ヒナ人形
ヒナ人形
夕方にさしかかり光の色が変わりかける頃、静川は友枝家の応接室でコーヒーを勧められていた。恐縮する静川の前で、篤伸は当然のようにブラックのままそれを飲む。どこか子供らしさの残る篤伸にはそぐわないようにも思えるが、どうやら本人の嗜好らしい。
涅槃会では真弓子が父親の思い出話をしたことを喜んでいたが、現在も父親が生存していて娘のもとへ現れる可能性など篤伸は考えてもいないようだった。あの様子では、真弓子はまだ父親の存在は篤伸に秘密なのだろう。
「あれから真弓子の周りに父親の霊は出てきてないみたいです。ちゃんと成仏できたんですね」
安堵したようにのんびりと言う篤伸に、やっぱりそうですか、と静川は落胆したように小さく息をつく。きょとんとしている篤伸に静川は気を取り直して聞いた。
「篤伸君は、星尾さんが生きている可能性は考えていないんですか。星尾さんの気配があるのを知って真っ先に供養することを考えたのは、どうしてですか?」
「それは、消息が途絶えてもう七年です。少なくとも真弓子に見えてたのは生きてる星尾さんではないし、真弓子にとってもあの人は生きていない方がいいと思っています」
「なぜそう思うんですか」
「僕の父も星尾さんについては警察に何度か相談しましたが、星尾さんの経歴や事情を知ると相手にしてもらえなかったんです。ロクな仕事にもつけずに借金を作って失踪したチンピラ崩れの男より、その被害者が出ないか心配だと言われました。星尾さんが実際どんな人であれ、周りからそんな風にしか思われないなら、仮に生きていて真弓子と暮らしても、真弓子が不幸になるだけじゃないですか」
篤伸は暗い目で自分に言い聞かせるように話す。静川は膝の上で指を組み、篤伸の目を見ながらゆっくりと尋ねた。
「でも、篤伸君がそう思っていることと、星尾さんを死者だと確信している理由は別ですよね。星尾さんが亡くなっていると君が信じているのは、そう判断せざるを得ない状況に遭遇したからでしょう。星尾さんが失踪する七年前の夜に」
「……はい、約束したんです。戻ってくることになったら必ず僕に話すって。それを守らずに真弓子の前だけに現れるなら、僕はそれを生きたあの人とは認めません」
視線を落としながら篤伸が言う。どこか言いにくそうではあるが、七年前の夜の話を認めることに抵抗はそれほどないようだった。
父が来たのは本当ですよ。篤伸さんが証人です。真弓子の言っていた通り、星尾は真弓子ではなく篤伸と話をしていた。思いの他すんなりと話してもらえたが、白野の言っていたように密約らしきものも交わしているらしい。それが篤伸の中の根拠のようだ。
「では篤伸君は、星尾さんが殺されるところを見た訳ではないんですね」
「いえ、そんな、さすがにそんなことはないです」
「では、亀がぶつかったとか、切られた鬼がどうのという話は関係ないんですね」
「えっ」
篤伸が顔を上げ、驚いた表情で静川をまじまじと見た。どこか警戒するような篤伸に静川は穏やかに話す。
「七年前、失踪した星尾さんはこちらのお屋敷に来て、篤伸君と話しているんですよね。そして篤伸君から渡された鬼の面をつけて走り去った、と真弓子さんからも聞いています。つかぬことを伺いますが、その時星尾さんは、赤い服を着ていたんでしょうか」
「いえ、緑色のコートを着ていたと思います」
「その下に着ていた服の色が赤だったりはしませんか」
「そんなことはなかったと思いますが……真弓子が言ったんですか?」
理解できないという表情で篤伸が瞬きをする。静川はそれに答えずに質問を重ねた。
「真弓子さんの話では、部屋が荒れて亀が飛んでいたという話ですが」
「……僕が驚いて、色々落としてしまったんです」
硬い表情でそう言うと、篤伸は黙って目を伏せる。『ぶつかった亀』について積極的に話すつもりはないようだ。
「私には、篤伸君が真弓子さんや星尾さんのためにもっと深刻なことを隠しているように思えてしまいますよ」
「……言えることだけをお話ししますが、あの日、急な事情で遠くへ行くことになった星尾さんは、ここに遊びに来ていた真弓子を迎えに来たんです。僕はそれを父に知らせず、星尾さんに真弓子をここに置いて行くよう頼みました。その時渡したのが鬼のお面です。そして僕は真弓子に、星尾さんからの伝言だと適当なことを言いました。必ず迎えに来るから、友枝の家でいい子で待っていろって」
「星尾さんは君のお父さんではなく、君に話してそれを決めたんですか」
「僕が会わせなかったんです。むこうの話では、二度と会えないような感じでした。もし迎えに来るなら、僕にちゃんと断りを入れるってあの人が言ったから、真弓子は僕が預かるって約束したんです。でも、もう星尾さんが生きているとは思えないし、迎えに来ることもないと思います。だから、真弓子と星尾さんを引き離した僕には責任があるんです」
篤伸は険しい表情で言い切り、カップに残っていたコーヒーを飲みほして息をつく。
「それで君は真弓子さんに対して、強い責任感を持っているんですね。ちょっと過保護ではないかと思ったりもしましたが納得しました。星尾さんが亡くなっていると強く主張する理由も理解できます」
のんびりとした静川の言葉に、篤伸は唇を噛んで下を向く。思考が漏れるのを恐れているかのように目を閉じていたが、ふと弱々しい声で呟くように言った。
「でも、真弓子は僕を頼ってくれないんです。友枝家が真弓子を引き取った形になってからは、僕を『ノブくん』ではなく『篤伸さん』と呼ぶようになりました。僕や父は家族のように思っているのに、真弓子は使用人みたいに気を遣うんです。七年前、迎えに来るまでいい子で待っているよう真弓子に伝えたのは僕だし、一緒に待とうと言ったのも僕です。でも本当は、七年も音沙汰がない父親のことなんか忘れていいと思うんです。友枝の家族でいいじゃないですか」
苦しげに話す篤伸を、静川はどこか羨ましく思いながら見つめた。起きたことの良し悪しはともかく、篤伸は真弓子を自分の手元に置くために苦しい努力をしているらしい。
ふいに顔をあげた篤伸が、うっすらと微笑む静川を見て不安そうに尋ねる。
「おかしいですか」
「いいえ、真弓子さんを大切にしようとする君は素晴らしいと思いますよ。モテるからってこれ見よがしにいちゃいちゃしようとする藤盛君に見習って欲しいくらいです」
