藪入り
藪入り
「生きているのが辛いんです。なんかもう死にたくなります」
人生は苦である。全てのものは実態がなく空であり、永遠に満たすことはできない。それでも求めてしまうがゆえに、人は辛さや苦しみから逃れられない。それは厳然たる決まりごとのようなもので、当たり前のことだ。それを苦しみ以外のものに変える手助けをするのが静川の役割でもある。
「そうなんですよね、私も時々思います。でも何十年かすれば嫌でも死ねるみたいですよ」
「何十年も生きるとかがもう面倒で嫌なんです」
天気や気圧のせいもあるのだろうか、と静川は二月の冷たい曇り空を見上げる。寺の軒先で静川と話している青年は、課題やストレスが溜まると人生に疲れたとか死にたいなどと言い始める近所の大学生だった。以前は園や母が応対していたが、最近は副住職向けの案件だと判断されて助けが来ない。
「ですが仏教的には、悟りを得た者以外、死んでも執着や無明の煩悩により何度も生まれ変わってしまうそうですよ。うちは『悟りを得なくてもいい派』ですが」
「そんな、お願いします。もう生まれ変わるのも面倒なんです、早く楽になりたいです。苦痛なしに一発でパスしたいんです」
追試が嫌でノートを借りにきた学生のように青年が拝む。静川も思わず手を合わせ、試験の要点を教えるように言う。
「お急ぎのようですが、ここは慎重に取り組んだ方がいいですよ。現世の身体を軽んじていると極楽浄土どころか逆に耐えがたい激痛と吐き気にのたうちまわり、刃物で刺された方がマシに思えるほどの苦しみを味わうこともあるようですから」
「マジですか」
「マジです。地獄を見た人はそう言っていました。さらに想像を絶する精神的苦痛が待っていたそうです」
雨崎の話を思い出しながら真剣な顔で言う。不摂生な生活をしているのか、青年は眠たげで肌つやもいいとは言えない。浄土往生のためにも健康管理は大切だ。
「未熟な我々が、望むまま苦もなく安らかに死ねると思いますか? 人が完全に死ぬまで時間を要します。呼吸や心臓が止まったところで全ての器官や細胞が一瞬で死ぬわけではありません。苦痛の有無なんて本人以外わかりませんよ?」
「でも、オウジョウソクジョブツって住職さんが言ってましたよね? 死ねば個人のスペック関係無しに極楽のサーバ的なものに即ログインできるんですよね?」
「はい、往生即成仏です。人は阿弥陀様のお力ですみやかに浄土へ往き仏になりますが、浄土にアクセスできるのは肉体が消滅してからです。その直前までの環境を整え、生きている内にお念仏でアカウントの登録を済ませるのは自分自身ですよ」
自分の説明に疑問を感じながらも静川が気迫を込めて言い聞かせる。このままじゃ駄目なんですか、と悲しげな声を出す青年に静川は大きく肯いて続けた。
「心と体の調整は重要ですよ。即身仏のように木の皮や漆を食す必要はありませんが、嗜好品は控えて健康的な食生活を心掛けましょう。睡眠不足も大敵です。そして恩ある人達にお礼を言い、借りている物はささやかなものでも返却しましょう。嫌いな人にかまけている時間はありませんよ」
「待ってください、メモします。借りてたゲームどうしたかな……くそ、掃除しないと」
背負っていたバッグからノートを出してメモを取る青年に、静川が地蔵のような笑顔で提案する。
「でしたら、身辺整理を兼ねて部屋を掃除しませんか。引き出しからパソコンまで念入りに、誤解を招きそうな履歴や見られたくないものは始末しましょう。遺品整理で遺族がとんでもないものを見つけてしまう悲劇は多発していますから、ぜひやるべきです」
「そうですよね、ヤバいところでした」
「お棺に入れる物もよく考えましょう。本当に好きなものを吟味し、実際に手元に置いてみてください。自分の部屋をとっておきの棺桶だと思って、どうでもいいものは処分しましょう。これには時間をかけていいですから、お金や生活必需品はまだ手離さず、学校やアルバイトも続けましょう。お棺のお供が決まったらまた来てください。くれぐれも自力で死のうとしてはいけませんよ」
「わかりました、がんばります! ……お棺に何を入れようかなあ、ってまだ早いか」
「その意気です。お部屋の中身はお棺の中身ですよ」
どうぞご自愛下さい、と静川は遠ざかる青年に合掌する。人が煩悩や執着を手離すことはできない。時間をかけて健康的で快適な生活を手に入れたころには心境も変わるだろう。それでも次のステップを求めてきたら、次は剃髪を勧めてみよう。
静川が遅めの昼食をとりながら青年の健勝と更なる発展を願っているころ、羽武沢の屋敷の前では青緑色の和服姿をしたフミが黒いコートにサングラスをした男に呼び止められていた。
「すみません、こちらはお寺じゃないんですよね」
「え、いえ、お寺って……この辺でしたら、浄桂寺さんのことでしょうか」
そう言ってフミは男の太い眉を見る。身なりは悪くないが、見かけない顔だ。
「ああ、それですそれです。葬儀の打ち合わせに来たんですが、この辺は初めてなもので。遠目に立派なお屋敷だったので、お寺と勘違いしてしまって」
男は低い声で言うと、フミの視線に応えるようにサングラスを外し、恥ずかしそうに笑った。そうですよね、とフミは思っていたより優しげな男の目に安堵しながら浄桂寺の位置を説明する。男は葬祭業をしているらしく、浄桂寺へ出向くはずが反対側の羽武沢家に来てしまったらしい。
