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涅槃会

涅槃会


「お釈迦さまがご往生された日を御縁といたしまして……」

 平日だというのにいつになく人の集まった本堂に住職の声が響いた。

 二月十五日は釈迦が亡くなった日として涅槃会と呼ばれる法要が多くの寺で行われる。一般には釈迦の入滅を描いた涅槃図という大きな軸を掲げ読経を行うもので、参詣者には甘酒や団子がふるまわれたりする。

 静川の寺の宗派では本来あまり行われないイベントだが、なぜか浄桂寺では伝統的に続いていた。

「釈尊の死を入滅とか、涅槃に入るとも申します。涅槃というのは、最近はこういう単語に詳しい方もおいででしょうがニルヴァーナとも申しまして、本来は火を吹き消すという意味です。これ、今日あたりは宗派問わずに日本中のお寺で話されているところです」

 献灯や献香、読経のあとに住職の法話があり、いつもよりきらびやかな五条袈裟をまとった静川は本堂の隅に立っていた。ないに等しい役目も終わり、静川は住職の声を聞きながら参詣者の数をぼんやりと数える。平日とはいえ午後からの法要なので予想していたよりも参詣者は多く、学校帰りの学生の姿もあった。

 訪れた人達は足を崩しながらも真面目に住職の法話に聞き入っている。本堂を埋め尽くすとまではいかなくとも、去年より人数は多かった。座布団を使わない人もいるので座布団の数から推測することはできない。静川は穏やかな表情を崩さずに一瞬だけ母や祖母たちが待機している机を見る。用意した団子は、足りるだろうか。

「人は、自分の都合で全ての物を動かし、自分にとって都合がいいか、そうでないかで私達は喜んだり怒ったりします。起きた事も自分の都合のよいように解釈してしまいます」

 一畳あたりの面積に座っている人数を足したり引いたり掛けたり割ったりしていた静川が計算を放棄して目を閉じる。祖母達に団子の数は教えてもらえなかったが、足りないということはないだろう。座布団だってあえて使わない人もいるのだから、釈迦をしのんで念仏を唱えに来ただけで団子はあえて受け取りません、という人がいてもいい。

「阿弥陀様は、人とはそういうものだと解っている上でわたくし達を救って下さるのです」

 住職の声のトーンがこころもち明るくなったのが静川にもわかった。法話が中盤を過ぎる頃の特徴で、弛みかけた空気が再び粛然としたものになる。

「自分自身の煩悩をよく観察して知ることは大切です。欲張りむさぼる事も煩悩なら、高潔でありたい、気高くありたいと思うことも煩悩の一つです。煩悩を断つことは人である限りできるものではありません。出来た人がいたら是非紹介して下さい。と、これはわたくしの煩悩ですが」

 祖母達も法話の終わりが近いのを覚ったのか、音を立てずに段ボール箱から団子の入った透明なプラスチック容器を机に積み始める。涅槃会の団子といえば大概『団子撒き』と呼ばれるように、ビー玉のような堅い団子を節分のごとくばらまくものだが、浄桂寺のそれは年々食べる側の気持ちに立った景品へと変遷していた。

「煩悩を断つことが叶わないなら、何の為にそれを見つめるのかと申しますと、その煩悩一つひとつを、今後も持ち続ける必要があるかを自分に問う事が出来るからです。手荷物が多くなったり、食べ物をむさぼりお腹が重くなると旅路が苦しくなるのと同じです。荷物も煩悩も持っていて構いませんが、出来ればどちらも減らした方が、自分が苦しくありません」

 静川が目を細めて積み上がった団子の容器を数える。今度は段ボールひと箱あたりに団子の容器がいくつ入っていたのかだの、昨日炊いていた小豆の量と今日使用した餡の量の差はあるかだのと果てしない計算を始めた。祖母はともかく母親にはスタッフの分を残して欲しいと伝えてあるので問題はないはずだが、リスクマネージメントの一環としてこういうことを考えるのは無駄ではない。

「煩悩に抗えないわたくし達に何も求めず、救おうとして下さるのは阿弥陀様だけではありません。身近で自分を支えてくれている存在にも感謝はできます。阿弥陀様は遠くて上手に感謝できないというなら、まずは自分を生かしてくれるものに感謝をしましょう。それが煩悩を減らす近道になるんですから、不思議なものでしょう」

 

 法話が終わると母親や園によって参詣者に団子が配られる。散会した本堂ではまだ住職が何人かと立ち話をしていた。静川は座布団など諸々の後片付けを終えて園達を手伝おうとしたが、園に目だけで追い払われたので仕方なく外へ出る。気温も低い曇り空の下、山門の側では団子を手にした人々が談笑しながら甘酒をふるまう手伝いをしていた。

