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クイーンオブハート

クイーンオブハート


 鮒山町へ戻った雨崎達は、羽武沢家の側に停めた車の中で屋敷の様子を確認していた。片耳に白いイヤホンを装着したまま曽我が報告する。

「屋敷は羽武沢一人です。一人ぼっちで落ち着かないようですが、時間までには指示通りに動くでしょう。警察等はもちろん、他の部下を呼んだ気配もありません」

 部下がいたのか、と後部座席の白野が笑う。運転席の曽我はどこか困ったような顔で言った。

「羽武沢は自分の持っている土地の管理会社を作って、一応そこの社長をしていますね。小沼の車で毎朝会社に顔を出しに行くだけで、ほとんど仕事はしていない状態のようです」

 呑気なもんだな、と白野がため息をつくと、全くです、と曽我が雨崎を見る。そういうもんだよな、と白野の隣で肯く雨崎を、サングラスをずらした曽我が褐色の目で睨んだ。白野が笑いながら曽我に尋ねる。

「旦那は遊び人だって聞いてるが、そちらの仕事は秘書か何かか?」

「今のところは遊び人を手伝うだけの簡単なお仕事です。少しばかり鼻が利くのでスカウトされましたが」

「曽我の鼻は特別だからな。俺と違って伽羅や沈香だのの高級な匂いがわかるし、七年前もこいつは友枝の屋敷で真っ先に俺に気付いた。懐に持ってたトレジャラー・ブラックの匂いで、隠れてた俺を見つけたんだぜ」

 そう言って雨崎が足を組み替えながら笑った。なんだそれ、と眉を寄せる白野に、曽我は腕を伸ばして静川のいる助手席のダッシュボードから黒い箱を取り出して見せた。

「ちょっとだけ高めの煙草ですよ。無添加なのに蜂蜜を思わせる香りがするんです。特別に嗅覚が優れている訳ではないですけど、一部の香りに対しては敏感なのかもしれません。静川さんのそれも沈香が入ってますね。高いのは何十万もすると思いますが」

 それ、と曽我が隣の静川の手元を指し、これですか、と静川が持っていた念珠を見せる。静川の念珠に使われているのは星月菩提樹と呼ばれる斑点入りの乳白色の珠で、間に入ったキャラメル色の二天玉と紐房のついた親玉には、沈香という香木が使われていた。

「これはそんなに高価なものではないんですけど、私も五百万円以上する伽羅製のものをカタログで見たことがあります。極上の伽羅は焚く前から香りが漂うと聞きますが、ものすごく高価なんですよね」

「伽羅は安い奴でもグラム一万五千弱、名香って言われてるのはグラム数万だ。六十一種名香ってのにエントリーされてるのは、さらに一グラム数十万らしい。ちなみに香木とはちょっと違うが、とある石も香料としてなかなかいいお値段がつくんだ。基本はクジラの置き土産みたいなもんだが、モノが良ければ四キロで三千万超えたりする」

 とある石、という雨崎の説明に曽我が笑いを堪える。くじら? と静川が考えるような顔をして後ろを振り向くと、白野も複雑な表情をしながら言った。

「それが、友枝家にあった数千万になるかもしれないっていう『くじら石』か」

「ああ。正しくは石でも木でもないんだが、小沼の狙いはもともとそっちさ。七年前の夜、それを知った俺は奴らの邪魔をしようか混ぜてもらうかをあの部屋で考えていた。そこに羽武沢の命令でのこのこやって来たこいつが、潜んでる俺に気付いた」

「おいちょっと待て。どの部屋で考え事してたって?」

「雨崎さんが友枝家に一番乗りで不法侵入してたんです」

 曽我が地蔵のように穏やかな顔で答えた。窓も開いてたしな、と雨崎がのんびりと言う。

「そんな訳で俺はとりあえずそこにあった般若の面で顔を隠した。羽武沢と星尾、どっちを利用しても良かったんだが、こいつを見てなんとなく決めた。師匠と同じ目と髪の色だ。『こっちの味方した方が面白い』っていう、師匠の目印だと思ったのさ」

「どういう知り合いかと思ってたら、そこが初対面か」

「般若の面をつけた先客がいただけでも怖かったでしょうに」

「……まあ、そう思ったから優しく誘ったんだぜ?『奴らといてもつまらんぞ、それより俺と遊ぼうぜ』ってな」

 そう言って雨崎は決まりが悪そうに鼻の頭を掻きながら息をつく。曽我がにっと笑いながら静川と白野に言った。

「雨崎さんはもっと真剣に誘ってくれましたよ。悔しくないのか、みじめじゃないのか。どれだけお使いが上手でも、お前の価値や幸せとは無関係だ、逆らってみろ、と。そして俺を庇って、小沼にやられたんです」

「言った手前、俺が前に出ないとな。小沼も脅しのつもりで振り回してただけだ、星尾のガムテープでこっちもなんとか生きてるのさ。ちっさいお嬢ちゃんも見てたようだし」

 そう言って雨崎が肩をすくめると、白野は窓の外に目を逸らして息をついた。

「流華は見てたのか」

「ああ、小沼に懐いてたみたいだな。俺が亀で応戦したらちっさい嬢ちゃんが走って来て奴を庇った。こっちも戦闘意欲が萎えてドローさ。その後友枝の坊ちゃんとの三者面談で、逃げると決まった星尾に坊ちゃんは面を渡し、俺は十字架を坊ちゃんに預けた」

「そうするしか無かったんですね」

 静川が呟くと、隣で曽我がハンドルを抱えるように寄りかかって遠くを見た。雨崎はどこかのんびりとした声を出す。

「大事なことさ。タチの悪い借金こさえて娘と路頭に迷うか、羽武沢達に首輪付けられて盗人するかの二択で、そういう運命だから仕方ないって顔してたんだ。ちょっと現実逃避するくらい、娘と心中するよりいいさ。友枝氏もそう思ったから引き受けてくれたんだ。真弓子嬢がどう判断するかは自由だが、失踪宣告で死亡が認定されるまで七年あるし、身の振り方を考えながら俺と組んで小金を溜めるのも手だろ? 真面目に借金を返すもよし、そのままばっくれるも自由だ」

「真弓子とはきちんと話しますよ」

 そう言って曽我がイヤホンを耳から離し、そろそろ出ますね、とバックミラーを見る。羽武沢が屋敷にいるうちに朱鷺子と流華が戻らないよう警戒していたが、羽武沢は到着したタクシーに一人で乗り込んで行った。まだ時間があるな、と雨崎が時計を見て言う。

「人目を引くお坊様にちょいと俺からのリクエストだが、今から洋服着てこれないか? さすがに持ってんだろ?」


 浄桂寺の前まで送ろうとする雨崎の申し出を固辞し、人目につかない所で車から降りた静川は、家に戻ると父親のクローゼットから適当に服を出して着替え始めた。

 なにごとだ、と山門を閉めて戻ってきた住職でもある父親に頭を下げ、シャツのボタンを止めながら真剣な顔で息子が言う。

「急用ができました。スーツを借ります」

「どうしたお前、まさか合コンか? 合コンなのか?」

「違います」

 だよな、とほっとしたように見守る父親の前で、息子は結び方を思い出せないネクタイをそれらしく結び、いつもの改良衣や足袋と草履のセットを風呂敷に包みながら呟く。

「キャバクラです」

 おいちょっと早まるな、と引きとめる父親に園から頼まれた宝くじを渡し、いつもの念珠を手にした静川は父親に背を向けたまま、葬儀に赴くような声で言う。

「おばあさんとも約束したんです、この機会に努力すると。たぶん今夜は遅くなります」


 日が落ちた寒空の下、コートを羽織った雨崎は車に寄りかかりシガレットケースの煙草を咥えた。同じく車の外で周辺を眺めていた曽我が咎めるように言う。

「ここは禁煙区域です」

「咥えてるだけだよ」

 雨崎と曽我は駅から少し離れた所に車を停めて静川を待っていた。白野は祖父に断りを入れるためにからす屋に戻っている。曽我は小沼に連絡を取り、長野方面へ向かっているのを確認して通話を切った。煙草吸いてえな、と靴をたんたんと鳴らす雨崎をよそに曽我が通りを眺めていると、向かい側の歩道から静川らしき人物が風呂敷を抱えて歩いてくるのが見えた。

 雨崎に知らせる前に考える。洋服というか、スーツ姿であることは間違っていないが、普段着が和装であるが故の違和感か、遠目にも何かおかしいような気がした。

 スーツやシャツの色形が似合っていないとか、肩や袖やスラックスのサイズが変だとか違和感の理由は説明できるような気もする。靴やネクタイが年寄り臭かったり靴下の色が突飛なのも一因かもしれない。

 曽我が呆然とそんな分析をしているうちに静川は二人の前に立つ。お待たせしました、と言い終わる前に雨崎が咥えていた煙草を落とした。

「うおダセぇ、こいつは駄目だ。おい曽我、車出すぞ。お嬢さんも乗せて今から調達だ」

 どうしたんですか、と首を傾げる静川に雨崎がコートを脱ぎ、こんなもんお嬢さんに見せんな、とコートを羽織らせて静川を後部座席に押し込む。今度は雨崎が助手席に乗り、からす屋に急ぐよう曽我に命じた。

「ヘアスタイルのせいでしょうか」

 ね、とでも言うように風呂敷を抱えた静川が後ろから曽我に声をかける。返す言葉を探しながら運転する曽我に雨崎が鼻を鳴らして言った。

「おい曽我、ここは怒ってもいい所だぞ」

 

 からす屋で白野を拾い、少し急ぎます、と断った曽我が高速道路へと車を乗り入れる。後部座席の白野が隣にいるコート姿の静川を見て首を傾げた。

「私はおたくらみたいなスーツなんざ無いよ」

「お嬢さんにそんなもん着せねえよ。ちゃんと別枠で用意するさ」

 別枠? と訝しがる白野をまあまあと雨崎が宥める。そういえば、と考えるような顔をしていた静川が尋ねた。

「雨崎さんは何のお仕事をなさってるんですか」

「遊び人。何度も言わすなよ」

「では、遊び人に転職する前は何をなさっておられたんでしょう」

 雨崎との会話に馴れてきた静川が重ねて問う。強いて言えば何だろな、とやりにくそうに外を向く雨崎を見て、曽我が笑いを堪えながらウインカーを出した。

「羽武沢氏と似たようなもんです。この近くにビルを二つほど持ってるんですよ」

 この近く、と曽我が叩いた窓の外は明るく、すでに車は青松町の繁華街を走っていた。強いて言うなら不動産か、と白野が流れる街の光を見ながら呟く。雨崎は何でもないように眉を上げながら言った。