「どうもありがとう。こんなに優しくて素敵なお嬢さんがいる町に迷い込んだのは幸運でした」
男は丁寧に頭を下げて穏やかに笑うと、いえそんな、と耳を赤くするフミの白い太鼓帯の隙間にそっとナマズの根付を忍ばせる。それでは、とフミが羽武沢家の門をくぐり、男はサングラスをかけて道路の脇に停めてある黒い車に乗り込んだ。
フミが勝手口から廊下に出ると、ことん、と真後ろで音が聞こえた。立ち止まって振り向くと、板張りの廊下に小さな木彫りの魚のようなものが落ちている。
あら大変、とフミはそっと魚を拾い上げて汚れや傷の有無を見た。どんなに小さくとも羽武沢が集めている骨董、それも魚のものならば、廊下に転がっていたと知られれば大変な事になる。ナマズならなおのこと羽武沢の部屋に戻しておかなくてはならない。
フミは魚をとりあえず袂に入れ、使用人の詰め所で予定や使用人の出勤表を確認する。使用人達は明日の金曜から三日間ほど休みを与えられているので、その間フミが屋敷を見ることになっていた。羽武沢もこの時期は出張が入るので、今年は元木が朱鷺子や流華と屋敷に残ることになる。
奥庭の見える廊下へ出ると、学校から戻っていた朱鷺子が一人で外を眺めていた。流華は出かけているという。
今日の朱鷺子は沈みがちで口数も少ない。もとより陽気な性格ではないが、昔から朱鷺子は時折こんな風になる。フミも一緒にどんよりとした空を眺めていると、しばらくして敷地内に車が入ってくる気配があった。
フミが勝手口へ行くと、紙袋を持ったコート姿の流華と、パーカーにダウンベストを着た元木が戻っていた。俺が車を出したんすよ、と得意気に言う元木の隣で、友枝さんのところです、と流華が付け加える。
「お歳暮で頂いた蜂蜜を、真弓子さんにお裾分けしてきたんです」
台所へ向かった流華は、普段使わない棚の奥から紅茶用の茶器を出して準備を始めた。フミが感心してため息をつく。
「紅茶なんて珍しいのね」
「蜂蜜のお返しに頂いたんです。入れ方を真弓子さんに教わってきました。あと、鳥も見せてもらいました」
そう言って流華は手にしていた紙袋から紅茶の缶を取り出す。紙袋にはクローバーのシールが貼られていて、紅茶を入れる際の要点が書かれたメモが添付してあった。台所に入って来た元木も青い顔をして口を挟む。
「あのインコはびっくりですよ。めっちゃしゃべるから」
「ピエールは頭がいいそうです。何度も教えなくても、短い言葉なら一度聞いただけで覚えることもあるって言ってました」
元木に説明しながら流華はお湯を沸かしはじめ、冷蔵庫からラップフィルムのかかった琺瑯のバットを取り出す。結構すっきりしてるのね、と冷蔵庫の中をちらりと見たフミが心配そうに言うと、明日から薮入りっすからね、と元木がのびをして言った。やぶいり? と首を傾げる流華にフミが笑って教える。
「本来は、住み込みのお手伝いさんとかがお盆正月にもらえるお休みのことを薮入りって言ったの。ところで、食材足りそう?」
「はい。旦那様は明日まで出張だし、土曜は朝から血液検査に行くことになってるので、朝食は抜きなんです。今日はこれから私が朱鷺子さまにおやつを作る約束をしてるので、夜はちょっとで済みます」
そう言って流華はフライパンを火にかけ、バットに仕込んであった食パンの何切れかを弱火で焼きはじめた。玉子色の液体に浸されていた厚切りのパンはふんわりと膨らみ、しばらくすると甘い匂いが漂ってくる。フレンチトーストね、とフミが食器を出すと、これも教わったんです、と流華は恥ずかしそうに肯いて箸置きをお膳に乗せた。フミが思わず流華に尋ねる。
「朱鷺子ちゃんって、フレンチトーストもお箸で食べるの」
「……お豆腐みたいだし、朱鷺子さまが今使っているお箸は使いやすいみたいです。……元木さんも、紅茶飲みますか」
アップルティーですけど、と流華が緑色の缶をちらりと元木に見せる。いやいや俺は、と元木が辞退して出ていくと、流華は大きな急須を温めながら三人分の茶葉を計量し、沸騰を確認して慎重にお湯を注ぐ。時計の秒針を睨むようにして時間を計っている流華の邪魔をしないよう、フミは黙ったまま袂を探った。ほのかな林檎の香りが漂うなかで流華がカップに紅茶を注ぎ分けると、フミは落ちていたナマズを見せる。
「お茶持って行く前に、これ、どこの子かわかるかしら? 廊下に落ちてたから、慌てて拾ったんだけど」
「ええと……たぶんわかります」
戻しておきます、と流華はフミから小さなナマズを受け取り、普段から肩に提げているポーチに入れてフライパンの火を止めた。焼き上がったフレンチトーストを流華が三人分の皿に盛り付けると、フミは二人分の箸を手にとって流華に笑いかける。
「朱鷺子ちゃんがお箸なら、私達もおんなじにしましょう」
雛人形の間で女子達が紅茶を嗜んでいるころ、小沼は出張先の社員に羽武沢を任せ、屋敷へ戻っていた。夜には使用人達のほとんどがいなくなるので、屋敷は普段以上に整然としている。特に休暇を申請することもない小沼は、羽武沢の送迎がある翌日の夜まで時間を持て余していた。