 申し訳ありません、と慌てて交代を申し出た静川に年配者達はマサ君だの小坊主さんだのと群がりはじめ、せっかくのお袈裟だから汚しちゃ駄目だとか、やっぱり坊守を早く探した方がいいだのとやりにくい雰囲気ができあがってしまう。ちなみに坊守とは静川の宗派で言うところの僧侶の妻である。

 しばらく静川はなすがままに周囲の思い出話を聞いたり、頃合いを見て抜け出したり、悩める女性に呼び止められたりしていた。恋人が頼りにならないという愚痴話が延々と続く間、よもぎやクチナシなどで淡く色づけされた団子を静川はぼんやり眺める。

「私が困ってるのにぜんぜん助けてくれないんですよ。信じてたのに裏切られた気分です、人間が出来てるって思ってたのに」

「他人の人格を高く見積もる事を信じるとは言いませんよ」

 相手が自分の話を聞いていないと確信した静川は忌憚のない意見を穏やかに言った。ほどよく餡が入っているであろう団子のパックを持った女性は、静川の視線に気付かないまま話し続ける。静川が壁打ちの壁になったようなつもりでひたすら相槌に徹していると、やがて自分のスタイルが見えてきた女性は自らの言葉に肯きながら結論を出した。

「今日はありがとうございました。でもやっぱり相手を信じなきゃだめですよね! 今はあんなでも、いつか私を連れ出してくれるって信じてるんです」

「……他人に都合のいい存在であることを期待するのも信じるとは言いませんよ」

 遠ざかる女性の背中を見ながら呟くと、静川の後ろでくすりと笑う少女の声が聞こえた。

「珍しい、ルカちゃんが笑ってる」

 続いて聞こえた男の声に静川が振り向く。後ろに立っていたのはグレーのスーツを着て眼鏡をかけた四十前後の男と、車椅子を押しながら慌てて下を向く白いコート姿の少女だった。車椅子にはグレーのコートを着たもう一人の少女がつまらなさそうに座っている。

「ああ、羽武沢さんの」

 トキコさん、と静川は動じることなく穏やかに挨拶する。睨むような目をして車椅子に乗っている少女は朱鷺子といって、東側一帯の地主である羽武沢家の娘だった。まだ中学生のはずだが、その気難しそうな様子と長い黒髪のせいで大人びて見える。

 その後ろで車椅子を支える『ルカちゃん』と呼ばれた少女が羽武沢家で起居している霧矢流華だった。背が低く小柄だが、春から中学生になると聞いている。

 いつもお世話になっております、と朱鷺子と流華の代わりに頭を下げたのは小沼という眼鏡の男だった。小沼は先日見かけた元木と同じく羽武沢家の使用人で、朱鷺子やその父である羽武沢光晴を乗せた車を運転しているのをよく見かける。

 羽武沢家と関わりがあるのは例によって住職なので個人的に交流は無いが、園から教え込まれたご近所情報のおかげで静川が応対に困るような事はなかった。そのうえ一度だけ法要の助手として羽武沢家を訪れているのでそれぞれの顔も覚えている。

「今日は寒い中をようこそお参りでした、お団子はもらえましたか」

「ええ、お陰さまで三人とも。屋敷に戻ったら皆で分けて頂きます」

 まだ柔らかそうな団子が入ったプラスチック容器を見せて小沼が笑った。静川も微笑みながら台所の光景を思い出す。昨日から母親と園が餡を炊き、今朝は早くから搗きたての餅を丸めていた。本来は餡入りにする必要は全くないが、寺に訪れる人々が口を揃えて餡入りの方がいいというので年々、団子と言うより大福に近くなっている。

「それはよかったです。皆さんで食べられるといいですね」

 静川が羽武沢家の人数を思い出し、団子の数を心配しながら言った。元は豪商だったという羽武沢家には使用人も多く、昔は庭師や運転手、料理人や女中の他に乳母などもいたらしい。先代の子供時代はおぶられて学校へ通っていたとも聞いている。

 現在は羽武沢家もそれなりに組織人員の縮小が行われていたのか、静川が訪れた時には小沼を含めた男手が四人と女中は六人ほどだった。羽武沢朱鷺子の母親が長期で入院していたり、霧矢流華を引き取っているなどの事情もあったのでその数が適正かどうかはわからないが、一つの家庭に使用人が十人もいるという状況に静川は驚いたものだった。

「あっ、朱鷺子さんに流華ちゃん、こんにちは。小沼さんも」

 不意に横からふんわりとした少女の声が聞こえ、全員がその声の主を見る。近付いてきたのは狐色のダッフルコートにモスグリーンの傘を持った星尾真弓子だった。静川さんもこんにちは、と笑顔の真弓子が静川にも慌てて頭を下げる。

「先日はありがとうございました」

 真弓子より早くそう言ったのは、後から来た友枝篤伸だった。依頼に対して成果が出ていないのを謝るような気持ちで挨拶をする。真弓子がのんびりと羽武沢家の面々に話しかけている間、紺色のダッフルコートを着た篤伸に静川が小声で訊ねた。

