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平成二十五年、三月

平成二十五年、三月


 その年の三月三日は日曜だった。

 友枝家の唯一の和室である仏間には赤い毛氈が敷かれ、隅には桃の花や黄色いチューリップが飾られている。時折聞こえてくる鳥の声はうぐいすではなく、ピエールとカルロスの掛け合いのような鳴き声だった。

「では、朱鷺子さんからどうぞ」

 紅茶を一口飲んだ真弓子がティーカップを膝の側に置いて言う。赤い毛氈に並べられた白く艶やかな蛤を前に、きちんと正座した朱鷺子が真剣な顔をする。

「朱鷺子さま、いきなりハズレを引かないで下さいね」

 流華はアップルパイを食べながら付け足すように言う。流華は蛤を並べる時、特別ルールだと言って、一つしかないからす揚羽の貝をポーチから出して混ぜていた。

 羽武沢家の親子は、雨崎を含めた周囲の介入により別居することになり、概ね流華の提案通りに話は進んでいた。羽武沢に有利な材料は少なく、朱鷺子達は朱鷺子の母との生活に向けて動いている。

「ほら、篤伸さんも」

 一人だけ場違いなようで居心地の悪そうな篤伸が、真弓子の焼いたクッキーを口に入れて貝を捲る。金箔の上に描かれたピンク色の花に、レンゲソウだ、と真弓子が嬉しそうな声を出すと、ゲンゲとも言うのよね、とフミが付け足す。ん、と篤伸が真弓子に得意気に言った。

「レンゲソウって蜂蜜が取れるんだよね、クローバーと同じで」

「蓮とか睡蓮もレンゲよね。あと、レンゲはレンゲでも、レンゲツツジには猛毒があるの」

 シキミに毒があるのは知ってます、と流華が対抗するように言うと、鮮やかな赤紫色の花を引いた朱鷺子が複雑な顔をする。

「これ、ツツジよね」

「ちなみに海外ではツツジの仲間をアザレアって言うみたい。白とか赤とかオレンジとかいろんな色があるけど、この色をツツジ色とかアザレアって呼ぶのよ。ツツジは青梅市の観音寺が有名かな」

 フミさんって詳しいんですね、と真弓子が感心しながら紅茶を飲む。レンゲソウやクローバーの描かれた蛤を取れただけで満足そうな真弓子の隣で、篤伸がツクシとモンシロチョウの絵を眺めた。フミも解説中心で手持ちの蛤はそう多くない。

「流華ちゃんが優勢かな」

「僅差ですね」

 そう言って真弓子が流華と朱鷺子の手持ちの貝を数え始める。同点だね、と篤伸が真弓子より早く数え終わって言った。場には伏せられた蛤が三枚、艶やかに光っている。

「一つはハズレだから、ここでからす揚羽を引いたら負けね」

 さあどうぞ、とフミが楽しそうに朱鷺子に言う。からす揚羽を朱鷺子が引けばその次の流華が勝ちになる。朱鷺子はじっと蛤を睨み、どこか笑いをこらえたような顔で伏せたままの貝を一枚選んだ。

「流華、わたしの勝ちよ」

 そう言って朱鷺子は右手で白い貝を裏返し、左手に隠し持っていた対の貝を隣に置いた。描かれているのはどちらもからす揚羽で、その黒い羽は青緑色を帯びて光っている。

 なにそれずるい、と篤伸と真弓子がクッキーをかじりながら笑い、目を丸くしている流華の目の前で朱鷺子が残りの二枚を裏返す。金箔の空に伸びる桜の枝を見ながら、フミが嬉しそうに笑った。

「朱鷺子ちゃんが持ってたのね」




 いつものように薄暗い空間に、よく知らない洋楽が流れていた。カウンターの隅には縦長の木箱がひっそりと置かれている。

 静川はコーヒーを頼み、新しい念珠をした手を膝に置いた。左隣には白野がのんびりとコーヒーを飲み、カウンターの奥では相変わらずサングラスの二人が座っている。そのうち片方は上機嫌で煙草を吸っていた。

 ぼんやりと宙を見ている静川の横で、イーグルスか、と雨崎が呟く。店内に流れている音楽の事だと気付いた静川が尋ねる。

「この曲ですか」

「デスペラード。カードを引くならダイヤよりハートのクイーンにしろって歌さ」

 そう言って雨崎は木箱をそっと持ち上げ、カウンターの中央でもある静川の前に置き、きっちりと結ばれていた茶色い紐をほどいた。岡持ちのような蓋を外し、これが師匠の人形さ、とゆっくりと箱から人形を取り出す。

「確かに、流華さんの描いた『ひなにんぎょう』ですね」

 触れないよう膝に手を置いたまま静川が人形を眺める。金襴緞子のような深緑色の布をローブのように纏ったそれはマリア像のような姿でありながらも、どことなく日本人形のような風情があった。胸元には琥珀らしきブローチが留めてあり、俯いてはいるがフードの下から見えるその表情は微笑みを浮かべている。

