流華
流華
日曜の午後、法事の後片付けを終えた静川は、休憩してきます、と母親に断りを入れて外へ出た。通りを歩きながら昨日見つけた流華のノートのことを考える。まずは持ち主に忘れていたことを謝るべきだが、それよりも描かれていた絵が気になっていた。
夜の中にいる白い鬼のような人物と亀。真弓子の父親が白い鬼の面をつけて消えたのは七年前の二月で、流華がノートを見せたのは三月。ともえださんのかめです、と言っていた流華。
歩いていた静川は喫茶ジャックの前で立ち止まり、しばし考えこむ。白野にもこのことを教えるべきだろうか。
白野に流華の話をするのは不安があった。霧矢流華は白野荘子にとって良くない記憶の断片でもある。流華の母親と白野の父親による不倫問題で白野の母親は八年前に自殺しているし、その半年後には流華の母親と白野の父親もホテルの火災で死亡していた。白野が死にかけていた幼い流華を助けたこともあるが、白野の口から流華の話を聞いたことはない。
そこは仕方ない、と静川は高校時代の自分を思い出しながら店の扉に手をかける。もとより白野はそういう私的な話を自分にしなかった。あれこれ考えるのは無駄だ。
いらっしゃい、とボックス席の皿を下げながらマスターが声をかける。白野の姿は見えない。ボックス席はそれなりに埋まり、カウンター奥にはサングラスをした雨崎がくつろいでいた。静川はややこしいことにならないようカウンターの手前に座り、戻って来たマスターに控えめな声でコーヒーを注文する。そういえば、と意外にマニアックなマスターの顔を見て一つの可能性を思いつき、それとなく訊ねてみる。
「あのう、亀が飛んだり白い鬼のお面が出てくるような子供向けの話って、ご存知ですか」
「え、……白い鬼はわかんないけど、亀が飛ぶならガメラじゃないの、普通」
ねえ、とマスターがカウンターの奥へ向かって話を振る。雨崎は煙草に火をつけながら言った。
「あー、ガメラはあんまり見なかったな、あれ大映のご本尊だろ。俺は円谷派だったから、馴染みがあるのはウルトラ怪獣なんだ。東映系も仮面ライダー一号二号しか知らないし」
「……そういう分野も様々な宗派に分かれているんですね」
すでに雨崎の話がわからない静川が神妙な顔で言う。宗派じゃなくて流派かなあ、とマスターが静川のコーヒーを用意しながら呟くと、雨崎は体をくるりと静川に向けて足を組みながら言った。
「おたくらみたいに色々あるのさ。円谷は元々ゴジラを本尊とする東宝が総本山だったんだが、そこから分離して円谷派の本尊はウルトラマンになった。そして俺はセブンを聖典とする少年だったわけだが、亀やら鬼やらは覚えがないな。タコや河童、ウチワエビみたいな怪獣はいたんだが」
「……お寿司屋さんみたいな品揃えですね。どれくらい前に流行ったものなんでしょう」
カウンターにコーヒーが置かれ、静川が合掌しながら訊ねる。マスターと雨崎は一瞬考えるような顔をしてから同時に言った。
「四十年くらい前かな」
「あ、そんな古いの無理です。七年ほど前くらいの話なので」
本当にありがとうございました、と静川が再び合掌して二人に頭を下げる。さすがに最近のウルトラ怪獣は知らないな、と煙草を咥えたまましみじみと言う雨崎に、でも七年前のは初期のネタが豊富らしいですよ、とマスターが目を輝かせた。
「すみません、怪獣からはもう離れてよさそうです」
話がさらに広がりそうな二人にやんわりと静川が声をかける。そういや何の話だっけ、とカップを拭きながら訊ねるマスターに静川は肩をすくめて言った。
「いえ、ちょっと聞きかじった話と、私の知ってる女の子が描いた絵の題材が似ていたので気になっただけなんです。どちらも七年前の話で、白い鬼のお面と飛んでいるような亀が出てくるので、ひょっとしたら当時流行ったテレビ番組か何かかと思って」
「その知ってる女の子ってまさか、昌さんの彼女?」
「まさか、違いますよ。流華さんは知り合いの小学生です」
静川が思わず力説すると、マスターは安心したように肯いた。
「あー、小学生か、今時っぽい名前だもんね」
名付けをしたのは母親だろうか、とぼんやり思いながらコーヒーを飲む。流華に正式な父親はいなかったらしい。さらに八年前に母親を忌まわしい形で失い、遠縁の羽武沢家に引き取られ、その翌年の三月に流華はノートを渡している。
「ま、小さい女の子が知ってる鬼や亀なら昔話だよね」
「ですよね、荘子さんもそんな風に言ってました。観音様みたいなひな人形なんかもありましたし、色々混ざった自由な絵なのかもしれません。……一応、荘子さんがいらしたら、鬼と亀の絵が出てきたとお伝えしていただけますか」
いいよー、とのんびり言いながらマスターが客の会計に向かう。黙って聞いていた雨崎が静川に不思議そうな声で訊ねた。
「それってあの和服着た綺麗なお嬢さんだろ、向こうの古物屋の。直接行った方が早くないか?」
結構暇そうだぞ、と雨崎がからす屋のある方角を顎で示す。からす屋は白野の母方の祖父の店だった。高校生だったころの白野は学校が終わるといつもからす屋にいた。それは彼女に決定的な不幸が訪れる前からのことで、自宅ではなくそこにいる理由が白野にはすでにあったのだろう。
「……いえ、そこまで親しい間柄ではないので」
「そりゃ残念だな。さえない男も、坊さんが飲ませたコーヒーで恋をしたってのに」
そのコーヒーに何か入っていたのでは、とさえない坊さんはコーヒーを飲みながら言う。レジから戻って来たマスターが嬉しそうに説明した。
「コーヒールンバはアラブの偉いお坊さんの話ですよね。昔々、恋愛から遠ざかった男を哀れに思ってコーヒーを飲ませたら、男は不思議な高揚感をともなった上、たちどころに若い女性に恋をしたんです」
「それ、確実に何か入ってますよね。あと、恋愛から遠ざかっていると哀れに思われるものなんでしょうか」
そう言って静川が手にしているカップの中身をじっと見る。んー、と雨崎は太い眉を寄せ、煙草を灰皿に押しつけながら言った。
「縁がないのは実に哀れというか気の毒だが、歌の男も恋はしたが、成就した訳じゃない。大事なのは喜びを求める心で、心躍る恋も美しい女もいらねえよって奴が哀れだって話さ。俺の師匠の兄貴なんて爺さんになっても女追っかけ回して大往生だ、煩悩あっての人生さ。アラブの偉い坊さんが言ってんだから間違いない」
「……宗派や教義も様々ですからね。ところで、良くお会いするというか、いつもいらっしゃいますね」
「ああ、こう見えても俺の職業は遊び人だしな、ここを水分補給の拠点にしてるのさ。まあ職業に関係なく水分は摂った方がいいぞ。俺みたいに結石が出来たら耐えられん激痛で悶絶する事になる。今は若い奴にも多いらしいからな」
「……苦労されたんですね」
「おう。小便のキレが悪くなったら覚悟しておくといい。事と次第によっちゃ、俺みたいに白衣の天使達に取り囲まれて、ヘソから下を晒した上に弄られる事になる」
「壮絶な経験をお持ちなんですね。私も水分摂取を心がけます」
静川が思わず合掌して目を閉じる。雨崎は楽しそうにメニューを手にとって黒い表紙を開き、アルコールのページを広げて静川に見せた。
「そんな訳だ、お互いの水分摂取のためにも一杯やらないか?」
「お誘いは有り難いのですが、さすがに私は……」
「何だ、やっぱり接待は赤坂とか祇園じゃないと駄目か」
坊主と言えば丸儲けだもんな、と雨崎は合い言葉のように軽く言うと残念そうにメニューを閉じる。訂正したいことは多いが、ここで『預かったお布施は仏に対して使われる』とかそういう話をしても仕方がないような気がして、静川は雨崎だけに聞こえるような声で言った。
「誤解されやすいことは承知してますが、うちは丸儲けとか贅沢とは無縁ですよ。土地があるのでなんとかなっていますが寺の収入はそれほどありませんし、私個人はそこから給料のようなものをささやかながら頂いている身です。お葬式でがっぽりとか戒名や法名が高額だという話もよそでは聞きますが、うちでは無いに等しいことも多いです」