「あっ、小沼さん、聞いて下さいよ。インコがしゃべったんです!」
小沼が暇つぶしがてら敷地内を巡回したのちに使用人の詰め所に戻ると、テーブルでバナナを食べようとしていた元木が待っていたように言った。小沼は黙ったまま上着を脱いでネクタイを外し、向かい側の椅子に座ってテレビをつける。
「ちょっ、無視しないで下さいよ」
したくもなるだろう、と小沼が呆れたように横目で元木を見ると、なんでですか、と青々しいバナナを手にしたまま元木が捲し立てた。
「友枝さんのところの、真弓子ちゃんのインコですよ。やっぱり星尾さん、時々真弓子ちゃんに会いにあそこへ行ってるみたいで、インコがマネしてたんです。パパだよマユコ、って言ってたんすよ?」
「……どんな状況だよ。それこそ幽霊のやることだ、大体あの娘がどうしてそんな話をお前にするんだ」
「もちろん内緒にしてって言われてますけど、俺ってなんか話しやすいとかじゃないですか? 星尾さんが鬼の面つけて来るとか、亀に乗ってくるとか、気味悪い話もちゃんと怖がらずに聞いてあげてるし」
「それ、真弓子ちゃんが言ったのか」
テレビを眺めていた小沼がふと元木に向き直った。バナナを持ったままの元木が肯く。小沼が考えるような顔で何かを言いかけた時に小さなノックが響き、おつかれさまです、と流華が入って来た。小沼さん、と肩から提げているポーチからナマズの根付を取り出して見せる。
「これ、旦那様の蔵にあるものじゃないですよね」
「旦那様の蔵? ……ああ、人形の事か」
流華の小さな手のひらにある根付を眺めていた小沼が、顔を上げて笑いながら続けた。
「似てるけど違うはずだよ。あれはあのままじゃ外れないようにできてるから。これ、誰かのお土産じゃないかな、どこにあった?」
「さっき帰ったフミさんが廊下に落ちてたって言ってましたけど……あの、本当に、旦那様の蔵にあるのじゃないんですよね」
心配そうに尋ねる流華に、確かめてみるか? と小沼が悪戯っぽい顔をしながら笑う。壁に設置されたキーボックスから小さな鍵を取り出し、その鍵ですぐ脇にあるもう一つのキーボックスを開けた。一見古風な黒い棒鍵を取り、流華の目の前にぶら下げて見せる。
「これ、蔵の鍵ですか」
「一応、それっぽいのに付け替えたんだ、あの蔵だけ。もとの鍵はもっと大きくて複雑で、開けるのが難しいから旦那様も面倒だったのさ。もとの鍵はこっちだ」
そう言って小沼は物入れの奥を探り、取っ手の先がL字型に曲がっている黒い鉄の棒を出して見せた。鍵じゃないみたいです、と流華が珍しそうに目を見開く。
「昔の鍵はいろんな形があるよ。軍配や瓢箪みたいな形もあるし、伏見稲荷の狐が咥えてる蔵の鍵は四角い渦巻きになってる」
小沼が古い鍵を手にしたまま『中の間』へ流華を促すと、詳しいんすね、と元木もバナナを持って流華に続いた。俺はそっちが専門だからな、と呟いた小沼は中の間の襖を開け、普段は羽武沢の背後にある黒い扉の前に立つ。ほら、と手にしている古い方の鍵を流華に見せた。
「錠も鍵穴も違うだろう。以前はこっちの長い方を差し込んで、内側を探りながら押したり引っ張ったりしてさらに別の鍵を使わなきゃいけなかったんだ。旦那様じゃなくても面倒だろう?」
パズルみたいです、と流華が感心したように肯くと、開けらんないっす、と元木も納得しながら苦笑いする。小沼も笑いながら面倒な古い鍵を長火鉢の側に置き、一見古く重々しい錠に、一見古風な棒鍵を差して解錠した。慎重に扉を開き、その奥を眺めて言う。
「……流華ちゃん、やっぱり違うよ。こっちはちゃんとナマズがついてる。そっちのは見覚えもないし、ナラさんとかヤエさんたちのお土産じゃないか?」
なんでしたっけ、と元木も珍しそうに蔵を覗きながら呟いた。四畳半ほどの蔵の中はひやりとしていて、金色の衝立やら重々しい金具のついた刀箪笥が並び、その上には絵皿や壷、刀掛けや木箱が置かれている。元木が凝視しているのは正面にある仏像ともマリア像ともつかない人形で、赤いハートにも見える物体を大事そうに抱きかかえていた。小沼が扉の側にある照明をつけて中へ入ると、流華もおずおずと蔵の中へ入る。
「オヤジさんのご本尊さ。あの人はナマズ弁天って呼んでる。まあ、ここはナマズっていうよりクジラ関連の置き場だったんだけどな。とにかく、オヤジさんが人に触らせるどころか見せたくもないってものを置いとく所だから、お前も見なかったことにしとけよ」
小沼が脅かすように笑って元木を見た。流華は自分の手にある小さな赤いナマズを見る。深緑色の衣を纏った人形が抱いているのも赤い木彫りのナマズだった。ゴホンゾンすか、と元木が神妙な顔をすると、困ったように笑いながら小沼が続けた。
「あの人何年か前に、顔の左半分がただれたことがあっただろ。その時、人形の顔も左側が汚れてたらしい。それで慌てて顔を丁寧に拭いたら、オヤジさんの顔も治ったそうだ。その手のことが何度かあったらしくて、信心深い旦那様は人形を大切になさってるのさ」
「え、あれってギンナンにかぶれたんじゃなかったっすか」
「皆そう思ってるけど、本人は人形のせいだって信じてる。朱鷺子様が事故に遭ったのが決定打だな。あの時も人形が蔵の中で倒れてて、足の辺りに倒れた壷が乗ってたそうだ」
