如月忌
如月忌
二月七日は聖徳太子や阿久悠の誕生日でもあるが、静川達にとっては、教育や関東大震災の救援活動などに尽力し、静川の宗派にも大きく貢献した明治の歌人、九条武子夫人の命日であった。この日は如月忌といって、その遺徳をしのぶ重要な法要が行われる。
普段とは違う、上質でとっておきの衣と袈裟をつけた静川が、遠い地で厳かな時間を過ごしている頃、静川とは全く関係の無いよその寺の境内では蚤の市が開かれていた。
平日とはいえ、余程天気が悪くない限り蚤の市にはある程度の客が来る。この日も決して暖かい日ではなかったが、骨董や古民具、年代物のおもちゃや古い着物の出店目当てに境内は賑わっていた。白野荘子もあずき色の和服に黒いストールを羽織った姿で平然と古道具を物色している。
境内の一画では西洋アンティークの出店も多く、白野は購入した真鍮のシガレットケースを小さな風呂敷包みの隙間に入れようとしていた。いまひとつ納まりが悪いので仕方なく袂にシガレットケースを入れると、しょうこちゃん、と和服姿の年配の婦人に肩を叩かれる。蚤の市で度々顔をあわせている静川園だった。今日は白大島の上に紫の羽織を着て、左手に桐の箱を抱えている。
こんにちは、と白野が文字通り襟を正し丁寧に頭を下げると、園はにやりと笑って仲間の獲物を確かめるように聞いた。
「どう、出物は」
「こっちはぼちぼちです、高い物は買いませんから。そっちは大漁ですね。また静川……あー、ショウセイでしたっけ、にとやかく言われるんじゃないですか」
高校時代の後輩でもある静川の、僧侶としての名前を思い出しながら白野は持っていた風呂敷包みを見せる。中身は緩衝材に包まれた和ガラスの小ぶりなランプシェードだった。
「ああ昌之介ね。今日はあの子、大きな所で行事っていうか法要で役僧に出てるから平気よ。大丈夫、あの子は帰りにどら焼きでも買って帰れば黙るから」
「あいつ、そんなんで黙るんですか」
黙る黙る、と当然のように言いながら園は左手で抱えていた桐箱を持ち直した。持ちましょうか、と白野が手をさし出すと、そう? と園は素直に桐箱を渡す。白野は自分の包みを小脇に抱え、陶器が入っているらしい桐箱を予備の風呂敷で包み固く結んだ。よし、と荷物を軽々と抱えた白野の隣で、身軽になった園が首を回す。
「あの子、わたしゃ何事にも執着ございまへん、ってな顔してるけど、どら焼きだのぼた餅だのが本っ当に大好きなのよ。若いくせに」
「扱いやすくていいじゃないですか。お布施よりどら焼きなら」
「でも若いんだから、違う方向にハングリー精神ってのを向けて欲しいのよねえ。もう少し野性味とか貪欲さがあってもいいのに、どうにも草食で困ってるのよ」
そう言って園が人の増えてきた境内を見渡す。少し歩きますか、と目配せした白野が古い着物に群がる女性客達を横目で見ながら言った。
「僧職は今さらどうにもならないですから、その野性味の無さってのを売りにするとか」
「そういう風に売りこむしかないかしら。一昨日もあの子、真弓子ちゃんの事で友枝さんとこに呼ばれたんだけど、人畜無害だから指名されたって自慢げに言ってんのよ」
もう手遅れかも、と園が露店の隅にあるビクター犬とかニッパー君と呼ばれる陶器製の犬を見た。寂しげな顔をして小首を傾げているこの犬は白野の店でも売れゆきがいい。犬の頭をこつんと爪で弾いた白野が考えるような顔をして園を見る。
「真弓子って、星尾真弓子ですか。坊さん……僧侶を呼ぶような話ありましたっけ」
坊さんなんて死人か仏壇くらいにしか用はないだろうに、と密かに思う。友枝家にいる星尾真弓子の事情は白野も聞いた事はあるが、父親の死体が見つかったという話は聞かないし、なにより真弓子に寺や僧侶というのがどうにもミスマッチに思えた。真弓子は生まれつき目や髪の色が薄く西洋人のような外見で、さらに普段から十字架を胸に下げている。用があるのはどちらかというと教会だろう。
「良く解んないのよ。寝言みたいなカタカナで、真弓子ちゃんが不安定な携帯電話に取りつかれて篤伸君が混乱してるから秘密にしてくれ、みたいなこと昌之介は言ってたけど」
なんだそれ、と白野が怪訝な顔をする。確かにそれは手遅れかもしれない。
「それで、何してきたんですか」
「お経あげて帰ってきたみたいよ」
わけわからん、と先刻の犬のように首を傾げる白野に、まあまあ、と園は右手をひらひらさせて笑った。
「住職じゃなくて昌之介に頼むくらいだから、どうってことないわよ。どうせ携帯で撮った写真の背景が人の顔に見えるとかそんなのよ」