「なに、雑居ビルだよ。それとちょっとした店が三つ。一つは去年の春に新装開店したばっかだ」

 景気が良くて何よりだ、と腕組みをした白野が鼻を鳴らす。それよりキャストって、と静川が不安げな顔をしているうちに車は通りを逸れ、敷居の高そうなセレクトショップの駐車場に停まった。曽我はエスコートするように白野を促し、雨崎が連行するように静川を店内へ連れていく。

 雨崎は丁寧に頭を下げる店員達に笑いかけながら奥へ進み、金プレートの名札をつけた店員になにごとかを話し白野を任せた。ではこちらへ、と店員が恭しく白野をどこかへと連れてゆく。さて、と雨崎がちらりと視線を動かすと、さらに奥から腰の低そうな店員が雨崎のもとへ駆け寄り顔をほころばせた。

「雨崎さん、こんばんは。おかげんいかがですか」

「ああどうも。お陰さまで、俺の育ちの良さが際立って仕方ない」

 またまた御冗談を、と冗談かどうかわからない発言をしながら春物を案内しようとする店員に、それよりちょっとな、と雨崎が後ろにいる静川と曽我を見ながら言った。

「こいつ……いや、こいつら二人をお揃いにしてやってくれるかな。頭から足の先まで、サングラスからポケットチーフまでも。それらしくするならアクセントは緑色がいいな。靴下でもベストでもネクタイでも構わん」

 星尾はバッタみたいに緑色が好きだからな、とにやりと笑う雨崎に、店員は大真面目な顔で深々と肯く。

「緑で。かしこまりました」

「まあ適当でいい、急ぎなんだ。割増料金でも両面テープでも構わないから、すぐに裾丈も直してくれ。……お、僧侶だけにクレリック・シャツもいいな」

 シャツの並ぶ棚に目をやりながら雨崎が楽しそうに笑う。それなら、と店員もにやりとしながら提案した。

「ボナフェでいい色のが入ってるんです。僧侶風でしたら靴はモンク・ストラップなどいかがでしょう」

「二人いるからダブルモンクで」

 雨崎が歯を見せながら指を二本立てる。かしこまりました、と店員が静川と曽我をじっと見ながら何度も肯き、足のサイズを確認して店の奥へ消えていく。訳がわからず不安げな顔をする静川に曽我が苦笑いしながら言った。

「オヤジギャグみたいなもんですよ。僧侶にちなんだ」

 静川はフィッティングルームに押し込まれ、曽我とともに店員の言うまま採寸と試着を繰り返していた。腕にいくつもの服を掛けた店員が満足げに肯きながら静川に告げる。

「すぐ、すぐご用意いたしますので、もうしばらくお待ちください」

 すぐですから、と念を押して忙しそうに遠ざかると、店員は静川がほっとしている間に雨崎を連れて戻ってきた。裾や袖の調整が済んだ服を渡され、雨崎と店員の会話を聞き流しながら再び着替える。

「お二人ともサイズ四十六でぴったりでしたから、直しもほぼ必要ありませんでしたよ」

「羨ましい、ひょろっとしてそうな割にスタイル良いのか。……どうだお坊様」

 変身したか? と雨崎が出し抜けにフィッティングルームのカーテンを開ける。静川はチャコールグレーのスリムなボトムに深緑のストライプが入ったクレリックシャツを着て、ペイズリー柄のネクタイを手に途方に暮れていた。店員はそれを静川の首に結び、カフスを留めてスーツの上着を着せる。用意された靴で静川がフィッティングルームから出ると、店員はその胸元に白いポケットチーフを差し、何もない頭に中折れ帽子を載せた。

「深緑はシャツとネクタイに集中させてチーフは襟と同じく白、カフリンクスと靴下には少し鮮やかな緑を使ってみました」

 いかがでしょう、と店員はサングラスを手渡し、満足げに何度も肯きながら静川を見る。全く同じ恰好の曽我が静川の隣に立つと雨崎が腹を抱えて笑った。

「よし行くぞ星尾一号、二号」

「待って下さい雨崎さん」

「なんだ読経の二号」

 振り向いた雨崎が、念珠を持っている方の星尾を見る。何の二号? と呟く曽我の横で静川が不安そうな声で訊ねた。

「あの、何のためにこんな事をしてるんでしょう」

「何って、羽武沢を接待するんだ、お前もバレたら今後やりにくいだろう? 本家星尾とクリソツにしてれば多少のやんちゃもお咎めなしだ」

「やんちゃって、野蛮な真似はできませんよ」

「いいだろ別に。お嬢さんに惚れ直してもらえるかもしれないぜ?」

「ですからそういうのは、……それよりその荘子さんは、まさか」

 静川が恐るおそるレディスフロアの方へ目をやる。そうだった、と雨崎が白野の様子を見に行くと、白野は奥のフィッティングルームから顔だけを出して雨崎を睨んだ。

「旦那、こんな話聞いてないぞ」

 どうしてこうなるんだ、と用意された鮮やかな衣装に白野が文句を言う。お似合いです、すごくお似合いです、となぜか雨崎に強く訴える店員に、コートも忘れずにな、と言い残して雨崎は会計に向かった。

 結構な額の会計を雨崎が済ませたころ、黒いロングコート姿の白野が文句を言いながら戻ってくる。足取りの違和感に静川がふと目をやると、白野は艶やかな黒のハイヒールを履いていた。

 曽我は慣れているらしく、増えた荷物を手際よくトランクに積み込み車を出した。きらびやかな表通りから渋滞を抜けて再び脇道に入り、西洋の城を思わせる外装の建物に車をつける。控えめにライトアップされた黒い看板には読みにくい字体で『ナイトラウンジ・クイーンオブハート』とあった。


 繊細に揺らめくシャンデリアの下、魅惑的で豪華絢爛な女性スタッフ達の間を通り抜け、静川はひと際贅沢な特別室にいた。雨崎の指示で白野は奥に消えている。寛いでくれ、と無理を言いながらフルーツの盛り合わせを勧める雨崎に、静川は帽子を押さえて言った。

「このような所で、私や荘子さんが」

「いいじゃん別に。子供じゃあるまいし」

「これが大人のする事ですか」

「美しき女性と酒を嗜む場所だ。大人の遊びだろう? まあ、トップバッターはテープの一号だ。今まで羽武沢は星尾が怖くて念仏唱えてたんだぜ、せっかくだから顔見せて接待してやって、交渉次第で途中から二号に交代な」

 くくく、と雨崎が笑いを堪えながら煙草に火をつけると、お待たせしました、と曽我が静川と寸分違わぬ恰好で雨崎の側に立った。よお一号、と煙を吐く雨崎に曽我が言う。

「そろそろ羽武沢が到着しますから、寛ぐのは他のテーブルでお願いできますか」


 クイーンオブハートに羽武沢が到着すると、黒を基調とした特別室のテーブルの上では、シャンデリアの光を受けたシャンパングラスとナマズが金色に輝いていた。

 お久しぶりです、と赤茶のダブルスーツを着た羽武沢を奥に座らせ、曽我は向かい側のソファに腰を下ろしながらサングラスを取り、褐色の目を見せる。

「お前……本当に、星尾なんだな。生きていたとは思わなかった」

 どこかミステリアスな空気の中、羽武沢が驚きながらも手元のグラスを勝手に飲み干す。曽我は地蔵のような笑みを浮かべ、羽武沢のグラスにシャンパンを注ぎながら言った。

「もう死んでいるんです、俺は。この世に出れるのは今夜だけですよ」

「ふん、化けて出るなら小沼の方だろう」

「向こうにも出ましたよ」

 そう言って曽我はサングラスをかけ直し、用意していた厚みのあるアタッシェケースに金のナマズを納めて留め金を掛ける。おお、と手を伸ばす羽武沢の前からそれを取り上げ、曽我はのんびりと煙草に火をつけた。羽武沢が恨めしげな目をして言う。

「ワシを恨むのは筋が違うだろうが。あれをそそのかしたのは小沼なんだぞ? おまけにお前を殺してきたとワシに嘘をついてたんだ」

 羽武沢は懐から封筒を取り出すと、どうでもいいようにテーブルの上へ投げた。曽我は封筒を受け取り、判の押された古い借用書を確認して肯く。

「確かに受け取りました。……こんなものに効力が無いのはわかっているんですけどね、これが残っているかと思うと、死んでも死にきれないんです。今まで、色々面倒を掛けて申し訳ありませんでした。預かっていたお嬢さん達は無事にお返ししますよ」

「それよりナマズをこっちに寄こせ。あと刀はどうした」

「鯨井に卸しそこねた刀剣ですね。あれは魔よけみたいで邪魔だったんです。これからは安心して夜な夜な羽武沢さんの枕元に立てそうです」

 曽我が陰気な様子でアタッシェケースを撫でる。羽武沢は気味の悪さを振り払うようにごくごくとシャンパンを飲み干した。

「下らん冗談はよせ。どっちかというとワシは、ワシに損をさせたお前の成仏を、祈ってやってたんだ。こっちはいつになっても損が取り戻せんのに、どいつもこいつも粗悪品で最近はロクなことがない」

「至らなくて申し訳ないです。でも、俺が死ぬ前に盗んだ人形は粗悪品じゃありませんよ。小沼さんも絶対損にはならないって言ってましたし、友枝の先代も……人形を買ってから妙なことばかり起きたようですが、仕事は順調でしたから」

 曽我は申し訳無さそうな声で、さらりと羽武沢が嫌がりそうなことを言う。唸るような声を漏らして押し黙る羽武沢に平然と尋ねた。

「ところで、あの時一緒に盗んだ固まりはどうしました」

「……ナマズ石か。ありゃ大事に置いてある。誰にも叩かせん」

「小沼さんはクジラと言ってましたけど」

「どう見てもナマズだろうが。何の固まりか知らんが、偶然あの形になったことに価値があるんだ。小沼は売るつもりだったらしいが、何でも金にすりゃいいってもんでもない」

 もっともらしく言いながら、羽武沢がグラスを空ける。曽我は一瞬考えるような様子を見せると、気を取り直したように質問を重ねた。

「では、どちらも手離すつもりはないんですか? あれは俺の借金が五回も六回も払えるような金になるはずですよね?」

「馬鹿を言うな。小沼の目も結構な節穴だ。初めは大金になるようなことを言っておいて、後から大した値段にならんと言ってきた。大体ワシは目先の数字なんぞに振り回されん、その本質を見る目を持っとるから、ナマズ弁天もナマズ石も大事に隠しとるんだ。誰にも触らせずにな」