「へー、葬式はおたくらのボーナスチャンスじゃないのか」
「葬儀費用の大部分は葬儀屋さんの方に使われてしまうそうで、お布施に回す余裕はないみたいですよ。こちらも余裕はないので他のお寺へヘルプに行ったりもしますし、会社で働きながら兼業している方も多いです。ボーナスとかタナボタはほとんどありませんし、皆さんの手前、贅沢なんて出来ませんよ」
そもそもボーナスの使い途もない静川が息をつく。寺を留守にできないので旅行はしないし、免許は取ったがほとんど車を使わない。時計としてしか役割を果たしていない携帯電話に凝る必要もなく、腕時計や洋服を買う必要もなかった。僧衣も分不相応なものは身に着けることはできないし、なによりお布施で生活しているのに贅沢な真似はできない。外食も難しく、静川はこうして時々ジャックに逃げ込むくらいしかできなかった。
「俺の思ってた坊さんとは違うんだな、高い時計して外車乗ってる坊さんもいるってのに。税制的に宗教法人てお得じゃないの?」
「非課税なのは固定資産税で、個人の収入には所得税がかかります。税理士さんもタダでは来てくれないので決算を纏めるのも難儀してます。末寺は上の方に上納金を納めないといけないし、銀行からお金も借りにくいしで外車どころじゃないです」
「悩める弱小ヤクザみたいだな」
「こっちが元祖ですよ。上納金が少ないと跡目も認めてもらえません」
自慢にならないことを主張して静川がコーヒーを飲み干す。難儀な職業だな、と雨崎は腕時計に目をやるとコートを掴んで席を立った。
「遊興にふけるのもままならんとは気の毒だ。機会があったら俺がこっそりいい所で接待してやるから、それまで抗争なんぞで指や命を落とさんようにな」
「ありがとうございます、高僧の達磨大師に弟子入りしても落とすのは腕くらいです。そちらこそ、お体に気をつけてお過ごしください」
「そうするよ。結石だけじゃなく満身創痍だからな」
ごちそうさん、と会計を済ませた雨崎が右肩を擦りながら店を出る。お大事に、とその背中に静川が合掌した時、外で黒い車が独特のエンジン音とともに停まるのが見えた。
黒いベンツに乗りこんだ雨崎が懐から出した煙草を咥えると、運転席の男が黙ってそれに火をつける。雨崎は考えるような顔をしながら煙を吸い込み、そのまま煙とともに軽く息をついて笑った。
「待たせたな、曽我」
いえ、と控えめに笑った男がライターをポケットに入れ車を出す。黒っぽいスーツにサングラスという雨崎と同じようないでたちだが、曽我と呼ばれた男は雨崎より細身の上にいつも中折れ帽子を被っていた。その帽子の下はクールに剃り上げられている。
「楽しそうですね」
「まあな。そっちはどうだ」
「滞りもなく、今日も特に問題ないようです。……雨崎さんが不在だという以外は」
そう言って曽我が物言いたげにちらりと隣を見る。雨崎は煙草を咥えたまま腕を組み、開き直ったようにシートに寄りかかって言った。
「遊び人の俺がいないくらいで滞られても困るんだよ。今になって少し面白い事になってきたんだ、俺はしばらく転職しないからな」
雨崎がのんびりと外を見る。車は駅前通りを過ぎて東地区を抜けようとしていた。日が落ちはじめた空の下、遠目に羽武沢家の竹藪と白い塀が見える。曽我がハンドルを切りながら薄く笑った。
「……線香の匂いがしますよ」
まだ暗い月曜の早朝、老人がけたけたと笑うような声で静川は目を覚ました。そのまましばらく耳を澄ますが、それきりで何も聞こえてこない。枕元の携帯電話に腕を伸ばし、起きてもいい時間であることを確認して体を起こした。眠りは浅かったので起きることに抵抗はない。
洗面を済ませ、身支度を整えながら今日の予定を確認した。二月十八日の月曜。私用で外出することはゆうべ家人に伝えてある。用事も法事も入っていないが、雑務などは済ませておくにこしたことはない。目覚めているのに何もしないのも落ち着かなかった。
暗く冷え切った境内に出る。五時前なので音を立てないように本堂へ向かうと、突然間近でかっかっと笑うような声が響いた。息の止まるような思いで声の源へ目を向けると、目の前の松に止まっている黒々としたカラスと目が合う。
おはようございます、と思わず小声で挨拶すると、カラスは静川に驚く様子もなく老人が喉元で笑うような声を出した。奇妙な鳴き声を覚えてしまうカラスも多いとは聞くが、実は人間を驚かせて楽しんでいるのではないかと疑ってしまう。
「堂々としているのはいいですけど、もう少し普通に鳴いてもらえませんか」
怖いじゃないですか、と静川が恨めしげにカラスを見た。黒い者同士でしばらく見つめあい、先に目を逸らした静川が暗い空を見上げる。今日はからす屋へ行くことになっていた。
ゆうべ、かかって来た電話と楽しそうに話していた園が、しばらくして物のついでのように静川に受話器を渡した。園のシルバー仲間かと思ったら相手は白野で、ジャックに来て伝言する暇があるならノートを見せにくればいいだろ、と呆れたような声で言われた。どうやら昨日の話はあの後すぐに白野に伝わったらしい。
カラスが見守る境内や本堂を掃除して、陽が昇った後も淡々と雑務を片付ける。どこか落ち着かないまま午後になり、静川は風呂敷に包んだノートを持って外へ出た。白野には午後に訪問すると伝えてある。白野もノートの内容が気になるのか、流華の話をすることに抵抗はそれほどないようだった。
手土産もなしに訪問するのも気がきかないだろうか、と歩きながら考える。どら焼きのお礼に甘いものを持って行くくらいはしてもいいだろうが、もとより白野はその手の物を食べないから自分にくれたのかもしれない。コーヒー党なら洋菓子派の可能性もあるが、こんな自分がいそいそとケーキを買っていくのも妙な気がする。
慣れないことを考えているうちにからす屋の前へ着く。静川は扉の前で立ち止まり、念仏を唱えて小さく息を吐いた。余計なことは必要ない。今求められているのはそういう自分ではない。
ノートを包んだ紺色の風呂敷包みを片手に持ち、からす屋の引き戸に手をかける。脇の古いガラス窓から金色の天球儀やランプの光が見えて、静川はおもちゃ箱を開けるような気分で扉を引いた。
いらっしゃい、と涼やかな声がそう広くはない店内に響く。奥の作業台にいた白野はほんのり笑いながら顔を上げた。失礼します、と静川は深く頭を下げ、くぐるように店内に入る。白野も立ちあがり、古い木の椅子を火鉢の側に置いて静川に勧めた。
「遠い所をわざわざ悪かったな」
いえその、と静川が皮肉にとまどいながら腰を下ろす。今日の白野は薄墨色にも見える縞織りの着物に白地の帯を締めていた。白野は火鉢の鉄瓶を手ぬぐい越しに掴み、小さなテーブルで急須や茶碗を温めはじめる。コーヒー党で洋菓子派というわけでもなさそうだ。
「そういえば、お礼を言うのを忘れてました。先日はどら焼きをありがとうございます、美味しく頂きました」
「お気になさらず。どら焼きは少し好きなんだろ」
「はい、どら焼きやぼた餅などは少し好きです」
甘味に執着していると思われぬよう静川が控えめに言うと、そりゃよかった、と白野が急須に手を添えながらくっくっと笑う。落ち着かない静川は店内を見回し、古そうなチェスの駒や天球儀、アールヌーボー調のハサミやナイフが並ぶ窓際に視線を移した。西洋風のようでいて和ガラスを使ったランプなどもある。
壁際には古そうな花器にネコヤナギと白い洋花が活けられていて、その周りに陶磁器や漆器、箸や膳、奥には硯箱や鏡台などの和骨董も並んでいる。白野の使う作業台もかなり年季の入ったものだった。
コーヒーじゃなくて失礼、と白野が茶托にのせた茶碗を静川の前に置こうとする。いえそんな、と静川が恐縮しながら茶碗を受け取ると、袂を押さえた白野の腕に残っている傷跡がちらりと見えた。とっさに目を逸らしてチェスの隣にある古そうな鍵を興味深げに見ていると、白野はそれを手にとって笑う。