「あれから、例のお話はいかがですか」

「はい、あれから霊の話は出てきません。それに、真弓子は僕にも少しずつ父親の思い出話をしてくれるようになりました。これって、真弓子にとってもいいことですよね」

「思い出話、ですか」

 霊についてとやかく言うのは諦めた静川が、篤伸が手にしている二人分の団子を見る。どうやら母親達は少年少女の健康や美容を考えずに、一人につき一パックの団子を渡しているらしい。

 それにしても、と静川は念珠を握ったまま考える。明るく話す篤伸には申し訳ないが、真弓子から怪しげな気配が消えたのは本人が自重しているせいだろうし、思い出話というのも静川の意見を取り入れた真弓子が意識的にしたものだろう。なにより、自分の父親が戻ってくるだの連絡が取れているだのという話を篤伸にしていないようだし、父親の件が現実ならば、真弓子は篤伸に知られぬよう自分の携帯電話からも周到に父親の痕跡を消しているということになる。それが誰かにとっていいことだとは思えなかった。

 重苦しい罪悪感に静川は黙って鉛色の空を見る。篤伸はそんな静川を見て、少年らしい笑顔で尊敬したように言った。

「藤盛先輩の言ってた通り、静川さんのお経はすごいんですね」

「それは……」

 罪悪感とは別の方向で静川が言葉を失う。そのすぐそばでは真弓子が小鳥のような声で羽武沢組と話していた。特に流華とは境遇が似ているせいか、真弓子は流華に親しみを持って接しているように見える。

「流華ちゃん、丁度良かった。例のアレ、出来たから届けようと思ってたの」

 はい、と真弓子が小さめの手提げ袋を差し出して流華にふんわりと笑いかける。流華は表情のないままそれを受け取り、小声で丁寧に礼を言った。真弓子はそんな流華や朱鷺子に馴れているのか、気にせずにこやかに話している。

 皆さんお友達だったんですね、と静川が感心したように呟くと、真弓子はにっこり笑いながら羽武沢家の三人を見ながら言った。

「友枝のおじさまにお世話になってからも、小沼さんがなにかと気にかけて下さるんです。それで流華ちゃんや朱鷺子さんともお付き合いができたんです」

 朱鷺子は真弓子の十字架の下がった胸元を見ながら嫌そうに眉を顰めていた。曇り空を見上げていた流華が朱鷺子の顔を確かめるように見ると、そろそろ帰ります、と真弓子に告げる。では車を回しましょう、と小沼が言うと、朱鷺子は強い調子で言った。

「結構です。流華と帰りますから」

「今日は朱鷺子様の嫌いなトレノじゃないですよ?」

 からかうように笑う小沼を無視して、行くわよ、と朱鷺子が流華を見た。流華は小さく肯き、先に帰ります、と小沼に告げて真弓子や篤伸、静川にも頭を下げて車椅子を出す。遠ざかってゆく朱鷺子の声が聞こえた。

「節分も過ぎた事だし、そろそろ雛人形を出さないとね」

 

 朱鷺子達を目で追っていた小沼が肩をすくめて静川に言った。

「車より運転手が嫌われたようです。参ったな、真弓子ちゃんと違って傘を持たないのに」

「中学生の女の子でも、車の好き嫌いがあるものなんですね」

 運転手はともかく、トレノがどういう車なのか知らない静川が感心したように肯く。話を聞いていた真弓子が思い出したように両手を合わせた。

「あっ、土曜日に元木さんが病院で置いて行かれたのって、車のせいだったんですか?」

「都合がつかなくて元木が迎えに行くことになってたんですよ。他の社用車があるのに、まさか自分の車で行くとは」

「ずっと欲しかった車だったから乗らずにいられなかったんじゃないですか? 元木さん、あの時私にも言ってましたよ」

 ふふ、と笑う真弓子に、でもあれ結構な中古ですよ、と小沼がため息をつく。どうやらトレノとは病院で見かけた時に元木が寄りかかっていた白黒ツートンのスポーツ車のことらしい。篤伸は車のことより人間のほうが気になるらしく、怪訝な顔をして言った。

「それにしてもあの二人は、どうしてあんな感じなんですか。気を悪くするようなことを真弓子が言った訳でもないでしょう」

「朱鷺子様はいつもあんなもんですよ。あと流華ちゃんは、他の人と口を聞くなといいつけられていますから」

 いつもすみません、と申し訳なさそうに頭を下げる小沼に静川が聞く。

「いいつけって、そういう訳にもいかないでしょう。あんな子供に、誰が」

「もちろん朱鷺子様ですよ。自分の召使いが友達をつくるのが嫌なのかもしれません」

 可哀想に、と小沼が鼻を鳴らすと、篤伸は目を伏せて微かに眉を顰める。流華は羽武沢家に引き取られているが使用人ではない。それでも自分の立場を弁えていたのか、以前静川が羽武沢家を訪れた時も、幼い流華は使用人達に混じって家事を手伝おうとしていた。

