閃光
閃光
雲は一層重くなり、大粒の雨が降り出したころ、薮入りの羽武沢家では流華が必要以上に忙しく働いていた。
「今日は大雨みたいよ。明日か明後日には雨も上がるみたいだから、一人の時に流華ちゃんがそんなに頑張らなくても大丈夫よ」
心配そうに声をかけるフミに、はい、と返事をした流華が洗い終わった洗濯物を抱えて物干し場へ向かう。洗濯物の乾燥は隣接するボイラー室の余熱を利用するので天気はあまり関係ないが、流華は猛烈な勢いで洗濯を済ませようとしていた。
流華はその後も失速することなく働き、夕食の準備のために台所へ向かった。冷蔵庫を整頓しようとする流華とそれにブレーキをかけるフミで夕食を作り、小沼と元木の分を詰め所へ運ぶ。夕食です、と流華が声をかけると、困ったようにキーボックスの中身を眺めていた小沼が振り向き、律儀にネクタイを直しながら笑った。
「お、今日は流華ちゃんが板長さんか」
今日の料理長は頑張りすぎです、とフミが笑いながら夕食をテーブルに並べていると、おつかれっす、と元木も戻ってくる。そうだ、とフミが遠慮がちに小沼に言った。
「台所のお湯が出にくいみたいです。お風呂の方は問題ないみたいなんですけど」
「ボイラーの調子が時々怪しいからな。後で直しておきますよ」
その後、居間では先日から塞ぎがちな朱鷺子、必要以上に家事に意欲的な流華、冷蔵庫に物がない事や給湯の不調などを心配するフミの三人が夕食をとった。無口ながらも箸を動かす朱鷺子の様子に安心したフミと流華が片付けの為に台所へ向かう。フミが給湯を心配しながらも食器を洗い、流華は洗浄済みの食器を乾拭きして片付ける。手入れを終えた朱鷺子の箸を箸箱に納めていると、流華はふと気配を感じて土間の方を見た。上着を着込んだ小沼が傘を持って勝手口に向かっていく。
小沼さん、と言いかけた流華は僅かに逡巡すると動きを止めた。雨の中へ出て行こうとする小沼をじっと静かに見つめる。
「さて、直してくるか」
呟いた小沼の声で、ふっと流華が先刻までの動きと表情を取り戻す。風呂の用意をしてくるとフミに告げ、急いで台所を出た。浴室ははすでに清掃されているし、湯船には湯を張ってある。流華はタオルなどの細々とした物を整えて朱鷺子の着替えを準備すると『お雛様の間』へ向かった。襖の外からそっと声をかける。
「お風呂の用意ができましたけど……大丈夫ですか」
返事がないのはわかっている。夕食の時も黙りがちで顔色も良くはなかった。失礼します、と断りを入れた流華は襖を開け、口も開かずにじっとしている朱鷺子の側に歩み寄る。朱鷺子は流華の持っていた着替えと箸箱を見ると、無言のままそれらを受け取って自分の膝に置いた。お連れします、と流華は朱鷺子の後ろに回って車椅子に手をかけ、強い雨音を聞きながら奥庭の廊下を進む。
詰め所に続く廊下へ出ると、流華はふと左側を向いてぽつりと言った。
「今、中の間に入ったの、小沼さんですね」
「……そう」
顔色のよくない朱鷺子が口を開くのも億劫そうに言う。顔を上げようともしない朱鷺子を気遣いながらも流華は不思議そうな声を出した。
「あの黒いの、旦那様の蔵の鍵ですよね。どうしたんでしょう」
「知らないわ。お父様の頼みごとでしょう、小沼のことはなぜか信用なさってるから」
小沼を嫌う気力は残っているのか、心底興味無いというように朱鷺子が鼻を鳴らす。流華は安堵しながら朱鷺子を風呂場まで連れていくと、急いで詰め所へと引き返した。
熱い湯に浸かり、少しばかり持ち直した朱鷺子は身支度を終えると車椅子で廊下へ出た。流華の姿はない。台所では漆器の手入れをしているフミがいるだけで、使用人の詰め所も明かりはついているが人の姿はなかった。
はす向かいの部屋に何気なく目をやると、中の間の襖が僅かに開いている。流華が気にかけていたのを思い出し、朱鷺子は中の間の襖を開けて車椅子の車輪を進めた。