「これか、キーホルダーにひとつ紛れてると楽しいだろ」
「秘密の扉の鍵みたいですね」
静川は合掌すると茶碗に口をつけて言った。白野は鍵を揺らしながら楽しそうに肯く。
「私がこれ握ったまま他殺体で見つかったら、警察も悩むだろ?」
やめてあげて下さい、と顔を顰めた静川は作業台に目をやった。端には真鍮らしき小箱といつかの銀玉鉄砲があり、中央には彫刻刀やヤスリなどの工具と、オタマジャクシのような形をした木彫りの器があった。器になっているのはオタマジャクシの頭部にあたる部分で、尻尾にあたる部分にはテープカッターのような滑車がついている。それが墨壷と呼ばれる大工道具であることを思い出し、静川は珍しそうに眺めながら言った。
「墨壷ですか。今はこちらに取りかかっているんですね」
「もう小物入れにもならないからな、好きにいじってるだけさ」
そう言って白野が作業台から墨壷を取って見せた。本来は木材などに直線の印をつけるための道具らしいが、その形は搗きたての餅のようにぽってりとした曲線で出来ている。白野はその窪みを指差して続けた。
「ここが墨を入れる『池』で、ここに対峙してる鶴亀が彫ってあるのが多いんだ。はなっから飾り物として作られるのも多いよ」
白野がぽってりとした墨壷をつるりと撫でる。白野はその全体をナマズに見立て、『池』の外側に眠たげな顔を彫り込んでいた。どこか嬉しそうなナマズは口ヒゲをなびかせ、眠そうに片目を閉じている。
この辺りを弄ってたんだ、と白野が彫刻刀を手にとり、ナマズの顔を撫でるように刃を当てた。ナマズの表情と同調することもなく、白野の顔から感情や個のようなものが消えていくのがわかる。
それが苦しいものではないのを静川は知っている気がした。自分の場合は読経の時で、立ち位置や感情のようなものから遠ざかり、自分というものを忘れたような状態にふっと入ることがある。もしかしたら白野も同じ場所を知っているかもしれない。
深遠な面持ちで自分を見ている静川に気付いた白野が、どうした、と涼やかな眼差しを向けた。静川はとっさに墨壷を凝視しながら訊ねる。
「いえ、このナマズ、なぜそんな表情なんでしょう」
「ああ、左側が少し欠けてたんだよ。それを滑らかにしてるうちに表情が見えてきてこうなったんだけど、やっぱり変かな」
「いえいえ、変ではないです。でも、欠けたのをあえて買ったんですか」
「欠けてるけど、全体の曲線はきれいだから欲しくなったんだ。別におかしかないだろ? 女子高生だってキモ可愛いとかブサ可愛いだとか言って奇天烈な物持ってるんだから」
「いえ、解ります。美しいと感じてしまうと、それが特別なものになってしまうのは」
それが欲や執着の元にならなければ、どんなに楽だろう。そう思いながら静川がナマズをじっと見る。白野は彫刻刀を置いて火鉢の方へ向き直り、茶碗を手にとって笑った。
「美的感覚はそれぞれさ。こいつもきっと羽武沢にとっちゃたまらなく魅力的になるぞ。寝てるナマズなら地震も起きないし、ナマズをふん縛るよりは穏やかだ。今はあの家もけったいなもんしかないって爺様が言ってたし、そのうち売り込んでみるかな」
「あ、羽武沢さんと親しいんですか、お祖父さん」
「親しくはないけど、先代が亡くなった時に羽武沢は蔵を一つ取り壊したんだ。その時爺様にも声がかかって蔵出し品を買い取ったらしいよ。二十年ほど前のここは真っ当な骨董屋だったし、爺様は私と違って真っ当な古物商だからな」
「でも、向こうはけったいだったんですか」
「先代の趣味は悪くなかったらしいけど、今の当主が自分の趣味に合わないって売っ払ったらしいよ。武具や刀剣なんかの美術的価値の高いお宝には未練がなくて、ナマズの置物だの鯉の絵皿だのに囲まれてるってさ。よっぽど羽武沢は地震と火事が怖いんだな、ナマズや魚はその手の守り神だ」
「その時はたぶん相続税も怖かったんだと思いますよ」
静川がしみじみと言ってお茶を飲んだ。古い家で葬式が出るたびにこの手の話を耳にする。生活費に困らない資産家も相続税に備えて投資したり事業を起こしているというが、羽武沢が堅実な倹約家だという話は聞かない。不動産の管理会社を経営しているらしいが、不足が補えるとは限らない。
そんなもんより病気は怖くないのかね、と白野は並べてある小物の位置をなにげなく直す。派手ではないが細く使いやすそうな箸に手を止め、小さくため息をついた。
「羽武沢家は肉しか食べないんなら、こいつで焼き魚をつつくこともないんだろうな」
「それ、羽武沢さんのお箸も荘子さんが作ったんですか」
「いや、これは星尾真弓子に渡した箸の兄弟だよ。預かった桑の木から三膳取れたんだ。羽武沢のお嬢様が使うってのは真弓子から聞いてたんだけど、漆や塗料は使ってないから結構地味だろ。それでも一番きれいで先が細くできた奴を渡したんだ。箸置きもつけて」
ほら、と白野に箸を渡され、静川はそれを両手に乗せて眺める。桑の木の箸は先端を細く仕上げてあり、縦から見ると美しい八角形をしていた。木の葉型をした箸置きも同じ材質らしい。
「羽武沢さんのお家で使われるものだったんですね。箸置きは魚じゃないんですか」
「魚じゃ親父に取られるだろ。これはもともと、朱鷺子にプレゼントしたいっていう霧矢流華のリクエストなんだ。それを受けた真弓子が桑の木持参でうちに注文しにきたのさ」
「流華さんが?」
白野の口から流華の名前が出たことにどきりとして、静川は持参してきた風呂敷包みをちらりと見る。白野は腕を組み一瞬遠い目をすると、たぶん、と考えるような顔をしながら言った。
「桑の箸は中風を直すとか言われてるらしいから、朱鷺子の足のお守りのつもりかもな。それで、流華のノートってのはどんなんだ?」
静川は風呂敷をほどいて取り出したノートを白野の方へ向けて置き、紙芝居のように一番前のページからめくって見せた。すごいな、と白野がため息をつく。
初めのページには数字ともアルファベットともつかない歪な文字が並び、『るか』『ときこさま』などの単語でひらがなであることだけは理解できた。それが数ページ進むうちに文字の形が整い、書かれている幼い文字が子供には難解な単語である事がわかってくる。
「ちょうあしぜんはおいわい、そうわぜんはおきゃくさまって、蝶足膳に宗和膳か。誰だよ、五歳児にこんな面倒な事教えた奴は」
「てんもくゆうさいなまずえおおざら、はなんとなく解るような気がしますね」
後半だけだろ、と白野が笑いながら静川を横目で見る。ノートには羽武沢家の近親者や使用人の名前、屋敷の各部屋の名前や用途、台所用品や羽武沢の蒐集品の名前までもがひらがなで細かく記されていた。静川が続きのページをめくると、色のついた挿絵が所々に現れる。身の回りのものや備品、蒐集品などを色鉛筆で描いているらしい。
おぶつだん、と見出しがあるページには複雑な仏具の名前がたどたどしく書かれていて、絵にするのを諦めたらしい黄色い四角形が描きかけのまま残っている。きらびやかなものから書こうとしたのか、金灯篭や隅瓔珞、菊輪灯などの名前はあるが、比べて地味に見える具足類や御文章箱などの名前はない。過去帳を知らなかったのも流華にとって心惹かれる要素が少なかったせいだろう。
きらびやかではなくとも必要性を感じたのか、描きかけの仏壇の脇にも茶色でぐるぐると丸く塗られたものが描かれていて、『たたいてはいけない』とだけ書いてあった。白野が指差して笑う。
「羽武沢のところの仏壇が金ぴかで立派なのは伝わるけど、この辺は適当だな。『たたいてはいけない』って一応、これ木魚だろ」
「私のところは木魚を叩かない宗派ですから。……というより使わない宗派なので、仏壇にそもそもないはずです。以前法要でお伺いした時にもなかったですよ」
「木魚も魚のうちなら、羽武沢のコレクションか。一応仏具だから仏壇と一緒に描いたんだろ。それより、仮病も死、君を刺すとさ。毒があるとはお仏壇も物騒だな」