「流華の描いた絵と同じだけど、なんか不思議な感じだな」

 カウンターに肘をついた白野も遠慮がちに人形を見た。人形は流華の絵と同じく、赤子を抱くようなポーズで赤く丸みのある塊を抱えている。バイオリンならまた雰囲気も違うかもしれないが、どう見ても木彫りのナマズだった。

 雨崎が人形を手に取り、裏返したり布を捲ったりして細部を観察する。これだ、と足元に記されている日本語ではない文字を見つけて目を細めた。

「流華嬢ちゃんによると、小沼はこれを読めてたらしい。この人形に鍵が要るってことを読みとって、真弓子嬢が下げてた十字架を狙ってたんだ。十字架が鍵なのは間違いない」

 インテリなんですねー、と詳しいことを全く知らないマスターが感心したように肯き、何語でしょうか、と静川も念珠を手にしたまま腕組みをして人形の足元を覗き込んだ。

 Wels、Mundと所々の文字は読めても、その綴りの単語を静川は知らない。これ、と白野がKreuzとある単語を指差す。

「ドイツ語だな。たしか十字とか十字架のことで、読みはクロイツだよ。小沼がこれを読んで『鍵はクロイツか』みたいなことを言ったから、当時の流華は『かぎはくろい』ってあのノートに書いたんじゃないか?」

「なるほど、『鍵はクロイツ』だな。曽我、俺の携帯貸せ」

 そう言って雨崎は曽我から携帯電話を受け取り、どこかへ連絡を取った。今いいか、と名乗ることもなく話し始める雨崎に、白野が呆れたようにため息をつく。

「弁護士だの手配師だの、あの旦那には色んな知り合いがいるようだが、ドイツ語の先生ともお友達なのか」

「宇宙飛行士とお友達でも驚きませんよ」

 静川も脱力したようにコーヒーを飲みながら言った。どこか申し訳無さそうに俯く曽我の隣で、雨崎は人形をひっくり返しながら見慣れない綴りを読み上げる。

「nac、h、sc、後は読めないんだよ。……なんだ、それが『鍵』か、オーケイ、理解した」

 じゃあな、とそっけなく通話を終え、雨崎は携帯電話を曽我に渡した。Mund、とある部分を指差して満足げに笑いながら説明する。

「口の事だとさ。ムントって読むらしい。そしてこっちがナマズだ。ヴェルスって読む」

 雨崎が指差すWelsという文字と、人形の抱いている物体を見て静川が肯く。雨崎は下げていた十字架を首から外し、続けていくつかの単語を解説した。

「これがなんとかシュリュッセル、合いカギって意味だとよ。どうやら鍵穴がナマズの口で、そこに鍵であるこの十字架を入れる、で合ってるみたいだ」

 雨崎は眉を寄せて小さなナマズの口を覗き込み、かなり弄ってあるな、とため息をついて鍵を差し込む。師匠ってのはドイツ人か、と脇から覗き込んだ白野が聞いた。

「さあ、流れ者だったらしくて、向こうの言葉をいくつかマスターしてたみたいだ。日本語も堪能だったしな」

 回らんな、と鍵と鍵穴を見ながら雨崎が首を傾げると、どれ、と白野が代わって人形の前に座った。マスターから新しいおしぼりをもらって丁寧に手を拭き、手のひらの水分を飛ばしてから人形に触れる。雨崎から受け取った十字架を慎重にナマズの口に差し込み、手ごたえを探りながら白野が言った。

「鍵を差し込む事で、中の金具が押されてる。……多分、ナマズ単体だけじゃなくて人形そのものと連結してるのを外すことで、別のギミックが動くみたいだ」

「直接鍵を回すだけじゃないんですね」

 白野に耳かきをされているような人形を、どこか羨ましいような気持ちで眺めていた静川が呟く。白野は小さな爪でナマズや人形の体を軽く叩くと、その頭部で指を止めた。

「鍵は差したまま……首を回す、のか? さすがに責任持てないな」

「よしわかった、俺がやろう」

 白野と交代した雨崎が慎重に人形の頭部を押さえ、手ごたえを確かめながらゆっくりと捻るように力を入れる。人形の顔がナマズの方を向き、まるで唇を寄せるような角度に入った瞬間、赤いナマズの尾鰭が反り、ぱた、と人形の手から離れて落ちた。静川がそれをそっと拾い上げると、ことり、と微かな音が中で聞こえた。

 何か入ってますね、と赤いナマズを白野に見せると、どれ、と白野が開いたナマズの口から小さな布包みのようなものを摘まみ出して雨崎に渡す。なんでしょう、と静川や曽我、マスターも顔を寄せるように雨崎の手のひらを覗き込む。

