に取り、蓋を開けようとする。
右腕のみでの作業はひどくもどかしい。苦労して蓋を開け、まずは清涼な水を喉に流し込む。長時間走り回ったことと、煙を吸い込み熱に焼かれたせいで喉はからからに乾いていた。
人心地つけば、左腕全体にゆっくりと水をかけていく。焼け焦げた腕は相変わらず動かなかったが、水の滴りを感じることができた。
回復が不可能なほどに焼け付いている訳ではないようだ、とアーロはひとまず安心した。
だがしかし、傷は予断を許さない。水で冷やしはしたが、火傷は早く処置しなければならないと経験から判断していた。
このまま木立に背中を預けて意識を手放してしまいたい思いを振り切り、アーロは移動を開始する。黒い火噴き鳥を撒いたと言っても、それほど距離を離せたわけでもない。
それに、既に日は傾きかけている。見通しがきくうちに食料、薬草の類、安全な隠れ場所などを見つけなければいけない。
痛みを訴える体を動かし、のろのろと歩く。知らず知らずのうちに森の奥まで入り込んでしまったようで、視界は悪く、出っ張った根に足をひっかけそうになる。
「くそっ」
不甲斐ない己の体を嘲笑うかのような道のりに、自然と恨み言が漏れる。
今日の昼までは、何もかもがうまくいっていた。己の生は祝福され、希望に満ち溢れているとさえ思っていた。
だがそれがどうだ。不意に障害物が現れ、何もかもを台無しにしていく。残されるのは傷ついた体、先行きの見えない暗い道だけだ。
アーロは脳裏に浮かぶ弱気な考えを振り払い、森を進む。差し出す足取りは重く、気を抜けば歩みが止まってしまいそうだ。もしそうなれば、再び立ち上がることは困難だろう。
ゆえに傷の痛みを我慢し、ひたすらに歩き続けた。
しばらく歩くと、小川に出くわした。人の腰ほどまでの深さの小さな川だが、水は澄んでいる。
アーロは迷わず水をかき分けて入り、左手を水に浸した。
「ぐうぅ……」
知らず、呻き声が漏れる。湧き水なのであろう川の水は冷たく、腰元までと突っ込んだ腕から上半身が冷やされる。
左腕を上げ恐る恐る右手で触れてみると、火傷を負った腕は熱を持ち、じんじんと疼き始めていた。慌てて再び川の水に浸す。今度は長く、じっとしていた。
やがてざばりと飛沫をあげて立ち上がり、川を渡って歩みを再開する。川に魚でもいれば食料を得るために留まったが、見る限りでは魚影はなかった。
火傷にしても浸して冷やすことはできたが、長時間ずっと体を冷やす訳にもいかない。アーロは歩き続けなければいけなかった。どこへ向かうかも定まらず。
だが、夕刻を前に日がかげってきたところで、歩みは止まってしまった。呼吸は荒く、視界はぼやける。鈍痛が呼吸のたびに頭を襲う。火傷の左腕に疼いていた熱が、体中にまわったような感覚であった。
体力を消耗しすぎていることから発せられる、良くない兆候である。歩くことはこれ以上困難だと判断したアーロは、周囲を見回す。
地面に倒れ伏したまま意識を失ってはまずい。またこれからの時間帯に、夜行性の危険な野生動物が現れないとも限らない。身を隠す場所が必要であった。
周囲はいずれも巨大な樹が並んでいたが、その中でもひときわ大きく、枯れかけた樹木の根元にある洞にアーロは当たりをつける。洞の中は枯れたのか何かに食い荒らされたのか、巨大な空洞になっていたためだ。そこにアーロは潜り込んだ。
枯れかけており青々とした枝葉はないが、この枯れかけの樹は太さだけなら長耳族の集落の《王樹》よりも大きく感じられた。そんな樹の洞は相当な広さがあった。
樹の洞の中は暗く、じめじめと湿気が多かった。しかし、周囲を囲まれている場所は安心ができた。少なくとも、死角からいきなり襲われることはない。
だがアーロは精神的には余裕ができても、肉体的には消耗しきっていた。徐々に大きくなっていた左腕の熱と疼きは耐え難いものへと変わっている。
暗く湿っぽい洞の中、樹木に背を預けて座り込み、うっすらと太陽光が差し込む入口を見やる。
ここで一晩身を休め、翌日にはまた歩き出そう。そんなことを熱を発する頭で考えた。しかし、体を休めても火傷をはじめとする傷がどの程度回復するかは分からなかった。
じっとして少しでも体力の消耗を抑えようとしたアーロだが、不意に、がさがさという不気味な音が樹の洞に響き渡る。慌てて周囲を見渡すが、暗闇の洞の中を反響した音はどこから発せられているかを掴めさせなかった。
痛む体に鞭を打って立ち上がり、右腕だけになった[鉛の腕甲]を構える。樹の壁を背に、目を凝らす。闇の中に蠢く何かがいる。左目がちりりと疼く。
「お邪魔しちまったかな……」
おそらくはここを住処とする何らかの生物だろう。すぐに襲われなかったのは、たまたま出かけていた所に潜り込んだせいか。
だとしたら、知らない間に己の住処にいる者をなんと判断するか? 外敵に他ならないはずだ。