「あー、藤盛先輩はすごいですよね。あんな風になれません。僕は、真弓子が料理したりピエール……ペットの世話をしているのを近くで見てるだけで可愛くて、ぎゅっとしたくなったりもするんですけど、先輩みたいな真似はできないので自分を叩いたりつねったりして我慢してます」
「あんな風にならなくてもいいですし、私も君の気持ちは解りますよ」
そう言って静川は合掌すると、くだけた雰囲気にほっとしながら冷めたコーヒーに口をつけた。普段の藤盛を思い出し、夢見るような口調で続ける。
「それに相手が同い年というのは恵まれていますよね。教科書や消しゴムの貸し借りにはじまり、卒業式や成人式も一緒で、その気になれば同期入社もできるんですから」
「それはよく解りませんが、僕も歳の差は気になります。僕が年下じゃなければ、もう少し真弓子は僕を頼ってくれるかもしれないと思って」
「それでも君は、いつも彼女と一緒じゃないですか。ちょっとした事情はあっても、いつも彼女の顔を見ることができて、辛そうな時には支えてあげることができるんですよ」
静川は篤伸に笑いかけると、眩しいものを見るように目を細めた。秘密を抱えているせいで色々と考え過ぎているが、その実態は微笑ましい悩みのように思えてしまう。
「でも、真弓子は父親の存在を支えにしてます。僕がいてもそれを埋められないんです」
「それならやっぱり、生きている星尾さんに君がきちんと話をつけるのが一番いいのではありませんか」
「えっ、生きている星尾さん、ですか」
「乱暴な言い方をすれば、星尾さんが死んでいれば真弓子さんは自動的に君の物になるかもしれません。事情や立場などを考えれば、真弓子さんは篤伸君に逆らえないので有利な状況だと思います。でも篤伸君はそれだと納得できないでしょう。そういうものを抜きに真弓子さんに頼られたいなら、星尾さんの死を願うよりも、生きている星尾さんと対決して自分の意志を伝えるのもいいと思いますよ」
それがまるで簡単なことのように話してみせる。結構恵まれた環境だというのに篤伸が悶々と悩んでいるのは、自分の中にある道理が通っていないことを自覚しているからだ。かといって今の有利な状況を手離してまで物事をはっきりさせても、今より良い結果を得られる自信がない。だから篤伸は、星尾の死という不可抗力に望みをかけている。
「でも、星尾さんが生きている可能性なんて、ほとんどないですよね」
「それはわかりません。でも、もし生きていたら、きちんと話をつけるチャンスです。借金も時効にできるかもしれないですし、星尾さんも責任感から真弓子さんに接触しようとするかもしれないですよ。そしたらあらためて星尾さんに断りを入れて、君が真弓子さんについての責任を取ることを宣言すればいいんです。これはまたとない絶好の機会ですよ。星尾さんが生きていれば、ですが」
迷っているような篤伸に、静川が力強く言い聞かせる。真弓子の話が妄想でないなら、それはもう進行していることかもしれない。これで少しでも星尾と向き合う気持ちが生まれるなら、大切な人の肉親の死を密かに願い続けるよりいいことだ。
「僕が真弓子の面倒を見るから任せて下さい、って言えばいいんでしょうか。……駄目ですね、面倒を見てもらっているのは僕です。真弓子を助ける力もないのに、真弓子が僕を頼ってくれるはずないんです」
「彼女は大人になろうとしているだけで、君を頼りないと思っているわけではないと思いますよ。君も真弓子さんに依存しているわけではありません。君の存在は真弓子さんの助けになっています。ちゃんと彼女の人生のプラスになっているんです。相手の力になれることは素晴らしい事です。焦らなくても、その先にきっと進めますよ」
静川は遠い光を見るような気持ちで篤伸に言った。彼は何も禁じられていない。誰かのために力を尽くすことをためらわなくていい。それができるのは幸運なことだ。
篤伸は小さく肯き、不安そうな目をしたまま静川に言った。
「静川さん、秘密があるのは悪いことではないですよね。真弓子に何もかも話さなければいけない理由はないですよね。知らない方がいいことを、真弓子に教える必要なんてないですよね」
「それは君の自由です。でも、君が秘密にしていることを、すでに真弓子さんが知っているとしたら、君はどうするんですか」
「えっ、どういうことですか」
「例えばの話ですよ。……それよりなにか聞こえませんか」
なにもない空間を見つめながら静川が黙る。どこからか、いつかの気味の悪い声が聞こえたような気がした。しばらく二人で黙っていると、ぐるる、という細い声のようなものに続いてはっきりとした日本語が響く。
「オヤツはいかがデスカ、オヤツ」
どういうことでしょうか、と怪訝な顔で静川が篤伸を見る。ああ、と篤伸は恥ずかしそうに立ち上がって言った。
「ピエールの声です。真弓子と僕が飼ってるインコですよ。そういえば隣にいたんだった」
そう言って篤伸は部屋を出ると、すぐに黄色い小鳥を指に乗せて戻ってくる。この子がピエールです、と篤伸が右手を持ちあげると、ピエールはその人差し指に止まったまま目を細めてのんびりと親指に頭を擦りつけた。良く馴れているらしい。
「誰が話しているのかと思いましたが、可愛い小鳥の声だったんですね。そういえば真弓子さんもピエールがどうのと言っていました。おしゃべりが上手ですね」
「ピエールは言葉を覚えて話すのが得意なんです。電話のやりとりなんかも覚えて『もしもしー』とか『少々お待ち下さい』とかも得意ですよ。それを聞いたカルロスが電話の音をまねするのでよく混乱します」
「カルロスさん?」
「もう一羽、もっと大きいオカメインコもいるんです。お見せしましょうか」
そう言って篤伸は自分の座っていた椅子の背もたれにピエールを止まらせ、少しだけ楽しそうに部屋を出ていく。静川はため息をつくと、こんにちは、とじっとしたまま小首を傾げるピエールに向かって笑いかけた。
「あの時真弓子さんを呼んでいたのは、ピエールさんでしたか」
「ピエールはドコ? マユコ、マユコはナニシテんの?」
インコのものだと知らなければぞっとしてしまうかもしれない声でピエールがしゃべる。普段の篤伸達の会話を聞いているようで羨ましいような気恥かしいような気分で静川は黄色い小鳥を見た。
「マユコ、パパだよ」
え、と静川が動きを止めてピエールをじっと見る。思わず黙って次の発言を待っていると、篤伸が灰色の鳥を手に乗せて戻って来た。ピエールより二回りほど大きなそれは頬が赤く、後ろ頭には寝ぐせのような黄色い毛が立っている。