明かりはついておらず、人の気配はない。壁際には樫の観音像やナマズが並び、白鞘が置かれた側には塩が盛られている。重くひやりとした空気を感じてふと奥に目をやると、そこにはぽっかりと黒い空間があった。
「小沼ったら、何を」
理解できない状況に、先刻までの不安感が蘇る。いつも羽武沢の背後にあった黒く重い扉は開け放たれ、墨のような暗がりが奥の蔵へと続いていた。
以前、羽武沢の機嫌がいい時に朱鷺子も一度だけこの中を見たことがある。刀箪笥が並ぶ蔵にはいくつかの陶磁器や木箱が置かれ、奥には精巧な作りの金のナマズと、緑色の衣をまとって赤いナマズを抱いている人形があった。
壁際を探り、中の間の明かりをつける。蛍光灯がつく瞬間を見ないよう目を閉じ、しばし間を置いてから目を開け、襖を閉めて蔵の前へ車輪を進めた。青白い光の中で見る蔵はどこか閑散としていて、以前より刀剣や陶磁器が減っているのに気付く。好みでないものはほとんど売り払ったらしい。
なまずもいない、と朱鷺子は不思議そうに金のナマズがいたはずの空間を見た。以前見たそれは池の鯉ほども大きく、写実的でありながらも優美な姿をしていて、まるで柔らかな金色の魚がゆったりと蔵を泳いでいるようにも見えた。これとナマズを抱いた人形は特別なんだと教えられたのを覚えている。
緑衣の人形は変わらずに赤いナマズを抱いて立っていた。こっちは健在なのね、と朱鷺子が何気なく車椅子から立ち上がろうとした時、突如、白く強烈な閃光と天地を引き裂くような衝撃が辺りに走った。
その瞬間、辺りが青白い光に満ち、世界に亀裂が入ったような音と衝撃に流華は思わず呆然として足を止めた。激しい雷雨の中、雨具を着て裏庭にいた流華は、離れの奥に見える土蔵を厳しい表情で振り返り、そこから急いで遠ざかる。
小沼がいるはずのボイラー室の側を大きく迂回して勝手口に戻り、白い息を吐きながら雨具を脱いで袋に入れる。冷たく濡れた顔を軽く拭き、詰め所の私物入れに雨具の袋を押し込み廊下に出た。
早く朱鷺子の側に、と焦る流華の耳に聞こえてきたのは、何かを叩きつけるような物音と、落雷のごとく怒り狂う羽武沢の声だった。流華の顔から一気に血の気が引く。羽武沢の帰りは深夜になると聞いていたのに、早めに戻っていたらしい。
中の間の襖は開いていた。廊下にはナマズや観音像、さらに白鞘の日本刀までが投げ出されたように転がっている。中の間に朱鷺子がいるのは間違いなかった。
表情の消えた流華が慎重に中の間へ近付く。いつの間に戻ったのか、部屋には濡れ髪の小沼も立っていて羽武沢を宥めている。
中の間にあった刀剣や骨董は乱雑に押しやられ、おもちゃ箱をひっくり返したような部屋の中心に帰ったばかりの羽武沢が立っていた。その先には横転した車椅子と、蹲っている朱鷺子が蒼白な顔で唇の血を拭っている。怒りに拳を震わせながら羽武沢が見ているのは開け放たれた蔵の中で、その視線の先には緑の衣を纏った人形が倒れていた。
「前から妙なことがあると思っていたら、これもお前か、朱鷺子」
「違うわ、それは、揺れたはずみで」
「ならば蔵を開けて何をしていた」
容赦のない声で言うと、羽武沢は虫を見るような目で朱鷺子を見た。朱鷺子は異様に汗をかきながら訴えるように言う。
「蔵は、蔵を開けたのは私じゃないわ、小沼よ。さっき小沼がお父様のお部屋に、その鍵を持って入るところを見たもの」
震える手で朱鷺子が指差す先には、小沼が昨日置いたままの古い蔵の鍵があった。小沼は困ったような表情を作りながらも一瞬愉快そうに口の端を上げる。羽武沢は工具の親戚のような古い鍵を拾い上げると鼻を鳴らして言った。
「馬鹿な事を言うな。錠は替えてあるんだ、この鍵でこの蔵が開くものか」
どういうことなの、と混乱したように朱鷺子が目を見開く。考えるような顔をしていた小沼が優しげな笑顔を作りながら、ひどく丁寧な口調で朱鷺子に言った。