ありそうな話ですね、と小さく笑った白野が人の波をかわしながら境内の外へ向かい、園も素早く後に続く。長居しても出物は期待できないと白野も園も知っていた。
遠ざかっていく二人が先刻まで見ていた寂しげな犬の前では、黒っぽいチェスターコートを羽織ったサングラスの男が考えるような顔をして立っていた。黒い手袋を外し、後ろ頭を掻きながら手前の小さな木彫りのナマズを手にとる。
「さっきからずーっと考えてるみたいだけど、そんなに気になるなら安くしとくよ」
しばらく立っているサングラスの客の目的がナマズの根付だとわかり、正面にいた店主が値段を言った。半開きになっているナマズの口は大きくて愛嬌があった。
如月忌から二日が過ぎた土曜日の夕方、住職の使いで届け物をした帰りの道で、静川はぼんやりと暮れてゆく空を見ていた。
美しい景色を見ると、なぜか悲しいような気持ちになる。
冷たさを増す深い青の領域と、それに追われる淡い光の領域。金色の混じった薄桃色の空にうっすらと浮かぶ真珠色の雲。そのすべての光はうつろい、徐々に失われていくものだとわかっている。失われていくのが悲しいわけでは決してない。
そんな、どこまでも上の空な静川の表情を、真剣に聞き入っているものだと受け取った中年女性は情感を込めて話を続けた。
「……それにお父さんたら最近言葉が出てこなくなってきて、何が言いたいのかはっきりするまで時間がかかるんですよ」
「それは悪い事ではありませんよ。言葉を選ばないことの方が悪質です」
土曜の午後も診療している病院の前で、静川は穏やかな表情と声を意識する。誰が何の病気で亡くなったというような場所や人を選ぶ話も静川になら平気と思うのか、よく通りすがりに呼びとめられてディープかつヘビーな話をされることは多い。目の前の中年女性も病院の薬袋を手にしたまま病気や介護についての不安を静川に語っていた。
「言葉が正しくても、どっちの記憶が正しいのか解らなくて喧嘩になるんですよ。こう、脳から直接読み取れるような機械はできないんでしょうかね」
「今はまだ無理ですが、これからはおいおいそういう事も可能になりますよ」
割と雑な返答をしながらも静川は地蔵のように微笑んだ。では、と合掌してその場を後にする。駐車場を抜けようと建物の横へ回ると、夕暮れの中、ふわりとした栗色の髪に狐色のコートを着た女学生が立ち話をしているのが見えた。相手は若い男で、パーカーにダウンベストを着ている。
「……元木さんには本当に申し訳ないと思ってます。羽武沢さん達にも」
「いやいや俺は、特になんかした訳でもないですし。羽武沢サンや兄貴だって、真弓子ちゃんになんかさせるつもりなんてマジないですから!」
停めてある車に寄りかかっていた男が栗色の髪の少女に両手を振ってみせる。今時栗色の髪などは珍しくもないが、そのふんわりとした面立ちと瞳の色で少女が星尾真弓子であるのはわかった。髪や目の色が茶色いのは生まれつきらしく、園やその周辺の婦人達は真弓子の事をフランス人形だのリカちゃん人形だのと言っている。
元木さん、と呼ばれた短髪の男は、東地区の地主である羽武沢家の使用人だった。先日羽武沢の使いとして元木が浄桂寺へ来た時の車が、今寄りかかっている白黒ツートンのスポーツ車だったのを覚えている。
静川が夕闇にまぎれてなんとなく様子を見ているなか、真弓子は荷物を胸元できゅっと抱きしめながら元木に言った。
「でも、このままで済ませる訳にはいかないからって父も言ってますから」
えっ、と元木は一瞬固まったような表情で真弓子を見る。静川も同じような顔をして真弓子を見た。父って、と困惑している元木に真弓子はにっこり笑う。
「まだちょっと色々あってご挨拶に伺えませんが、元木さんにも会いたがってますよ」
「いやあの、星尾サンってその、……お元気でいらっしゃるん、すか?」
「はい、もちろん。父も節分の夜くらいは鬼のお面をつけて来てくれると思ってたんですけど、間に合わなかったみたいですね」
ふふっ、と楽しそうに真弓子が笑った。元木は愛想笑いをしながらも不安そうに言う。
「あ……なんか忙しいとか、ですかね」
「もうすぐ戻ってきますよ。亀に乗って飛んで行くって言ってます。冗談だと思うけど」
「かめ……」
黙ってしまった元木の前で、恥じらいながら真弓子が俯く。ヤバいわ、と顔を逸らして呟く元木に、何がですか、と真弓子が首を傾げる。
「や、そろそろ屋敷の方へ戻らないとヤバいなって」
「あ、そしたら私このまま帰りますから。あっ、今日お話したこと、まだ皆さんには内緒にしてくださいね」