白野が緊張感のない声で言いながらページの端を指差す。その指先には『けびょうもしきみをさす』『どくがある』と小さく書き足されていた。物騒なのは荘子さんでしょう、と困ったように笑いながら静川が説明する。
「これは華の瓶と書くケビョウですよ。要は花瓶ですが、うちの宗派では水を供えるためのものとして花瓶とは区別されているんです。花瓶に花を活けて、華瓶にはシキミという葉つきの木を挿しますから、『華瓶』にも『シキミを挿す』という意味で書かれたものだと思います。シキミはお香の材料になったりするんですが果実は猛毒ですし、周りの人達が一応教えたんじゃないでしょうか」
さっぱり解らん、と白野が腕を組んで小さく息をつくと、静川はわずかに身を乗り出してページをめくる。優先して覚えるべきは仏壇関連ではなかったらしく、他のページには炊事場や食事に関する約束事や物の扱い方、使用人達の仕事や役割、どれが誰のものでどういう時に必要なのかが細かく書かれている。それらを目で追っていた白野が少し真面目な声で言った。
「これは、仕事の覚え書きなのか」
「しっかりしている子なんですね。法要の時も、大人のお手伝いさん達に混じってお盆を運んだりしてましたよ」
「だからってこういうのは小さい子供に教え込むようなもんじゃないと思うけどな。読み書きを教えるのは素晴らしいが、気の早い師匠もいたもんだ」
ノートに目を落としたまま白野が言う。流華の覚え書きには仕事内容そのものだけでなく、仕事に対する心構えや考え方のようなものも書かれていた。本当のことでも羽武沢にとって不利な情報を口外しないとか、朱鷺子の命令より当主である羽武沢の命令を優先するとか、仕事として朱鷺子の味方をするべきで友達になってはいけないなど、子供には難しい考え方を指導されていたらしい。
「それでも、なにかを教えてくれる人がいたのは幸いなことだと思いますよ」
遠慮がちに静川が言い、白野は黙ったまま先を見ようとする。静川が紙芝居の続きのようにページをめくると色のついた絵は多くなり、白い鬼と亀のような絵が描かれていた。これか、と白野が呟く。
黒い背景に立つ赤い人物。顔だけは白く、鬼のような角がある。白野によれば般若の面らしい。そしてその隣に飛んでいるように描かれた亀。特に注釈や見出しもないので何の絵かわからないが、真弓子の話していた七年前の夜の光景と無関係ではないだろう。
「流華さんは、これを友枝さんの亀だと言いました。だとしたら、真弓子さんが話していた七年前の夜のことは現実で、流華さんもそれを見たということになりませんか」
「……そうなるな。般若の面をつけて逃げる真弓子の父親と剥製の亀をどこからか見てた流華が記念に絵を描いた。その辺の状況はわからないけど、あり得なくはないだろ。実際、見なきゃ描けない」
「でも真弓子さんの話が本当で、それを目撃した流華さんがこれを描いたのなら、少し、怖くありませんか」
静川が白野を見る。本当は少しどころではないが、あまり白野に期待させても仕方ない。怖いかな、とのんびり呟く白野に静川は続けた。
「これがぶつかった亀で、こっちのおじさんは切られた、死んじゃったかもしれない、と流華さんは言っていました。このおじさん……この方は、ご無事なんでしょうか」
「ご無事じゃないならお怪我かお陀仏だが、このお方が真弓子の父親ならご無事のはずだ。真弓子は元気に逃げる父親を見てるんだろ?」
「それならいいんですが、真弓子さんが見た星尾さんは緑のコートを着ていたそうです。流華さんの言っていたように、……切られて、それでこんな風に赤く見えたのではないかと思ったんです。それに篤伸君は、七年前の夜のことを私に一言も話しませんでしたし、星尾さんは死んでいるものと決めつけているような所もあります」
「篤伸ぼっちゃまが追っかけてって真弓子の父親を切り殺したってのか」
怖いこと考えるんだな、とどこか感心したように白野が腕を組む。そんな怖いことは考えませんが、と静川が真面目な声を出した。
「流華さんは、誰かに切りつけられて出血している星尾さんを見たのでは」
「五歳児の絵をそこまで真に受けなくてもいいんじゃないか? この絵が血まみれの星尾って可能性もあるけど、それなら誰が殺ったんだって話だし、流華が『ぶつかった亀』と『切られたおじさん』を見るタイミングは合わないだろ?」
「亀の剥製は、部屋で星尾さんと篤伸君が話していてうっかりぶつかって落ちたそうです。星尾さんはその後、お面をつけて外へ出たところを真弓子さんに呼び止められ、手を振ったり顔を見せたりしてから走り去ったという話です」
「それで、『切られた』のはいつだ?」
「真弓子さんが見た星尾さんは緑色のコート姿でしたし、切られたとしても、……血まみれの大怪我で元気に走り去るのは無理ですね。なるほど、『ぶつかった亀』と、『切られて死んじゃったかもしれない』赤い星尾さんが一緒にいるのは変なんですね」
静川が顎に手をやって考え込む。どういう状況にいたかはともかく、流華はそれを緑ではなく赤に塗り、『切られた』と言った。切りつけられ、出血した星尾を見たのかと思ってしまったが、幼い子供が軽い怪我や出血を見て『死ぬかもしれない』と怯えるのは珍しくないし、空想や虚言が入るのはごく自然なことだ。この絵の構図を真に受ける必要はないのかもしれない。
「確かに、こちらの思い込みで流華さんの絵を解釈してはいけませんね」
「あ、いや、悪い。静川が間違ってるとか否定したい訳じゃないんだ。真弓子の父親が殺されてたとか、それを五歳の流華が見てたとかはマズいかなって思っただけみたいだ」
「そうであって欲しくないのは私も同じですよ」
済まなそうに目を細める白野に、静川は情動を表に出さないよう穏やかに言う。その心情を察していようと、安易に相手の内側へ踏み込むような態度はとらないよう努めていた。
真弓子や流華の記憶について白野がどこか慎重なのは、おぞましいものを見た時の衝撃や苦痛を知っているからで、幼かった真弓子や流華がそういうものを味わっている可能性を忌避しているのだろう。白野は高校の頃に、自殺した母親を発見している。
白野は気を取り直したように口の端を上げ、面白がるように赤く塗られた鬼の絵を眺めた。その角が生えた白い顔の部分を指差しながら言う。
「でも、流華がそう言ったんなら見たのかもな。このオジサンが切られて死んだかもしれないんだろ? 鬼は桃太郎に切られて血まみれで死亡、死体が出ないから行方不明なのかもしれないし、流華の目にそう見えたってだけで、単に緑のコートの中に着てたのが赤いシャツやズボンだったって話かもしれない。服のセンスとしてはどうかと思うが」
「そういうものですか」
「ああ。どっちにしろそういうのは本人もそう思い込んでるから、聞いたところでもう本当の事はわからないかもな。真弓子の話だってどんなもんかわからないぞ、わかってて何事か隠してるのは篤伸だけだ」
そう言って白野がお茶を飲み干す。服のセンスの良し悪しはわからないまま、静川は考えるような顔をして聞いた。
「篤伸君が隠してるのは、七年前の夜に星尾さんと話したことですよね。彼だってもう覚えてないんじゃないでしょうか」
「覚えてるし、理解してるから隠してるんだと思う。じゃなきゃ真弓子や流華みたいに、なんだかわからないけどこんな事がありました、ってな話を静川にしてるさ。篤伸は星尾との密約を真弓子や静川にも言いたくない。星尾にどう言いくるめられたか知らないが、篤伸は今になって星尾が出てきたから焦ってるんじゃないか?」
「密約って、当時の篤伸君は九才ですよ」
「星尾は娘の面倒が見れなくなるほど生活っていうか金に困ってた。その辺の事情はウチの爺様なんかも知ってるよ。二人がいたのは骨董が置いてある部屋だったんだろ、借金がかさんで夜逃げしなきゃいけないような男が、家の主人にも断りもなくそんな部屋にいた理由は何だ? 篤伸に見られたんなら籠絡する必要があるだろ。真弓子のためとか、俺は遠くへ行かなきゃならないとか、真弓子は君に預けるから、金目のものを持ち出すのを見逃してくれ、とかさ」