「朱鷺子様、冗談ですよね? 私は、旦那様が戻ってくるまで元木と駐車場にいましたよ? 失礼ですが見間違いではありませんか?」
「嘘よ。だって……流華が」
「大丈夫ですよ、朱鷺子様。人形は倒れていただけで無事です。何かのはずみで倒れただけですよね、悪気がないのは旦那様もわかってくれますよ」
小沼は朱鷺子を庇うように前に出ると、心底気遣っているような声で言った。朱鷺子は目の前にある小沼の銀色のネクタイピンを忌々しそうに見る。
「当たり前よ。蔵はあなたが開けたんじゃない! 金のなまずがいないのも、あなたが隠したからじゃないの?」
「小沼がそんな馬鹿なマネをするか。あれは錠を替える時にもっと目立たん所へ移したんだ、こんな所に置いとらん」
「えっ」
息を飲むように驚きの声を漏らしたのは流華だった。その声に気付いた朱鷺子が縋るような目をして言う。
「ねえ流華、さっき小沼が蔵の鍵を持ってここに入ったのを見たわよね?」
朱鷺子の声に、小沼や羽武沢も振り向いて流華を見た。人形のように表情を失った流華は、言うべき言葉が見つからずに立ちすくんでいる。
流華? と朱鷺子は怯えるような目で流華を見た。流華が何かを言う前に、小沼は何かを察したように肯きながら朱鷺子に言う。
「流華ちゃんに言わせても仕方ないですよ。ご自分で見たというのは嘘ですか?」
「ねえ流華!」
這いつくばうように倒れたまま、朱鷺子が混乱しながら叫ぶ。流華は呆然と固まったように動きを止めて宙を見ていた。
「馬鹿が。小沼や流華はワシを困らせるような真似はせん。お前や美樹子のように恩知らずではないからな。小沼はワシが匿ってやってるようなもんだ、こいつはワシが殺せと言えば殺しもする。お前のように逆らうものか」
「羽武沢さん、そういうことはあまり、……それに明日は検査なんですから、血圧が上がらないよう抑えてください」
どこか笑いを堪えるような表情で小沼が羽武沢を窘める。羽武沢は動こうとしない流華を見ながら吐き捨てるように言った。
「拾ってやった小沼や流華はこれほどまともで忠実なのに、大事にしてやっていたお前がワシを騙していたとはな」
「……大事にされてた割には嫌われるのは簡単みたいね」
何を言っても無駄だと覚ったように、朱鷺子が諦めたような声でぽつりと言った。
「ああ、ワシはお前を信じていたのに、とんだ無駄だった」
「自分に都合のいいことを期待するのは信じるとは言わないってお坊さんが言ってたわ、お父様」
「お前がワシを父と呼ぶな。……まったく、美樹子は頭がおかしくなったフリをするわ、こいつは飼い主の手を噛むわ、人を馬鹿にしくさって」
額に青筋を立てた羽武沢が朱鷺子を睨みつけ、横転している車椅子を蹴り飛ばす。まあまあ、と小沼が羽武沢を宥める側で、朱鷺子は車椅子に手をかけ、ゆっくりと起こしながら言った。
「私は飼い犬だったの」
「黙れ!」
車椅子にしがみついていた朱鷺子が壁際に張り倒される。朱鷺子さま、と弾かれたように流華が駆け寄ると、羽武沢は流華を押しのけ朱鷺子を足蹴にしながら言った。
「母親に続いてこいつの頭までおかしいとは思わなんだわ、この穀潰しが。流華、もう朱鷺子の世話なんぞいい。外に放り出して枯れ井戸にでも捨てて来い」
「お母様を頭がおかしい事にして追い出したのはお父様でしょう」
敵意を隠さない朱鷺子が顔を上げて言い返す。朱鷺子の母親である美樹子を羽武沢が精神病だと言い張り、縁のある病院に無理矢理入院させたのは皆知っている。羽武沢は朱鷺子の言葉に取り合わず、転がっている骨董を眺めながら言った。
「まったく、粗悪品を掴まされて損ばかりだ。使い道のないものを拾ってやって、大事にしてやってるのはワシぐらいなのに。なあ流華」
「はい」
凍りついたような表情のまま、流華は何も見ていないような目をして言う。尋常でない怒声を聞きつけて廊下に駆け付けた元木やフミ達を一瞥すると、羽武沢は流華に向かって言った。