ふわっと肩をすくめた真弓子が元木の目を見てにこっと笑う。ですよね、とよくわからない返事をした元木はそそくさと車に乗り込み、無駄にエンジンを唸らせながら遠ざかっていった。今なら元木の気持ちも篤伸の心配もわかるような気がする。父親の安否よりも鬼とか亀とかの辺りが心配だ。
さて、と真弓子はバッグを肩にかけ、手荷物を抱えると夕闇の中をのんびり歩きだす。不安が多すぎて話しかけることに躊躇していた静川が慌てて真弓子に声をかけた。
「あの、星尾真弓子さん、ですよね」
「はい……あ、浄桂寺さんの」
お坊さん、と驚いて真弓子が静川を見る。お互い行事や法要で顔を見ることはあっても話をすることはないので、真弓子が自分を覚えていたのは意外だった。
「静川です。皆様ごきげんいかがですか」
「はい、お陰さまです」
「真弓子さんも特にお変わりありませんか」
「えっ、私ですか」
真弓子は少し考え、特にこれといっては、と柔らかな声で答えると不思議そうに静川を見た。静川は外套の中の袖をつまんだりしながら真弓子に問うための言葉を探す。
先刻の元木のように話がかみ合わなくなる可能性もあるし、篤伸との約束もあるので星尾竹人の生死などについて静川から触れるつもりはない。鬼やら亀やらが何かの専門用語や流行語のようなものだとしても、その唐突さや相手に通じていないことを自覚できていないのなら問題は同じだろう。できればお互いが通じる単語で問題を把握したい。
「真弓子さんはその、何か困っていたりはしませんか。たとえば、宇宙人とかお化けとか幽霊のようなもので」
「えっ」
真弓子は荷物を抱えたまま瞬きをすると、困ったように静川を見た。真弓子の言動を警戒するあまり自分の言動に自信がなくなってきた静川が控えめな声で付け加える。
「例えばです。そういった他の人には理解されにくい心配事や悩みなどはありませんか」
「……そういうので困ったことは……あんまり、ないと思います」
「そうですよね、良かったです。最近はそういうのが流行っているようなのでちょっと」
インフルエンザの話でもするようにあっさりと話題を流す。これ以上ダイレクトに質問するのは危険だ。人の正常さを疑っているうちに自分の正常さを疑われかねない。
真弓子は静川の正常さを疑わなかったのか、流行ってるんですか、と納得したようにのんびり笑った。ええまあ、と申し訳無さそうに肯く静川の横で、ふと携帯電話の着信音が鳴る。慌てる真弓子の荷物を預かり通話を勧めると、真弓子は恐縮しながらポケットから白い携帯電話を取り出し、篤伸さんからだ、と急いで電話に出た。
「……遅くなってごめんなさい。ちょっと図書館に寄ったので」
携帯電話に両手を添え小首を傾げながら話す真弓子を見て、静川はわずかに安堵する。ちゃんと着信した電話で話しているし、漏れ聞こえてくる声は篤伸のものだ。静川をちらりと見た真弓子は、申し訳なさそうな顔をしながらも話を続けた。
「羽武沢さんのところの元木さんと会ったんです。病院に迎えに来たのに、トキコさん達先に帰っちゃったんですって。……だから私に送ろうかって言ってくれたんですけど」
真弓子が言葉を切ると、何やら困惑しているらしい篤伸の声が聞こえてくる。真弓子はクローバーのストラップを揺らしながらのんびりと続けた。
「今ですか? 今は浄桂寺のお坊さんと話してます」
えっ、と驚いたような篤伸の声に静川も小さく笑った。言い聞かせるように状況を説明する真弓子を横目に、預かっている緑色の傘とクリアファイルに目をやる。女の子らしい緑色のクローバー柄のファイルにはコピー用紙が何枚か挟んであり、隙間からは失踪宣告やら相続放棄だのという可愛いとは言いがたい単語が見えた。
静川は真弓子の視界から逸れ、ファイルの中身をぱらぱらと盗み見る。法律に関するもののコピーらしく、静川には割と馴染みのある遺産相続系の単語だけでなく、離婚調停や監護権だのという高校生の勉強内容にしては過激な文字が目に入った。乙女の好奇心がこういう方向へ向かっているのは心配になる。
乙女の秘密を盗み見ている静川の好奇心は『離婚が認められる理由』のあたりに吸い寄せられた。『婚姻を継続しがたい重大な事由』の項目には、性格の不一致や金銭トラブルなどに並び『過度の宗教活動』とある。やはり一般家庭から見た宗教法人の宗教活動は過度なんだろうかとか、結婚やそこまでの過程において自分はあまり有利ではないのかもしれないという疑問がよぎった。だが今はそれを考える時ではない。
静川が何事もなかったように向き直ると、真弓子は篤伸に小鳥のような声で応えていた。