「え……なんか、そういういわくのあるヤツなんですか?」
「いや全く。そういう価値のあるものじゃないんだけどな」
参ったもんだ、と腕を組む小沼に、蔵を見回していた流華が不思議そうに聞いた。
「価値はないんですか」
「いや。この作者の作品はちょっとした秘密があるんだ。いくつか出回ってるけど、どれもなかなか価値あるものだったらしいよ。こいつにもそれなりの価値はあるはずだけど、中の小銭の為に貯金箱を割るのも無粋だからね。その辺は星尾の娘さん次第だな」
「そういや、俺の車にシール貼ったり本置いてったの、やっぱり星尾さんですよ絶対。前から俺が好きそうな雑誌とかは読んだ後俺にくれたし、このバナナだって星尾さんがくれたのかも」
手にしていた青々しいバナナの皮をむきながら元木が言った。なんでだよ、と小沼が頭痛を堪えるような顔で睨むと、元木はまだ固そうな中身にかぶりついて続ける。
「駅前歩いてて、なんか肩が重いなーと思ってたら、パーカーのフードに入ってたんです。これ、俺の好物なんすよ」
元木が得意気に食べかけのバナナを見せると、まだ皮が緑色の固そうなバナナに流華が複雑な顔をする。気付けよ、と小沼が眼鏡を押さえながらため息をついた。
「よくそういうもんを平気で食えるな」
「なかなか売ってないんですけど、俺、バナナは熟した黄色いやつより、これくらい緑色で固くてえぐい方が好きなんです。でもこれ、星尾さんにしか教えてないんすよ」
「そういう事じゃなくて……まあいい、本だの雑誌だのって何の話だ」
「俺ずっとハチロクのトレノ探してたじゃないすか。あの人雑誌とかでその手の記事見つけると、いつも蛍光ペンで印つけて俺の車に置いといてくれてたんです。俺が緑のバナナ好きって話したら買っといてくれたこともあったし、悪い人じゃなかったんすよね」
バナナを食べながらしんみりした顔をする元木に、刀掛けや木箱を見ていた流華が不思議そうな顔で尋ねた。
「元木さんの車に、本があったんですか」
「そう、昨日コンビニから戻ってきたら車の上に置いてあって、中に緑の蛍光ペンで線引いてあったんだよね。星尾さんいつも緑の蛍光ペン使ってたんだよ。オヤジさん……旦那様は死んでるって言ってるけど、実は生きてて俺や真弓子ちゃんの所に来てるのかも」
「生きててもそんなことする意味がないだろ」
「じゃ、やっぱり死んでて、なにかしら俺に伝えたいことがあって来てるんすかね。星尾さんは死んでるって、オヤジさんもマジで言ってたし」
「死んでてもお前に伝える事なんかないだろ」
アホらしい、と疲れたように小沼が息を吐いて蔵を出る。元木は食べ終えたバナナの皮をじっと見て不安そうに聞いた。
「じゃあ小沼さんは、生きてるって思ってるんですか? オヤジさんは『星尾は七年前に殺された』って見てきたように言ってるし、小沼さんが証人みたいに言ってましたけど」
「俺が殺して埋めたって言ってなかったか」
「さすがにそんなことは……ないっすよね?」
蔵から出た元木が泣きそうな顔で小沼を見ると、どうかな? と小沼は楽しそうに笑った。
「まあ、星尾が生きてようが死んでようが俺はどうでもいい。どっちにしろ車にシール貼ったりフードにバナナ入れるなんてバカなことはしないと思ってるだけさ。真弓子ちゃんの話だってそうだ。生きて娘に会いたいなら屋敷に忍び込んだりしないでどこかに呼び出せばいいし、死んでるなら枕元にでも立てばいい。あのしっかりしてそうな娘の妄想とも思えないけど、なんにせよ星尾以外の生きてる人間の仕業だよ。俺や羽武沢さんには一切妙な現象は起きてないしな」
「でも、前から刀剣や仏像なんかが変な所にあったり、外へ出てたりしてたじゃないっすか。最近あんまりなかったけど、ここ何日かまたその手の物が動いてたりして、オヤジさんに見つかる前に戻すの大変なんすよ」
「朱鷺子様じゃないのか」
小沼はどうでもよさそうに言うと、なあ、と蔵から出てきた流華ににやりと笑って見せる。そんなことは、と困ったように首を振る流華を庇うように元木が言った。
「星尾さんのタタリじゃないかってオヤジさんは思ってますよ。最近若い坊さんが星尾さんの供養にこっそり呼ばれたとか、真弓子ちゃんが図書館で死亡手続きとかの資料をコピーしてたとかって話だし、死体が見つかったのかもしれないっすよ」
「保険でもかけてたか、法的に死んだ事にしたいんだよ。七年経てばその手の手続きができるって聞いた事がある。そして真弓子ちゃんがそんな手続きをするなら、星尾が生きてて近いうちに迎えに来るって事はないだろう? 坊さんも別件かお使いだよ。友枝家なら真っ当な住職が行くはずだからな」
そう言って小沼はきっちりと閉めた蔵の扉に鍵をかける。流華が壁際の白鞘や観音像に気をつけながら部屋の明かりを消した。元木は考えるような顔をしながら木彫りのナマズを跨ぎ、羽武沢の部屋を出る。
「ですよね。仮に星尾さんが死んでたとしても化けて出るようなタイプじゃないし、霊だとしても別の霊っすよ。羽武沢さん、星尾さんの霊のせいで寒気がするとかだるいとか肩が重いとか、車の調子がおかしいからって、出張中もここに盛り塩しとけって言ったけど」
「どう考えても生活習慣と年のせいだけどな、なんでも霊のせいにしとけばいいってもんだ。最近は守り刀のつもりか、枕元に日本刀置いて寝てるよ」