「こっちがオカメインコのカルロスです。大きいですけど、ピエールの方がお兄さんなんですよ」
「こちらも、おしゃべりできるんですか」
「言葉は苦手です。電子音とか、ドアチャイムの真似は上手いんですけど。カルロスがドアチャイムの真似をして、それにつられてピエールが『宅配便でーす』っていうこともありました。言葉が得意なのはピエールです。短い言葉じゃないと覚えられないって真弓子は言うけど、ピエールは結構頭がいいんです。お経は無理かもしれないけど」
両手に鳥を乗せて篤伸がにっこりと笑う。静川は念珠を手にしたままピエールに合掌し、南無阿弥陀仏、と一番覚えやすくシンプルな言葉を教えた。
水曜の午後、住職の使いで再び病院の近くへ出向いていた静川は、病院の外でたたずむ小学生女児に声をかけてよいものか逡巡していた。近くには小中学校もあり、下校時間と重なれば児童や生徒達の姿も多い。
黒一色で決して華美な服装ではないが、小学生の群れの中で目立たずにいるのは難しい。遠目に見ても素性のわかりやすい職種なので不審者として通報される心配はそれほどないはずだが、そんな人物に声をかけられた少女はどうだろう。
正面入口に立っていた白いコートに赤いランドセルの少女は、赤い携帯電話を耳に当ててなにごとかを話していた。少女がそのまま何気なく建物の脇へと歩いていくのを見て、静川がその後ろに続く。
「ひっくり返してまた十二時間、……四枚切りで。はい、ありがとうございます」
表情もなく淡々と話していた少女が電話の向こうに礼を言い、少し間を置いてから電話を切る。静川は周囲をちらりと確認すると、不審に思われないよう姿勢を正して少女に声をかけた。
「流華さん」
えっ、と白いコートの少女がびくりとして振り向き、静川を見てさらにびっくりしたように目を見開く。混乱しながら言葉を探している少女は、羽武沢家の霧矢流華だった。
「……お寺の、」
「浄桂寺の静川です。驚かせてしまったようですみません。学校帰りのようですが、今日はお一人なんですか」
予想以上に激しく驚かれたことに軽く傷つきながらも、静川は不審に思われないよう気を遣いながら尋ねる。
「いえ、朱鷺子さまは今、リハビリです」
「あ、朱鷺子さんの付き添いですか。学校から近いと帰りに寄れるから便利ですね」
遠慮がちに話す静川に、はあ、と流華も控えめに返事をする。ほとんど話した事もなく、話していても覚えていないかもしれない相手に世間話をするのも不自然だった。
「流華さん、少し、お聞きしたいことがあるのですが」
本当は少しどころではなく、聞きたいことはたくさんある。しかし自分の勝手で流華に細々と質問するのは気がとがめた。
どうしてるかをだしてくれたのかおしえてください。ノートの最後に書かれているのは流華が自分に向けた言葉だったというのに、答えもせずノートを返しもせずに七年が経っている。それを詫びる前に鬼や亀の話を興味本位で聞くような真似はできない。
そして詫びるにも、七年前の話を掘り起こすような真似は、忘れているかもしれない流華のよくない記憶に触れてしまう可能性がある。白野もそれを懸念していたのだろうし、余計な傷に触れたくはない。
そんな迷える静川を拒むように流華はぽつりと言った。
「私は、外の人に色々お話できないんです」
「それは誰かに言われているからですね」
主に朱鷺子の命令のようだが、それに従わせているのは周囲の人間でもある。動かない流華の反応を静川が待っていると、流華は小さな声で言った。
「だって、わたしがいるところはそういうきまりです。お坊さんだってお寺のきまりはあるでしょう」
「……流華さんは私のことを、覚えていますか」
唐突だと思いながらも静川が真剣に尋ねる。どうして流華を出してくれたのか教えてください。流華がそんな質問をするということは、羽武沢家を訪れた時の自分が、流華を助け出した白野の側にいた人物だとわかっていたからだ。
八年前の夏、炎天下の車内で死にかけていた流華を助け出したのは高校生だった白野で、自分は状況もわからずそこにいるだけだった。それでも流華は覚えていて、まだ髪があったとはいえ『お坊さん』として羽武沢家に訪れた自分に話しかけたのだろう。
流華は今の静川に慣れてきたのか、考えるような顔をしながら髪のない静川の頭部を眺めていたが、一瞬だけ頬を緩ませて言った。
「お坊さん、ですよね。……魔法使いの」
「あ、あの時はその、本当に、色々と申し訳ありません」
「……なんであやまるんですか」
「何もかもというか、流華さんには無責任な対応をしてしまったことなどを」
はあ、と思い当たることがないというように流華が生返事をする。一つ一つを謝るにも預かったままのノートの話に触れれば、流華の質問に触れないわけにはいかない。謝ることで自分は自責の念から逃れることはできるが、流華の質問に触れるということは、その事態へ至る事情に触れることだ。
流華の母親と白野の父親は、白野の母親の死を受けて自重するわけでもなく、より周到に人目を忍んで会うようになっていた。その日も離れた所に車を置き、その中に四歳の流華を残したまま、密会していたホテルの火事で二人とも死亡している。
天罰のような災禍が二人に訪れたことも、偶然見つけた流華を白野が助けたのも、巡り合わせのようなものを感じずにはいられなかった。どうして出してくれたのか、という問いかけの意味も、その答えを流華が今でも求めているのかも自分はわからずにいる。
そんな風に悶々と考え込んでいる静川を、珍しそうに観察していた流華が尋ねた。
「聞きたいことってなんですか」
「流華さんは、飛ぶ亀や白い鬼を見ているんですよね」
「……見たのは、偶然です」
静川の唐突な問いに、流華は言い訳するような口調で答える。飛ぶ亀や白い鬼、と聞いただけですぐに答えられたのは、このことがまだ思考の手前にあるからで、流華にとってもまだ遠い記憶ではないからだ。
「では、おじさんは切られた、と言っていたのを覚えていますか」
「あ……」
流華がわずかに顔色を変える。白い鬼を見ているなら覚えていないはずはない。真弓子や篤伸の話では、星尾の服は緑だった。それを赤く塗ったのは、流華の目に緑と赤の見分けがつかないからではないかと白野は考えている。静川は祈るような気持ちで聞いた。
「大事なノートも借りたままで本当に申し訳ありません。流華さんが、友枝さんのところで見たおじさんをあの色に塗ったのはなぜですか?」