「そんな、まだ明るいですから平気ですよ。それにもう一か所寄る所もあるし」
よろしければ私が送りますよ、と静川が告げると真弓子はそれを篤伸に伝え、二言三言なにかを話したあと電話を切った。長くなってすみません、と恥ずかしそうに頭を下げる真弓子に静川はのんびり笑いかける。
「暗くなってきましたから篤伸君も心配なんでしょう」
「でも、送ってくれるのが静川さんなら安心できるからいいって言ってました」
ありがとうございます、と真弓子が礼を言い、静川は手荷物を預かったまま歩き出す。真弓子は浄桂寺の近くに用事があると言い、ほっとしたように胸に手を当てた。
「でもよかった、篤伸さんは私が羽武沢さん達と話すのってあんまり好きじゃないみたいだから、静川さんと話すのもなにか言われるかと思って」
「篤伸君は、繊細そうな真弓子さんが誰かと話すことで精神的に穏やかでいられなくなることを心配してるんですよ。だから真弓子さんの言うことすることも気になるんでしょう。今は真弓子さんが家のお手伝いをしていることすら心配のようですから」
嘘にならないよう慎重に静川が話す。真弓子は栗色の髪をふんわりと揺らしながら口元に指を添えて笑った。
「やだ、そんなこと。篤伸さんは心配しすぎなんです。私、今年で十八になるんですから、家事だってそこそこできないと困ります」
「そうですね。私も、不安定なのは篤伸君なのかもしれないと少し、思いました」
本当は少しなんてものではないが、控えめに話しておかないとややこしいことになる。真弓子は小首を傾げて困ったような声を出した。
「篤伸さんは私を年上扱いしてくれないんですよ。私がお世話になっている立場だからかもしれないですけど、それとは別に無理してるみたいで心配な時があります」
「責任感が強いんでしょうね。確かにちょっと無理はしているかもしれませんが、大人になろうとしている時はあんな風に力が入ってしまうものです。……それに、ちょっと若く見えることも気にしているのかもしれませんよ」
静川は冗談めかして言うと、そうかもしれませんね、と困ったように真弓子が笑う。
空は夜の色に変わろうとしていた。まだ数えるほどもない寂しげな光の点を見ながら歩く。線路を越えて駅を横切る道へ入ろうとすると、すみません、と真弓子は焦ったように静川の持っていた傘やファイルを受け取ろうとした。
「お坊さんがこんなの持ってたら変に目立っちゃうところでした」
「慣れているから平気ですよ。今日は晴れていたのにと思いましたが、日傘なんですね」
静川から抹茶色の傘を受け取った真弓子は、日差しが苦手なんです、と太陽が沈んだあとの空に目を細めた。実は結構大変なんですね、とあまりじろじろと見ないよう気をつけながら静川が言う。目や髪の色もそうだが、肌も東洋人らしくない独特な白さがあった。黒い色を持たない真弓子はどこかか弱げに笑う。
「ぜんぶ父譲りなんです。あ、でも父も私も純日本人ですよ。こんなだと不良娘とかギャルみたいに思うかもしれないけど」
「そんな風に思う人は少ないでしょう」
いきなり父親の話になってしまったことに戸惑いながらも静川はのんびりと答える。駅前通りを横切るように歩きながら真弓子ものんびりと言った。
「最近はそうかもしれないけど、父は色々面倒だったみたいですよ。変な風に目立ってしまって。私もそんな所がありますから、人並み以上にきちんしていないといけないんです。まだ十八歳未満だからイロイロやらかしても許されるかもしれないですけど、色んなことを知っておかないと、常識知らずだとか物知らずって思われそうで」
「それはみんな一緒ですよ。物事を知ろうとするのは素晴らしい心がけですが、他人の常識や価値観に合わせるのが正しいとは限りません。人目の為だけに努力しなくてもいいんですよ。楽しくないでしょう」
そう言って静川が真弓子の持っているクローバー柄のファイルにちらりと目をやると、察した真弓子が慌てて焦ったような声を出した。
「あ、やだ、私ったら変な勉強してるみたい。これ、初めは全然違う事を調べてたのに、つい横道にそれちゃって」
「わかります。勉強や調べ物をしているうちに脱線するのは私もですよ」
問題解決を学ぼうと購入したビジネス雑誌を思い出しながら静川が深く息を吐く。真弓子はクリアファイルを抱えて恥ずかしそうに言った。
「でも面白いです、こういう事は全然知らなかったので。初めは食事のマナーとか服装の決まりとかを見てたんです。あと結婚式とかお葬式の作法とかも、私は何も知らなくて」
「結婚式はともかく、若い人がお葬式に詳しくなる必要なんてないんですよ」