詰め所に戻った小沼はキーボックスに鍵を戻してため息をついた。元木はバナナの皮を捨てると、じゃ盛り塩してきます、と台所へ向かう。遠ざかる元木の足音を気にしながら流華が小声で尋ねた。
「旦那様は、小沼さんが星尾さんを殺して埋めたと思ってるんですか」
「……羽武沢さんはあの夜、俺が刀の血を拭いてるところを見てるからな。星尾をやったのかって聞かれたから、『奴が警察へ行こうとしたので』って答えただけさ。『羽武沢さんは何も知らないことにして下さい』って笑ったら、ビビってそれ以上は聞いてこないな」
小沼は小さく笑いながら、考えるような顔でキーボックスを眺めている流華を見た。
前日に引き続き、金曜は朝からどんよりとした天気だった。どこか怪しい雲行きに不安はあったが、日中は降らないという予報なので早めに辞去すれば問題ない。そのためにもできるだけ早めにこの場から退散したいが、静川は今、屈強な男たちに囲まれて身動きが取れなかった。なかでも陽気な男が酒臭い息を吹きかけながら絡んでくる。
「昌君はやっぱり観音様みたいに色気ないのがタイプなの? だから彼女いないの?」
「だから、というのはわかりませんが、観音様や天照大神にも色香や風情はありますよ」
「掛け軸のあれねー、二次元萌えかあ」
ウチの弟と一緒だなあ、と顔を赤くした男が笑いながら静川のグラスにビールを注ごうとする。仏像なら三次元ですよ、と酌をかわした静川は地蔵のように周囲と話を合わせていた。
地域や寺によって一月だったり年に何度もあったりするが、二月二十二日は太子講といって聖徳太子を建築や木工の守り神として奉賛する法会が行われる。太子堂のある寺院は別として、多くは太子像を祀った職人の家に職人仲間が集い、そこに僧侶が呼ばれるのが通例だった。その後総会を兼ねた会食になるのも通例で、今回は小坊主さんでいいよ、と馴染みの職人衆に指名された静川は聖徳太子を称える和讃を終え、酒の入った職人達から酒の肴にからかわれつつ可愛がられていた。
静川が酔った大工たちから人間相手の恋愛を叱咤激励されているころ、からす屋では白野が墨壷のナマズにひょうたんを乗せようとしていた。
頭の窪みに小ぶりのひょうたんはぴたりと嵌まり、瓢箪鯰が完成する。遊び半分に弄っていたが思いの他出来は良い。よし、と白野がナマズを眺めていると、降りそうだな、と黒いコート姿の雨崎が上機嫌でからす屋に入ってきた。
なんで嬉しそうなんだ、と呆れたように白野が瓢箪鯰を箸置きやフォークレストの隣に置く。雨崎も瓢箪鯰とその側にある西洋風の銅型に目をやった。
「べっぴんナマズは完成か。そっちのは何?」
「ポルトガルだかどっかの、焼き菓子の型だったかな」
「へえ、何でもあるもんだ。そういや、そちらさんの作った箸は使い心地がいいらしいな。羽武沢のお嬢様はフレンチトーストもその箸で食べてるらしい」
そう言って雨崎が白い歯を見せる。瓢箪に触れていた白野は考えるような顔をした。
「どこからそんな話を? 羽武沢ともお友達になれたのか」
「まさか。羽武沢組とお近づきになるより、こっちでお嬢さんやお坊様と仲良くしてる方が楽しいんだ。羽武沢より人形が心配でね、ちょっと聞き耳立ててるだけさ」
「……人形ね。師匠の人形が恋しいのはいいけど、静川おちょくって何がしたいんだよ。今度はスキンヘッド友の会でも始めるのか?」
白野は顔を上げずに視線だけを雨崎に向けながら聞いた。それも悪くないな、と太い眉を上げて雨崎が笑う。白野はゆっくりと歩み寄り、目を細めて雨崎を見た。
「いつから聞き耳立ててたのかは知らないが、他人ん家の冷蔵庫の中まで詳しいんだな。ずいぶん遠くの話まで聞こえてるみたいじゃないか」
「デビルイヤーは地獄耳なんだよ。御坊様の話が聞こえたのは偶然さ。人形も心配だが少年少女の行く末も心配なのさ」
のんびりと雨崎が肩をすくめる。白野は雨崎に詰め寄ると、サングラスを睨みつけて低い声で言った。
「そりゃ親切なことだな。友枝や羽武沢の連中には近付かないくせに、旦那は星尾だけじゃなく、流華のことまで知ってるような口ぶりだ。地獄耳なのはおちょぼのナマズだろう? 静川に絡んだところで人形なんざ出てこない。出るのはせいぜい念仏くらいだ。なのにいい大人が胡散臭い真似までして、あんたは何者なんだ」
「遊び人だって言っただろ。少なくともあんたらにはそう嘘は言ってない」
ふざけるな、とコートの襟首に掴みかかろうとする白野の手首を、雨崎が掴んでぐっと引いた。バランスを崩しかけた白野を支えながら雨崎が顔を近付けて小さく笑う。
「落ちつけよ、お嬢さん。……あんたは俺の師匠に似てるが、俺の師匠はもっと愛想良かったぜ」
「あんたが師匠なんて呼ぶほどの年寄りと比べられてもな」
動きを封じられたまま、白野が至近距離でサングラスを睨む。雨崎は困ったように眉を寄せると、白野の手を離しながら懐かしむように言った。
「……そいつはそうなんだが、オバサンなんて呼びたくないほどいい女だったんだぜ?」
「それは失礼。旦那の女と比べられて光栄だ」
「もっとホンワカした関係だったさ。おたくこそあの坊さんとどういう仲なのさ」