すぐに襲い掛かってこないということは、様子を窺っているのだろう。近くに気配は感じるが、姿は見せない。暗く湿った空洞に、がさがさという足音が連続して響く。
「お暇するぜ……。害意はない」
言葉が通じる相手かどうかも不明だったが、アーロは小さくつぶやきゆっくりと歩き出した。
目指すは薄暗くとも夕刻の日が差し込む洞の出口だ。先ほどまでは樹の洞に逃れたことで安心感を感じていたが、今は外が、森がたまらなく恋しい。この住処の主を刺激しないように、そろりと歩みを進める。
出口への半ばまでは、問題なく進めた。
だが、さらに一歩を踏み出したとき、背後にがさり、とひと際大きな足音を感じた。アーロは反射的に、音の発生源を見やる。
暗闇のなかにかろうじで見えたのは、つるりとした黒い甲殻が重なった体節である。それらは太く、連なり、暗闇のなかへと続いていた。甲殻には橙色の脚が一対生えそろっており、それらが規則正しく不気味に蠢く。
そしてなによりも、大きい。連なる体節はアーロの胴と同じほどの太さをもっていた。
アーロは息を潜め、じっと相手を観察する。
甲殻の先はおそらく尻尾なのであろう。鋭く生えた剣のような棘が一本突き出され、ふらふらと揺れていた。尻尾が後ろにあり、連なる体節は闇の奥へと消えている。ならば頭はどこかにあるか。
正直なところ、前に向き直りたくはなかった。しかし、気力を振り絞りアーロは前を、己の目指していた出口を向いた。
その時ばかりは、左腕の耐え難い熱も忘れたかのようであった。
がさがさと音を立てて、闇の中からこの住処の主が姿を現す。視線は自然と上を向く。
樹の洞の出口を遮り姿を現したのは、大きな百足だった。
黒い甲殻と鮮やかな橙の多脚は、見る者に生理的な嫌悪感と危機感を催す。頭部に相当する部分には単眼と、人など容易く噛み千切れそうな大きな顎が備わっていた。
小山ほどもある大百足。この巨大な樹木の洞の主は、多脚をわさわさと蠢かせながら、じっと佇んでいた。
威嚇の様子もない。そもそもする必要もない相手と認識されているのかもしれない。
大百足の姿を一目見て、生物としての格が違う、こいつには勝てないとアーロは感じた。
片腕に傷を負っているとか、体が万全ではないとか、そういった次元の話ではなかった。
先ほどから左眼がちりちりと明滅する感覚があり、この大百足からは微かな神秘が感じられた。精霊か、森の主か、あるいはこの世界の神の使徒か。詳細は分からないが、力を持った生物であった。
こいつにかかれば、あの黒い火噴き鳥など、屁でもないだろう。
そして、力があるということは、知性もあるのかもしれない。
アーロは淡い期待を持って、からからに乾いた喉から声を発する。
「さっきも言ったが……」
刺激しないよう、ゆっくりと一歩を踏み出す。
「害意はない。ここには迷い込んだんだ」
さらに一歩、出口に近づく。
大百足を横目に迂回するような歩き方のため、目指す出口は遠い。
「寝床に入り込んですまなかった。すぐに出て──」
背後から、ひゅんという風切り音が聞こえた。
音を知覚した。それだけだ。反応はできなかった。
「──お?」
左腕に軽い衝撃が走り、ぼとり、と何かが落ちる音が続いて聞こえた。
アーロは何事かと己の左腕を見たが、肩から先には何もなかった。
「嘘だろ?」
思わず、そう口から言葉が漏れる。
信じたくはなかった。思考が認識を拒否していた。
アーロの左腕が肩口から断ち切られていた。
振るわれたのは、大百足の尻尾の先にある、剣のように鋭い棘だ。
今まで目を離さなかった大百足は、微動だにしていない。
その体節のしなりをもって鋭い棘を振るい、アーロの左腕を鮮やかな切り口でもって断ち切ったのである。
抵抗もなく切られた腕は、切り飛ばされることもなく地面へと落下した。肩口から血が噴き出す。先ほどまで熱かった体は途端に冷たく感じられた。
信じられない。こいつは強すぎる。なぜ俺がこんな目に。そういった様々な感情がアーロの脳裏を一瞬で駆け巡る。
だが、体は無意識に動いていた。体からお別れした左腕には見向きもせず、即座に出口へ向かって駆け出した。
再び、ひゅんという風切り音。
アーロは振り向きもせずに右腕の[鉛の腕甲]を盾のようにかざすが、振るわれた大百足の棘は熟練の剣士のように太刀筋を変え、装甲に包まれていない上腕部を断ち切った。
衝撃から、脚をもつれさせて地面を転がる。なんとか立ち上がろうともがくが、体を支え持ち上げるための腕は二本とも、役目を果たせず地に落ちている。
「あぁ。まずったな」
両腕から血が吹き出し、命の源が流れ落ちていく。続いて感じたのは、冷たさだった。それは腕から吹き出る血による失血の寒さだったのかもかもしれない。
走馬灯のように頭に浮かぶのは、ひまわりのような笑顔を浮かべる一人の女性だ。
「ごめんな」
アーロは体の芯まで凍えるような寒さを感じ、そのまま意識を失った。
アーロっち、ピンチ。