 どこか気を悪くしたような篤伸の顔を見た真弓子が、のんびりと笑いながら言う。

「やだ、朱鷺子さんだって召使いなんて思ってないですよ。朱鷺子さんは流華ちゃんのお姉さんみたいなものだし、仲良し同士の遊びみたいなものじゃないんですか?」

「それならいいですけどね。朱鷺子様が事故にあってからは、身の周りの世話をほとんどやらされてるんです。まだ一応小学生なのに」

「できるからしてるんですよ。流華ちゃん頭もいいし、無理にやらされてる訳じゃないですよ。私も流華ちゃんもお金や物でお返しできないから、行動で感謝を表したいんです」

 ねっ、と真弓子が安心させるように篤伸に笑いかける。参ったな、と小沼も笑った。

「みんなしっかりしてますね。流華ちゃんも昔から物覚えのいい子だったし、あの朱鷺子様に負けてないんだから、しっかりしてるのかな」

「負けてない?」

 思わず静川が聞き返すと、小沼は眼鏡に指を添えながら言った。

「朱鷺子様のお世話役はほとんど朱鷺子様に追い出されてますからね。私もこれ以上嫌われないように、朱鷺子様の好きなシュークリームでも買って帰りますか」

 それでは、と小沼はにやりと笑って真弓子達に手を振り、静川に頭を下げて去って行く。それなら団子はいらないのではと思いながら静川も頭を下げて合掌した。


 すっきりしない空模様のなか、参詣者達も帰り、いつもの空気に戻った浄桂寺で静川が団子の残りを探し始めたころ、羽武沢家では朱鷺子が奥庭に面した六畳間で休んでいた。

 朱鷺子は落ち着かない自分の部屋より、仏間の隣の六畳間にいることが多かった。本来ならば主人が居間として使う部屋だが、現在の当主である羽武沢光晴が屋内の蔵に続いている『中の間』を好んで使っているので、朱鷺子や流華は奥庭に面した静かな部屋で寛ぐことができる。羽武沢家は全て和室の平屋造りなので、足の悪い朱鷺子に不便な部屋は特にない。

 屋敷に到着した流華は朱鷺子を待たせ、荷物やコートを預かり朱鷺子の部屋へ向かった。朱鷺子の部屋の側には使用人の勝手口や台所に続く土間などがあり、人の気配が絶えない。

 流華は朱鷺子の部屋に入り、衣桁屏風という鳥居を縦に折ったような形の服掛けに朱鷺子のコートを吊るして文机の脇に荷物を置く。寝る時以外ほとんど使っていない朱鷺子の部屋には他に箪笥と鏡台、窓際の本立てくらいしかなかった。

 窓の外すぐには先代がどこかの武家屋敷から譲られたという背の高いもみの木があり、その向こうにある駐車場には今も車がいくつか停まっている。部屋は悪くないが、朱鷺子が落ち着かないのも仕方がない。

 部屋を出た流華は使用人用の詰め所へ行き、テレビで天気予報を確認しながら自分のコートを壁に掛けた。この部屋は作業場や食事場を兼ねた使用人達の拠点で、流華も荷物や勉強道具などを置いている。隅には仮眠用の寝具もあり、流華は離れで寝泊まりするよりこの部屋にいることが多く、詰め所は半ば流華の部屋と化していた。

 流華はコートのポケットに入れていたものを小さなポーチに移し、長い肩ひもを斜めにかける。屋敷にいる時は常に身につけているもので、中には朱鷺子から預かっている携帯電話やべっ甲の櫛などが入っていた。


 親を亡くした流華が羽武沢家に引き取られたのは四歳のころだった。当主である羽武沢光晴は深く考えずにその世話を使用人達に任せ、そのまま流華は使用人達と共に過ごしていた。これは羽武沢に流華を冷遇する意思があった訳ではなく、羽武沢の娘と立場の違いをきちんと線引きして朱鷺子から遠ざけた方が流華の為にもいい、という使用人達の判断だった。羽武沢も朱鷺子と流華が同等に扱われるよりは気分がいいだろうし、朱鷺子にも使用人の一人として流華を認識させた方が面倒なことにならない。

 そんな使用人達の配慮により、流華は使用人としての言葉や態度を学び、その一員であろうとした。小沼も気紛れに色鉛筆やノートを与え、少しずつ字を教える。流華は仕事を覚えようと調理場の道具や食器の名前、それぞれの部屋の装飾品の名前をひらがなで必死に書き記し、その絵を描いた。覚えのいい四歳児に使用人達は流華を可愛がり、言葉づかいを教え、朱鷺子に近付けないよう気を配っていた。