「……なるほど、恐れ入りました。せっかくですから今夜は、再会と和解とお詫びの印に好きなだけ飲んで下さい。ナマズはお返ししますし、帰りは車で送らせますから」

 曽我は下手に出ているような口調とは逆にソファの背に腕を預け、踏ん反り返って脚を組みながら外のフロアへ酒の追加を頼んだ。


「あー、やっぱり交渉決裂らしいな」

 残念だなあ、と初めから解っていたように雨崎はボーイに指示を出し、一緒に羽武沢の様子を窺っている静川に言った。

「さて二号、今から一号は急用で席を外さなくてはならなくなった。その間二号は一号の代わりをつとめ、羽武沢を接待してやって欲しい」

「そんな、私にあんな真似は出来ません」

「そんなことはない。自分はこうだと縛るのも苦しみの元だ。今、ここで星尾を演じることが出来るのは二号しかいない、お前はこの舞台に選ばれた唯一の役者なんだ」

「唯一なら二号って呼ぶのは変ですよ」

 サングラスを外して静川が怯えたように特別室を窺うと、細けぇことはいいんだよ、と雨崎は煙草を咥えた。ボーイが高そうな酒やつまみをテーブルに並べている間、羽武沢は忌々しげな顔をしながらも大人しく曽我と向かい合っている。雨崎は腕時計に目をやると静川に白い歯を見せて言った。

「一人でやれとは言わねえよ。羽武沢のお嬢様方が無事お屋敷に戻るまでが、からす屋のお嬢さんとの契約だ。一号は羽武沢家に急行してお嬢さん達の安否を確認、ついでに家宅捜索だ。二号はここで羽武沢を足止めして、酒を飲ませて時間を稼げ。……今、お前との約束を果たす時が来た」

 よお、と雨崎が静川の背後に向かって手を振る。家宅捜索って、と抗議しかけた静川が釣られたように振り向くと、そこには白いチャイナドレスを着た白野が立っていた。

 呼吸が止まったような静川の隣で雨崎が満足そうに肯く。上質でなめらかな生地に黒い刺繍が施されたドレスは吸いつくように白野の身体を覆い、普段は帯やら何やらで隠れている胸元から腰の曲線をやわらかく沿うように流れていた。さらに長い裾からは官能的に高く上がった踵と、深いスリットからは白い太腿が見え隠れしている。

 旦那は楽しそうだな、と肩をすくめる白野に雨崎はライターを渡し、お陰さまでな、と自信ありげに笑った。

「メイクも完璧だ」

 いつになく丹念な化粧を施された白野が瞬きをして息をつく。優雅に際立った眼差しと赤く艶やかな唇。それを美しいと感じられるのは、甘い果実がどうのこうのと生物学的な理由があったはずだ。

 静川は平静を装うようにサングラスを装着する。白野の露わな肩から伸びる二の腕や、ドレスの切れ目からのぞく太腿に体がぞくりと震えた。

「おい、ところで重要な話をしよう」

 雨崎は表情を消し、念珠を握りしめる静川の肩を抱えて壁際に寄ると、声を潜めた。

「彼女が向かいに座っても、じろじろ覗き込むんじゃないぞ」

「言われなくてもそんな事しませんが」

「紳士として重要なことだ。さっき店員から聞いた話なんだが」

 神妙な様子で雨崎が顔を寄せる。はあ、と静川も顔を寄せると、雨崎は重々しい口調で真面目に続けた。

「普段から和服だろう? 彼女は立派に日本文化を守って生活している。見かけだけじゃなく、その内側までもだ」

「はあ、そんな……ことを私に教えなくても」

 静川が焦ったようにサングラスを押さえる。内面ではなく内側というのが気になるが、エビデンスに基づいた確かな情報なら、なにかしら意味があるのだろう。

「つまり、お前と違って、彼女にとって下着という存在はお前の知ってるそれではなく、その実態は無であり空である。俺の言っていることは解るな?」

「……だから私にそんな……話を」

「気をつけろよ。存在しないと解っていても、人は無意識にそれを確認しようとしてしまうことがある。見えても見るなよ」

「見えても……」

 扱い方のわからない情報に、静川は念珠を握りしめて静止する。壁際で固まっている静川を残して、そこから離れた雨崎が煙草を取り出して咥えた。白野は静川を不思議そうに見ながら雨崎の煙草に火をつける。煙を吐き出した雨崎が小さく呟いた。

「……そんな訳ねえじゃん」


 特別室へ向かった白野は、別人のような立ち振舞いで羽武沢の隣に座り、別人のような態度と表情でテーブルに置かれていたブランデーを勧めた。それが高価な品だと気付いた羽武沢が当然の権利のようにグラスを空ける。曽我は交代するタイミングを窺い、雨崎に見えるような角度で煙草を咥えた。ほら出番だ、と雨崎が肩を叩くと、静川は念珠を手に合掌しながら訴える。

「でも、もし何かあったらその時はどうしようかと頭の中が」

「何かって何だよ。考えてる場合じゃないぞ、合わせろ。今お前の正体がバレて氏子だか檀家だかが減ったら困るんだろ?」

「うちでは門徒と言うんです」

 焦りながらも口答えする静川に、知らんがな、と雨崎が有無を言わさず火のついた煙草を持たせた。いいぞ、というように雨崎が曽我に合図を送る。

 甘いものも欲しいですね、と曽我は席を立ち、煙草を咥えたまま静川のもとへ来ると、ぱん、とハイタッチして静川を強制的に送り出した。右手に煙草、左手に念珠を手にした静川が、意を決したように羽武沢の前に立つ。

「まあ、では羽武沢さんは星尾さんの恩人なんですの」

 別人のような言葉遣いの白野がにっこりと羽武沢に微笑みかける。その向かいで静川はどかりとソファに座り、投げ出すように足を組んだ。普段の雨崎を思い出しながら左腕を背もたれに乗せ、不遜なポーズを取りつつ低い声で言う。

「……失礼しました」

 

「あいつ、やらされてる感がまるでないな」

 雨崎が眉を寄せながら感心する。心配なさそうですね、と曽我も安心して羽武沢家へと向かい、雨崎は悠然と煙草を吸って特別室を見守っていた。

 羽武沢は目の前の静川を見ないようにしながらも、今までの損失を取り戻すように酒を飲み続ける。酔いの回った羽武沢の向かいでは、酔っていない静川に異変が起きていた。

 ポッキーやらキスチョコやらに目もくれず、静川は星尾を演じている。

「……話は済んだ。早くナマズを返してくれ」

 いつの間にか星尾が手にしている念珠を、羽武沢は気味悪そうに見ながら言った。まあ落ち着いて下さい、と静川は吸ってもいない煙草を揉み消して念珠を握りしめる。白野についての看過し難い情報や、その先に待っているアクシデントの目撃者となりうることを案じていた静川は、何かあったらどうしようかと落ち着くことができなかった。

 正面に座っている白野の顔を見ることができない。かといって顔の下に視線をやれば、優雅でやわらかな胸元の曲線が目に留まる。慌ててサングラスで見えない目を伏せると、今度は白い脚がちらりと見えた。

「何を考えているんだ、星尾」

「日本文化について少し」

 静川はサングラスを指で押さえ、密かに呼吸を整える。目の前にはグラスに手を添える白野とその脚があった。その膝より上が見えた気がした瞬間、静川は血管が切れるような感覚を覚えて慌てて上を向く。上を向いて話そう。鼻血がこぼれないように。

「どうした……んですか」

 白野が怪訝な顔をして言う。天井を凝視しながら鼻を啜る静川に羽武沢も霊的な気配を感じたのか、怯えながら天井を見上げて言った。

「な、何が見えてるんだ?」

 鼻から出るのはこらえているが、口の中に血が溜まってくる。これを飲むのは少しどころかさすがに無理だ。解決策を求めて視線だけを下に向けると、静川の顔を気味悪そうに窺う羽武沢が目に入った。白野は演技だと思っているのか、不思議そうな顔をしながらも羽武沢のグラスに酒を注ぎ、なにげなく脚を組み替える。

 思わず視線がそれを追う。まだ着られることに慣れない布は白野の上をしなやかに滑り落ち、一瞬だけ白い太腿が露わになったように見えた。

「うわああっ」

 化け物を見たような声を出したのは羽武沢だった。ごぶっ、と耐えきれずに血を吐いた静川が口元を押さえる。叫び声をあげてしがみついてくる羽武沢を避けながら白野は眉を顰めて静川を見た。見守っていた雨崎も眉を顰めて呟く。

「あいつ、どういう特技持ってんだ」

 見かねた白野は静川の赤く染まった手首から血まみれの念珠を外し、おしぼりを渡した。羽武沢は立ち上がると震えながらアタッシェケースに手を掛け、血がつかないように引き寄せて言う。

「も、もういいだろう、ワシは帰るから、早く車を用意しろ」


 白野が羽武沢を別室に待機させている頃、静川は従業員用の控室で顔を洗っていた。

 仕方ねえなあ、と雨崎が血まみれの念珠を摘まみ上げてじっと見る。ん、と一瞬考え込むと雨崎は楽しそうに笑いながらそれをそのままハンカチに包んでポケットに入れた。

「羽武沢を送る車を手配させてくる。お坊様は着替えてしばらく休んでろ」


「ちょいと、お嬢さん」

 羽武沢がトイレに立つと、おしぼりを用意して待機している白野に雨崎が小声で囁いた。これを、と見覚えのある黒い飛び道具とホルダー付きのリングを白野に手渡し、羽武沢のいるトイレを無言で指差す。あのなあ、と呆れながらも銀玉鉄砲の弾の状態を確認すると、白野は笑って肯いた。

 必要以上に豪奢に作られている、黒く艶やかな空間を覗き込む。間接的にライティングされた大理石の洗面台には飾られた花と金色の水栓金具が光っていた。L字に造られている奥の空間は見えないが、中にいるのは羽武沢だけだ。銀玉鉄砲を構えた白野は入口の衝立の陰から奥の壁を狙い、引き金を引きながら小さく呟いた。

「悪いな、静川」


 ぱちっ、という軽い音がどこからともなく響き、硬い豆粒が転がるような音が後に続く。漏らすかと思った、と脱力していた羽武沢はラップ音だの霊現象だのという単語を頭から追いやり、誰もいない空間を見回した。ぱちっ、という音と共にどこからかぽとぽと落ちてくる小さな粒を拾い上げる。まだ乾かない血にぬめるそれは、星尾の手にあった念珠の玉だった。

 ひっ、と羽武沢が血まみれの数珠玉を放り投げ、手も洗わずにアタッシェケースを抱えて外へ向かう。誰もいない手洗い場を抜けて廊下に出ると、お車が準備ができたようです、と白野がおしぼりを両手で渡しながら微笑んだ。