「あっ、それもそうですね」
納得しながらも真弓子が笑う。こうして話している限りは真弓子におかしな兆候もなく、父親の話になったところで通じないということもなかった。元木とのやり取りが自分に理解できていないのと同じで、篤伸の心配もこういった誤解によるものかもしれない。
「篤伸君の心配はともかく、真弓子さんは十分しっかりしてると思います。でも、知らない人がうっかり聞いたら何の話かと思いますよ。お父さんが白い鬼で亀に乗ってるなんて」
「やだ、聞こえてたんですか。あれはその、冗談で言ってただけなんです」
ばつが悪そうに真弓子が肩をすくめる。冗談? と静川が聞き返すと、真弓子は考えるような顔をしながら言った。
「お寺って近所の人と話すことが多いから、私の父の話も知ってますよね? 私の父って、要はお金に困って私を友枝のおじさまに預けていなくなってしまったんですけど」
真弓子が言葉を切って確かめるように静川を見た。大胆な要約に静川が黙っていると、真弓子は笑いながら続ける。
「父がいなくなった七年前の夜、私は友枝のお家にいたんです。父は、友枝のおじさまに電話をかけた後失踪したことになってますが、実はその夜、私は父を見てるんです」
「……友枝さんのお宅で、ですか?」
「はい。こっそり来ていた父は、白い鬼のお面をつけてたんです。あっ、これもちろん、おじさま達には内緒ですよ」
乙女の内緒話をするように真弓子が笑って言う。そこで鬼の面というのがわからない。それに真弓子の父が友枝家へ来ていたなら、電話ではなくその時直に娘の事を頼んでいるだろう。せっかく乙女の秘密を打ち明けてくれた真弓子に失礼な考えは持ちたくはないが、その夜の幻想的な体験は篤伸の言っていた携帯電話と共通の何かで、真弓子の一部の正常さは七年前すでに失われている可能性があったりするのかもしれない。
「非常に言いにくいのですが……」
「父が来たのは本当ですよ。篤伸さんが証人です。あとこれ、その時父がくれたんです」
静川の台詞を予測していたように、真弓子はにっこり笑ってコートの襟元から銀色の鎖を引っ張り出すと、その先についている十字架を揺らしてみせた。それは良く見るシンプルな形のものではなく、独特な細かい装飾が施された骨董品のようだった。
「それにしても、どうしてお父さんはお面をつけていたんですか」
「篤伸さんが渡したんです」
「はい?」
シュールな展開についていけない静川が思わず足を止める。真弓子はそんな静川を見てどこか楽しそうに言った。
「私は父を見ただけで、話はしていないんです。父は北の部屋で篤伸さんと話していて、借金とかの怖い人に追われて逃げなきゃいけないからって私の事を頼んだそうです。それで篤伸さんは、父が怖い人に見つからないようにお面を渡したんですって。そして私は、白い鬼のお面をつけて走っていく父を窓から見たんです」
「それで星尾さんはお面をつけて出ていったんですか。なんだか少し、不思議な話ですね」
本当は少しなんてものではないが控えめに反応する。友枝家の主人である篤良ではなく、娘の真弓子でもなく、当時小学生の篤伸と話をする星尾は色々と不思議だ。子供の辛い記憶はほどよく形を変えて保持されることもあるらしいが、真弓子は楽しい記憶を語るように明るく言った。
「あっ、お面があるのは不思議じゃないんですよ。北側の部屋には古い物がたくさん置いてあるんです。篤伸さんのおじい様が集めたものなんですって」
「あ、不思議なのはそこじゃないんですけど、お面をつけて走っていたのがお父さんだと真弓子さんはなぜわかったんですか?」
「わかりますよ。着てたのは父の緑色のコートだったし、窓から呼んだら立ち止まって、顔を見せてくれて、手を振ってくれたんです。それに、あとから北の部屋から出てきた篤伸さんが、父からだと言ってこの十字架を渡してくれたんです。急な事情だったから、おじさまに話すのは後になってしまったんですって」
さらさらと話す真弓子が一瞬だけ寂しげな目をして空を見た。静川はしばし考え、鬼から話を逸らしてみる。
「そういえば、亀はどこに出てきたんですか」
「北のお部屋です。壁にあった大きな亀の剥製が、飛んだみたいに窓際に落ちていたからびっくりしたんです。落としたって聞きましたけど、篤伸さんは何て言ってました?」
「いえ、篤伸君とはあまりその辺は話さなかったんです」
それどころか篤伸は、全くこんな話をしなかった。すべてが真弓子の正しい記憶とは思わないが、すべて夢とも思えない。しかし篤伸もこの出来事を共有しているなら、それを話さないのも妙だ。僕には責任があるんです。篤伸がそう言っていたのを思い出す。