 あるとき、五歳になった流華が他の女中とともに居間で漆塗りの膳を並べていると、中の間から出てきた羽武沢が驚いたように流華を見た。

「なんだ流華、お前も働いてるのか」

「はい、わたしもお仕事したいです」

 座敷わらしのように正座した流華が屈託のない様子で言う。羽武沢もあまり考えずにのんびりと肯いて言った。

「そうか、そしたら朱鷺子の世話をしたらどうだ。歳も近いし、楽しいだろう」

「世話って、どんなお仕事ですか」

 顔色を変える女中をよそに、五歳の流華は主人から直々に与えられた新しい仕事について素直に尋ねる。盆や膳を運ぶよりは七歳の朱鷺子の遊び相手をしている方が楽しかろうと言ってみた羽武沢だが、遊び相手が仕事というのも妙か、と流華に理解できそうな言葉を探しながら言った。

「世話というのは、面倒を見る……余計にわからんか、要は朱鷺子のそばにいて、味方をすることだな。わかるか、流華」

「はい。朱鷺子さまの味方をするのが、わたしのお仕事ですね」

 微かに嬉しそうな顔をする流華を見て、羽武沢は満足げに部屋を出た。女中が小さくため息をつく。

 今まで朱鷺子の世話をしていた使用人は皆辞めていた。父親譲りの我の強さや、奇行と呼んでも差し支えのない言動のせいもある。なにより朱鷺子は人に自分の私物を与え、後で盗まれたと父親に言いつけることがあった。朱鷺子から物を貰うな、というのは使用人達も肝に銘じていたし、流華にも以前から言い聞かせている。

 流華は言われた通りに朱鷺子の世話をするようになり、朱鷺子は自分の世話をするのが年下の少女になったので戸惑っていた。まだ様々なことに判断のつかない流華は、疑うこともなく朱鷺子の命令に従っていた。

 流華が命令に従おうとしなかったのは、朱鷺子が私物を与えようとした時だけだった。

「これをやるから、言いつけを聞きなさい」

 朱鷺子の高圧的な物言いに慣れた流華も断ることには慣れていない。まだ車椅子を使うようになる前の朱鷺子が流華に突き付けるように見せたのは、羽武沢が朱鷺子の誕生日に贈った櫛だった。

「もらわなくてもわたし、ちゃんと言いつけを聞きます」

 いらない、とも言えずに突き付けられた櫛から朱鷺子の顔へと視線を移す。細かな装飾がされたべっ甲の櫛の価値は、小学校に入る前の流華には解らないものだった。

「言いつけを聞くというなら、受け取りなさい」

 朱鷺子が射るような目をして言う。どうにも逃れられないと覚った流華は両手で櫛を受け取るしかなかった。周りに教えられた言葉を思い出しながら頭を下げる。

「……はい、お預かりします」


 流華が小物袋を持ち歩くようになったのはその頃からだった。

 その日は寒い季節にも拘らず天気が良く、朱鷺子は仏間側の廊下から中庭に出ていた。中庭には低く据えられた庭石や瓢箪のような形の池があり、その向こう側にある来客用の玄関や道具蔵の辺りでは小沼も屋敷の手入れをしている。

 池の鯉に気紛れに餌をやり、縁側に腰掛けた朱鷺子に目を止めた流華が言った。

「朱鷺子さま、少し直します」

 流華は朱鷺子の後ろに回り、肩から提げている小物袋からべっ甲の櫛を取り出す。髪留めをつけたがらない朱鷺子の髪をまっすぐに梳いて前髪を整えていると、通りかかった羽武沢が流華の手元に目を止めた。

「おお、その櫛は」

「朱鷺子さまからお預かりしています」

「朱鷺子のためにか、それはいい」

 整った朱鷺子の黒髪を見て羽武沢が満足げに肯く。流華は贅沢な作りのべっ甲の櫛を、堂々と羽武沢の前で小物袋にしまって見せた。

「流華、これからも朱鷺子をちゃんと見ているんだぞ」

「はい」

 朱鷺子の櫛を正当な理由で持っていることを示した流華が真面目な顔で肯く。ひっそりと外から成り行きを見守っていた小沼は愉快そうに笑っていた。


 ポーチを肩にかけて詰め所を出た流華は、車の音で敷地に入って来たのが小沼だとわかった。流華達より早く屋敷に戻れたはずだが、気を遣って到着時間を遅らせたらしい。

 流華は台所にいる女中に団子のパックを二つ渡し、もう一つは今から小沼が持ってくると告げて茶器の用意をはじめる。

 自分の役目は解っているし、今後のことも不安はない。気がかりなものがあるとすれば、面白がりながらも自分に目をかけてくれた小沼がどこか朱鷺子を軽んじていることだった。




 夕方、袈裟を外して普段の衣に着替えた静川は喫茶ジャックのカウンターに座っていた。保護色のような店の色調に、どこかほっとしながらぼんやりと砂糖壷を眺める。

 自意識が若干過剰なのかもしれないが、外でちょっと菓子を買うというのができない。周囲が抱くイメージに自分を合わせる必要はないはずだが、意外な顔をされるのが申し訳ないような気持ちになるのでケーキやらドーナツやらとは縁が遠くなってしまった。