「怪我をして血が出ていたからです」
仕方なさそうに答える流華に、ですよね、と静川が額を押さえて目を閉じる。あの赤はつまりそういう赤だったようだ。
「服の色ではないんですね。『刺されて死んじゃったかもしれない』と流華さんも思ったくらいですから。でも、怪我をして血が出ているところを、流華さんはどうして見ていたんですか?」
「……偶然見ただけです。肩の怪我だったのに、白い服が赤くなったのが怖くて、刺されて死んじゃったかもって思っただけです」
「そういうこともありますね。では、本当のことを隠す必要がなければ教えて下さい。流華さんが見た鬼は、誰に刺されたんですか」
「……誰も刺してません。わたしの勘違いでした。偶然見かけただけなんです」
そう言って流華は目をそらし、それ以上は知らないというように視線を下へ落とす。友枝家での出来事を目撃したのはとにかく偶然で、鬼のおじさんが刺されたのはなぜか勘違いだった、ということにしたいようだ。
だんなさまが困ることを外の人に言わない。誰の教えか、流華のノートには幼い字でそう書き記されていた。真弓子や篤伸もそれぞれ秘密を抱えているが、流華は彼らと違って自分の思惑で事実を隠している訳ではなく、流華を養育している羽武沢家のルールに従っている。ならば流華にとっての身内が『鬼を刺した』可能性がある。
静川はほんの一歩だけ流華に歩み寄り、その顔を覗き込みながら真剣に尋ねた。
「流華さん、あなたは羽武沢さんの家で、理不尽に発言を禁じられたり、道理に合わない秘密を守ることを強要されたりしていませんか?」
「……難しくてよくわかりませんが、ないと思います。あの、そろそろ朱鷺子さまのところへ行かないといけないので」
「私もそうですが、他にも流華さんを心配している人はいます。流華さんは無理な役目や、きつい仕事を強いられたりしてませんか。助けがいる状況ではありませんか」
「いいえ、できることしかしてません。真弓子さんみたいに色々できないから。それに、優しい人と頼っていい人は違うって真弓子さんも言ってました」
失礼します、と一礼して去ろうとする流華を静川が慌てて引きとめようとする。
「待って下さい。あのノートは」
「捨ててください。魔法使いのお坊さんなら、オタキアゲっていうのをしてください」
「でも私は、あの時の質問にまだ答えていません。それに『ひなにんぎょう』のことで、」
静川の言葉に流華がふと動きを止める。ふいに通った強い風に表情を消し、しばらく考えるような顔をしていた流華はくるりと振り返ると、静川の目をじっと見ながら言った。
「恥ずかしいから、もう忘れて下さい。……絵も下手だから『お雛さま』には見えなかったと思います。変な色にしてしまったし」
「変な色って、流華さんは『ひなにんぎょう』を何色に塗ったか覚えているんですか」
「……はい、緑色、でしたよね」
質問の意図が解らないという風に不思議そうな目をして流華が答える。緑と赤の区別がついているなら、その色覚は自分と同じものである可能性が高い。流華は赤という色を知っている。白い服が赤くなるのを見ている。刺したり刺されたりした人物の存在が思い込みや勘違いだったとしても、流華の見た鬼は白い服を着ていたということだ。緑ではない。
深い思考に入りかけた静川がふと顔を上げると、建物の白い外壁が目に入るだけで、流華の姿はもう無かった。寒々とした空の下、冷たい風が静川の黒い裾を揺らしていた。
流華と別れた静川が浄桂寺へと戻り、日が落ちた山門を閉めているころ。薄暗い街の片隅にある薄暗い喫茶店では、闇を纏うように黒いスーツを着た男が、自分の目に映るすべてをサングラスで闇色に染め、漆黒に満たされたカップに口をつけている。要するにジャックで雨崎がコーヒーを飲んでいた。
雨崎がシガレットケースから取り出した煙草を咥えると、もう一人のサングラスの男がそれに火をつける。雨崎と違って細身の男は僧侶のようなつるりとした頭に中折れ帽子を乗せ、どこか物憂げな表情でコーヒーを飲んだ。
雨崎がのんびりと煙を吐きながら小さく笑う。
「そう焦るなよ曽我。見つからない探し物は、探すのをやめると見つかるかもよって歌もある」
「『かも』って、探し物は見つかるんですか、その歌」
「どうだったかな、何探してるのかわからんまま、それより俺と踊ろうぜってな歌だったからな」
雨崎は煙草を咥えたまま、寄りかかった背もたれの後ろに両腕をだらりと垂らした。マスターがさりげなく灰皿を替えながら口を挟む。
「『夢の中へ』ですよね。最後は夢の中で笑ってるような歌詞ですよ」
「それ、探すのやめてなんかキメてますよね。それじゃ見つかる物も見つかりませんよ」
「まあ、あながち間違ってもないだろ? お前だって今は自分探しをやめて俺と遊んでる。こっちがどうこうしなくても得難く有用な話が入ってくるんだ、探し物も向こうから俺の目の前に現れるかもしれない」
雨崎がにやりと白い歯を見せる。マスターがボックス席へ行くのを見計らい、曽我は小声で冷たく言った。
「そう都合よくいくなら、雨崎さんもここで遊び人なんかしてないで戻って下さい」
「そう言うな、せっかく若いやつらとお友達になれたんだ。それにどうやら彼は貴重な情報満載のノートを持ってて、少年少女達の話にも首を突っ込んでるらしい。もう少し交流を深めても損は無いだろ? 俺がここで休憩してるのは大願成就への近道なのさ」
「おまかせします」
まったく、と曽我は白っぽい手の甲をさすりながら席を立ち、マスターに会釈をして外へ出ていく。一人分の黒い影が暗鬱な面持ちで夜に溶けていき、しばらくすると無明の闇をさまよい続ける寺僧が漆黒の衣を纏ってやってきた。
昌さんお疲れ、とマスターがカウンター中央の椅子を勧め、静川が合掌して着席する。マスターがサイフォンの用意を始めると、よお、と奥に座っていた雨崎が手をひらひらと振りながら身を乗り出してきた。静川も合掌して念珠を揺らしながら頭を下げる。
「こんばんは。その後おかげんいかがですか」
「ああ、今のところなかなか順調というか好調だな。……お、今日はついてる、絶好調だ」
そう言いながら雨崎はにやりとして静川の背後に目をやる。ドアの開く気配に静川が振り返ると、白野がストールを肩から外しながら入ってくるのが見えた。お疲れ、と声をかけるマスターと思わず合掌してしまう静川に挨拶すると、白野はその奥で手を振る雨崎に笑いかける。