「いえ、どなたもいらっしゃいませんでしたよ。お連れ様……星尾さんも先ほどお帰りになりましたから。それより、お顔の色がすぐれないようですけど、飲みすぎたかしら」

 そう言って白野は足元の危うい羽武沢を連れてエントランスへ向かう。顔色が悪いのは酒のせいではなかったらしく、羽武沢は怯えたように白野に尋ねた。

「星尾は、もういないのか?」

「はい。お会計も済みましたし、車とホテルの手配もしてあるそうですよ。ユークロニアホテルの……あら、結構グレードの高いお部屋ですよ」

 ホテルの部屋番号が記されたメモを見て、白野が羨ましそうな声を出す。外へ出ると、店の前には黒塗りの車が停まっていた。

 星尾さんにもよろしくお伝え下さいね、と白野は車のドアを開け、酒の回った羽武沢とアタッシェケースを後部座席へ押し込むように乗せる。お願いします、と運転手にメモを渡した白野はにっこりと笑いながらドアを閉めた。

 

 羽武沢を乗せた黒い車を見送ると、白野は冷えた風に髪を晒したまま、遠くの明かりをぼんやりと眺めていた。冷やすなよ、と雨崎が背後から黒い毛皮のストールを白野の肩にふわりと掛ける。旦那は太っ腹だな、と白野がストールに顔を埋めて呆れたように言った。

「いい大人がよくやるよ。あの調子じゃ、羽武沢は元木とお泊りデートか」

「元木の部屋の隣が開いてたからな。間違いが起きないように、引き合わせるのは明日の朝にしておいた。明日にはトレノでご帰還できるさ」

「完全に遊んでるだろう、ご丁寧にこんなもんまで」

 白野がスリットから太腿に手を這わせ、黒いレザー製のガーターリングから銀玉鉄砲を取り出して見せる。まだチャンバーに残っている念珠の玉を手のひらに乗せて笑った。

「旦那も罰あたりっていうか、悪趣味なんだな」

「アミダ様ってのは罰は当てないらしい。それに真珠じゃガマクジラに襲われるからな」

 そう言って雨崎がシガレットケースから煙草を取り出す。なんだよそれ、と白野が銀玉鉄砲を太腿のホルダーに戻し、預かっていたライターで雨崎の煙草に火をつけた。

「そういや、お坊様は大丈夫かな。医者なら患者を見てやった方がいいぞ」

「あー、あいつは昔から流血するのが得意だから問題ない。それに医者はあいつだ」

 表通りの明かりに目を細めながら白野が薄く笑う。そうだっけ、と雨崎が真上に向けて煙を吐くと、遠くを見たまま白野が言った。

「あいつは昔、私と霧矢流華を助けてる」

「……あんたの武勇伝だって聞いてるが」

「あいつが私を正気に戻さなかったら、そうならなかった」

 雨崎は考えるような顔で煙草を咥えたまま遠くを見る。白野は深く息を吐いて続けた。

「私は流華を見殺しにする気だった。あの有様じゃ遅かれ早かれロクなことにならないし、あのまま楽に死ねるなら、その方がいいと思った。ここで子供が死んだら事件になって、私の父親も流華の母親も世間に責められて、社会的に罰を受ける事になる。どういう事を自分達がしてたのか、思い知らせてやれると思った」


 炎天の下、見覚えのある軽自動車が人目に着かない物陰に止まっているのが見えた。

 眩むような暑さの中、妙な感じがして近付くと、後部座席で猫のように丸くなったまま動こうとしない四歳の流華と目があった。その目をぼんやりと見つめる。

 今からこいつを助けてどうなるだろう。助かってもまたあの二人に疎まれて、同じ所へ辿りつくだけだ。その先にもっと苦しい死に方が待っているかもしれないのなら、無理に生き延びなくていい。ただ苦しいだけの世界なら、死んだ方がマシだと母親もぶら下がって死んだ。

 待ってろ、と流華の目をガラス越しに見ながら呟く。もう少し周りが片付いたら、私も同じ所へ行ってやる。そんな風に一方的な約束をして踵を返した。

「白野先輩」

 車から離れ、聞き覚えのあるのんびりした声に呼び止められる。今日も暑いですね、と気遣うように顔を覗き込んでくる静川から目を逸らして言った。

「なあ静川」

 はい、とにっこりして静川が隣についてくる。その顔を見ないように遠くを睨んだまま暗い声で聞いた。

「死ぬのも運命だろう?」

 え、と考えるような顔をして立ち止まる静川に、確かめるように言う。

「そういう生命線を持ってる奴は助からなくても仕方がない。親を選べなくて早死にする奴らは、そういう星の許に生まれたから、仕方ないんだよな」

「……そうですね。気の毒ですが」

 どこか固い声で言うと静川が目を閉じる。そうか、と鉛のような重さを胸に感じながら白野が小さく息を吐くと、静川は目を開けて続けた。

「遠いものには、手の届かないものには触れられません。残念ですよね、そういう子達も白野先輩の近くにいたなら私みたいに助けてもらえて、こんなに楽しいのに」

 静川は楽しそうに笑って白野を見る。次の瞬間、白野は静川を置いて炎天の中を全力で駆け出していた。流華のいる車に戻り、その窓を叩き割ってロックを解除すると、異様に暑い車内に横たわる流華を抱きかかえて近くの家に駆け込んだ。

「静川、救急車」

 庭の水道を借りて流華の身体を冷やし、その意識があるのを確かめると、悪かった、と繰り返し呟いていた。


「あいつがいなかったら、私は流華を助けていなかった」

 白野は目を閉じて白い息を吐く。雨崎は納得したように肯くと、煙草を摘まんでのんびりと言った。

「なるほど、患者はあんたの方だったか。向こうが医者か」

「仏性も母性も無いこっちと違って、あいつは清く正しく生きてるからな。おまけに人に教えを説く資格があるんだ。私にはあいつが眩しく見えて仕方ない」

「いやあ、向こうもなかなか暴風雨みたいな煩悩と日夜戦ってるぞ。中学生みたいに」

 なんだよそれ、と複雑な顔をする白野の背後で扉が開く気配がしたかと思うと、着替えを済ませて僧侶に戻った静川が小ざっぱりした顔で近付いてくる。雨崎は短くなった煙草を咥えながら言った。

「噂をすれば、眩しい光が戻って来たぞ」

 何の話ですか、と近付きつつも静川が白野から眩しげに目を逸らす。そんな静川の頭をぺたぺたと触りながら雨崎が言った。

「お前が来ると眩しいなって話だよ。なあ」

 白い歯を見せる雨崎に白野は黙ったまま小さく笑う。小学生みたいなことを、と静川がため息をつくと、雨崎は煙草を地面に押し付けて火を消し、それを指先で摘まんで言った。

「基本的にはお前さんが心配だから医者でも呼ぶかって話してたんだ。もう平気なのか?」

「はい、私としたことがみっともない所をお見せしてしまいました。あと私のことよりも、荘子さんも早く着替えた方がいいですよ。何かあったら大変ですから」

「それもそうだな。こっちも面白い事になってるし」

 そう言って白野が銀玉鉄砲のある太腿の辺りに手をやると、静川は慌ててそれを制して激しい口調で言った。

「いえ解ってますから! 荘子さんも早く着替えてきて下さい、さあ早く」

 静川が目を逸らしながら白野に着替えを急かす。白野は首を傾げて雨崎に聞いた。

「……ありゃ何事だ?」

「すまん。俺が冗談で、お嬢さんが必要以上に薄着してるって話したから心配してるんだ。勘違いしたまま頭から離れないだろうな、当分」

 余計な事言っちまったかな、と雨崎が全く反省してないような口調で言う。白野は黒いストールに頬ずりしながらのんびりと言った。

「よくわからんが平気だろ。あいつは人より頭に引っかかる物が無い」




 曽我は羽武沢家に向かいながら小沼に度々電話を掛け、その位置と行動を確認していた。あずさと名のつく特急列車に乗り、松本市に到着しているはずの小沼と話す。

「どうですか小沼さん、夜の松本城は。飽きたら有名なお寺でもお参りしていて下さい。まだ少し時間がありますから」

『そうだな、せっかく松本市に来たんだ、グロンケンと観音寺の大観音でも拝んでおくよ』

 小馬鹿にしたような声の背後で、電車が参ります、という声と聞き覚えのある電子音が鳴り響き、小沼の方から通話が切れた。どこか妙な気配を感じてかけ直すが繋がらない。しばらく考えた曽我は雨崎に電話を掛け、静川と代わるように頼んだ。どうしました、とのんびり聞いてくる静川の声に尋ねる。

「ご存知でしたら教えて頂きたいんですが、観音寺の大観音って、どういうものですか?」

『観音寺の大観音、ですか? 大船観音寺の白衣観音なら、大船のシンボルですけど』

「いえ、鎌倉のあれじゃなくて」

『どちらの観音寺でしょう。青梅や飯能、国分寺のも宗派が違うので詳しくありませんが、大観音というのはなかったと思いますよ。あと淡路島や津市にも一応、観音寺という名で観音様がいますが……』

「いえ、松本です。長野の」

 遮るように曽我が言うと、二秒ほど黙った静川は申し訳無さそうな声で言った。

『松本に、大観音ってありましたか?』

「松本に到着した小沼が言ったんです。グロンケンと観音寺の大観音を拝むとか」

『ぐろんけん……どういう字を書くんですか』

 静川が唸るような声で考え込む。ちょっと代われ、と雨崎の声が呆れたように続いた。

『グロンケンは松本市出身のノコギリ怪獣で、観音寺の大観音を切り落とした奴だ』

 なんですかそれ、と電話の向こうの静川と同時に尋ねると、雨崎は責めるように言った。

『帰ってきたウルトラマンの話に決まってるだろ?』




 急行した曽我が羽武沢家の近くに車を止める。どこかで聞いたような気はしたが、先刻小沼の後ろで聞こえていた発車メロディはウルトラマンの曲だった。都内近郊の私鉄で、砧辺りの駅に流れるのだと雨崎から聞いたことがある。小沼は松本に向かったと思わせて首都圏を移動していたらしい。

 羽武沢家の敷地に入り屋敷を窺う。明かりはなく、玄関の鍵は開いていた。仮に小沼が砧近辺からこの鮒山町へ向かっているとしても、まだここには来れないはずだ。誰かいるなら羽武沢朱鷺子と霧矢流華だろう。