「いいか流華、こいつがこれ以上悪さできんようにちゃんと見張っておけ。土蔵に放りこんでも構わん。お前らも朱鷺子なんぞに飯を食わす必要は無い、こいつに物を与えるな」
「……解りました、旦那様」
「雨すごいわ、雷もガンガン鳴ってる」
ジャックに入るなりそう言ったのは藤盛だった。カフェオレ、と座る前からマスターに注文した藤盛がコートを脱ぎながら息をつく。カウンターには縞の和服を着た白野と、椅子ひとつ置いた所には静川が座っていた。さらに奥の席で肘をついていた雨崎は指を組みながら上機嫌で笑う。
「冬の稲妻か。心が引き裂かれるな」
なにそれ、と藤盛が首を傾げながら白野と静川の間に座る。マスターはギターを鳴らすような仕草をしながら言った。
「アリスですよね。『冬の稲妻』はコード進行がシンプルだから真っ先に覚えましたよ」
昌さんわかる? と藤盛に聞かれた静川が、いえ全く、と首を振る。雨崎は呆れたようにため息をついた。
「堀内孝雄と谷村新司を知らんのか」
「高校生なら知らなくていいんでしょ、ね、荘子さん」
藤盛に同意を求められた白野が両手でカップを持ったまま言う。
「とっとと帰らないとまずいんじゃないか、高校生」
「今外出る方がマズいって。昌さん、荒れ狂う嵐を沈めるご祈祷とかできない?」
「内なる暴風雨を鎮める術なら使えるつもりですが」
「鎮まってるの? 封印してんの? 辛くないの?」
そう言って藤盛が合掌している静川の肩をぐらぐらと揺らした。楽勝です、と念珠を手にしたまま親指を立てて見せる静川達に雨崎が横から口を挟む。
「もう少し歳とると波風ひとつ立たなくなる魔法が使えるようになるぞ」
「賢者じゃん。悟りきって世界が虚しくなるのに、昌さんもそれ目指してるの?」
「いいえ。私は転職できないので、魔法使いや賢者は君が清く生きて目指して下さい」
「いや、俺は線香の香る清く正しい僧職系より、危険な匂い漂う愛の狩人でありたい」
そう言って藤盛がマスターからカフェオレボウルを受け取った。地獄を見たいようだな、と睨む白野に藤盛は手を振りながら言う。
「いやいや、阿弥陀様は悪人を救うんだから地獄とかないよね、昌さん」
「どうでしょう、地獄はあるかもしれませんよ。親鸞の師匠である法然、またその師匠の源信和尚が纏めた『往生要集』には、八大地獄について詳しく記されています。例えば、殺生を悔やまないものが落ちる等活地獄は一兆六億年殺し合わされ、それに盗みが加わると黒縄地獄、十三兆年焼かれたり煮られたりします。さらに淫らな行いが加わると百六兆年押し潰される衆合地獄」
「なんで俺の顔見るの」
藤盛が不満そうに言った。静川は念珠を揺らして続ける。
「まだまだありますよ。その三つに飲酒が加わって八百五十兆年、さらに嘘や詐欺のオプションも付けば六千八百兆年、鍋や釜で煮られます。さらに仏の教えと違う事を説くと、体を分解されて五京年焼かれ続けるそうです」
京ってなにさ、と藤盛が横槍を入れると、兆×一万だな、とすかさず雨崎が答えた。
「さらに幼女や尼僧凌辱で大焦熱地獄、苦しみは半中劫、つまり永遠に近く続き、さらに親や聖者殺害が加わると、ほぼ永遠に苦しむ無間地獄に落とされます。地獄の一番深い所なので、そこへ落ちるまでに二千年かかるそうです」
「なんかその源信って人嫌い。盗んで嘘付いたら何兆年とかねちねち計算して、焼かれるとか煮られるとかそんな事ばっかり考えてたんでしょ。尼僧をどうこうってのはちょっとグッときたけど」
複雑な表情でカフェオレを飲む藤盛に、若いのになかなか通だな、と雨崎が感心する。
「俺は尼僧より天女様だ、寂聴さんはそっちに任せるよ。地獄より極楽だ、善行しよう」
「きのう二百円募金した俺に死角は無かった」
自慢げに胸を張る藤盛に、二百円じゃ蜘蛛の糸も短いぞ、と雨崎が鼻で笑う。静川は念珠をした手の人差し指を左右に振りながら言った。