「どうも、病院にはいかなくても平気なのか、旦那?」
「おかげさんでな。二度とあそこの世話にはなりたくない」
なんだかわからないけど地獄を見たらしいな、と白野が感心しながらカウンターの入口側の席にストールを置くと、あれに比べたら刃物で刺された方がなんぼかマシだ、と雨崎が太い眉を寄せながら煙を吐いた。白野はそのまま雨崎に歩み寄り、下げていた巾着袋から栗まんじゅうの親戚のような物体を取り出して見せる。
「ところで旦那、おちょぼの根付が仕上がったよ。ご注文通り継ぎ目も中身も見えないけど、できたてだから注意してお取り扱い下さい、だ」
そう言って白野は根付を雨崎に渡し、入口側の席に座ってコーヒーを注文した。静川が意外そうに根付と雨崎を交互に見る。
栗まんじゅうのような根付は、誰の趣味なのかナマズの形をしていた。色っぽくくねる尾びれに、にやりと笑ったような半開きの口元。最近この鮒山町ではナマズが静かなブームらしい。
「さすがだな。継ぎ目も中身も見えない上に、前よりべっぴんになってる。これは仕事がはかどるな」
雨崎が手のひらの上の根付を眺めて感嘆の声をあげる。そりゃよかった、と白野は満足そうにカウンターに出されている水を一口飲んだ。つられて水を飲んでいる静川に、根付を大事そうに懐にしまった雨崎が仲間を見るような目をして言った。
「それにしても、お坊様は相変わらず黒いお召し物だな」
「そちらこそ、葬儀屋さんでもそこまで徹底してませんよ」
「だからいいんだよ。常に隣にいる女性の色彩が引き立つ」
「いつもお隣にいるのは男性じゃないですか、帽子の」
「まあ、それはそうなんだが……そういやお宅、ウチの曽我に似てるよ」
ヘアスタイルだけでしょう、と静川が冷めたような目をして言う。時々雨崎の隣にいる黒スーツにサングラスの男は曽我と呼ばれていて、常に被っている中折れ帽子の下は静川と同じヘアスタイルなのか、クールでスタイリッシュな雰囲気を漂わせていた。
「いやいや、どことなくこざっぱりした顔つきも、声がいいのも似てるよ」
煙草を持ったまま笑う雨崎に、そうですか、と静川が出されたコーヒーを一口飲む。マスターも納得したように肯いた。
「声はお経で鍛えられてるしね。体型が似てると声も似るのかな。昌さん、声とか顔がいいって言われない?」
「声や顔より、雰囲気や頭の形を誉められる事が多いです」
静川は穏やかに言って姿勢を正す。へえ、と煙を吸い込む雨崎の反対側で白野が小さく笑うのが聞こえた。雨崎も白い歯を見せながら言う。
「まあ、替え玉とか影武者が必要な時には言ってくれ。奴に袈裟着させるから」
「ありがとうございます。その際には、浄桂寺の副住職がグレたという噂が立つので、サングラスを外して頂けますよう、どうぞよろしくお願いいたします」
静川が合掌して深々と頭を下げる。サングラスは駄目か、と雨崎が残念そうに言った。
「しかし副住職ってことは寺の跡継ぎかなんかか。若いうちから人生設計が決まってんのも難儀そうだな」
「……そうなんですけど、私には兄がいたので将来跡を継げとかそういうことは全く強制されませんでしたよ。祖母はどちらかというと止めました」
「お、なんか悪い事聞いたか」
「あ、全然そんな事ないです。ただ、兄はしばらく会社勤めをしたいと言って就職して、海外赴任先で伴侶を見つけてしまったんです。でも寺の跡継ぎが結婚するとなると色々面倒で、結婚しても相手のかたはかなり苦労することになるので雲行きが怪しかったんです。それで私が僧侶になることにして、一件落着したんです」
「昌さんはすごいよねー、それって昌さんが高校卒業するころの話でしょ。迷いとか抵抗とかなかったの」
カップを拭きながらどこか呑気に尋ねるマスターに、静川は肩をすくめながら言う。
「昔から門徒さんが私を小僧さんとか小坊主さんと呼んで可愛がって下さったものですから、なんとなくそのイメージというか、期待に応えるような感じで」
初めからこうなるために自分がいるのだと確信しているかのように、静川は穏やかに笑ってカップに口をつけた。もう少しだけ事情が違えば、自分はこの道を選ばなかったかもしれない。迷いや抵抗があったと認めることが、誰かの負い目になることもある。
静川がぼんやりと前だけを見ながらカップを置くと、その隣で白野が思い出したように言った。
「そういや昔、マスターも静川の事を小坊主って呼んでなかったか」
「ちゃんと昌之介君って呼んでたよ」
「いや、その直前、『こぼう……』って言おうとしてた」
白野がカップを両手で持ちながらにやりと笑う。いやあれは、とマスターが困ったように言葉に詰まった。白野が話しているのは、静川が初めてジャックに入った時の話だ。
それまで一人で喫茶店に入ったことなどなかった高校一年の静川が初めてジャックに入ったのは、二年の白野が一人で時々寄っていると聞いたからだった。
初めて一人で入ってみた喫茶店は薄暗く、雰囲気のある店内では学校帰りの白野がカウンターでコーヒーを飲みながら店主らしき男性とのんびり話していた。マスターの顔には見覚えがあり、同じくマスターも静川に気付くと驚いたように動きを止めた。
「小坊……えーと、昌之介君、いらっしゃい」
制服姿の静川にマスターも一瞬口ごもり、同じ学生の白野の前であることを気遣ってとっさに下の名前を呼ぶ。ジャックの店主は浄桂寺が管轄する墓地に時々墓参りに訪れていて、静川を『小坊主さん』と呼ぶ人達の一人だった。
こんにちは、と静川が焦りながら慌てて深く頭を下げると、知り合いなのか、と白野も客が静川だったことに驚きながら二人の間に漂う謎の緊張感に首を傾げる。
とりあえずどうぞ、とマスターにカウンター席を示された静川は、白野から少し離れた席に座り緊張したままコーヒーを頼む。馴れなれしく話に割って入るような間柄でもないので、静川は純粋にコーヒーを飲みに来たような顔をしてマスターと白野の話をこっそり聞いていた。
「……ウチのコーヒーがおいしいのは当たり前。どうおいしいかを聞いてるの」
「コーヒーの味の違いなんか説明できないよ、詩人じゃあるまいし」
「そんな、苦味がいいとか酸味が際立つとかいろいろあるでしょ。ない?」
「ん、ここでコーヒー飲んでて、苦味の中で微かに残る野性味だの、調和のとれた酸味と甘みなんて感じたこともないけど。なんかおいしいとか、今日のは飲みにくいとかしか」