 何か甘いものでも、とメニューを両手で持ちながら黒い表紙をじっと見る。この店だけは客層や客数の関係もあって人目やイメージをそれほど気にしなくてもいい場所だった。今も店には自分を含めて客は二人しかいない。

 今ならモンブランくらい、と奥のカウンターに座っている男をちらりと見ると、おっ、とサングラスの上の太い眉毛がぴくりと上がる。そのまま男は椅子から降りて静川の側へ来ると、すぐ隣にどかりと座って低い声で言った。

「よお。どうよ景気は?」

「お陰さまでございます」

「シケてるみたいだな」

 しょんぼりとメニューを戻す静川を見てサングラスの男が不思議そうに呟く。まさか話しかけられると思わなかった静川はマスターにコーヒーだけを頼み、いいんです、と男の黒っぽいスーツや黒々とした髪を見て力なく続けた。

「釈尊も涅槃に入られる時、母親の投げてくれた霊薬入り巾着が沙羅双樹の枝に掛かって届かなかったんです」

「そうか、そういうのはちゃんと狙って投げないとな。で、何の話だ?」

「……イベントキャンペーンへの参加に伴う、私自身の訴求力が足りなかったようです。というより、ホスピタリティの一環として用意された物をインセンティブとして認識してしまったところが私の間違いだったのかもしれません」

 痛切な表情で目を閉じる静川に男が首を傾げる。

「良くわからんが、脳に糖分が足りないんじゃないか」

「はい、それは切実に自覚しています」

 マスターから出されたコーヒーに目を落としてため息をつく。普段は入れない砂糖をこの際入れてしまおうかとか、それではただ糖分を貪りたいだけではないかとか、得られないものの代用として別のものに目を向けるのはあさましい行為ではないだろうかと考えていると、こんばんは、と涼しげな女性の声がした。静川が視線だけを動かして入口を見ると、からす屋の白野荘子が風呂敷包みを片手に立っている。よう、とサングラスの男が白い歯を見せて白野にひらひらと手を振ると、白野も口の端を上げて男に言った。

「旦那はまたコーヒー休憩か。忙しいな」

「まあな。こう忙しいと身が持たない」

 男が煙草を咥える。和服姿の白野は笑いながら静川の隣に座り、マスターにブレンドを注文した。白野とサングラスの男に挟まれ、静川は密かに思い切り動転しながら冷静な表情を作る。白野は風呂敷包みを脇に置き、おもむろに静川の顔を覗き込んで言った。

「よう静川」

「こんばんは。ご無沙汰しております」

 静川が緊張気味に頭を下げると、そうか? と白野が首を傾げながら訊ねた。

「ところで静川、坊さんはバレンタイン禁止か?」

「いえ、そういう戒律は特にありませんが」

「それなら甘いのは結構もらって食べたか」

「……荘子さんからは頂いてませんよ」

 深く追及されないように平静を装ってさらりと言う。両肘をついて顎を乗せた白野が考えるような顔をしながら聞いた。

「でも、立て続けに糖分取るのも体に悪いかな。確か今日も、甘酒に団子が出る行事じゃなかったか」

「食べられなかったんです」

「は?」

 真っ直ぐな眉を寄せ、白野が慎重に聞き返す。静川は酷く深刻な話をするように、冷えたような声を出した。

「私の分は母に頼んでおいたのですが、門徒さんに全て振舞って残らなかったそうです」

「あー、なんか知らんが、こちら切実に糖分が不足してるらしいぞ」

 男が静川を親指で示しながら言う。そうか、と白野は風呂敷をほどき紫色の箱を静川の前に置いた。それがどら焼きで有名な和菓子屋の物であることは当然静川も知っているが、何がどうしてこんな幸運が訪れたのかはわからずに呆然と目の前の箱を見る。

「どら焼きは嫌いか」

「いえ、どら焼きは少し好きです」

 我に返った静川がとっさに言った。少しなんてものではないが、貪りの心を戒めようと控えめな表現になる。すこし? と考えるような顔をする白野に、有り難く頂きます、と念珠をかけた手を合わせて静川はどら焼きを受け取った。三笠焼きか、と反対側から男が箱を覗き込む。