「募金するのは素晴らしい行いですが、特別な人しか徳を積めないとか、徳を積んだ者のみが救われ、徳を積むほど救われるという考えは、人より偉くなろう、出し抜こうという心に繋がっていきます。これを『自力作善』と言って我々はよしとはしません。罪のあるなしに関わらず、衆生を救済するという阿弥陀様の本願、『他力』によって人は救われると親鸞は説きました。それを自分の力でコントロールしようというのは却って失礼ですから、念仏を唱えてあとはお任せしましょうよ、っていうのがウチの宗派です」
「セールストークおつです。どうせ死んだ後の話でしょ」
興味の無さそうな藤盛に、気楽でいいじゃないか、と雨崎が煙を吐く。お寺にもどうぞ気楽にいらして下さい、と静川は仏像のように目を細めた。
「シスターも巫女さんも舞妓さんもいないところに行って何が楽しいのさ。お寺って他に娯楽ないの? トランプとか花札とか百人一首とか」
そう言って静川をつつく藤盛に、坊主めくりでもしてろ、と白野がカップに口をつける。藤盛は体を傾け、おもむろに静川の黒い裾をめくりながら言った。
「めくっても得るものがないけど。ちゃんと穿いてるし」
「……お前は何を得るつもりなんだよ」
白野が顔を顰めて息を吐く。坊主めくりはそういう遊びじゃありません、と静川が反応に困りながら窘めると、座り直した藤盛は全く気にせず言った。
「にしても、昌さんいつも同じカッコですよね」
「いつも同じような恰好の人なんて私だけじゃないですよ」
静川がさりげなく雨崎を見ると、そうかな、と藤盛は白野を見ながら言った。
「いっつも和服だけど、荘子さんのは今日シマシマだし、見るたび色違うよ?」
「下着みたいに言うな。……うちは婆様が着もしないで残してった反物が山とあるから、洋服買ってる場合じゃないんだよ。お前んとこの姉貴もしょっちゅう和服着てるだろ、欲しけりゃ分けるよ」
そう言って白野が縞の袖をひらりと見せる。うちの姉ちゃん太めだからなあ、と憂鬱そうに頬杖をついた藤盛が思い出したように言った。
「そういやここんとこ、姉ちゃん和服でハブ屋敷にヘルプ行ってるよ。朱鷺子様がまた調子悪いって心配してた。またなんか憑いてるんじゃん?」
またそういう事を、と静川が息をつくと、よく付き合えるな、と白野が片肘をついた。俺もそう思う、と藤盛が素直に肯く。
「あそこって別世界だしオッサン怖いから、みんな朱鷺子様のこと女王様みたいに扱ってるんだけど、ウチの姉ちゃんちょっとポジション違うから結構タメ語で話せるんだよね。慣れてるから気味悪いのも平気だし」
「気味が悪い?」
「昔からプチ神隠しみたいなのに何度か遭ってるし、何かが取り憑いたみたいに黙りこんで様子がおかしくなるらしいよ。マドカの弟も言ってたけど、給食中でも食べるのやめて固まるんだってさ、目と口閉じて脂汗流して。いきなり駆け出して視聴覚室で見つかったこともあるって。車椅子になったのも、お付きの子が目を離した隙に飛び出して事故に遭ったらしいよ。朱鷺子様の母ちゃんがいた頃はそういうのあんまりなかったらしいから、生霊とか呪いかな」
そう言って藤盛が静川を見る。静川はそれに答えず考えるような顔をして言った。
「朱鷺子さんが事故に遭った話は私も祖母から聞いたことがありますが、お母さんの事はあまり聞かないですね。入院してるんでしたか」
「あれムリヤリだって。ストレスで弱ってるのを難癖つけてその手の病院に叩きこんだって聞いたよ。リコンとかはしてないけど今は遠い実家で療養中だって」
「羽武沢に嫌われると家族でも叩き出されるって本当なんだな」
呟くように言って白野が肩をすくめた。マジマジ、と藤盛は身を乗り出して言う。
「使用人なんかガンガン叩き出されてるよ。朱鷺子様がおかしい時って刀剣とか木彫りのナマズなんかが外に投げてあったりするらしいんだけど、羽武沢のオッサンは使用人の仕業だと思ってるから。朱鷺子様も黙りこんでご飯食べないだけならいいんだけど、急に居なくなって、あとから蔵とか長持の中にいるのが見つかったりしてるし」