白野が詩を暗唱するように言うと、マスターは傷付いたようにしょんぼりと息を吐く。
「これじゃいつまでたっても荘子ちゃんに『いつもの』みたいのが出せないよ」
「いいじゃん別に。何が出てきても飲むんだから」
そう言って白野はカップにしなやかな指を添え、おいしそうにコーヒーを飲んだ。そしたら今度は濃く出した麦茶出すよ? というマスターに、それ大絶賛したら傷つくのマスターだと思うなあ、と白野が笑う。
「あ、静川も笑ってる」
隣でこっそり笑っているのに気付き、白野が少しだけ楽しそうに静川を見て笑った。焦って両手を振りながら静川が話す。
「いえ、私も白野先輩と同じようなものですから。『匂い冷ややかにして酸味ありうんぬん、その香りは僧の如し』と評されていた『佐曽羅』という香木があるんですが、その煙を嗅いでもどの辺が冷やかで、どの辺りが僧の如しなのか全く解りませんでしたから」
「……えらく高尚で大人なご趣味なんだな」
「いえあの、趣味ではないんですが、どんな匂いなのか少し気になって」
「『僧の如し』で引っかかっただけだよね。昌之介君のところはお寺だし」
えっ、と白野がマスターの言葉に驚くと、あっ、とマスターが焦ったように静川を見る。静川が考えるような顔をしていると、白野が寺のある方向を指差して言った。
「静川って、まさか、あそこの寺の子なのか」
「……はい、実は浄桂寺の息子です」
「でもあれから昌さんが本当にお坊さんになって常連になるとは思わなかったなあ」
感慨深そうにマスターが遠い目をすると、白野はカップを持ったまま笑って言った。
「どこの坊ちゃんかと思ってたら、坊さんだったな」
「荘子ちゃんだって、黙ってればどこのお嬢さんかと思われるよ? 凛々しくて姿勢もいいし、着付けもお花もできるんだし。もう少し言葉づかいをなんとかすればいいのに」
このままじゃ怖い世界の人かと思われるよ、とマスターが言葉を選びながら横目で見ると、白野は笑いながら言った。
「私だって出るとこ出たら、それなりに喋るさ」
「どこに出せばいいの」
「さあ? きらびやかな所に出されりゃ猫くらい被るよ」
そう言って白野は上機嫌でコーヒーを飲み干す。どうせウチはきらびやかじゃないですよ、と言い残してマスターがボックス席へ注文を取りに行くと、きらびやかな本堂を持つ浄桂寺の静川が小声で白野に言った。
「ところで、あれから篤伸君と話したんですが……」
内容を察した白野が真面目な表情になる。静川は遠慮がちに少しだけ白野の方へ身を寄せ、世間話をしている風を装いながら話した。
真弓子が見たという七年前の光景は現実で、白野の考えていたように星尾と篤伸の間で『密約』があったこと。星尾に怪我はなく、赤い服も着ていなかったこと。
そして流華も同じく白い鬼を見ていたが、その状況については話そうとしないこと、鬼の体が赤いのは『刺されて血が出たから』で、現在はそれを不自然に撤回していることを白野に話した。
「流華さんの色覚は恐らく正常です。『ひなにんぎょう』がどの人形を指すのかわかりませんが、『お雛様なのに変な色にした』と流華さんは言い、自分で『緑色』に塗ったと言いました。赤に塗るべきものを緑に塗ったのなら、赤と緑の区別がついてないようには思えないんですよね」
「でも、そこまで自覚してるなら、流華はどうして人形を赤に塗らなかったんだろう。七年前に描いた絵を覚えていて、緑に塗るのは変だったって恥ずかしがるのも妙だな」
「そうなんですよね。でも色の区別がついているのは確かです。それで思ったんですけど、真弓子さんの見た鬼と、流華さんの描いた鬼は別人ではないでしょうか」
ひそめていたはずの声がわずかに大きくなっているのに気付いて、静川はちらりと周囲に目を走らせた。雨崎は椅子に寄りかかり、腕を組んだままうたた寝している。白野も当分忙しそうなマスターを横目で見ながら腕を組んだ。
「色違いの鬼がいたってのか。でも流華は、全部自分の勘違いで、刺した奴も刺された奴もいないって言ったんだな」
「流華さんは、『誰が刺したのか』を言いたくないんです。当時そこには、星尾さんと篤伸君だけではなく、それを見ていた流華さん、そして『おじさんを刺した』人物がいました。刺されたのが星尾さんでないのなら、もう一人『刺されたおじさん』がいても不思議ではありません。鬼のお面をつけていたのは不思議ですけど」
「そうだな、刺したオジサンってのを流華が庇ってるのなら、そいつは羽武沢家の誰かって事になるな」
白野はふと暗い目をして右の袂に触れながら息を吐いた。静川はそこからゆっくりと視線を外す。流華がよくないものを見てしまったことと、それを無理矢理飲み込むように強いられていた可能性がある。
「流華さんが夜に一人で、距離的にも遠い友枝さんの敷地に入ったというよりは、羽武沢家の誰かと一緒にいたと考える方が自然ですね。そうなると星尾さん、刺した人、刺された人、と少なくとも三人の大人が友枝家にいたことになりますが、これって荘子さんの言っていた篤伸君との『密約』みたいなものと関係あるんでしょうか」
「ない方が変だろ。屋敷に忍び込んできた大人三人に出くわして、篤伸が星尾とぐじぐじ真弓子の話だけしてたと思うか? 星尾は夜逃げするほど金に困ってた。言っただろ、目当ては友枝家の骨董じゃないかって。それを篤伸に見つかって、星尾は真弓子をダシに見逃してもらえるよう頼んだ。その辺りの話をどうつけたのか密約は結ばれ、結果星尾は失踪して、何を揉めたか残りの二人は刺した刺されたの関係になった。流華はそれを見てたかもしれなくて、刺した奴を今でも庇ってるから言わないんだろ。……なあ静川、流華は大丈夫なのか?」
不安げな声で問いながら、白野は真剣なまなざしで静川を見た。それは、と言いかけた静川は姿勢を正し、平静を装いつつ必死に言葉を探す。白野は自分が助けた流華に責任を感じている。その奥にある迷いと、流華の疑問はどこかでつながっている。この人に気休めを言うわけにはいかない。
「悩みすぎるとこいつみたいにハゲるぞ?」
突如、二人の真後ろに現れた雨崎に、うわっ、と驚いた白野が思わず振り向きざまに肘鉄を食らわす。静川が地蔵のように固まっている側で、白野の攻撃がヒットした雨崎は右肩を押さえながらうめき声をあげた。白野が済まなそうに頬を掻く。
「あ……悪い。でもそこまでじゃないだろ、旦那」
「また結石ですか?」