何事もなかったように力の抜けた声で雨崎が聞くと、白野は気が殺がれたように手をぱんぱんと払いながら鼻を鳴らした。
「どうもこうもない。高校の後輩だよ」
「それだけ? おたくに懐いてるように見えるんだが」
「ヒヨコが初めに見たもんに懐くのと一緒だろ。高校入って初めに話した奴に懐いたんじゃないか」
決まりの悪さをつくろうように白野は二人分のお茶を入れて火鉢の側に座り、向かいに座った雨崎に勧める。茶菓子はないよ、と白野が出してきた豆入りのべっこう飴を見て雨崎が笑った。
「甘いもんで餌付けでもしたんだろう」
「……咳がうるさかったから咳止め飴をやったことならあるな。よっぽど気に入ったのか、しばらく私の周りをウロウロしてたな。あれで懐いたのか」
納得したように肯きながら白野が包装を剥いたべっこう飴を口に放り込む。雨崎は呆れたように眉を寄せて呟くように言った。
「二度とない青春の時期に、もちっと甘酸っぱい話は無かったのか」
「ないよ。医者と患者みたいなもんだ」
三時を過ぎてようやく解放された静川は、黒い物体を探しながら帰り道を歩いていた。
降り出すのは夕方からで、まだ雨は来ていない。今は冷たく湿った風とともに鉛色の雲が空を覆っている。
そんなどんよりとした空の下、静川の目に黒いベンツが映った。からす屋を過ぎた所に停まっているそれにゆっくりと近付き、遠巻きに観察する。運転席には黒い帽子にサングラス、ネクタイを締めた曽我が待機していた。もう片方はいないのかと覗き込んでいると、からす屋から出てきた雨崎に真後ろから声をかけられる。
「よお病人。医者に用事か」
「……ひょっとして私のことですか」
こんにちは、と怪訝な顔をしながらも静川が挨拶をする。ん、と雨崎は空を覆う黒雲を見上げてのんびりと言った。
「病人じゃなくて患者だったかな。まあいい、今日もいい天気だな」
「……大気が不安定で夕方から雷雨になるそうですけど」
「俺は雨降りが好きなんだよ。ちなみに豆の入ったべっこう飴が好きなら向こうだ」
親指で後方のからす屋を指しながら雨崎が白い歯を見せる。静川は困惑した表情でちらりとからす屋を見ると、雨崎をじっと見据えて言った。
「いえ、今日はあなたを探していたんです。聞きたい事というか、確かめたい事が」
「こっちもか、そろそろ俺も危ないな。俺の魅力に気付き始めたのは向こうのお嬢さんだけじゃないみたいだ」
「荘子さんがどうかされたんですか」
「今さっきアメだけじゃなくムチまで貰いかけたところさ。次はお手柔らかにとお嬢さんに伝えといてくれ、お坊様はお嬢さんと仲良しなんだろ」
「……わかりません。しばらく疎遠にしていましたし」
「青春時代を共に過ごしたんじゃないのか」
「高校の頃の先輩です」
「そこは聞いた。アメが欲しくて付きまとってたんだろ?」
「そんなことしてませんが、大根生姜飴をもらったことはありました。荘子さんと知り合ってだいぶ経ってからですよ」
困ったように静川が説明する。へえ、と雨崎は停まっているベンツに寄りかかりながらそれとなく話を逸らすように言った。
「お坊様がどうやってあんなべっぴんとお近づきになったのか興味深いな。今後の参考に聞きたいもんだ」
「……少し、印象に残りやすかったのかもしれません」
「ああ、野球部もびっくりするほどつるっつるだし目立つもんな、遠くからでも」
「高校の頃は髪ありましたよ。でも、」
遠くの雲の切れ間からほのかに差してくる光に目を細める。静川は呟くように続けた。
「いつも遠くを見ているような人でした」
自転車は自分に向いてないのかもしれない。高校に入ってしばらく過ぎた初夏、登校中の静川は派手に転倒した道路の脇で呆然としていた。
どこか反抗的な自転車のペダルを必死に漕いでいたが、前照灯が入ったままなのに気付き、走りながら足先でオフにしようと試みたのが失敗だったらしい。爪先の入った前輪がロックされ、静川はそのまま自転車ごと回転して投げ出された。
トラックの運転手がお化けを見たような顔で通り過ぎる。驚きで痛みは麻痺していたが、急ぐ気力も失せていた。朝から散々だった、と自転車を押しながらぼんやり周囲を見ると、他にも急ぐ気力のない生徒はいたらしく、前を歩いていた女生徒が何気なく振り向いて立ち止まった。
何かあるのだろうか、と静川も後ろを振り返りながら校門へ向かう。十メートルほど前で立ち止まったまま、女生徒はなぜか自分をじっと見ている。知っている顔ではない。
静川を見ていたのは、涼しげで強い目をした女生徒だった。ふっと風が抜けると、その人の肩先で黒髪がさらりと揺れる。
きれいな人だな、と状況を忘れてぼんやり思う。太くはないが真っ直ぐな眉に、遠くを見透かすような大人びたまなざし。ただひたすらに自分を見つめるその人を、追い付いた静川も立ち止まって見つめ返してしまう。どういう訳かは解らないけれど、ひょっとしてこの人は自分のことを。
そう思いかけた時、その人は涼やかな目を静川の額に向けてぽつりと言った。
「血が出てる」
この時に自分が何かを言った覚えはない。彼女は保健室が一階にあることを告げると、静川が絶句しているうちに行ってしまった。その後しばらく校内で彼女を見かけるたびに、この時のことを思い出して悶絶することになる。