「ああ、関西ではどら焼きを三笠って呼ぶんですよね。アマサキさん、関西なんですか」

 マスターがブレンドを白野の前に置き話に入ってくる。こちら雨崎さん、と思い出したようにサングラスの男を紹介すると、男はカウンターに片ひじをつきながら笑った。

「あー、関西なのは父親なんだ。俺は横須賀だったから、三笠と言えば戦艦三笠なんだが」

 白野からどら焼きをもらうという、降ってわいたような幸運にまだ感動している静川が、戦艦ですか、と紫の箱に手を添える。雨崎は煙草の灰を灰皿に落としながら言った。

「あれのマリンクロノメーターがカッコ良くて、使いようもないのに欲しかったな」

「木箱に入ってるんですよね。船舶用の機械式時計で、精度が高いんですよ」

 デテント式はジンバルで支えてあって、とマスターが静川や白野に説明する。さっぱりわからない静川が困って雨崎を見ると、雨崎は白い歯を見せて笑った。

「まあ、細かい事は俺もそんなに知らないんだ、実際持ってたのはプラモデルだしな」

「って事は七百分の一の、ウォーターラインシリーズですね。赤城に榛名、比叡に惣流」

 嬉しそうに話すマスターを横目に、理解するのを放棄した白野がのんびりとコーヒーを飲む。ウォーター? と首を傾げる静川に雨崎が煙草を咥えたまま言った。

「下ろした魚みたいに船の腹がすっぱり喫水線で切れてるタイプさ。色んな意味で小学生にもなんとかなるから結構人気はあったな。……でも俺の師匠は、木製の三笠を自分で作ったんだぜ。その辺の猫よりでかくてな、そいつを見てからは持ってたプラモデルを全部弟にくれてやったよ」

 そういうもんですよねー、とマスターが肯き、中高年同士で懐かしそうに話が続く。すぐ隣に座っている静川がどうしたものかとコーヒーを啜っていると、あとはおっさん同士二人にしてやろう、と白野がカップとソーサーを持って勝手にボックス席に移った。

 促された静川も困惑しながら移動し、自分の脇にどら焼きの箱を置いたところで白野がテーブルに身を乗り出す。

「ところで、友枝のところの、星尾真弓子に何かあったのか」

「なにかって……どういうお話ですか」

 なにかと色々あるので何があったのか今ひとつ掴めていない静川に、白野は一応声をひそめて言った。

「お前の所のエリザベス女王様から聞いたんだよ。友枝の所に行ってきたんだろ」

「ああ、あれは幽霊というか除霊でちょっと」

「なんだ、寺ってそういう副業してるのか」

「してません」

 思わずとっさに否定した静川は、白野から目を逸らして疲れたような声で続けた。

「どういう誤解からか、呪いを解けとか、お祓いしろとか、結婚したいとか別れたいとか我慢できないとか死にたいとか、色んな人が来るんです。頓知で答えて、ってなぞなぞを出してくる子供が来た事もあります」

 そりゃ大変だな、と白野が少しだけ同情するように言う。大変なんですよ、と静川が呟くと白野は頬杖をつきながら聞いた。

「それで、寝言みたいなカタカナに取りつかれた携帯電話がどうのって話はなんなんだ。星尾真弓子と幽霊と関係あるのか」

「……誤解です」

 どういう誤解なのか大体察しがついた静川は申し訳なさそうに言う。その様子に白野も安心したように言った。

「要するに問題はないんだな。十字架下げてる星尾真弓子が坊さん呼んだ上にカタカナの寝言言ってるなんて聞いたから何事かと思った」

「その時点で半分以上誤解です、私を呼んだのは篤伸君ですし。問題がないという訳ではないんですが、……そういえば荘子さんも、真弓子さんとお付き合いがあるんでしたね」

 どういう誤解かはあまり説明したくない静川が訊ねる。白野は和服の袖を気にしながら腕を組んだ。

「少しはな。この間も箸を取りに来たけど別段おかしいところは無かったと思う」

「ですよね。私も今日、寺で会いましたが、精神状態は至って良好のように見えました。そういえば注文の品って、お箸だったんですね」

「材木持ち込みで箸を作ってくれって話だよ。それで幽霊の話はどうした」

 そんなのいませんが、ととっさに言いつつ逡巡する。白野には話していいかもしれない。詳しい人がいたら聞いてみると一応篤伸にも断っているし、どら焼きも貰ってしまった。

 ここだけの話ですが、と静川はこれまでのいきさつを白野に話した。


「それって真弓子に男ができて、それを隠そうとして父親を使ってるんじゃないのか? ただでさえ立場の弱い真弓子がそこまで小うるさい篤伸坊ちゃんの前で『男ができました』とも言えないだろう。なかなか面白い修羅場になるぞ」

「確かに、真弓子さんが男性と歩いているのを目撃されても、年齢次第では父親だと主張できますね。そこまで年齢差のある男性との交際なら周囲には隠しておきたいでしょうし、携帯電話の痕跡を消す理由も納得できます。……でも、荘子さんから見てあの真弓子さんがそういうことを隠しているように見えますか」

 ぜんぜん、と白野が笑って言い切る。ないとは言えないが、あの真弓子が密かに人に言えないような交際をしているとも思えない。

「でも、そうじゃなければ真弓子の霊感だか幻覚だか妄想かって話だろ。もしくは本当に父親がいるとか」

「真弓子さんが言うには、父親と連絡が取れているそうです。でも、その割にはどういういきさつでそうなったのかは話そうとしませんでした。もちろん私に細かく話す必要はないんですけど、本当に父親と話ができているなら、七年前の話も多少は意味のわかる話になっていると思うんですよね。本人は冗談のつもりのようですが、鬼のお面をつけて亀に乗るとか、元木さんにも全く通じてませんでしたし」