そんな、と静川が絶句する。白野はそんな静川の手元から茶碗を下げ、おかわりのお茶を注ぎながら続けた。
「そして星尾はそのまま行方不明だ、死んでいても不思議じゃないし、死んでなくても真弓子や篤伸の前に出てこれるはずがない。篤伸は星尾から可愛い真弓子を買い取って自分の物にしたつもりなのに、星尾が真弓子を迎えに来るのは話が違う。今の篤伸にとって星尾が存在するのはありえないことだから、死んだことにしたくて仕方ないんだよ。だから坊さんを呼んだのさ、出てこれなくなるように」
「……篤伸君が真弓子さんをものすごく心配してるのは私もわかりますし、彼が真弓子さんに執着していなければ成立しない話なのもわかりますけど、そこまでえげつない考えはないと思うんですよね」
静川が合掌して白野から茶碗を受け取る。どうかな、と白野は顔を逸らしたまま眼差しだけを静川に向けて言った。
「自分より立場の弱い女をメイドみたいに自由にしたいんじゃないのか。このまま友枝家に閉じ込めて繋いでおけば、篤伸坊ちゃんはこれからも綺麗で優しい真弓子お姉さんに甘えたりプリンやホットケーキを作ってもらうことができる。なのに今になって星尾が連れ戻しに来るかもしれないんだろ? だから焦ってんじゃないか」
「……そうかもしれないですね」
白野の話が思ったよりはえげつない内容でもなかったのでほっとしながら静川が肯く。買い取った女を自由にするとか閉じ込めて繋いでおくとかはともかく、篤伸が真弓子を自分の側に置いておきたいというのは間違いではないのだろう。その引き換えに生活を十分に保障し、お互いがそれをよしとするなら何の障害もなく未来に希望を持って過ごすこともできる。苦労を前提にした契約ではなく、幸せにするための約束ができるかもしれない。
遠い所へ思いを馳せて黙ってしまった静川を、白野は不思議そうに見ながらページをめくる。白野が最後のページに指を掛けようとした時、そういえば、と静川は思わず強引に別のページを開いて適当な絵を指差して見せた。最後のページは自分に向けられたもので、白野に見せるべきものではない。
「これ、ちょっと珍しいと思いませんか。たぶん流華さんも、これは珍しくて絵に描いたんだと思うんですけど」
どれ、と白野が首を傾げながらノートを見る。静川が適当に指差したページには『だんなさまのへや』という見出しにいくつかの骨董の名称、さらに緑色の布を頭から被ったような女性の立ち姿が描かれていた。複雑な造形が流華には難しかったのか、その顔は重ねた線の加減でけだるそうな表情に見える。その隅には小さく『ひなにんぎょう』とあった。
「旦那様の部屋ってならナマズルームだろうが、ナマズはどうした」
「魚やナマズは当たり前すぎて描かなかったんじゃないですか。それにこの絵柄では、まだ他の魚とナマズを区別がつくように描くのも難しいですよ」
「ひらがなの読み書きは完璧でも、絵の才能は年相応だな。これじゃひな人形ってよりは観音様かハートのクイーンだ」
白野が微笑みながら『ひなにんぎょう』の左肩を指す。白野がトランプのクイーンを連想したのはそのアンニュイな表情のせいだけではなく、左肩の辺りに描かれている赤いハートのような何かのせいだった。それは赤い色といびつな輪郭でなんとなくハート型に見えるというだけで、ウナギの蒲焼を扇ぐ赤いうちわを持っているようにも見えるし、しぼみかけた赤い風船を抱きかかえているようにも見える。その脇にはメモのように『かぎはくろい』と付け足されていた。
「ひな人形の誰を描こうとしたのかちょっと謎ですよね。布を被った感じは大船観音や高崎観音っぽくも見えます。持っているのが蓮華なら小豆島の大観音っぽいですけど、この赤いのは何でしょう」
「羽武沢だけに魚じゃないのか」
「それなら魚籃観音ですね。魚の上に観音様が乗ってたり、魚の入った籠を持ってるんです。小田原に巨大なのがいますよ。あと釜石の大観音はこんな風に魚を抱いてます」
詳しいな、と白野が瞬きをしながら感心したように静川を見る。思わず調子に乗った静川が難しい顔をしながら続けた。
「魚ではなく赤ちゃんを抱いてるのなら会津の大観音……いえ、福岡の慈母大観音の抱き方がこの絵に似ています。ちなみに福岡のは純金の板やダイヤモンドとかヒスイなどが使われているそうですよ。あと広島の救世観音や愛知にある道徳観音は、こんな風に緑色の衣を着ているんです」
「坊さんより観光ガイドの方が向いてそうだな。デッサンが微妙でも、こいつはひな人形なんだろ?」
「でも、デッサンのスキルを割引きしても、こんなひな人形ないですよね」
「ひな人形ったって一番上とも限らないだろ。羽武沢のとこのひな壇が何段あるのか知らないが、尾頭付きの鯛持ってる三人官女だってあるし、五人囃子より下にいる奴らの中には腹痛こらえてるような顔したのもあるぞ。どっちかっていうと問題は形より色だな」
「そうですね。緑と赤の使い方が独特というか」
静川が黒い袖を気にしながら腕を組む。ひな人形を描こうとして、とりあえず頭から緑に塗るのも変わっているような気がした。緑と赤か、と小さく呟いた白野は考えるような顔で静川を見ながら言った。
「もしかして、色覚が特殊なんじゃないか? あれって青と緑が区別できなかったり、黄色が認識できなかったり色々あるみたいだけど、人間に一番多い色覚異常は、赤と緑の区別がつきにくいタイプだって聞いた」
「赤と緑、ですか」
「赤い林檎も緑の草木も、梨みたいな黄土色に見えたりするそうだから、色鉛筆の箱に同じ色がいくつもあるように感じるらしい。それなら、緑の星尾を赤の色鉛筆で塗ろうが、赤いひな人形を緑で塗ろうが本人にとっては何も間違っちゃいないだろ?」
どうだ? と白野が上目遣いで静川を見た。静川は冷静に目を閉じ、念珠をかけた手を顎にやりながらその色彩世界を想像して言う。
「まぐろの赤身も河童巻きも、いなりずしやかんぴょう色に見えるという事でしょうか」
「数の子や玉子焼きは鮮やからしいぞ。黄色と青は際立って鮮やかに見えるらしいから、普通の奴らの緑と青の区別があいまいなのを不思議に思うんだってさ。当人にとっちゃ黄土色と群青色くらいに違うらしいから」
涼やかな目元に指を添え、白野は思い出すように上を見た。静川もなんとはなしに上を見る。確かなことはまだわからないが、流華はそんな色彩の中で周囲の雰囲気を読みとり、他の感覚を研ぎ澄まして世界に対応しているのかもしれない。
「どんなふうに見えるんでしょう」
「どんなもんかはわからないけど、生物によって色の見え方は違うらしい。鳥や蝶は見える色が人間より多いとか、犬猫や牛馬みたいに果実を識別する必要のない哺乳類の色覚は、緑や赤を見るように進化しなかったって聞いた事がある。人間は甘く熟した果実を得ようとして、赤を見ようとしたのかもしれない」
「……美しく感じるのも、その延長でしょうか」
「花が色づいたのも、鳥や蝶をひきつけるための進化らしいからな。蝶が色や形にひかれて蜜を吸う花を選んでるなら、欲しいものを美しく感じるようにできてるのかもしれない。美しいものは欲しいもの、さ」
白野はうっすらと微笑みながら壁際に活けてある花を見た。蜜を求める蝶は、取り込むことのできない花の色に美しさを感じるのだろうか。静川は白野の言葉を深い所へ入れないよう勉めて、色の存在しない世界を思う。
「それにしても流華さんが、緑の草木や赤い林檎の美しさを知らないかもしれないのは残念ですね」
「それでも形の美しさは解るだろ。声や音だって美しさは感じる」
当然のことのように言い、白野はノートをゆっくりと閉じた。そうですね、と納得して静川が肯く。白野の手指の形や、なにげない動きにも美しさは宿っているような気がした。その手にしているものが小型の糸ノコや棒ヤスリだとしても。
「あら珍しい、荘子ちゃんのとこにいたの」