「まだ私が十歳で、篤伸さんは九歳だったのに、篤伸さんは私に、お父さんは必ず迎えに来るから一緒に待とうよって言ってくれたんです」
「篤伸君らしいような気もしますね」
すでに周囲の景色は静川にとって馴染みのあるものになっていた。浄桂寺を通り過ぎて喫茶ジャックの看板が見えてくる。静川は篤伸のことを思い出しながら真弓子に言う。
「でも真弓子さんは、お父さんに関わるそういった話を篤伸君にはしていませんよね。友枝さん達に気を遣っているのは、篤伸君も、恐らく篤良さんだってわかっているでしょう。それよりも篤伸君は、真弓子さんが気を遣うあまりに別の良くない何かに頼ったり、その影響を受けてしまうことを心配しています」
「私、そんなことは……」
「彼はあなたに肝心な部分で頼りにされてないことが心配なようです。実際、真弓子さんには不安定に見える部分がありますし、私にはあなたがそれを意識的に加減しているようにも思えます。気遣いや遠慮が高じてのことだとしても、それで篤伸君が心を痛めることもありますよ。一緒にいれば、考えていることは隠せても隠している気配は伝わりますし、心の波は伝染するものです。今、篤伸君の心が穏やかでないのは、実は真弓子さんの心にも波立つものがあるからだと思います。……それは、友枝さん達には話しにくいですか」
静川はやわらかい声でそう言うと、考えるような顔をして立ち止まる真弓子を見た。父親に関連する話が真弓子の妄想のようなものだとしても、篤伸達の前では制御できている。それが真弓子の篤伸達に対する歪な気遣いの現れなら、解くべきものはそこにあるし、真弓子が心を開くことで篤伸の懸念も薄れる。心の揺らぎが伝わるほど近い相手に、頼ってもらえないと感じるのは苦しいだろう。
ぼんやりと考えていた真弓子は二秒ほど目を閉じ、ふんわりと笑って静川に言った。
「実は、近いうちに父が戻って来るんです。色々面倒な準備もあるし、友枝のおじさまにもきちんとお礼をしないといけないから、それまでは秘密にしてるんです。だから父の話もちょっとしにくかったんですよ」
「……そうなんですか。あんなに心配している篤伸君にもまだ、知らせないんですか?」
「優しいからってその人を頼っていいという訳ではないですから。でも静川さんのお話を参考にして、篤伸さん達に心配かけないよう気をつけます。もう三年生になるし進路相談もあるから、少しはそういう話もしないとだめですね」
すみません、と今後も篤伸を頼るつもりのなさそうな真弓子が肩をすくめる。どうやら篤伸が年下だからとか童顔だからとか頼りないからではないようだ。静川はどこか自分のことのようにほっとしながら尋ねる。
「ところで、いつから真弓子さんはお父さんと連絡を取りあっていたんですか」
「ええと、最近です。でも篤伸さん達には言わないで下さいね、父が折りを見てきちんとお礼をするつもりなので」
真弓子が片目を閉じて念を押した。言ったところで信じないような気もするが、わかりました、と合掌する。その所作がおかしく見えたのか、真弓子は子供のように笑った。
「ピエールも言ってるんですから」
「えっ」
「ふふ、なんでもないです。それより、静川さんって、父に少し似てますね。顔とか頭の形とか、たぶん声もちょっと」
からかうように笑いながら真弓子がバッグを探る。寄る所があると話していたのを思い出した静川は周囲を見回した。ジャックを通りすぎてしまうと、この周辺には花屋と酒屋とからす屋くらいしかない。
「寄り道はこの辺ですか」
「そこのからす屋さんです。注文してたお箸が出来たって連絡があったので。あっ、送って頂いてどうもありがとうございました。もう大丈夫です」
真弓子が慌てて頭を下げる。ちゃんと家まで送りますよ、と申し出る静川に、真弓子はにっこり笑って遠慮した。
「平気です。ここからは近いし、いざとなったら荘子さんに送ってもらいますから」
静川が何か言う前に、それでは、と真弓子はからす屋へ向かって行く。真弓子にとっては静川や篤伸よりも白野荘子の方が頼れるらしいことはわかった。
五日後の二月十四日、世間が西洋文化の甘い匂いに包まれようとしているなか、静川家の台所では明日のために日本文化的な甘い匂いが充満していた。
明日の十五日は釈迦が入滅したとされる仏教徒にとっては結構な記念日だが、節分の時と同じく静川の宗派では何もしないところが多い。それでもなぜか浄桂寺では伝統的に団子をふるまうイベントと化していて、そのために静川の母親と祖母は朝から大量の小豆を炊いて餡を練っている。