「なんだそれ。……まあ、もともと天然の気があるからな」

 諦めたように白野が肩をすくめる。ですが、と静川はわずかに身を乗り出し、真弓子が七年前の夜に見たという父親の話を小声で説明した。白い鬼の面のあたりで複雑な顔をする白野に静川が現実感のないまま話す。

「白い鬼のお面をつけた父親は、去り際に真弓子さんに手を振ってくれたそうですよ。彼女がいつも首から下げている十字架は、その時父親が置いていったものだそうです」

「盛大に天然だな。で、亀に乗って戻ってくるってのか。般若の面つけて」

「はんにゃ?……ああ、白い鬼って、般若なんですね」

 静川が肯きながら考え込む。白い鬼と亀。どこかでそんな取り合わせを知っているような気もする。考えるような顔をしていた白野もカップを静かに皿に置き、涼やかな目を静川に向けた。

「昔話かなにかとごっちゃになってるんだろうな。真弓子も当時十歳かそこらだろ、記憶だの思い出だのが経年変化することもあるさ。人に妙な話をして反応を見るのは真弓子の遊びみたいだし、妄想だとしても、友枝の家では真弓子もそういう話をしてないんだろ? コントロールはできてるってことさ」

「……そう考えても、いいんですよね。結局それで篤伸君は安心できたんです。彼の問題を解決するのに私はまったく役に立たなかったので、申し訳ないんですけど」

 何もできない自分が嫌だ。何にもなれない自分が嫌だ。そんなことばかり考えていた頃の自分を思い出しかけて目を伏せる。白野は片ひじで頬杖をついて笑った。

「今、真弓子本人が何も困ってないんだろう? 問題ったって父親が来るって予告してるだけだし、それが嘘や妄想だとして誰が困るよ。それより友枝篤伸にとって一番の問題は、本当に父親が真弓子を迎えに来ることと、男ができることじゃないのか?」

「あー、確かにそうですね。だからでしょうか、篤伸君の中では、星尾さんはすでに生きていませんよ。逆にそれが負い目となって真弓子さんに遠慮したり執着したりと落ち着かないようです」

 静川は頬を緩ませて深く息をつく。星尾竹人の気配の希薄さと、真弓子や篤伸にとってのそれが妙にバランスを欠いていたのを理解できたような気がした。

「ただ、確かに健全な話でもないし、篤伸坊ちゃんが心配するのはわかるよ。そこはしばらく注意して見ててやればいいんじゃないか。真弓子の遊びが狐憑きだの変な宗教だのに行きそうになったら、その時は静川が除霊なり妖怪退治なり全力でやればいい。だろ?」

 そう言って白野は涼やかな目を細めた。凄いことを言われたような気もするが、救われたような思いで白野に深く感謝する。

「そうですね。ありがとうございます」

 色々なことが有り難くて思わず静川が合掌する。拝むなよ、と久しぶりに話した白野が呆れたように笑った。




 夜も深まった頃、静川は寝付けずに布団から体を起こす。

 あれから静川は自室に持ち帰ったどら焼きを感激しながら味わい、二つ目を手にした頃からふと不安になった。最近は話すこともない白野から思いがけず好物を頂けたのはこの上ない幸運だが、会話の中で自分がおかしな発言をしていなかったかが気になりはじめ、意味もなく何度も会話を反芻してしまう。

 頭を冷やそうと上着を羽織り廊下に出る。窓を開けて遠くを見ると、どこからか風花の舞う空に痩せた半月が見えた。

 美しいものを見ても、わけもなく侘しいような気持ちになってしまう。

 悲しいことなど何もない。なくしたものも何もないし、寂しいというには周囲が賑やかすぎる。職業柄他人と話し慣れてはいるが社交的でも寂しがりでもないし、人どころか猫やカラスまでが平然と敷地内に入ってくるので寂しがる暇もない。

 小さく白い息を吐き、窓を締めて部屋に戻る。冷えてしまった足や指先にぬくみの残った布団が心地良かった。少しは冷めた頭を枕につけて目を閉じる。

 執着のようなものに線を引き、僧侶らしく自分を律することは却って楽だった。教義が長髪だの肉食だの遊興だのを禁じていなくとも、貪ることを推奨している訳では決してない。ならば自分を悩ませる煩悩のようなものに餌をやり太らせる必要もない。周囲に求められるのもそういう僧侶としての自分だろう。

 悲しいわけでも、寂しいわけでもない。美しいものはただ賛美すればいい。そこに苦しさを感じるなら、また線を引いてその外に出ればいいだけだった。


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