からす屋を出た静川に、通りかかった園が驚いたように声をかけてきた。黒い僧衣に風呂敷包みを持つ静川を見て咎めるように言う。
「あんたせっかく女の子の家に行くなら、もっとメンズなんとかとか、ストリートなんとかってのに載ってるような服で行きなさいよ」
「なんですかそれ」
無茶なアドバイスで顔を顰める静川に、雑誌よ、と園は静川のそれよりも分厚い風呂敷包みを押しつけた。中には若い男性向けのファッション雑誌が五冊ほどあり、最強スタイルの靴とバッグで差をつけるとか、ブロンズ肌で引き締まったオトコを演出する男性用化粧品だとか、今すぐコピれ今年流コーデだのと特集が組まれている。
「藤盛さんとこの涼士君があんたにって。こういうのを参考にイケてる格好しないとヤバいんだそうよ」
「私がイケてる格好になってどうするんですか。封じられていた野生がフルスロットルで加速したら面倒ですよ?」
イケてるらしい街のスナップ写真についているキャプションを見ながら静川が言うと、園も斬新な着こなしにつけられたキャプションを見ながら言う。
「そのまま都会の闇を駆け抜けて行けばいいじゃない。外見に気を使わなくなったら終わりよ?」
都会まで鈍行で二時間掛かる町の片隅で園が言った。静川は園に歩みを合わせながら、きちんと剃髪された自分の頭部に手を添える。
「この通り、外見は気にしてますよ。美しい僧侶の方が御利益ありそうだと清少納言も書いてましたし」
「気にする所を間違えてんのよあんたは。それで、何の話してたのよ」
園がにやっと笑いながら自分の孫を肘で突く。それを念珠をした手でガードしながら静川は答えた。
「……簡単に言えば、ひな人形が観音様や女王様に見えたり、赤いきつねと緑のたぬきが同じに見える人もいますが、世界は美しいという話です」
「……女の子と話すんなら、ちょっとは話題を選びなさいよ。荘子ちゃんがあんたみたいなボンクラを相手にするとは思ってないけど、そんなんじゃキャバクラやメイドカフェ行ったって女の子に相手してもらえないわよ」
それが孫に言うことですか、と静川が横目で園を見下ろしながら呟く。文句あるの、と顔を上げて睨む園に、静川は小さくため息をついた。
「いえ、そういう機会があったら頑張ります」
夜、夕食を済ませた静川が自室でぼんやりと流華のノートを眺めているころ、友枝家では勉強に飽きた篤伸が二階の自室であくびをしながらノートを閉じていた。夕食はすでに済んでいて、一階の食堂を片付け終えた真弓子がドアをノックしながら声をかける。
「篤伸さん、食後のデザートとかいかがですか。プリン作ってありますよ」
やったー、と篤伸が思わず両手を上げると、なんですか? とドア越しに不思議そうな真弓子の声が聞こえた。慌ててドアに向かって冷静な声をかける。
「あ、いや、ありがとう、今行くよ」
すぐに駆け付けるのも大人げないような気がして、篤伸は二呼吸ほどおいてのんびりと部屋を出る。友枝家では食堂で夕食を済ませてしまうと、応接室や仏間、物置と化した部屋などのある一階に用はなく、夜は二階のリビングルームでくつろぐのが習慣だった。最近は真弓子が食堂を片付けているので、篤伸はその間に自室で勉強をしていることが多い。
廊下に漂う香ばしい匂いに篤伸が深く息を吸う。暖房の効いたリビングルームでは真弓子が三人分のプリンとコーヒーを用意していた。
「真弓子も飲むの? 紅茶じゃなくて平気?」
「せっかくですから。私は篤伸さんみたいにそのまま飲めないけど」
「無理しなくていいのに」
コーヒーが苦手な真弓子を気遣いながらも篤伸はからかうように言った。篤伸さんこそ、と少しだけ心配そうに真弓子が茶色い目でちらりと篤伸を見る。何が、と意外そうに聞き返す篤伸の目を真弓子はじっと見た。
「何だか最近、篤伸さんの様子がおかしいから」
「僕のほうが?」
「なにかこの頃焦ってるみたいだし、帰りもなんだか深刻そうに考え事してたし、あと時々自分の頭を叩いたりしてませんでした?」
「……そういう事もあったかな」
篤伸は困ったように頭をかくと、父さんを呼んでくる、と一旦真弓子の側を離れた。父親の書斎のドアをノックしながら父親に声をかけ、そのままこっそりため息をつく。焦ったり自分の頭を叩くのは自覚があってのことだが、ネガティブな態度が隠せていなかったのはうかつだった。
深刻そうに見えたのは、帰り道で会った羽武沢家の小沼が真弓子に話しかけてきた時の話だろう。昔から小沼は誰にでもなれなれしく話しかけるし、真弓子は誰とでもにこにこと話すから今さらそんなことで顔色を変えたりはしない。面白くないのは、転びかけた真弓子をとっさに支えたのが小沼だったことだ。真弓子は無事だったのは小沼のおかげでも、それを素直に感謝する気になれなかった。
書斎から出てきた父を迎え、三人で食後のデザートを味わいながら談笑する。そのままトランプゲームが始まり、手札を広げていた父親が真弓子のカップを何気なく見た。
「おや、今日は真弓子さんもコーヒーなの、珍しいね」
「……篤伸さんにはごまかしたんですけど、実はうっかりコーヒー豆を多めに出してしまったんです」
真弓子が恥ずかしそうに肩をすくめる。篤伸がカードを捨てながら安心したように笑った。
「真弓子は時々そそっかしいからなあ。子供の頃はしょっちゅう家の中で迷子になってたし、今日だって何もないところで転びそうになるしさ」
「あっ、でも今日はちゃんとひっかかって転んだんですよ? 生垣から出てた枝にスカートの裾が引っ掛かってしまって」
「そうだね。『ちゃんと』そそっかしいよ、真弓子は」
「で、大丈夫だったの? 真弓子さん」
細面の父親が心配そうに真弓子の顔を見る。はい、と真弓子は顔を赤くして肯き、手に残っていたカードをすべてテーブルの中央に晒した。油断していた篤伸が真弓子の札を凝視する。
「って、知らないうちに負けてた! まだ勝負賭けてこないと思ってたのに!」
「ふふ、篤伸さんは先に黒い札を出す癖がありますからね。赤い札を出してきたら、残りは無いので強気に出れるんです」
「今日は真弓子さんの勝ちだね。これで篤伸もそそっかしいことがわかっちゃったよ。勝つためにも相手を知ることは大事だよ?」
父親が愉快そうに目を細めて笑う。篤伸はカードを片付けながら悔しげに言った。
「僕だって真弓子の癖や好みくらいは知ってるよ。真弓子はクラブっていうかクローバーの札を手元に残す癖があるんだ。ちなみにノートや文房具とかの小物もクローバーの柄とか緑色のものが好き。それとお菓子作りで蜂蜜使うのが好きで、ホットケーキもメープルシロップじゃなくて蜂蜜。そんなわけで、真弓子が特に好きなのはクローバーの蜂蜜だよ。今だって、自分のコーヒーに入れてるんじゃない?」
「やだ、なんで全部知ってるんですか。ホットケーキの時も篤伸さんの方にはメープルシロップを出したのに」
「それくらい解るよ。蜂蜜は色々いいみたいだね、殺菌作用とか、不眠や二日酔いにも効くらしいし、お香の材料にも使われてる。蜂蜜の羊羹もあるよね」
少しだけ得意気に篤伸が笑う。二日酔い? と父親が首を傾げる隣で、物知りなんですね、と尊敬するように真弓子が篤伸を見た。真弓子の好きそうなものは必要以上に調べて覚えておくようにしていたのが良い方に出たらしい。
しばらくして真弓子はカップやプリンの器を片付けると、水の入ったピッチャーやグラスなどをテーブルに用意して再びソファに座った。脇に置いていた裁縫箱と紙バッグを引き寄せ、中から紺色のスカートと両面テープを取り出す。
「さて、これからちょっとお裁縫しないと。ほつれた裾を直さなくちゃ」
「ああ、転んだ時のか。……両面テープ使うの?」
「ええと、応急処置っていうか、……父の癖がうつってたみたい。父はシールとかテープが好きで、何でもセロハンテープや両面テープで解決しようとする人だったんです」