七月を過ぎたころ。学校帰りの路上で、静川はチェーンの外れた自転車を前にため息をついていた。やっぱり自転車は向いていない、と肘で汗を拭う。
はじめはシャープペンでどうにかしようと試したが上手くいくはずもなく、気が付くと手には黒い油が付いていた。少しのはずみで外れたものが、どうしても元に戻らない。
「この暑いのに精が出るな」
「あ、はい」
真後ろから聞こえた涼やかな声に、間抜けな返事をしながら振り向く。立っていたのは夏服を着たあの女生徒で、話したのはこの時が初めてだった。あれから何度も見かけていたので、彼女が二年生で白野と呼ばれているのは知っている。白野は腕組みをしながら自転車と静川を交互に見ると、薄く微笑みながら言った。
「自転車と相性が良くないんじゃないか」
「……やっぱりそうでしょうか」
ふーん、と白野が自転車のチェーンと静川の手許を覗き込む。十五、十、九、と小さく呟くと納得したように肯き、そのまま頑張れ、と歩いて行ってしまった。
顔に伝う汗を肩で拭い、変速ボタンを弄ったりチェーンを引っ張ったりしていると、静川の側にふと影が差し、涼しい風が吹いた。再びやってきた白野が自分の隣に屈みこむ。
「それ以上緩まないか。変速は一番重くしてあるな、そしたらまずワイヤを先に外してから調整しろ」
「あ、はい」
「後輪のナットをこいつで緩めてからだ」
驚いている静川に白野が細身のスパナを手渡す。そっちが十五ミリ、こっちのが九ミリな、と白野の汚れていない指が示してゆく。静川は焦りながらも必死でその指示に従った。
「そこでタイヤを押す。……結構不器用なんだな」
はい、と否定する事なく必死に作業を続ける。チェーンが歯車にかかり、タイヤを逆方向へ回すと完全にチェーンが歯車に嵌まる手ごたえがあった。
ありがとうございました、と静川は黒く汚れた手を合わせて頭を下げる。拝むなよ、と夏服の白野は紙袋を下げたままにっと笑った。
「手を貸しても良かったけど、二人とも手が汚れるからな。手を汚すのは一人で十分だ」
「……なんかうっかりかっこいい台詞だと思いそうになりましたが、先輩の手が汚れないのはいいことです」
「そうか。そしたら手を拭け」
まずはこっちな、と白野は袋からペーパータオルを出して手渡す。静川が恐縮しながら手を拭くと、はい次、と白野は濡れたおしぼりを静川に渡した。
「あ……どうもありがとうございます。自転車直すのもですけど、手のことも考えてませんでした。慣れてるみたいですごいですね」
「慣れてるんだよ」
よくあることだしな、と白野は手早くスパナの黒い油を拭って紙袋に納める。工具の扱いは本当に慣れているようだった。
渡された白いおしぼりを汚さぬように軽く手の甲を拭う。洗ってお返しします、と静川が真面目な声で言うと、いらんわ、と白野が笑いながら静川の手からおしぼりを取り上げて袋に入れた。何度も礼を言う静川に、じゃ、と紙袋を持った白野が歩き出す。
「電柱多いから気をつけろよ」
はい、と素直に頭を下げる。帰る方向は同じだったが、自転車を押して一緒に歩くとか、もっと話をするという考えは浮かばず、遠ざかっていく白野を見えなくなるまで目で追っていた。この頃から白野を見ていたと思う。全校集会で白野の姿を探したり、教室を移動している白野と意味もなくすれ違ってみたり、体育でグラウンドにいる時は窓から白野が見ているような気がして変に緊張したりもした。
偶然を装い白野の視界に入っているうちに挨拶するようになり、静川という名前を覚えてもらえた。冬の始まりに咳をしていたら飴をもらったこともある。初めて喫茶ジャックに入ったのもこのころだ。
少し切りすぎた髪が不格好に思えて、白野に見られたくないような複雑な気分で学校へ行った日もある。髪が伸びるまで姿を隠しながら話す方法はないだろうかと無駄なことを考えていると、そんな日に限って白野とばったり顔を合わせてしまう。
あっ、と焦って絶句したまま白野の前に立つ。静川の反応に不思議そうな顔をしながら、白野は静川をじっと見てから言った。
「静川、頭の形いいんだな」
「それで次の日から頭丸めたのか。すげえな」
「違います」
とっさに言うと静川は密かに息をついた。考えてみると白野にはみっともないところしか見られていないような気がする。雨崎は車に寄りかかったままシガレットケースを取り出して笑った。
「なんにせよ今は名前で呼べるくらいには仲良しこよしか。羨ましい」
「この辺の人達は皆そう呼んでます。ご両親の事があってからは、荘子さんを白野さんとは呼びにくくて」
「コトってのは、いい事ではないんだな」
火のついてない煙草を咥えたまま雨崎が微かに眉をしかめる。静川はゆっくりと肯き、白野の父親の不行跡を苦にして白野の母が死んでいることや、父親の相手が流華の母親であること、その後二人とも密会先のホテルの火災で死亡していることを簡潔に話した。
「白野は彼女の父親の姓です。ご両親とも亡くした荘子さんは、父親の実家と縁を切って母方のお祖父さんと暮らすことになりました。でも荘子さんは説明するのが面倒だからと周囲に事情を伏せて、名字を白野のままにしていました。私も当時は知らなくて、成人してから祖母に知らされたんです」