「いや、肘がいい所に入ったからな、ちょっとびっくりしただけだ。……それより、おたくらここんとこ面白そうな話してただろ。こっちもちょいと心当たりがあるんだ、俺も話に混ぜてもらえると嬉しいな」
そう言って静川のすぐ隣に座った雨崎は、白いハンカチで脂汗を拭くとごくごくと水を飲んだ。サングラスで表情はわからないが、少しは応えたらしい。
面白い話なんかしてたか、と白野が首を傾げると、結石の話くらいですかね、と静川が惚ける。雨崎はシガレットケースから煙草を取り出しながら鼻を鳴らした。
「誰がそんなつまらん上に縁起でもない話に混ざるかよ。七年前の鬼だのガメラだのって話に決まってんだろ? おたくら、友枝家の少年少女の事情に詳しそうじゃないか」
「……そうでもないですよ。わからないことが多くて難儀しています」
「いやいや、ちらっと話が聞こえてた限りではいい線いってるよ、興味深い。友枝家のお嬢さんに霊が憑いたのは他人の反応を見る遊びだとか、彼女の父親が失踪前夜現れたのは骨董目当てだとか、そこにいたのはそいつと坊ちゃんだけじゃなかった、とかさ」
「何日も前から話が聞こえてたみたいだな」
白野が腕を組みながら雨崎を横目で見る。まあまあ、と平然とした顔で煙草に火をつけて雨崎が言った。
「いやまあ、……白い鬼やガメラは置いといて、さっき話してた妙な色のヒナ人形ってのに興味があるんだ。俺の知ってるヒナ人形だったら話に参加させてくれ。子供のノートに描いてあったんだよな。どんな人形だ?」
そう言うと雨崎はカウンターに両肘をつき、指を組んで二人を見る。どんなと言われましても、と慎重に静川が雨崎の反応を窺うと、訝しげに雨崎を見ていた白野が言った。
「ノートにあったのはひらがなの『ひなにんぎょう』と、緑色の服を着た女らしきもの。三月三日のアレとは似ても似つかない」
「緑色ね。そいつは座ってなくて、頭から布を被ってる。そして赤いオマケはついてなかったか?」
「子供の絵だから断言できないけど、緑のフードを被って立ってる絵に見えたよ。手のデッサンが微妙だけど何かを持っていて、その先の左肩に赤いハートみたいなのがあった」
「オーケー、それなら間違いない、俺の馴染みのヒナ人形だ。そいつはある職人が作った一点ものの人形で、ぼんぼりに灯りをつけるヤツとは別物だよ。おたくらがえらく心配してるお嬢ちゃんの目は至って正常で、なかなか正確な絵を描いたってことさ」
嬉しそうに煙を吐く雨崎に白野が怪しむような目を向ける。聞かれてしまった話を隠しても仕方がないので、静川も複雑な表情のまま言った。
「流華さんはそんなこと言いませんでしたが」
「当たり前だ。そのお嬢ちゃんは面倒なことを言いたくないんだろう、訳ありならなおさらだ。なんの義理もない坊さんに、あの絵はそう呼ばれてる別の特殊な人形です、なんて説明するかよ。お嬢ちゃんは自分が色を塗り間違えたことにして、坊さんを納得させようとしたのさ。おたくらもさっき言ってただろう、変な色に塗った自覚があるのにどうして真っ当な色に塗らなかったかって。三月三日のひな人形としてはミスマッチな色でも、お嬢ちゃんの『ヒナ人形』は真っ当に緑色だったからさ」
そう言って雨崎はのんびりと笑う。静川はサングラスの奥にある雨崎の目を見た。今ひとつ適当な話をされている感は否めないが、雨崎の目的がわからないうちは判断することもできない。ちょっと待て、と白野が身を乗り出して聞く。
「その前に、どうしてその人形が『ヒナ人形』なのかわからないんだけど」
「ああ悪い、人形作ったその職人の名前が『ヒナさん』ってんだよ」
「……なんだ、それだけかよ」
センスのない話だな、と呆れたように白野がため息をついた。俺が考えた訳じゃない、と困ったように雨崎が眉を寄せる。白野は腕組みしてしばらく雨崎を睨むように見ていたが、にやりと笑って言った。
「それが旦那の師匠か」
「そういうことだ。日本人には見えなかったから本名かどうかも解らんが、モリエ・ヒナって名前で通ってたな」
「聞いたことないな」
「まっとうな職人や芸術家じゃないからな。それこそいわくつきだ、一部の奴らにしか『ヒナ人形』ってのも通じない。そんな訳で俺も『ヒナ人形』には人並み以上の関心があるんだ。お近づきになれそうなら混ぜてくれ、お坊様」
「……つまり雨崎さんの目的はその『ヒナ人形』なんですか」
静川がなにげない口調で確認する。雨崎は力が抜けたように言った。
「ああ、俺は長年追っかけてるんだ。はじめは取引帳簿にも残らないような値で売っ払われて転々としたが、十年以上前に友枝氏……骨董に興味のない友枝篤良氏じゃなく、その先代が手に入れて今も友枝家にあるはずなんだが、それもどうやら違うらしくてな」
「流華さんが描いたのは『だんなさまのへや』の人形でしたね」
静川が確かめるように白野の顔を見る。『ひなにんぎょう』の絵は『だんなさまのへや』と書かれたページにあった。七年前のある時点で、人形は羽武沢家にあったことになる。白野は身を乗り出しながら真面目な声で聞いた。
「その人形は業者の間で価値があるのか」
「いや。モノはいいんだが、ジュモーやらブリュやらと違って、俺の師匠を知らない奴にはほとんど価値はわからんだろうな。もちろん『ヒナ人形』なんて名前で出回ったりしないし、当時の友枝氏もそんな話は知らないはずだ。それがどうして羽武沢家に渡ったのかはともかく、流華ってお嬢ちゃんはそれを『ヒナ人形』だと知っていて、他人に知られてはいけないものだと認識している。だからお坊様に色がどうのと誤魔化した。そんな所に俺が『お宅の持ってるヒナ人形を下さい』なんて頼みに行く訳にもいかない」
「前から思ってたけど、流華に妙なことばっかり教えたのは何者だよって話だな。なんにせよその話が本当なら、羽武沢家も星尾真弓子の父親も、友枝家に用があった訳だ」
旦那も含めてな、と白野が呆れたように息をついた。まあな、と雨崎も煙を吐く。
「お嬢さんの考えた通りさ。星尾は借金で便宜を図ってくれた羽武沢の言いなりだった。そんな時に羽武沢は……とはいえ羽武沢一人の頭から出た話じゃないだろうが、魅惑的で金銭的価値の高いお宝が友枝家にあると聞いて、星尾に無茶な提案をした」
「友枝のお屋敷からお宝を盗んでこい、か。羽武沢は金はあるけど人間性が……って噂は本当だな。旦那は星尾から話を聞いたのか」
「まあな、人形を追っかけてるうちに色々わかってきたってだけさ。羽武沢達と仲良しになりたいとも思わないし、星尾には同情してる。素人が怪人二十面相のマネしたところで上手くいく訳がないしな、星尾は消えるしかなかった」