待ち針を打ちながら真弓子が明るく話す。少し前まで、真弓子の父親が話題にのぼることはほとんどなかった。いつか父親が迎えに来ると信じている真弓子に、それが叶わない可能性を突き付けるのは怖かったし、この生活に引け目やうしろめたさを持たせてしまうようで触れられなかった。今はそれを過去の思い出のように、もう会うことのない遠い人のように語る真弓子に、篤伸はどこかほっとしていた。
「昔、私が体操服にゼッケンをつけて行く必要があった時、父はゼッケンの折り目を両面テープで固定して、さらにそれを両面テープで私の体操服にぺたんと貼って渡してくれたんです。まだ私も七歳くらいだったので、純粋に『お父さんすごい』って喜んじゃったんですよ」
「いや、それはそれで確かにすごいような気がする。ある意味器用じゃない?」
「そんなことないですよ。工作の宿題で紙を貼り合わせる時も、とりあえずテープでとめようとするし。だからライトプレーンは苦手だって言ってました」
針に糸を通し、スカートの裾を直しながら真弓子が言った。ライトプレーン? と聞き返す篤伸に父親が腕を組みながら言う。
「模型の方だよね、何て言えば伝わるかな。うすーい紙と木でできた、よく飛ぶ紙飛行機みたいなものだよ。とにかく軽く作る必要があって、重心や左右のバランスが崩れるからあんまりテープは使えないね。作るのは大変だけど、何度も手直ししたり調整することで結構長く綺麗に飛ぶから面白いよ」
「ふーん、面白そうっていうよりは面倒臭そうな気がするなあ。空に飛ばすんでしょ? それなら糸がついてる凧とか、鷹匠になって鷹を飛ばす方がいいなあ。戻ってくるし」
「あ、それで思い出しました。篤伸さん、今週末は天体観測の合宿があるのでピエールのことお願いしてもいいですか」
「もちろんいいけど、……中途半端な時期にやるんだね。四分儀座流星群は先月だし、パンスターズ彗星は来月じゃない? 月だって土曜には満月に近くなるから、星を見るには不利だって聞いたような気がするけど」
篤伸がさも知っているかのように言う。真弓子が天文部の合宿イベントに参加すると聞いて密かに調べておいた知識だった。驚いた真弓子は両手を口元に当てながら篤伸を見ると、困ったように肩をすくめた。
「すごい、篤伸さんって本当に何でも詳しいんですね。あの、今回は星っていうより月を見るみたいです。学校の天体望遠鏡で星を見ても、光の点々にしか見えないので、私みたいな初心者のために月の海とかクレーターとかを見せてくれるそうですよ」
真弓子はふんわりとした茶色の髪を耳にかけるとにっこり笑う。そうなんだ、と肯く篤伸の横で、父親が遠慮がちに真弓子の顔をのぞき込んで訊ねた。
「学校といえば……真弓子さん、三者面談は来月でいいのかな」
「あ、はい。本当にすみません、お世話になっている上に、面倒なことまで」
「なに言ってるの。真弓子さんがいてくれて、私達が困った事なんてないよ。お父さんのことは気がかりだけど、もうあれから七年だ。君だってもうすぐ十八だし、お父さんが残してくれたお金はそのままにしてあるんだ、自分が幸せに生きていくことを第一に考えればいいんだよ。私にとって君も篤伸も同じくらい大事なんだからね」
与えられた言葉に真弓子が手を止める。とまどうように瞬きをすると、ありがとうございます、とふんわりと微笑んで見せた。安心したように篤伸の父親は目を細めて席を立ち、真弓子は視線を手元に戻して玉止めをすると、糸切りハサミで糸の端を切った。
「でも、このままじゃ駄目なんです」
火曜の朝、朝食を済ませた静川は境内の裏手で香炉の手入れをしていた。手入れといっても不要なものを除くために灰をふるいにかける作業で、香炉を愛でながら磨くようなものではない。灰をふるい、寄り固まった灰や燃え残りの線香を取り除いて香炉へ戻し、灰ならしで灰を整えてゆく。
ふるいにかけた灰はふわりと空気を含み、降り積もった雪のように俗気がない。それを己の主観で整えるという行為は、自我と向き合う果てない作業のようでもあった。
静川はそんなことを考えながら適当に香炉の灰をバケツに空け、ゆさゆさとザルを振り並べた香炉に灰を戻す。そのうちの一つは異物混入によりしばらく使えなかったもので、静川が勤めた葬儀で使用した香炉だった。
お前が悪いと園にも言われたが、自分が読経している間に焼香で鰹の本枯節がくべられ、本堂になんともいえない香ばしい匂いが漂ったのは、未然に防ぎようのない事だと思う。
鰹節をくべた喪主の女性も悪気はなく、リンダちゃんはこれ好きだったんです、と砕いた鰹節を涙ながらに握りしめていた。葬儀といってもごく少人数なので混乱もなかったし、ささやかながらもいい式だったと思っている。
おいしい匂いに送られてリンダさんも幸せですね、と静川が穏やかに言うと、愛猫を亡くして悲しみに暮れていた喪主も感謝していた。後で話を聞いた園は頭を抱えていた。
静川が軒下のアリジゴクの巣のそばで香炉の灰をこねくりまわしているころ、からす屋では白野が真鍮のシガレットケースを愛でるように磨いていた。今日もそこそこ明るいな、と何気なく外に目をやると、そうでもないぞというように黒い影が立つ。細くも長くもなさそうなところを見ると、静川じゃない方の黒服らしい。邪魔するよ、とサングラスをかけた黒い影が店に入ってくると、白野は納得したように口の端を上げた。
「やっぱりグサラン愛好会の会長か。副会長の帽子屋は休み?」
「ああ、あいつは休んで会社行ってるよ」
困った奴だ、と黒いコートを小脇に抱えて雨崎が笑った。どっちが何を休んでるんだ、と白野が肩をすくめる。雨崎は上機嫌で作業台に目をやると、ウインクしているナマズの墨壷を手に取った。
「お、こいつもなかなか器量がいいな。べっぴんが作るとべっぴんになるもんだ」
「そりゃどうも、旦那のべっぴんの基準がわからないから半分だけ喜んどくよ。良かったらお包みしようか、お客様。シガレットケースなんざ買わなくても、旦那なら高級なのをいくつも持ってるだろうし」
「まあそうなんだが、懐に入れて歩きたいのはそっちだ、先に惚れた方をもらってもいいかな」
雨崎は困ったように眉を寄せてシガレットケースを指差し、墨壷をそっと作業台へ戻す。それを白野がつつきながらにやりとして言った。
「気に入ったならこいつもオマケにつけるよ」
「あー、オマケならそこの銀玉鉄砲がいいな。たまには自由な少年時代を思い出したい」
「今がよっぽど不自由してるみたいに聞こえるな」
そう言って白野は作業台の隅へ手を伸ばし、大豆専用だよ、と黒いプラスチックの銃を手渡す。雨崎はそれを楽しそうに指でくるくると回して懐へ入れ、代わりに黒い札入れを取り出した。そこから万札を抜き出そうとするのを白野が笑いながら止める。
「足元見て値段付けたいところだけど、鉄砲はオマケだし、本命はお直しと磨き賃くらいしか乗せられないからその半分でいいよ。もちろん、気に入ったらね」
そう言って白野はシガレットケースを渡し、挑むような目をして笑った。磨かれた真鍮の小箱は真新しいもののように光り、持ち慣れているもののように雨崎の手になじむ。ケースの開閉には歪みもざらつきもなく、雨崎はそのほどよい手ごたえと音を気に入ったように何度かシガレットケースを開け閉めした。
「やるもんだな。前から思ってたんだが、お嬢さんは俺の師匠と似てるよ」
「旦那の師匠? こんな若い女が?」
「さすがに若くはなかったが、子供だった俺から見ても師匠は美人でスタイル抜群だった。歳を聞いて驚いたもんさ」
「なんの師匠なのさ。遊び人の?」
「いや、お嬢さんとおんなじだよ。こんな風に色々直して良品に仕上げちまう」
「そりゃどうも。そこまで誉められたら、やっぱり墨壷をオマケにつけなきゃいけないな」
結局万札を渡された白野が、お釣りの五千円札を銅のトレイに乗せて笑う。雨崎はそれを札入れにしまいながら嬉しそうな声を出した。
「それならオマケの代わりに、ひとつ相談に乗って欲しいな。この手の木工系は師匠から教わってないんだ」