 曽我が勝手口から慎重に奥へと進むと、中の間から小さな明かりと話し声が漏れた。

「そろそろ危険だよ。あの人達だってさすがにいつかは戻ってくるんだから」

「私は平気です。篤伸さんは帰っていて下さい」 

「……篤伸君の言う通りだよ。小沼がこっちに向かってるかもしれない」

 そう言って曽我は二人の前に姿を見せると、困ったように笑った。ひゃっ、と中の間をごそごそ物色していた真弓子と篤伸がびくりと飛び上がる。えーと、と慌てて説明しようとする二人を制し、それより、と曽我は早口で言った。

「羽武沢家の娘さんは?」




 クイーンオブハートでは、念珠の末路を知った静川が隅のボックスで肩を落としていた。

 その隣では雨崎の携帯電話が着信し、おう曽我、と煙草を灰皿に置いて雨崎が上機嫌で話し始める。静川がちびちびとトマトジュースを飲み、和服姿に戻った白野がフルーツを摘まんでいると、雨崎が眉を顰めて静川と白野に言った。

「お宝が出てこない上に、羽武沢の屋敷に嬢ちゃん達が帰らない。一緒に家宅捜索してた真弓子嬢にもわからんそうだ」

「待て、誰が一緒に家宅捜索してたって?」

 飾り切りされた林檎を摘んだまま白野が顔を顰める。ちょっと代わって下さい、と静川は雨崎の携帯電話を借り、真弓子を出すように頼んだ。

「真弓子さん、本来はどういう手筈になっていたんですか」

「時間を決めて携帯の電源を入れるようにしてたんです。夕方、二人がホテルを出た所で一度連絡がありましたが、特に変わった様子もなくて」

「計画中止は伝えたんですか」

「それはその……小沼さんも遠い所に行ったみたいだし、やっぱり私、どうしてもあれを取り返したくて、こちらの状況は伝えましたが、中止するとは伝えませんでした」

 なんてことを、と静川が眉間を押さえてため息をつく。真弓子は焦るように言った。

「でも、どっちにしても八時半には戻ってきて電話連絡もするはずなのに、メールが一件来ただけで流華ちゃんの携帯電話に繋がらないんです。詰め所には洗濯物が畳んであるし、ここに一度戻ってるかもしれないですけど」

 鍵も開いてたし、と篤伸の声が後ろで続く。どんなメールですか、と静川がその内容を尋ねると、真弓子は申し訳なさそうに言った。

「もう少し待って下さい、って」

 とりあえず俺達も向かう、と雨崎が立ち上がり、静川がそれを伝える。真弓子と電話を代わった曽我が付け足すように言った。

「小沼も見当たりません。こっちに向かってる可能性が高いので、気をつけて下さい」

 承知しました、と返答する静川に、雨崎がコートを掴んで言う。

「延長戦だな。まだ子供の寝る時間じゃないらしい。行くぞ」


 車に乗り込んだ雨崎が道路状況を確認する。静川は後部のドアを開け、黙りこむ白野を座席に促してその隣に座った。雨崎が無言のまま車を出すと、青ざめた白野が呟くように言う。

「流華は、真弓子に羽武沢家の事情を教えたり、協力してるだけじゃない。小沼の相手は厄介だからと小細工させたり、誘拐の真似事をするためだけにナマズや刀剣を持ち出して、元木って奴を騙くらかして連れ出したりしてる。そもそも流華が黙っていれば、真弓子はこんな事を考えつけなかったはずなんだ。流華は、羽武沢家を引っかき回して何がしたい? どうして朱鷺子を連れ出したんだ?」

 暗い目をして俯く白野の隣で、静川は念珠のない自分の手を一瞬見た。

「……流華さんは、」

「嫌だったのか」

 掠れるような声で白野が小さく呟いた。静川は黙ったまま膝に置いた手に力を込める。

「やっぱり嫌だったのかな。朱鷺子の召し使いみたいな状況も、羽武沢の家そのものも。私がしたことはあいつにとって余計な事じゃないかって、それが時々怖くなる」

 白野は目を細めると、とっさに言葉の出てこない静川に薄く笑って続けた。

「なあ静川。死にたい奴を放っておいたり、自分を殺すのは駄目なのか」

 それは、と静川は白野の目を見ながら真剣に言葉を探す。まだ、自分を死なせることを完全に否定するものを生業の中に見つけていない。釈尊の前世説話にも他者の為に自分の意志で火に身を投じる兎の話があるし、そもそも即身仏なんていうものがある世界だ。

 ただ、白野が苦しんでいれば助けたいし、死のうとしていたらなんとしても止めようとするだろう。身代りになってもいいと思うかもしれない。人の中にはあらかじめそういうものがあるのだと思う。

「それは良いとか悪いとかの理屈とは別なもので、私が判決することはできません。でも、死ねば楽になれると根拠もなく思い込むのは妄想と同じです。いいことではありません」

「それでも、あの人はぶら下がってた。子はかすがいだって周りに言われて、私も少しは役に立とうとした矢先にだ。死にたがってるのを私の都合で邪魔するなって話さ。父親と霧矢も同じだ。お互いが、自分の家族を捨ててでも一緒にいたい間柄だったんだ。だから慈悲深い神様は仲良く二人をあの世に連れてった」

 白野はどこか遠い世界を見ているように言うと、ふっと暗い目に戻って続けた。

「世界はそういう風に出来ていて、ここがそういう場所なら、その決まりに逆らうより、私も向こうへ行くつもりだった。だから私は、流華のことも」

 白野が重く言葉を切る。その膝の上にある手は、酷く緊張しているかのように青白く、血の気がなかった。思わず静川が強い声を出す。

「自分を死なせる事は、他人を死なせるのと同じくらい、勝手で一方的なものです。後を濁さずに消えることなどできません。残った人は深い悲しみの中で理不尽に自分を責めてしまいます。荘子さんがそうだったように」

 他人よりは多く人の死に触れているつもりだった。しかしその数と悲しみの深さは別のもので、救いに繋がる気がしない。苦しみを減らしたくても、その言葉が浮かばない。

 白野はそんな静川から目を逸らし、八年前の夏と同じ目をして言った。

「仕方がなかったんだって、母親の葬式でだれかに言われた。あの人の生命線はそこまでだったから、誰のせいでもなかったんだって。死にかけの流華を見つけた時に、私も同じことを考えた。こいつの生命線もここで切れてるから、助からなくても仕方がないって。あいつが死にかけてたのを、私は理解していた。口から泡みたいなのが出てるのも見た。ぼんやりしてたけど目も合った。その上で私はあいつをそのままにしようと思った。私は一度、あいつの前を通り過ぎてる」

「そんなことは問題じゃないんです。白野先輩は、そのままにしようと思っただけです。通り過ぎようと考えただけです。……それよりも、とらわれていた考えを捨てて、すぐに逆の行動を取ることができた先輩が、私には眩しくて仕方がないです」

 痛みにも似た感覚を押しやりながら静川が言う。考えるだけなら、取り返しのつかないことなど無限にある。白野は目を伏せたまま、言い聞かせるように低い声を出した。

「あいつは私がわかっていて通り過ぎた事を知ってる。おまけに、世話もできないくせに無理矢理あいつを引きずり出した。その結果、羽武沢の娘におもちゃみたいに使われて、いいこと無しだ。流華がこの世界を嫌って何かをやらかしても、不思議じゃないだろ」

「違います。生きようとしている人間は、自ずと与えられた役割を果たす事に喜びを見いだします。子供でもちゃんと相手の顔を見て、声を聞いて、感情を理解しようとして、できる事を考えています。それは流華さんも私も同じですよ。彼女も荘子さんのことを知ろうとしていましたし、道理に合わない、理不尽な仕打ちには遭ってないと私に言いました。彼女を動かしているのは、羽武沢家のルールや命令ではなく、自分の中にある戒律です。流華さんは、世界を嫌っていません」

「……そうかな」

 白野が不安そうに薄く笑うと、その目に夜の明かりが流れて映る。その眼差しや仕草、空気のようなものに昔から美しさを感じていた。どうしてこの人に、特別なものがあると思えてしまうのだろう。

「色を失っている真冬でも、私は朝、空を見るときれいだと思ってしまうんです。それが自分と関わりがないのはわかっていますが、鳥が死んでも、花が枯れても、苦しいことに満ちていても、私もまだこの世界を嫌っていません」

 美しい景色を見る度に、ただ寂しくなる。

 今でも時々夢を見る。いつも白野は一人で遠くに立っていて、自分はそこにいなかった。そうでない時は自分がただ一人でいるだけで、他には誰もいない。

 聞こえているのかいないのか、黙って窓の外を見ている白野に、静川は独り言のように小さく言った。

「学生の頃、美しい景色を見る度に、一緒に見られないことが残念でした」

 今でも、美しいものを見ると、白野が側にいないことを思い知らされる。それでも同じ世界にいるならば、どこかでそれを共有することがあるかもしれない。白野がこの世界を嫌っていなければ。

「痛みも苦しみもなく、楽に死ねるのなら、私だってとっくに死んでいます。この世から消えたくて仕方がないこともしょっちゅうです。でも、死んだら美しいものにも会えなくなります。だから荘子さんも、嫌いにならないで下さい」




 夜も深まり、きらびやかとは遠い鮒山町へ戻ると、車は羽武沢家の白壁の前に停まった。車から降りた雨崎が腕時計を見ながら呟く。

「子供に夜更かしさせる訳にもいかないな」

 雨崎が後部のドアを開け、白野は辺りを窺いながら車を降りる。静川も音を立てぬようそろそろと歩き、夜分に失礼いたします、と合掌しながら羽武沢家の敷地に入った。

 小沼はいないな、と雨崎が周囲を確認しながら屋敷に上がり奥へと進む。羽武沢の部屋であるという中の間は、真弓子や篤伸に検められ、部屋と通じている蔵の扉も開いていた。すみません、と待機していた曽我が首を横に振る。

「お嬢様方も人形もいない、か。朝に人形を動かしたような話は無かったし、お嬢様方が一度戻ってるなら、人形の在り処もお嬢様方が知ってるかもしれないんだな」

 白野が固定電話の留守録を再生する。それを腕組みしたまましばらく聞いていた雨崎が安心したように言った。

「補導されたって連絡もないし、とりあえず他所の誘拐犯からの脅迫電話もないようだ。小沼と合流してる可能性も低いだろう。食事の痕跡は?」

 ないみたいです、と居間から顔をのぞかせた真弓子が口を挟む。

「冷蔵庫やゴミ箱とかは空にして出てきたって、流華ちゃんが朝に言ってました。台所もそのままみたいです」

 静川が肯きながら中の間を見回す。急な話に色々と慌ただしかったのだろう、ナマズや鯉を思わせるいくつかの置物は雑然と転がっていて、魚を抱いた観音像は居心地悪そうに隅に追いやられていた。足元に転がっているナマズの根付を拾い上げた白野が笑う。