遠くの黒雲を見つめながら静川は淡々と話す。そのころはまだそれほど寺や葬儀そのものに関心がなく、普段から当たり前のように行われている葬儀の話や人が死んだという話にも変に慣れてしまっていた。
ホテルの火災に関連した葬儀の話も耳に入っていたはずだし、白野家という単語も恐らく聞いている。でもそれがあの白野の親だとは思っていなかった。自殺したという母親の葬儀があったころも、父親の葬儀が終わってからも、白野は変わることなく授業が終わればからす屋かジャックのどちらかにいたし、自分にそういった話を一切しなかった。
まずい、と静川はふと深く息を吐き、感情が表に出ないよう地蔵のような表情を作る。当時の白野にもできていたことだ。今の自分にできないはずがない。
「そんな訳で、荘子さんが特に何か言ったわけではないんですが、周りがなんとなく『からす屋の荘子さん』と呼んでるんです。本人は気にしてなさそうですけど、『白野』は彼女を苦しめた名前なので」
「なるほどな。複雑な所もあるんだろうが、それで流華ってお嬢ちゃんのことも気にかけてるのか」
「当時から面識はあったようです。あの火災が起きた日も、車に残されていた流華さんを助け出したのは荘子さんでした」
なんだそりゃ、と雨崎が太い眉を上げた。静川は目を閉じて当時の白野を思い出す。静川は二年、白野が三年だった八年前の夏。炎天の下、血のにじむ腕に痩せた子供を抱いた白野の姿が揺らいで見えた。
「流華さんは母親にないがしろにされていた子供でした。母親は留守がちで、流華さんを部屋に残したまま外泊することも多かったようです。周囲が気付いて母親に指導が入りましたが、その後も流華さんを商業施設のトイレや人目につかない所に停めた車の中で待たせていたそうです」
「なんか多いな、そういうの」
「火事があった日もそうです。流華さんがいたのは、母親のいるホテルとは全く離れた所にある車の中でした。真夏のお昼過ぎの話ですよ。一緒にいた私は全然気がつかなかったんですが、荘子さんは突然その車に向かって走っていくと、いきなり車のガラスを肘で叩き割ったんです」
すげえな、と口から落としかけた煙草をキャッチしながら雨崎が呟く。静川は目を細めて小さく息をついた。
炎天のなか、ひと気のない線路沿いに停まっていたピンク色の軽自動車。顔色を変え、突然走り出した白野。窓を割った衝撃でけたたましく鳴り響く警報アラームと、割れたガラスに構わず差し込んだ白い腕。白野に抱きかかえられる死にかけた小さな子供と、異様に暑い車内。後部座席には砕けたガラスと食べかけのリンゴ飴が転がっているのが見えた。
「荘子さんはドアを無理矢理開けると、ぐったりした流華さんを抱えてすぐに近くの家に助けを求めました。荘子さんは流華さんを抱えたまま、救急車が来るまで必死に外の水道で流華さんの身体を冷まそうとしていました」
助かってなによりだ、とポケットに手を入れた雨崎が降り出しそうな空を見る。
助けたのは白野だ。どうして流華をだしてくれたのかおしえてください。流華は半年後にそれをなぜか自分に尋ねている。
「その時に切った傷が、荘子さんの右腕に今も残っています。……雨崎さんと同じように」
「俺の結石はそこまでダイナミックな切り方してないが」
とぼけたような声で雨崎がポケットから両手を出し、手のひらを上に向ける。静川はどこか羨ましそうな顔で雨崎の右肩を見ながら言った。
「そっちじゃなくて、荘子さんに肘鉄された右腕のほうですよ。流華さんは七年前の夜、白い面をつけた人物が腕を負傷して出血するのを見ています。痛がってたのは、その時の傷跡でしょう」
「……そうかな」
「あなたは『ヒナ人形』に興味津々のわりには羽武沢家に関わろうとしません。真弓子さんの父親についても色々な事情を知っているのに、あなたは私や荘子さんからねちねち話を聞くだけで篤伸君や真弓子さんにも近付く気配がありません」
「それさっき向こうでも言われた」
「人形をどういう形で手に入れるつもりかは知りませんが、友枝さんや羽武沢さん達と仲良くなるのはプラスになってもマイナスにはならないでしょう。なのに雨崎さんが近付かないのは、よくない状況で双方とも面識があるからです。星尾さんはともかく、篤伸君、流華さん、そして『おじさんを刺した人』と」
ですよね、と静川が横目でサングラスの奥を窺う。雨崎は後ろ頭を掻きながらのんびりと言った。
「面識っつうか……まあ、面はつけてたんだがな」
「……どうしてそんなことになったんですか」
「俺の敬愛する師匠の作品が、悪い奴に盗まれて売り飛ばされるのを邪魔したくてな」
そう言って雨崎は玩んでいた煙草をポケットに入れる。そうですか、と詳しい説明を諦めた静川がため息をつくと、頭頂部にぽつりと雨が落ちた。
「積もる話はまたその内だ、せめて雨風のしのげる所でやろう」
「待って下さい。雨崎さんは、『真弓子さんの妙な言動は遊びだ』という荘子さんの仮説を『いい線いってる』と言いました。彼女の父親に関する言動が、彼女の一人遊びであるという確信があるからですよね」
「そうなるな。彼女の父親……星尾は、娘に接触してない」
じゃあな、と雨崎は車に乗り込み窓ガラス越しに手を上げて見せる。静川は遠ざかる車を見送りながら呟いた。
「……では、ピエールは誰の言葉を覚えたんでしょう」