 中にあったのは銅色をした二つの小さな碇だった。雨崎は黙ったままそれを摘み上げて凝視する。カフリンクスにしては大きいですよね、と静川が覚えたばかりの知識を活かして呟く。

「……かなり昔、俺の弟が落とした、キーホルダーの碇だ。それが何で二つあるんだ?」

 そう言って雨崎が首を傾げる。碇にはキーホルダーとしての金具は無く、装飾として銅色のロープが絡んでいるだけだった。ネルソン提督の碇っぽいですね、と唸るマスターの向かいで白野が片方の碇を裏返す。見ると裏側には針のついた金具があり、ラペルピンのように布地に留められるようになっていた。でも、と白野が目を細めながら言う。

「この二つ、微妙に形が違うな。こっちは鋳型の後が残ってるけど、こっちのは無いし、彫りが深くて細かいっていうか、美しいよ。……旦那の師匠が作ったんだな、こっちは」

「当時、俺の一番気に入ってたキーホルダーだ。弟が欲しがるからくれてやったんだが、すぐにどっかに落として泣き付かれたんだよ。仕方なく寒空の中を探し回ってたら師匠に出会ったのさ」

 なにやってんだ師匠は、と雨崎が後ろ頭を掻いた。静川も二つの碇を見比べて微笑む。

「ではこちらは、それを見つけた守衛ヒナさんがもう一つ作ったものなんですね。兄弟で喧嘩にならないように」

「そのようだ。これじゃクオリティの違いで喧嘩になるような気もするが、まあ仕方ない。せっかくだから見せびらかしてやるか」

「え、弟さんと連絡取れているんですか」

「弟だけはな。結石で入院した時も面白がって毎日見舞いに来やがったくらいだ。さっき話してたのも奴だよ。昔、俺がドイツの戦車シリーズくれてやったせいで、今でもドイツ贔屓なんだ。……それよりこの人形、妙に重いと思ってたんだが」

 そう言って雨崎は人形を再び持ち上げ、足元の土台や丁寧に重ね着せられている厚みのある布を丁寧に探る。うん、と確信したように口の端を上げた雨崎は人形の肩のあたりを押さえ、土台をぐっと引き抜いた。

「ちょっ、何するんですか雨崎さん」

「変身サイボーグみたいなもんさ。丁寧に布が巻いてあるのが変だと思ってたんだ」

 雨崎が人形から引き抜いて見せたのは、木製の土台に嵌めこまれていた黄金色の観音像だった。出所も系統も不明だが、観音像の多くに漂う優美な風情はこの像にも宿っている。どこかにその面影を持つ白野が楽しそうに言った。

「さすが旦那の師匠。ご本尊は金の塊か」

「いやあ、俺のご本尊はこっちだよ」

 そう言って雨崎は煙草を咥えながら手のひらに乗せた小さな碇を見て笑った。




 静川がジャックを出たのは夜の九時半を過ぎたころだった。三月とはいえ、夜の空気は冷たく、街灯の下で吐く息は白い。

 冷えてきたな、と後から出てきた白野も首をすくめ、ストールを肩に掛けると白い息を吐いた。月のない夜、街灯は限られた場所だけを照らし、自分が今どこにいるのかさえも朧にする。

 このまま右に向かえば浄桂寺、左に行けばからす屋に辿りつく。静川は念珠を握りしめ、冷えた空気の中で一瞬目を閉じた。今日はあえて左を選ぶ。

「近いけど送りますよ」

「本当に近いけどな」

 あらためて実感しながらのんびりと歩き、沈丁花だ、と白野は鼻を鳴らして通りの軒先を見た。どこか香木に似た上品さと、妖艶な甘さを帯びた香りが静川の鼻腔にも届く。

「荘子さん」

 からす屋に辿りつく前に呼びとめると、ん、と白野が足を止めて静川の顔を見た。

 またここに来てしまった、と白野を見ながら思う。もし高校の頃に出会っていなくても、三日前に初めて会ったとしても、いずれここに辿りついているような気がする。

 逃げ道は必要らしい。誰にとっての逃げ道なのかわからないが、少なくとも僧侶が人を困らせて迷惑をかける訳にはいかない。静川は表情を消して白野を見たまま、コーヒーの好みを語るような調子で言った。

「今でも少し、好きですよ」

 静川が地蔵のように反応を待つ。大仏が通り過ぎたような沈黙のあと、白野はそのまま空を見上げて考えるような顔をした。しばらく何度か瞬きをすると、笑いをこらえるような目をして言う。

「……そりゃどうも。そしたら今度はぼた餅でも持ってくよ。……ぼた餅は嫌いか」

「あ、ぼた餅は少し好きです」

 静川がとっさに答えると、白野は肩を震わせて鳩のような声で笑いだした。わからない反応に静川が困ったように空を見る。

 星は、空を見上げたものを遠くから照らしていた。





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