「こいつがいい仕事をしたらしいな。しかし羽武沢ってのはあれだな、魚に金でも借りてるのかってくらいに魚づくしだな」

「俺もこのナマズには頭が上がらんよ。そういや、蔵の鍵は?」

 白野から受け取ったナマズ根付を懐に入れながら雨崎が尋ねる。開いてたそうです、と曽我が答え、雨崎が肩をすくめた。

「わざわざ洗濯物を取り込みに戻ってるくらいだ、そう遠くには行ってない。とりあえず『とある石』だけでもさっさと頂いて、車を出して捜索だ。小沼が戻ると厄介だし、こんな夜更けに少女二人が人形抱えて夜遊びってのも教育に悪いからな」

 そうですね、と曽我は小沼を警戒して外を窺うために玄関へ向かう。真弓子は多くの蒐集品が置かれている向かいの部屋の捜索を始めた。雨崎が中の間や蔵を眺めている間、静川は金のナマズが置かれていたという仏間へ入り、白野と篤伸も後に続いた。

 これは、と静川は立派な金仏壇に早足で近付くと、荒らされたように倒れている花瓶やろうそくを直し、こぼれている香炉の灰を片付け始める。仏間には仏壇と活けられた花があるだけで他に探す所も無く、白野も仏壇の脇に転がっている黄色がかった木魚のような置物を花の前に除け、『とある石』を探し始めた。

「それで、ナマズだかクジラだか知らないが、『とある石』ってのはどんなんだよ」

「どんなんでしょう。クジラで香料がどうのというのは聞いたことがあるような気もするんですが……」

 静川もきらびやかな内敷を丁寧に畳みながら首を傾げる。やれやれ、と廊下から現れた雨崎が困ったように後ろ頭を掻きながら言った。

「俺も見た訳じゃないからな。一般的なのは普通に石っぽくて、黒だったり黄色だったり、灰色の琥珀と言われているだけに灰色だったりする。まあ、羽武沢のおっさんが気に入るようなヴィジュアルであることは間違いないさ」

 その手の物がここにどんだけあると思ってるんだよ、と白野が呆れたように仏壇を覗き込み、金襴の布団を木魚のような置物の隣に除ける。篤伸もそれを手伝いながら言った。

「木魚もナマズの形なんですね」

「でも、うちの宗派は木魚も卒塔婆も使いませんよ」

 静川がナマズ印の入った赤いろうそくを燭台に立てる。何か俺の思ってた坊さんと違うな、と雨崎は仏壇の奥の阿弥陀如来を覗き込みながら気が抜けたような声を出した。

「がっかりされても気の毒ですから先にお話ししますが、うちの宗派にはお守りもお札も水子供養もありません。お線香も立てませんし位牌もありません。僧侶になる際の合宿のようなものはありますが、滝や警策に打たれるような修行も私のところにはありません。ちなみに得度した後は剃髪も必要ありませんし、肉食妻帯も禁じられてはいません」

 リンを手にした静川が抑揚のない口調で一気に話す。それなら何でお前はそんななんだ、という目で雨崎が静川を見ながら言った。

「まあ、滝に打たれなくても色々面倒はあるんだろうな。虎の穴だか蛇の穴みたいな所で合宿するのも、立派な坊さんになるためだったんだろう?」

「……傷付かない強靭な心が手に入るかもしれない、と期待した部分はあります。苦しみから人の心を救えるような人間に、変われるものなら変わりたい、という欲もありました。ですが、……色々思い知るのも目的だったんだと思います。得るものは多かったですよ」

 経本に触れながら静川は深く息を吐いた。それより石はどうした、と雨崎が六角供花を持ちあげ、もう無いんじゃないか、と白野が親鸞聖人の掛け軸を摘まんで言う。

「それに最悪、その石がなくても人形は金になるんだろ?」

「もともと盗品がらみだからな。盗品や表に出せない品物が流れる市場に、小沼と違ってカタギの俺がいきなり顔も出せんよ。…………よう小沼、星尾には会わなかったか」

 微かに声を硬くした雨崎が、サングラスを押さえながら白野の背後を凝視する。仏間の向こうは大きなひな壇が飾られた部屋で、その手前には襖を開けた小沼が立っていた。

「星尾なら、成仏できずに玄関で誰かを待ってるようだったから、邪魔しないように裏を回ってきたんだ。それにしても珍しいお客さんがいらっしゃるじゃないか」

「あ、こんな夜分遅くにお邪魔して、本当に申し訳なく思っております」

 静川は正座したまま前に手をつき深く頭を下げる。その所作に思わず見入る小沼に雨崎が言った。

「なに、忘れ物を探しに来てるだけさ。今日は得意の長物は持ってないのか」

「ふうん。誰かと思ったらあの時の般若野郎か。また献血したいなら協力するが?」

「いや、血の気はそれほど多くないんだ。おたくもそろそろ歳なんだから落ちつけよ」

 雨崎は篤伸を後ろへ押しやり、なにげなく前に出ながら白野とその後ろの小沼を見た。あんたに言われてもな、と小沼が冷たく言うと、それはそうなんだが、と雨崎が軽く肩をすくめる。次の瞬間、静川が声を出すより先に、小沼は腰に右手を伸ばし、左手で白野のおとがいを掴んだ。

 何のつもりだ、と言いかけた白野が息を飲む。その喉元に短刀を突き付けて小沼は薄く笑った。

「さて、人の家で好き勝手するのはいい加減やめてもらおうか。俺も警察沙汰にする気はないんだ、あんたらの態度次第では、なにごともなかった事にしてやってもいい。うちの旦那様は怒ると怖いしな」

 小沼は白野を強引に立たせ、その腹部をまさぐり手早く帯締めを引き抜いた。何をするんですか、と立ち上がろうとする静川に帯締めを投げつける。

「坊さんの目の前で流血沙汰もないだろう。静川さん、これでとりあえずそこのサングラスの手首を縛ってもらえますか」

「荘子さんを放して下さい」

「葬式を一件増やしたくないなら言うことを聞いて下さい」

 そう言うと小沼は動けずにいる静川を冷たく睨み、白野の襟元を掴み上げて再び短刀を突き付けると雨崎を縛るように促す。

 どうでもいいが、と白野が顔の間近で光る刃に焦点を合わせながら言った。

「どっかの旦那の時みたいに半端に刺すなよ、このど下手野郎が」

 いきなり小沼にしな垂れかかった白野はそのまま身体を落とし、尻餅をつくように小沼の左手から抜ける。なんだと、と小沼が慌てて短刀を突き付けようとすると、その右手にしがみついた白野は身体を捻りながら仰向けに倒れ込み、裾にかまわず思い切り脚を蹴り上げた。はだけた裾から白い膝と太腿が露わになる。

「ちょ、荘子さん!」

 しかし白野の蹴りが小沼の顔に入ることはなかった。足袋はわずかに小沼の顎を掠め、右手を封じられながらも小沼は平然と白野を見下ろす。まずい、と静川がとっさに手元の木魚のような置物を掴んで投げつけると、木魚は回転しながら小沼の銀縁眼鏡を直撃した。

 ぐっ、と眼鏡を押さえて呻く小沼から白野が離れ、すかさず雨崎が短刀を奪って小沼を取り押さえる。異変に気付き駆け付けた曽我が、どこからか取り出したガムテープを小沼の体にぐるぐると巻き付けた。

「砧の近くにあずさ二号が停車するとは思いませんでした」

「都会の隅でお前を待ってるのに飽きたんだよ」

 拘束されたまま小沼が憎々しげに言う。曽我はその懐から携帯電話を奪うと、通話の痕跡を確認しながら言った。

「ところで、夕方以降は羽武沢の旦那様と全く連絡を取っていませんね。羽武沢さんからの着信も全て無視ですか」

「お陰さまでな。電車に乗る時のマナーだろ?」

「それはそうですね。あと、羽武沢さんは人形もナマズ石も手離す気がなさそうなのに、本当の価値は知らないみたいなんです。どうしてですか?」

「……最悪の場合を想定しておいて損はないからな」

 身動きの取れない小沼が恨みをこめて曽我を睨む。その横では静川が白野に駆け寄り、帯締めを手渡して心配そうに言った。

「荘子さん、大丈夫ですか」

「ああ、空振って恥ずかしいところを見せたな。さっきのヒールを履いてりゃよかった」

 恥ずかしげに肩をすくめる白野に、見てないですから大丈夫です、と静川が真剣な顔で言い切る。木魚も使いようか、と小沼の顔に思い切り当たってしまった木魚を拾う雨崎に、木魚って、と曽我が鼻を近付けながら言った。

「これ、『ナマズ石』じゃないですか雨崎さん」

 ええっ、と静川や白野が驚いて雨崎の手にある物体を見る。形はずんぐりしたナマズのようであり、叩くためのバイこそないものの古く汚れた木魚に見えた。色は黄みがかった灰色で石のようにも木のようにも見えるが、手触りは蝋の固まりのようで、持つと軽く、手頃だったのでとっさに投げてしまった。

 なんだ、と雨崎も『ナマズ石』に鼻を近付け、考えるような顔をする。

「そう言われればそれなりの匂いがする気もするな。これがアンバーグリスか」

「ああ、アンバーグリスって、流涎香のことですね。すごくお値段するとか」

 静川が納得したように肯いた。リュウゼンコウ? と白野は『とある石』を持ち上げて不満そうに言う。

「これのどこが石だよ」

「龍涎香……アンバーグリスはマッコウクジラの結石ですから」

 そう言って曽我が雨崎をちらりと見る。結石なら石か、と白野が複雑な顔で『とある石』を雨崎に渡すと、雨崎も肩をすくめて笑った。

「クジラから無理矢理ぶんどってできる物じゃなく、クジラが排泄した奴が何十年も海で洗われて出来上がるらしい。黄金色を帯びたものが最高級品だそうだ。こいつに値がつくかはわからんが、モノがいいのはラグビーボール大で六千万超えてたな」

 雨崎が天井を見ながら思い出すように言った。投げちゃったんですけど、と青くなった静川に雨崎が耳打ちする。

「昔、アラブの人はこれをコーヒーに入れて飲んでたらしい。薬としても使われたらしく、ホルモン機能とやらに働きかけるそうだ。つまりこいつはフェロモンの塊みたいなもんで、人を官能的な気分にさせる効果が非常に高いらしい」