お手伝いすることはありませんか、と湯気の向こうから何度もしつこく現れる坊主頭を園が追い払っている頃、からす屋の前には黒いコートにサングラスの男が立っていた。
朝の光が差し込むからす屋では、氷を思わせる薄水色の着物を着た白野荘子がのんびりと工具の手入れをしていた。古いガラスを使った窓は光をやわらかく拡散させて、漆喰でできた生成りの壁にぼんやりと映っている。売り物よりも店自体が骨董のような存在だが、新しく建て直そうとすればこのガラス窓を使えなくなるらしいので、今のところ白野にはこの空間を変えるつもりはない。
火鉢の炭がはぜる以外にほとんど音の無いなかで、白野が直した箱型の振り子時計が古めかしい音を出した。広くはない店内には、金具のついた硯箱などの古道具やこまごまとした雑貨が並んでいる。鳥かごを模した物入れや真鍮の天球儀など西洋の雑貨もあり、それらの多くは白野が修理したものだった。壁際にあるレトロな卓上ランプは先日蚤の市で買った和ガラスのランプシェードをリメイクしたものだし、隣に並べてある木製の箸と箸置きは白野が一から作っている。
工具の手入れを終えた白野が欠けた墨壷を眺めていると、ガラス窓の向こうに黒い人影が立つのがわかった。看板が出ているのに気付いたのか、古ガラスの嵌まった引き戸をがらりと開けて客が入ってくる。いらっしゃい、と白野は墨壷を手にしたまま言った。
愛想良くされても居心地悪いだろうと勝手に判断した白野が墨壷を撫でていると、朝一番の開店直後に来てくれた客はのんびりと店内を眺め、作業台の隅に目を止めた。白野の手元にある真鍮のシガレットケースを指差し、どこか呑気な低い声で尋ねる。
「これっておいくら?」
「まだ売り物になってないけど」
白野が顔を上げる。シガレットケースを指差していたのは、最近ジャックのカウンター席で見かけるサングラスの中年男だった。時々一緒にいる部下らしき男も帽子にサングラス着用だったのを覚えている。サングラス愛好会の旦那か、と心で呟きながら白野がシガレットケースを手に取ると、男はサングラスの上の太い眉を残念そうに下げた。
「このままじゃ使えないのか」
「歪みも直してないから開けにくいし、蓋の開け閉めもざらつきがあって気持ち悪いですよ。私なら使わない」
「そういうもんか」
感心したように男が肯く。白野はシガレットケースを脇に置いて男を見た。上等そうな生地のチェスターコートの下には一応スーツを着ているらしく、白い襟と光沢のある深い紫のネクタイが見える。身なりは悪くないが勤め人ではなさそうだ。
「すかすかも困るけど、いちいちむきになって開けなきゃならないのも美しくないですよ。すっと開いてすっと閉まる、音や手ごたえのいい造りに直すから、そしたら買って下さい。旦那の足元見て値段付けますよ」
男の艶やかな黒革の靴を見ながら白野が笑った。サングラスの男も白い歯を見せて笑う。
「ふうん。アンティークのセレクトショップって訳でもないのか」
「持ってるだけで自慢になる物はないですよ。ウチは骨董屋でも博物館でもないから」
「ここって何屋さん?」
「決めてないけど」
そう言って白野は無意識のうちに薄水色の襟元や墨色の帯へ手を這わせる。普段と違って柔らかい着物を着てしまったことで、どこか落ち着かないまま続けた。
「骨董屋って看板出したら高尚な骨董品を置かなきゃいけないし、弄ったり直したやつは売りにくいんです。手を加えたら値が下がるようなのを置いとくほど広くないし、客の注文で古物を造り替えたりもするからね」
「首なし地蔵も首ありにしてくれるってことかな」
「お望みなら」
そう言って白野は棚に手を伸ばし、黒い留め具のついた木箱を置く。小さな引き出しを備えたそれは硯箱と呼ばれるもので、反れたり傷んだりしていたのを白野が直したものだった。白野は留め金を外して上蓋を開け、筆入れ部分の下に作った隠し戸から飴を取り出す。どうぞ、と白野が飴を渡すと男は愉快そうに口の端を上げた。
「なるほど。縛らないって発想は好きだな。変にこだわってると長く続かない」
「カラスが集めたおもちゃ屋みたいなもんだと思ってくれればいいって爺様も言ってたよ。ついでに修理や改造、パワーアップも請け負うけど」
白野は飴を口に入れながらそう言って硯箱を棚に戻した。男も飴を口に放り込むと作業台の脇にあった銀玉鉄砲を見る。所々直した跡はあるが、節分の日に白野が墨壷と一緒に持ち帰ったものだ。
「こっちもパワーアップ?」