「おかしいのはご主人様の娘ですとは言えないか」
気の毒に、と白野がコーヒーを飲み干す。オッサン怖いもん、と藤盛もため息をついた。
「だから朱鷺子様がヤバそうな時はみんなめっちゃ警戒してたらしいよ。刀剣とかが外に出てたらオッサンに見つかる前に回収したり、朱鷺子様を見張ったり、いない時は探しまくったって。でもそうなると朱鷺子様は朱鷺子様でそれが気に入らないから、使用人辞めさせようとして、人の入れ替わりが激しかったらしいよ」
「緊張感のみなぎる職場だな」
「でも、ここ数年は落ち着いてたんだって。朱鷺子様がいきなり黙るのはいつものことだけど、箱の中から出てくるようなことはなくなって、羽武沢のオッサンも機嫌がいいから平和だって。お供の子と相性がいいからじゃないかって姉ちゃんが言ってた。ただ最近変なことが続いてて、なんかのタタリじゃないかって羽武沢のおっさんがしょっちゅう仏壇拝んでるらしいよ。覚えのない物が車にあったとか、車の防犯設定がオフになってたとか、何が怖いのかよくわかんないけど」
「なんだそりゃ。幽霊がちょっかい出したくなるほどいい車乗ってたか?」
「ん、普段運転手つきで乗ってるのが黒いレクサス。使用人は住み込みだから車ないけど、秘書っぽい人はハリアー置いてるかな。あと最近雑務の人が古いトレノ」
「そういえば、朱鷺子さんはトレノが嫌いだと先日聞きました。そして好きなのはシュークリーム」
涅槃会での小沼の話を思い出しながら静川が言う。他にも朱鷺子は真弓子の下げていた十字架や小沼そのものもあまり好きでは無さそうに見えた。なに言ってんの、と藤盛が手のひらを振る。
「朱鷺子様はシュークリーム嫌い。特にチョコのかかったやつが嫌いだってさ」
「あ、あれ小沼さんの冗談だったんですね。それにしても、あんなにおいしいものを」
藤盛が小降りになってきた窓の外を窺いながら言った。
「雨も傘も嫌いだって。昔から学校も車で送迎されてたから、傘持ってきたことないってマドカの弟が言ってた。でも雨は嫌だから、お付きの子が天気予報チェックしてるって。低気圧がどうとかナントカ前線とか、大気が不安定だとかよく知ってるってさ」
「そりゃ律儀というか、有能なお付きだな」
煙草を灰皿に押しつけながら雨崎がしみじみと言った。藤盛も目を閉じて深く肯く。
「お付きの子はなんかすごいらしいよ。朱鷺子様の敵もやっつけるし」
「やっつけ……あの、どういう敵を、どういう風に」
「どうって、朱鷺子様があんなんだし敵だらけじゃん? 小学校の頃はイジメっぽいのもあったみたいで、学年違うのにお付きの子がしょっちゅう教室に来て護衛してたらしいよ。一度血まみれになったって」
「血まみれって、その、お付きの子がですか」
静川が眉を顰めながら恐々と尋ねると、藤盛も眉を顰めながら言った。
「それがさ、一度エスカレートして石投げられたことがあったんだよ。その時お付きの子が朱鷺子様を庇って頭に怪我したんだけど、無言で反撃して相手の男子を血まみれにしたらしいよ。朱鷺子様の二つ下なのに。ヤバくない?」
「お付きの子というのはやはり、八年ほど前に引き取られた……」
白野の様子を気にしながら、静川は聞き辛そうに確かめる。それそれ、と片肘をついた藤盛が静川を指差しながら肯いた。
「霧矢流華」
雷鳴が遠ざかり、雨脚もゆるみはじたころ、流華は畳の上で放心している朱鷺子の服を払っていた。櫛の入ったポーチは詰め所の私物入れに入ったままなので、指で朱鷺子の乱れた髪を丁寧にほどく。
あれから羽武沢は蔵で倒れていた人形を抱え、こことこいつを片付けておけ、と小沼と流華に命じて部屋を出ていった。小沼は羽武沢の寝床を仏間に用意するようフミに頼み、そのまま帰るように言った。
まだ青ざめているが、朱鷺子の異様な汗は引き始めている。普段なら口も開けられない状態を押して気丈に振舞っていた反動か、羽武沢が出て行ってからの朱鷺子は虚ろな目で力を失ったように座り込んでいた。朱鷺子に寄り添っている流華が呟くように尋ねる。