「そんな……結石って怖いんですね。で、これどうするんですか」

 静川は恐れるように結石から顔を背ける。俺が頂いてもいいが、と雨崎はガムテープで拘束された小沼とクジラの結石を交互に見た。小沼は雨崎を睨んで言う。

「全く散々だ。こっちは金に換えたくても羽武沢が下手に気に入って参ってるのに」

「そこはちょっと同情するよ。ただこっちはお陰で色々と助かってる。そんな訳だから、俺達も警察沙汰にする気はないんだ。おたくの態度次第では事をまるーく収めてやってもいい。一応聞くけど、お嬢様方の行方に心当たりなんて無いよな」

「さあな? あのお嬢様に人質としての価値があるなら、俺が大事に隠しとくさ。流華は主人の命令に忠実だからな、朱鷺子様を捨てにでも行ってるんじゃないか?」

「へえ。で、羽武沢の旦那は娘御をどこに捨てろって?」

 雨崎が抜き身の短刀を手にして小沼の前に屈み込むと、白野も袂に手を入れてちらりと黒い銀玉鉄砲を見せる。冗談だろ、と小沼が上ずった声を出した。

「俺だって心配してるんだ。土蔵に放り込めだの井戸に捨てろだのと、旦那様は身内にも容赦がないからな。おまけに流華も自分の役目には徹底して容赦がないんだ。朱鷺子様のために他所の子供を半殺しにしたかと思えば、羽武沢の命令一つでその朱鷺子様を簡単に切り捨てるからな」

 どこか自慢げに笑う小沼に、もういい、と雨崎が興味をなくしたように背を向けた。

 青い顔をする白野に静川が穏やかな声で言う。

「確かめましょう。本当に流華さんが羽武沢さんの命令を最優先して動いているのなら、なにか起こるとしても、土蔵とか枯れ井戸のあるこの敷地内です。でも、それなら彼女は人形を持ち出したりはしないと思いますよ」




 扉の開いた土蔵からは微かな光が漏れていた。奥の竹藪までは遠くの明かりも届かず、土間に置かれた赤いろうそくの炎だけが、枯れ井戸の側に立つ流華を照らしている。

 隅に置かれている車椅子の上には古い木箱が乗っていて、井戸の縁に腰かけた朱鷺子はぼんやりとそれを見ていた。

「私を利用したのはこれの為なのね」

「申し訳ありません」

 流華が険しい表情で頭を下げる。朱鷺子はどこか穏やかな目をして黙っていた。

「本当はわたしが蔵のナマズを隠して、それを小沼さんのせいにするはずでした。嘘をついたのは、朱鷺子さまにも『見た』と言ってもらうためです。旦那さまに言って小沼さんを追い出すはずでしたが、あんな事になってしまって」

「仕方がないわ。流華を今まで利用していたのは私だもの」

 朱鷺子は怒る様子もなく穏やかに言う。雷から逃れようとしている間のことは、すべて流華の話を自分が見聞きしたかのように話していた。流華もそれを当然のように朱鷺子の不在を隠し、常に朱鷺子が何事もなく側にいたかのように振る舞っている。

「いえ、いつも一緒ですから、わたしが見たり聞いたりした事が朱鷺子さまと同じなのは当たり前です。それに悪いのはわたしです。『小沼さんが金のナマズを盗んだ』ことにするはずだったのに、わたしは別の箱を隠してしまうし、小沼さんが旦那さまと駐車場にいたとは思わなくて」

「あれも私のせいだもの。それに私がよりによってお父様の部屋でああなってしまったら、言い訳できないわ」

「すみません。大気が不安定だったから警戒していたんですけど」

 流華が申し訳無さそうに肩をすくめると、朱鷺子はゆっくりと流華の方を向いた。

「やっぱり全部気付いてたのね」

「でも、誰にも知られたくなさそうでしたから。車の警報装置を止めたのも、雷で誤作動しやすいからですよね。駐車場は朱鷺子さまのお部屋の目の前だし、一番高い木もそばにあります。刀や樫の木のあるお部屋も隣だし、朱鷺子さまが居たくないのも仕方ないです。本当は隕石のニュースも見せたくなかったんです」

 そう言って流華は、肩にかけたポーチからべっ甲の櫛を取り出した。少し直します、と井戸の縁に座っている朱鷺子の後ろに立ち、その髪に触れながら呟く。

「……それなのにすみません。写生大会の時も、朱鷺子さまを助けませんでした」

「あれは、私が勝手に」

「いいえ。朱鷺子さまが避けているものに気付きかけていたのに、わたしは朱鷺子さまを鉄塔のそばに待たせて離れてしまいました。遠くに、積乱雲も見えてたのに」

 ごめんなさい、と謝りながら髪を梳く流華の手に朱鷺子が触れる。そのまま朱鷺子は目の前のろうそくの炎を見つめて言った。

「流華が悪くないことくらい私もわかってるわよ。雷が怖いのも、パニックを起こすのも、それで事故に遭おうがお父様に追い出されようが、あなたに関係ないじゃない。悪いのは私だって初めからわかってるわ。迷信も、意味がないことも、わかっているけど駄目なの。知られてはいけないって思うほど、それが怖くてじっとしていられなくて、今は飛行機が飛ぶのも蛍光灯がつくのも怖いの。全部嫌なの」

 そう言って朱鷺子は流華の手に触れたまま大きく息を吐いた。流華も小さく息をつき、申し訳無さそうな声で朱鷺子に言う。

「朱鷺子さまが本当に怖いのは、知られてしまうことです。雷より、それを知られることが怖いんです。朱鷺子さまは誰も信用していないから。旦那さまのことも」

「初めからお父様なんて信用してないわ。私が何を言っても無駄だもの」

「では、朱鷺子さまにとって、旦那さまはいなくてもいいですか」

「私の母親がどうなったか、あなたも知っているでしょう。餌をやるなだの捨てて来いだの、お父様の言う事はいつも本気よ。私をこの井戸に捨てれば、きっとお父様はあなたを誉めてくれるわ。こんな足だし、一人ではどうにもならないもの」

「でも、朱鷺子さまはもう歩けるでしょう」

「歩くのも嫌なの。行くところがないなら疲れるだけよ。お父様は私をいらないと言った。あの人が言うなら本当にいらないのよ。私に尽くす必要はもう無いんだから、あなたの好きにしなさい。今までのことを思えば、あなたに落とされても仕方がないもの」

 朱鷺子は握っていた流華の手を離し、暗くて見えない井戸の底を覗き込む。流華は朱鷺子の腕を押さえながら、手にしているべっ甲の櫛をろうそくの明かりに透かした。羽武沢から与えられた役目と、小沼から教えられたものを頭の中で反芻する。

 櫛をポーチに納め、流華も朱鷺子の腕を押さえたまま井戸を覗き込んだ時、はかなげに揺らぐろうそくの炎を冷えた風が消した。その直後、突然強い力でぐいと身体を掴まれ、視界と動きを失ったまま投げ出されるような衝撃が走る。驚きで身体を固くしながらも、流華は知っているような匂いを嗅いだ。


「やめろ、流華」

 井戸を覗く流華をむりやり抱えて転がったのは白野だった。危ないですよ、と静川も穏やかに声を掛け、井筒に腰かけた朱鷺子を庇う。呆然としていた流華は状況を把握すると、白野に組み敷かれたままのんびりとした口調で言った。

「そんなことしませんよ」

 どこか苦しそうな目をする白野に、流華はうっすらと微笑む。

「あなただって、わたしを見捨てなかったじゃないですか。他の人じゃなくて、あなたに助けられた私が、朱鷺子さまを見捨てるわけが無いじゃないですか」

 そう言って流華はゆっくりと身体を起こし、静川と朱鷺子を見て小さな肩をすくめた。静川ものんびりと微笑んで流華と白野を見る。

「私から答えを聞く必要はなかったんですね」

 白野が顔を上げ、問うように静川を見る。静川は申し訳無さそうにちらりと流華を見て言った。

「七年前に、流華さんから質問されていたんです。荘子さんがどうして流華さんを車から出してくれたのか」

 どうしてるかをだしてくれたのかおしえてください。流華はあの時も相手の顔を見て、声を聞いて、感情を理解しようとしていた。この世界の構成を少しでも理解しようと、僧侶とも魔法使いともつかない自分にそれを聞いた。

「答えは簡単です。荘子さんは、本当はとても優しい人だからです」

 そう言って静川が流華を見ると、はい、と知っていたように流華がかすかに頬を緩めた。ですよね、と呆然としている白野に静川が手を差し出す。流華は再びろうそくに火をつけ、朱鷺子の側へゆっくりと歩み寄った。

「朱鷺子さま、少しお仕事のお話が」

「仕事……?」

 井戸の縁に座ったまま朱鷺子が首を傾げる。立ち上がった白野も服を払いながら不思議そうな顔をした。流華は教科書を読むような口調で言う。

「わたしは今の仕事を気に入ってるので、ずっとこの役目が続くように考えていました。ここでは主人に嫌われたら家族でも追い出されます。だからわたしは、旦那さまと朱鷺子さまが仲良くいられるように努めていました。その妨げになるなら、小沼さんを外すのも仕方のないことです。でも小沼さんが外れても、朱鷺子さまの問題は解決しません。それなら、朱鷺子さまにとっていちばん良くないものを外せないかと考えました。旦那さまを外に出す方法を」

「流華、あなた、何を言っているの」

「わたし、今の仕事を気に入っているんです」

 そう言って流華は再び櫛を取り出し、怯えたような朱鷺子に見せて続けた。

「わたしの主人は旦那さまですから、旦那さまがやめろと言えば、わたしは朱鷺子さまにお仕えできません。でも旦那さまがいなくなって、朱鷺子さまがわたしの主人になれば、わたしに仕事を命じるのも朱鷺子さまになります」

「そんな風に手順を踏まないと、流華は私といられないのね」

 朱鷺子が諦めたような目をして流華の手にある櫛を見た。流華は朱鷺子に言い聞かせるようにゆっくりと話す。

「わたしの仕事は、朱鷺子さまの味方をすることです。朱鷺子さまは、まだ美樹子さまと法律の上で繋がってます。仮に旦那さまが警察に捕まるようなことがあれば、状況が変わる可能性もあります。もしそうなったら、朱鷺子さまはわたしの主人になってくれますか?」