「こんなの子供のおもちゃなんだから、威力なんて必要無いですよ。それより『ちゃんと狙えば、ちゃんと当たる』ように直した方が子供だって面白いと思うけど、どう?」
そう言って白野は銀玉鉄砲を手に取り、腕を伸ばすと入口の真上に向かって引き金を引いた。ぱちっ、という音とともに扉の上にある小さな木彫りのえびすが揺れ、当たった弾が下にあった琺瑯の洗面器にからんと落ちる。十分パワーはアップしてるな、と呟いた男が木彫りえびすを見て思い出したように聞いた。
「そういや、人形なんかは入ってこないかな」
「リカちゃんやらお菊人形なんかはないけど、古いひな人形を引き取って欲しいって話は時々来るかな。でも客は人形よりも、ひな壇の手前に置いたりする長持や茶道具なんかを欲しがるからね。ひな壇ごと引き取って、人形は処分することが多いよ」
他人事のように白野が言うと、そうか、と男は頭を掻きながら脇の古いストーブと湯気の立つ鉄瓶を見た。さてコーヒー休憩に行くか、と気を取り直したように言う男を白野が横目で見ながら言う。
「旦那はこれからが休憩か」
「あー、結石が出来やすいらしくてな。ちょくちょく水分摂らなきゃならんのさ」
男は白い歯を見せて平然と言った。思ってたより歳なんだな、と扉を開けようとする男の手を見た白野が密かに思う。髪や肌の色艶は良いがどうやら五十前後のようだ。白野は男を見送りながら思い出したように言った。
「コーヒーやお茶はよくないって聞いたような気がするけど?」
「鮒やナマズじゃないんだ、そう水ばっか飲んでもいられんよ」
また来るよ、と男は手を振ってジャックの方向へ歩いて行った。難儀だな、と白野が扉を閉めようとすると、どこからか来た黒い車がジャックの側で停まるのが見えた。
昼過ぎから人の出入りも落ち着き、白野はしばらく作業台で墨壷を弄っていた。光の色が変わったような気がしながらも作業を続けていると、がらりと音を立てて引き戸が開く。
「いらっしゃい。……ああ、お帰り」
立っていたのは同業者の寄り合いに出ていた祖父だった。だるそうに迎え入れる白野に、お前なあ、と祖父が黙って木彫りのえびすを指差す。
「客にガン飛ばしてねえだろうな」
「んなこたしないよ」
しまった、という顔を背けながら白野が店の照明をつける。祖父は襟巻を首から外しながら白野を睨んで言った。
「解ってんのか? スマイルはタダなんだぞ、『お客様は』?」
「『神様』です」
仕方なさそうに白野が答える。元々冷たげな顔立ちの上に、作業に没頭していると目つきが険しくなりがちなので白野を見た客が怯えることもあった。祖父の様子からして今もそれなりの顔をしていたらしい。
まったく、と祖父は入口の上の木彫りえびすをちらりと見てため息をつく。器量はいいが愛想のない白野に、祖父は『仕事』として笑うための指導を続けていた。今でも客が来るたびに無言で木彫りえびすを指差し、孫にスマイルを強要している。
まあいい、と祖父はストーブの上の鉄瓶を確認して、持っていた手提げ袋から紫色の包装がされた大きめの菓子折りと、愛らしいラッピングが施された小箱を出した。紫色の菓子折りは有名な和菓子屋のどら焼きで、寄り合いで貰うことが多く白野も見慣れている。
祖父はどうでもよさそうに紫の箱を作業台に置き、たまにはコーヒーでも飲むかな、と愛らしい小箱だけを手にして小上がりになっている奥の部屋へ行こうとした。鼻歌を歌いながら湯呑みを用意する祖父にコーヒーカップを出してやりながら聞いた。
「そっちはどうしたの」
「バレンタインのチョコレートに決まってんだろ?」
決まっちゃいないだろうよ、と呟きながら白野は作業台へ戻る。チョコレートを近所の女子大生にもらったことでご満悦らしい。洋菓子店でアルバイトしてるんです、と以前その娘が白野に言っていたのを忘れることにして祖父に訊ねた。
「どら焼きは」
「そんなジジ臭いもんいらんわ」
「ああそうかい」
ジジイだろうが、と白野がため息をつきながら立派な和紙に包まれたどら焼きの箱を見る。賞味期限や保存方法を確認し、とりあえず作業台の脇に置いた。
再び墨壷を手にとり、しばらく白野が作業に没頭していると、荘子、と襟巻を巻いた祖父が声をかける。気がつくと八時前になっていた。
「あ、悪い、夕食……って、また寄り合いか」
「新しく催し物やる所にちょっと顔を出さなきゃならんからな。根をつめるのはかまわんが、ちゃんと布団で寝ろよ」
そう言って出ていこうとする祖父に、朝方作業台でうたた寝していたのを見咎められた白野は肩をすくめた。
「……了解。爺様、飲みすぎるなよ」