「小沼さん、ボイラーを直してたんじゃなかったんですか」
「ボイラーはこれからだよ。その前に駐車場で車を直してたら、旦那様が予定より早く戻って来たから慌てて傘を渡したんだ」
「くるま?」
聞き返した流華の隣で朱鷺子が微かに眉を顰める。小沼は優しげな顔で朱鷺子に諭すように言った。
「朱鷺子様は時々、リモコンやキーを持ちだして車のセキュリティをオフにしてしまうんですよね。今日もキーボックスの鍵の位置がずれていたので気がついたんです。旦那様には言ってませんが、防犯上必要なので直していたんです」
ねえ、と微笑みかける小沼を朱鷺子が睨む。零れた盛り塩を片付けていた元木が驚いたように口を挟んだ。
「え、んじゃ俺の車も?」
「レクサスとかに後付けした高感度の奴だけだよ。お前の車にセキュリティなんていらんだろうが」
そんな、と泣きそうな顔の元木を無視して、小沼は蔵の刀剣や陶磁器、木箱の数を確認すると首を傾げた。
「そんなことより……まあ、こっちもどうでもいいっちゃいいんだが、木彫りナマズの箱が一つないな。ぎっちり紐でくくってある立派な箱があったはずなんだ。あれ以上興奮させるわけにもいかないから旦那様には言わなかったが」
「木彫り、ですか」
車椅子を起こしていた流華が考えるような顔をしながら聞き返す。
「頂き物なんだ。中身より箱が立派で『黄金楠福鯰置物』って書いてある」
「黄金……くすのき」
「光沢があって黄みの強い楠だよ。でも形が気に入らないから羽武沢さんにとってはどうでもよくて、とりあえず箱のまま蔵に入れてた……と思ったんだけどな」
そう言って小沼がちらりと朱鷺子を見る。朱鷺子は小沼の視線を無視すると、車椅子に手をかけゆっくりと乗りこみ、側にいる流華に静かに聞いた。
「流華、あなたどっちの味方なの」
「……朱鷺子さまの味方をするのが私の仕事です」
流華は表情を消して答えると、一瞬小沼に視線を走らせた。小沼は朱鷺子の側に寄り、申し訳無さそうな表情を作る。
「旦那様の命令ですからね。流華ちゃんは今、朱鷺子様のお世話をしたくてもできないんですよ。でも流華ちゃん、俺に免じて今まで通り朱鷺子様に接してあげてくれないかな?」
そう言って小沼が流華を覗き込むように見た。黙ったままの流華に朱鷺子が言う。
「……無理することないわ」
「とにかく、遅くなる前に流華ちゃんは朱鷺子様と部屋に戻った方がいい。羽武沢さんの命令には背けないけど、朝には機嫌が直ってるかもしれない。そうじゃなくても朱鷺子様に食べるものはあげないといけないしね、一応」
「わかりました」
「お父様に逆らわなくてもいいわ。座敷牢で飢え死にさせてから土葬するのが昔からのお約束なのよ」
どうでもよさそうに言う朱鷺子に、流華は黙ったまま拾った箸箱を朱鷺子に持たせる。お先に失礼します、と小沼や元木に頭を下げて退室した流華は、朱鷺子を乗せた車椅子を押しながら小声で言った。
「明日の朝食までは、冷蔵庫に用意してあります」
「……それより、まだ頼みごとをしてもいいなら、私の携帯を鳴らしてくれない? もう必要ないだろうけど、見当たらないの」
まだ青白い顔の朱鷺子が言う。それなら、と流華は『お雛様の間』へと車椅子を静かに移動させ、襖をそっと開けた。廊下に朱鷺子を待たせたままひな壇へ近付き、右大臣の足元から、毛氈の色に同化していた朱鷺子の赤い携帯電話を持ちあげて見せる。
「さっき、ここに置いてました。赤い所に置いたから、わからなくなってたんですね」
流華は小さな声でそう言うと、林檎のストラップがついた携帯電話を朱鷺子に渡した。襖を閉め、車椅子に手をかけた流華の動きがふと止まる。小さく息をのむ気配に朱鷺子が様子を窺うそぶりを見せると、流華は再び静かに移動を始めた。
「……携帯があってよかったです。朱鷺子さま」