「……細かい理屈はどうでもいいわ。あなたの言うことは聞いてあげるから、私といてよ」

 拗ねたように朱鷺子が言うと、はい、と流華が穏やかに肯いて見せた。流華の手にあるべっ甲の櫛をちらりと見た朱鷺子が小さく息をつく。

「それはあなたが持っていなさい」

 わかりました、と流華が少しだけ嬉しそうに櫛を握りしめる。静川と白野も力を抜いて息をつくと、やるな、と外から雨崎が現れた。

「覚悟を持って目的を決め、容易に変えない。手段は臨機応変に変える。客とは慣れ合わずに仕え、不満を見つけて改善し、情報提供や提案に努める。全部ビジネスの眼目だ」

 あなただれ、と朱鷺子が驚いて黒ずくめの男を睨む。雨崎は静川と白野を親指で示してのんびりと言った。

「こいつらと同じでお嬢様方の味方さ。そんな訳で、もし羽武沢光晴を屋敷から追い出すつもりなら手伝おう。もう、奴がお縄になっても構わんのだろう?」

 なんてことを、と慌てる静川に構わず、流華は考えるような顔をしながら言った。

「警察に捕まえてもらう材料も揃っていますが、朱鷺子さまと美樹子さまに有利な条件で離婚が成立するならどうなってもいいです。『刑事事件で服役』が決定的ですが、『暴力、暴言、虐待』も『婚姻を継続し難い重大な事由』に該当するので離婚は認められるそうです。『過度な宗教活動』も考えたけど、ナマズを拝むくらいでは該当しないので」

 いつの間にか外から見ていた真弓子がくすりと笑った。ああ、と静川が真弓子の持っていた書類の内容を思い出して納得する。あの一部は朱鷺子達のためのものだったらしい。

 静川は深く息を吐くと、皆さん、と白野を含めた乙女達に向かって言った。

「困っているなら、誰かに話してみてください。困らせる人もいますが、助けてくれる人は必ずいます。誰にも言えないなら私の所へ来て下さい。私が役に立てない時には、私も頼れる人に相談します。ですから一人で苦しんだり、無茶をしたりしないで下さい」 

 荘子さんもですよ、と白野をじっと見る。白野は鼻を鳴らして横を向いた。

「人が当てにならないから自前でやったんだろ、こいつらは」

「阿弥陀様はもっと当てにならんぞ。人を助けるのは人間様だ。お坊様の所の宗教だってそう言ってる」

「そうは言ってませんが」

「まあ、そんな訳でお嬢様方にお願いだ。そちらに全面協力する代わりに、『ヒナ人形』をお譲り頂けないかな?」

 雨崎は流華と朱鷺子の前に跪き、恭しく頭を下げる。よろしいですか、と流華が朱鷺子に目配せすると、好きにしなさいというように朱鷺子が笑った。流華は車椅子の上にある木箱を雨崎に示す。

 雨崎は立ち上がると車椅子に近付き、人形の入っている木箱をそっと抱えた。真弓子が思い出したように胸元に手をやり、これも、と下げていた十字架を外して手のふさがった雨崎の首にかけようとする。これはどうも、と再び跪いた雨崎はそれを有り難そうに拝領した。


 雨崎達が母屋へ戻ると、曽我と篤伸に見張られていた小沼は憎々しげに雨崎を睨んだ。その体や手首にガムテープが巻かれているのを見て、朱鷺子と流華が目を見開く。雨崎は木箱を見せびらかしながら小沼に状況を説明すると、さあどうする、と白い歯を見せた。

「こっちの要求は一つだ。警察やら鯨井組やらと面倒な事になるのが嫌なら、おたくには今夜中に羽武沢家から出て行って欲しい。どうせおたくは羽武沢の味方でもなんでもないだろう? 人形や木魚の正体を教えないのも、そのうち自分がガメるつもりだったからだ」

「じゃなきゃ、あの旦那様と仲良くなんかできないさ」

 曽我に押さえられたまま小沼が平然と言う。その気持ちはわかるが、と雨崎ものんびりとした口調で言った。

「これから羽武沢も大変だ。必要があれば友枝の坊ちゃんが色々証言してくれるし、多少面倒だが、こっちも星尾の生存を証明した上で証言させる事もできる。羽武沢とつるんでいてもおたくの得にはならないぜ。俺がお前を嫌う理由は尽きないが、お前が羽武沢家に今後関わらないなら俺もお前に今後関わらないし、売る気もない。大体『小沼』ってのも本当の名前じゃないんだろう? 俺もお前も俗世の人間じゃないのさ」

「ふん、夜逃げするのにご配慮頂いて申し訳ないな」

「逃げ道を用意してやるのは大事だからな。生まれ変わったように心を入れ替え馬車馬のように働くってんなら俺が都合してやってもいいが」

「いや、あんたの世話にはなりたくないな」

 だろ、と雨崎がおどけたように笑うと、負けたか、と小沼は観念したように息をついた。どこか沈んだ表情をしている流華をちらりと見て言う。

「旦那様や朱鷺子様を家族と思わずに客だと思うこと。客とは慣れ合わずに仕えること。そう教えたつもりだったが、そうはいかなかったな」

「……朱鷺子さまが安らかでいられないのは、旦那さまに嫌われないように色々隠し続けないといけないからです。でも小沼さんは、朱鷺子さまと旦那さまが仲良くなったら困るみたいだし、本当の問題は旦那さまそのものだとわかりました。だから、旦那さまを外に出すことを提案したんです。相手の不満を見つけて改善し、情報提供や提案ができるよう努めること。小沼さんから教わったことです」

 流華は師匠に意見するように真剣な顔で話す。そうだな、と小沼は薄く笑うと一瞬だけ意地悪く朱鷺子を見て言った。

「そこまで朱鷺子様に肩入れしていたとは思わなかった。そこまで尽くす義理もないのに、俺より朱鷺子様につくのか」

「そういうことじゃ、ないんです。それに、小沼さんはわたしに優しくしてくれました。字を教えてくれて、大事なことをたくさん教えてくれました。わたし、とても感謝してます」

「それは俺の趣味だから気にしなくていい。前にも言ったろう、流華ちゃんが朱鷺子様の味方をするのと一緒さ」

 小沼は流華に片目を瞑って見せると、にっと笑った。さて、と顔を背けて雨崎に言う。

「夜逃げの準備をするからこいつを解いてくれないか? 今夜中って話なのに、もうすぐ日付が変わってしまう」

「まとめるほどの荷物があるのか?」

「逆だよ。処分しなきゃまずいのさ」

 刃物は置いてけよ、と雨崎が言う側で曽我が小沼のテープをほどく。わかってるよ、と小沼は両手を上げ、詰め所や物置から書類や荷物を出してトランクに詰めた。金目の物は、と雨崎が聞くと、あるならとっくに積んでるさ、と小沼がハリアーのエンジンをかけた。


 小沼が去るのを見届けた後、流華の姿がないことに気付いた白野が屋敷に戻ると、流華は詰め所で鼻をかんでいた。どこかばつの悪そうな流華の顔をじっと見ていた白野が笑って言う。

「難儀だな」

「難儀ですが、朱鷺子さまといる方が面白いです」

 流華はそう言って外へ出た。朱鷺子の側へ戻った流華に雨崎が今後の方策をざっと話し、改めて明日にでも、と約束して羽武沢家の敷地を出る。

 雨崎はベンツの助手席に堂々と人形の入った木箱を置き、そちらは友枝家に返却だ、と風呂敷に包んだアンバーグリスを曽我から篤伸に渡した。でも、と篤伸が首を傾げる。

「これは、雨崎さんにお譲りする約束です」

「結石なんざいらねえよ。代わりに七年前に壊した亀の剥製があるだろ、あの弁償をチャラにしといてくれ。……ところで」

 十字架を下げた雨崎が言葉を切ると、篤伸の隣にいる真弓子に聞いた。

「どうだ、進路は決まりそうか?」

「……私がどうこう言えることではないです。正しい名前を捨てて、別の人間になりきることで苦労するのは父だし、星尾として今までの問題を清算した上、私を連れて生きていくのも非常に困難です。どうすることが、あなたはいいんですか」

 そう言って真弓子は曽我の目を見た。あなた、と言われた曽我が唇を噛む。

「それは、」

「それは、真弓子が決めればいいんだ」

 篤伸が遠慮がちに真弓子の隣に立ちながら言った。

「他人になること……父親が社会的に死亡することで真弓子の肉親はいなくなる。そんな立場で僕や僕の父と、友枝の家で暮らさないといけないのは真弓子だよ。親子で暮らすとしても、苦労するのは竹人さんだけじゃなくて真弓子もだ。僕の父さんも言ってただろ? もう大人になっていくんだから、真弓子も自分の為にこれからの事を決めるべきだよ」

「私が……」

 そう呟いて真弓子が黙る。篤伸が目を細めて見守っていると、真弓子は顔を上げて曽我の目をじっと見ながら厳しい口調で言った。

「生きて戻るつもりがなかったのなら、もう生きて会う事は無いでしょう。父は弱い人間です。借金を返したり、御恩返しができるとも思えません。どこにいても、誰といても人に迷惑をかけます。星尾竹人は死んだものとして失踪宣告の手続きを進めます」

「そんな、誰にも迷惑をかけずに生きていくことはできません。弱さを責めたり否定する必要はありません、それをすると自身が苦しくなります」

 静川が真面目な顔で必死に話す。真弓子はそれに背を向けながら冷たく言った。

「いえ、星尾竹人として真っ当に生きられないなら、無理に親子でいる事は望みません。縁があれば、『生まれ変わったように明るい』生まれ変わりとすれ違う事もあるでしょう。それに、逃げ道を作ってあげるのは大事なんでしょう?」

 真弓子はふっと力を抜いて悪戯っぽく曽我に笑いかけた。雨崎も煙草を取り出しながらにやりと笑う。

「幽霊が会いに来るよりは健全だ。帰る所も決まったな」

 雨崎の煙草に曽我が火をつけようとすると、ちょっと、と篤伸は曽我を連れて雨崎達から離れた。不思議そうな顔の静川や真弓子達から遠ざかり、曽我と改めて向かい合う。

「あなたがこれから真弓子の父親では無くなるのなら、その前に言っておきます」


 なにやら曽我と話していた篤伸が戻り、どうしたんですか、と聞いてくる真弓子を適当にあしらう。少し離れた所で、曽我は雨崎の煙草に火をつけながら複雑な表情をした。

「娘さんを下さい、と言われました」

 なんと、と静川が戦慄したように動きを止め、白野が腹を抱えて笑いだす。篤伸はちらりと大人達を睨んで真弓子に言った。

「それより家に帰ろう。女の子は体冷やしたらいけないって父さんも言ってた」

 大人だなぁ、と雨崎が満足げに煙を吐く。深刻なまでに薄着であるはずの白野の存在を思い出して静川が振り向くと、冷たい風に髪を預けていた白野が笑った。

「帰って風呂でも入るか」


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