雨崎はどこか苦しそうにそう言って小さく息を吐いた。静川は念珠を握りしめて視線を空のカップへ落とす。
「無事でいてくれればいいですね。五年経てば借金も時効にできると聞きましたし」
「あー、それ真っ当な金融機関が相手の場合だな。今、星尾の借金は羽武沢個人が肩代わりした形になってる。羽武沢のお陰で借金の額も増えたようだが、個人からの借金を時効にしたけりゃ十年だ」
雨崎は意地悪く笑いながら椅子にもたれて足を組みかえる。白野が呆れたような目をして尋ねた。
「それで、星尾が世話になった親方に上納したのが人形なんだろ。『ヒナ人形』ってのの価値を羽武沢は知ってるのか?」
「どうだろうな。その辺の指示を出したのは羽武沢の部下だ。『ヒナ人形』を流華ってお嬢ちゃんに教えたのも羽武沢じゃなさそうだし、その後のことはこっちもわからず進展無しさ。そんなところに、当時星尾と鉢合せした友枝の坊ちゃんやら星尾のお嬢さんの様子が妙だって話がそちらから聞こえた。おまけに師匠の人形を知ってるお嬢ちゃんとも縁があるらしい。人形も心配だが、今はそれより迷いやすい少年少女が道を踏み外さないよう、動向を注意して見守るのが大人の務めだろう?」
学校帰りの君彦が店に寄ると、師匠の作業台には小さな墨壷や銀色の細工物が置かれていた。どうしたのこれ、と古そうな墨壷を指差す君彦に師匠は両手を合わせながら答える。
「逸見町で蚤の市があったの」
「あー、神社で時々やってたかな。で、なにやってんだよ、師匠」
不審そうに言いながらも、君彦はどこか困ったように眉を寄せて師匠を見る。隣町の骨董市で墨壷を買ってきたらしいまではわかったが、その隣で師匠は横にした小さな木箱に向かって手を合わせていた。中には銀の十字架が立て掛けてあり、なぜか手前には小皿に火のついた線香が寝かせてある。
「燻製か? 銀を燻すのは硫黄なんだろ、師匠」
「日本ではこうやって死者の魂に話しかけるんでしょう?」
「……いや、はじめて聞いたけど、誰から聞いたの」
「神社の帰りにきれいなお寺があって眺めてたら、そこにいたお婆さんがいろいろ教えてくれたわよ。どんな悪人でもオジョードっていうパラダイスに連れてってくれるのがアミダサマで、死者の魂に話しかけるためにゴホンゾンに線香と呪文を捧げるって」
ゴホンゾンってこういうのでいいんでしょ、と師匠が得意気に箱の奥に立てかけた銀の十字架を指差す。
「たぶん色々間違ってるけど、神社とお寺のハシゴしたのかよ。師匠なら教会だろ?」
「だって教会のお墓参りは四月のイースターだし、死んだ人の魂に祈りを捧げる日は十一月二日って決まってるの。でもお寺ってすごいのね、年中無休で死んだ人に話しかけてるんでしょう?」
「……なんでもいいけど、師匠は誰に話しかけてるのさ」
「私の兄よ。ちょうど今日、兄の死んだ記念日……命日っていうの? に、可愛いのを見つけたから教えてあげようと思って」
そう言って師匠は作業台に置かれていた愛らしい銀細工ではなく、墨壷の方を手にとって嬉しそうに君彦に見せた。
「ナマズの小物入れ。可愛いでしょう?」
「可愛いかどうかは解んないけど、これナマズじゃなくて墨壷だよ。大工さんが使うやつ」
違うの? と目を丸くする師匠に、違うよ、と君彦が大まかに使い方を説明する。古くて装飾も少ない墨壷は、汚れや傷の加減でナマズに見えないこともなかった。なあんだ、としょんぼりしている師匠に君彦が慌てて慰める。
「ナマズが好きなら俺がもっといいやつやるからさ、ちっと辛抱しててよ。それより、そっちのは何なの」
君彦が銀色の小物を指差すと、これ? と師匠は気を取り直したように目を輝かせてそれを君彦の手のひらに乗せた。空豆ほどの銀の小物は長靴や貝の形をしていて、長靴の中からさらに小さな猫、貝の中から真珠が出てくる仕掛けになっている。こっちはとっておき、という卵の中から出てきたのはヒヨコだった。どうしてとっておきなの、と尋ねると、師匠は小さなヒヨコを指差しながら言った。
「私と同じなの。これって『ヒナ』っていうんでしょう?」
「……ヒヨコっていう方が普通だけど」
翌日、一度家に戻った君彦が店へ行くと、師匠はブレザーについているような金色で厚みのあるボタンを分解していた。表と裏のパーツを合わせるタイプで、中の空洞になにやら仕込んでいるらしい。
師匠は仕入れたり自作した雑貨を売るというより、古いものや壊れたものに手を加えたり作り直すのが得意だった。その多くは冗談のようなもので、マンドリンに小さな隠しポケットを作ったり、ステッキに水鉄砲を仕込んだりしている。木製の戦艦三笠も仕掛けがあって、主砲と煙突を同時に押すと側壁の一部が開いてチョコレートが出てきた。
「今日のは何やってんの」
「十年ほど前に大阪で盗まれた幻のダイヤモンドをボタンに隠してるの」
手を動かしながらしれっと答える師匠に、ああそう、と君彦も平然と受け流す。反応しようのない師匠の冗談にも君彦はだいぶ慣れていた。
「ところで師匠、これあげようと思って持って来た」
約束したからさ、と君彦はカバンから木彫りの小さなナマズを取り出す。愛嬌のある口元でにやりと笑うそれは何年か前に父親がもらってきた土産物で、もらっていいかと聞いた時、父親はその存在すら覚えていなかった気の毒なナマズだった。師匠は君彦の手から受け取ったナマズをじっと見つめると、小さな八重歯を見せて歓声をあげた。
「かわいい! 変なヒゲだし間抜けな顔で、私の兄みたい」
「いや、それでどうして可愛いんだよ。師匠の兄貴ってこんな顔で死んじゃったの?」
「どんな顔でも死ぬ時は死ぬわよ。もう昔の話だけど、冬の川に落ちちゃった子猫を助けようとして、彼女の前でかっこつけて飛び込んだの」
「すげえ、でもナマズみたいなのに川で溺れたのか」
「ノー。猫も兄も戻ってきたけど、兄はそれで風邪ひいてこじらせちゃったのよね」
そうなのか、と君彦が後に続く言葉を探す。どこか間抜けな話のような気もするし、師匠もけろりとした顔をしているが、身内を亡くした話に対してどういう顔をしたらいいのかわからない。師匠はそんな君彦の表情を察したのかのんびりと言った。
「本人は天にも昇る気持ちだったはずよ。三日三晩看病されて、彼女の腕の中でニヤニヤしながら死んだんだから。私もそうありたいわ」
ダイオウジョウよ、と師匠は呆れたように笑った。