そう言って雨崎は持っていたコートの内側を探り、赤みがかった木彫りの栗まんじゅうのようなものを墨壷の隣に置いた。良く見ると尾びれや目玉が付いていて、口がにやりと横に開いている。どうやらこれもナマズらしい。
「こいつの口の中にオマケを忍ばせたいんだが、こいつの口がおちょぼで困ってる。一旦すぱっと切って、中を空洞にできないかな」
「オマケって何を入れたいのさ」
「お守りみたいなもんかな。入れたら接着して継ぎ目がわからないように仕上げたいから、傷跡が残らないようなところでカットして中をくり抜いて欲しいんだ」
「そんなことしたらブツが取り出せなくなるよ」
「構わんよ。匂い袋みたいなもんだ、ブツは口から見えなくてもいい」
ふうん、と白野が根付らしき木彫りのナマズを手に取る。無邪気な目に半開きの口は悪戯っぽくも見えた。尾びれにかけては疑問符のようにくねっていて色気もある。
「こいつの口の中に仕込めるようにか。そのお守りだかオマケだかを預けてくれれば中身入りで仕上げて御覧に入れるけど?」
「お互いの為にもそこは遠慮しておくよ。ガワが出来たら俺が中身を入れるから、その後の仕上げを頼む」
「そう、大きさは?」
「そこの箸置きが入れば恩の字だな。三×二センチ、厚さは一センチ程度、大体で構わんよ。手間賃は弾むから、ちょっと急いで貰えるかな」
ポケットの中身を確かめるように探りながら雨崎が言うと、白野は作業台について墨壷を脇に除けた。目の前の根付を睨みながら工具を並べはじめる。
「……了解、そのオマケとやらを持ってるんなら今始めるよ。今度はきちっと足元見るから覚悟しといてよ、旦那」
君彦が度々顔を出すようになってからも、その店は薄暗いままだった。繁盛している気配やさせようという努力もそれほど感じないのに、頻繁に店内の商品は入れ替わっている。
これも初めてだ、と高級そうな木箱にセットしてある真鍮の機械を見つけた。ボウガンみたいな扇型のフレームに歯車が組まれていて、目盛りが振ってあったり小さな鏡やスコープみたいな部品が付いている。
「それは六分儀。船で自分の位置を特定するための計器なんだけど、きれいでしょ」
「うん。よく解らないけど、なんかかっこいい」
そう言って君彦は作業台の方へ向き直った。ノミやヤスリを持った女主人は薄気味悪い人魚らしき絵柄のベルトバックルを調整している。他にも持ち手が笛になっている銀色のマグカップや、舵輪のマークが彫られた酒を入れるボトルが新しく並んでいた。ヒップフラスコというらしい。
「海っぽいのが多いね」
「前にも港町に住んでた事があるから、この手のお土産ものは得意なのよ」
ふうん、と君彦が女主人の手元を見ながら肯く。仕入れてきただけの物もあるが、この女主人は飾り気のないものに装飾をほどこしたり、古いものを修理して作りかえたりするのが好きらしい。君彦も自分の持っている玩具や模型を見よう見まねで手を加えるようになり、女主人の技術に興味は尽きなかった。
「あのさ、聞いてもいいかな、名前」
「なんで今頃そんなこと」
「何て呼べばいいかわかんないし、あんまりおばさんって呼びたくないから」
考えるような顔で君彦が言う。別に媚びた訳でも失礼だと考えた訳でもないが、西洋人であることを除いても『近所のおばさん』のような存在とは違うような気がしていた。
「なんて名乗ればいいやら。名前や職業なんて場所や相手に合わせてころころ変えてるし」
「じゃ、何て呼べばいいんだよ」
「好きに呼べばいいわ。ベッツイでもクリスでも」
からかうように女主人がにやりと笑う。君彦は腕を組んで少し考えると、歯をにっと見せて笑い返した。
「オッケー、好きに呼ばせてもらうよ、師匠」
「ところで師匠、あれってお城の鍵かなにか?」
焼きたてのタルトにフォークを突き刺しながら君彦が尋ねる。師匠が座る後ろの棚に、妙に大きな鍵が見えるのが気になった。黒味を帯びた金色と凝った装飾は古い西洋の扉を思わせるが、その大きさは普通の扉を開けるためのものとは思えない。
これのこと? と師匠は笑いながら鍵に手を伸ばし、持ち手と歯の部分を指でつまんで引っ張って見せる。次の瞬間、持ち手から歯の部分がすぽっと抜けて中から銀色の螺旋が現れた。ワインのコルクを開ける為のスクリューらしい。
「そんなんじゃないわよ、それっぽいお土産品。この持ち手の部分だって栓抜きなの」
「なんだ、でも一瞬びっくりした。変身サイボーグみたいだ」
ほっとしたように君彦はタルトを口に入れる。なにそれ、と首を傾げる師匠に、君彦は自分のカバンから透明な男性型人形を出して見せた。
「これが変身サイボーグ。腕や頭なんかが取り外しできて、ドリル付きの腕とかレーザーガン付きの腕とかと替えられるようになってるんだよ。あのワイン開ける鍵みたいに」
あら面白い、と師匠が興味津々で君彦の変身サイボーグを観察する。しばらく珍しそうに関節を動かしたり頭部を引き抜いたりしていたが、透明な胴体に埋め込まれている金色の装飾を指差して君彦に聞いた。
「この中の金色のは何?」
「……たぶん何でもない。機械っぽい飾り」
自分でもよくわからないまま答えると、琥珀の中の虫みたいなものね、と師匠は勝手に納得しながらお茶のおかわりを注いだ。
「でもこれ、どうやって遊ぶの?」
「別売りになってるウルトラシリーズとか、仮面ライダーとかの外側を着せて変身させる」
「ああ、着せ替え人形なのね」
「うちのおやじと同じこと言うんだな。男のくせに変だって」
「変なんて思わないわよ。これ、そのものが凄く面白いし、綺麗じゃない。透明なボディに、触れる事のない金色の飾りが埋まっているなんて、秘密があるみたいでどきどきするわ。それも普段はその上に、別の服や顔を被せて変身させておくんでしょう?」
「うん、俺のはウルトラ警備隊」
君彦がくるりと師匠に背を向けて素早く『変身』させる。水色のビニールで出来た服を着せ、ヘルメットを被った人間の頭部に付け替えると、はじめからそのキャラクターとして作られた人形のようにしか見えない。
「面白い! 普通の人形にしか見えないのに、美しい本体を隠しているなんて。そしていつでも別人になれるのね、こんな風に」
そう言って師匠はうっとりと人形をその変装ごと指でなぞった。自分には良くわからないポイントで感動している師匠に、君彦は一応説明する。
「GIジョーっぽくて似てないけど、これはモロボシダンって隊員のはずなんだ。あんまり似てないから、師匠の真似して自分で直してみようと思ったけど難しいよ。腕の着脱が変だったから、そこ直そうとしてついでにやってみたんだけどさ」
「変って?」
「腕がきちっと嵌まらなくて、パーツがかちっと一体化した手ごたえがないんだ。師匠も言ってたじゃん、物の良さや違いは使った感触とか手ごたえとか音に出るって」
「んもう、ちょっと、私あなたのこと大好きよ。うれしくなっちゃう」
君彦に抱きつきそうな勢いでそう言うと、どれどれ、と上機嫌になった師匠が人形の透明な腕の連結部分を調整し始める。どう? と得意気に笑う師匠から人形を受け取り、直された部分の感触を確かめると、きちっとパーツが嵌まる感触があった。
「で、顔はどう直そうとしたの? 直さなきゃいけないような顔には見えないけど」
不思議そうな顔をする師匠に、君彦はウルトラ警備隊のブロマイドを見せる。当時のヒーローや怪獣の人形は、劇中のオリジナルに似せるよりもあえておもちゃらしくデフォルメされたものが多かった。この人形もそういう方針で作られているらしい。
「誰にも似てないじゃない」
「まあ、そうなんだけどさ。一応この端から二番目の奴なんだけど、どうせ似てないからこっちのソガ隊員の顔に似せたかったんだ。ソガ隊員は目立たないし変身もしないけど、射撃の名手で俺は好きなんだよ。仲間が魂取られた時はすっげえ泣いたり、仲間の具合が悪いのに気付いて交代したり、絶対あいつはいい奴だと思う」
「あら、それなら私のこと師匠じゃなくてソガって呼んでもいいわよ?」
「ソガは友達、師匠は師匠だよ。友達で気に入った奴がいたら曽我って呼ぶさ」