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「おい、もう行くのか」

「行かない訳にはいかないでしょう。彼女達やナマズがどうなってもいいんですか」

 誘拐犯のような台詞を吐きながら小沼が困ったように勝手口で足を止める。小沼の携帯電話には一人で大黒池駅へ行くよう指示があり、心細くなった羽武沢に意味もなく引きとめられていた。金色の携帯電話を握りしめた羽武沢が怯えながらも憎々しげに呟く。

「くそっ、なんでわざわざ人のナマズを誘拐するんだ。人質なら娘だけで十分だろうが。だいたい星尾にも娘はいるだろうに」

「娘だけじゃ不十分だからでしょう。当たらずも遠からずじゃ…………ない、な」

 妙だな、と一瞬考え込んでしまった小沼を羽武沢が不安そうに見る。

「どうした?」

「いえ、妙に要領がいいような気がしただけです。それより、こっちも真弓子ちゃんを押さえておくのはいい手かもしれないですね。星尾が黙るかもしれない」




 よし、わかった、と雨崎が芝居じみた口調で曽我との通信を切った時、不意に篤伸の手にあった携帯電話が鳴りだした。真弓子? と慌てて画面を確認した篤伸は、軽く落胆しながらも緊張した声を出す。

「……羽武沢さんのところの、小沼さんからです」

 とりあえず出ろ、という雨崎の指示に篤伸が肯き、訝しげな顔で小沼と話し始める。え、と篤伸が困ったように雨崎を見ながら言った。

「……真弓子ですか?」

 合宿ってことになってるんだろ? と雨崎が小声で囁く。言われた通りに小沼に説明していた篤伸が顔を顰めて言った。

「どこって……どうしてですか? ……ピエールのお嫁さん? 真弓子が頼んだんですか」

 嘘だな、と白野が小さく笑う。少々お待ち下さい、と篤伸が送話口を押さえて言った。

「真弓子が頼んでいたピエールのお嫁さんが見つかったから、連絡が取りたいそうです」

「そしたら遠い所で合宿してることにするかな。ここから西の八木根市あたりで、天体観測だったかその手の施設が出来たらしいぞ。結構な田舎だからな」

 そう言って笑う雨崎に肯き、篤伸は考えながら小沼に説明する。

「……そうです。合宿中なので携帯は繋がらないと思います。うちには連絡を入れてくるので伝えておきます。わざわざすみません」

 篤伸が通話を切り、複雑な表情でため息をついた。どういうつもりでしょう、と神妙な顔をする静川に雨崎が考えながら言う。

「疑ってるのか利用したいのか知らんが、とりあえずこっちは真弓子嬢が誘拐犯だとバレなきゃいいさ。誘拐犯が人質連れてウロウロしてたらバレる可能性はあるが、神経過敏な朱鷺子お嬢様を連れ回す訳にもいかないだろう、真弓子嬢は単独で動いてると考えていい。元木は……真弓子嬢のアシストしてるか、ふん縛られてどっかに閉じ込められてるか」

「または死体になって井戸に捨てられてるか」

 白野が付け足すと静川が困ったように目を閉じる。とにかく、と雨崎はポケットから車のキーを取り出しながら言った。

「曽我情報によれば小沼は電車で大黒池駅へ向かうらしいから、とりあえず俺とお坊様は車で先回りして大黒池に行ってみる。取り引きに見せかけて小沼を羽武沢家から遠ざけるつもりなら、真弓子嬢はそれを確認するために大黒池駅周辺、またはそこまでのルート上を張ってる可能性が高い。朝の目撃情報でも、真弓子嬢は一人で大黒池方面だったな?」

「だったら僕は一応、真弓子と同じルートで大黒池駅へ行きます。小沼さんが到着する前に真弓子がいそうなところを注意して見てみます」

「お前が真弓子に見つかるなよ。それと小沼にもだ。さっきの電話が真弓子を利用するためのものなら、奴は誘拐犯に大人しく従う気なんか無いってことさ。星尾に呼び出されたフリをして、逆にとっ捕まえるつもりかもしれないんだ。小沼には近付けない方がいい」

 刃物が好きらしいしな、と白野がなんでもないように言う。篤伸は携帯電話の番号やアドレスを雨崎達と交換し、先に行ってます、とからす屋を出ていった。羽武沢さんの方はどうしますか、と静川が尋ねると、雨崎はサングラスを直しながら言う。

「曽我が今聞き耳立ててるが、誘拐犯の指示はメールだしな、一人ぼっちになったら羽武沢もさすがに喋らんだろう」

「私は羽武沢を見張ってるか?」

「真弓子嬢を大黒池で保護できなかった時はそうしてもらいたいが、まだ考えなくていい。小沼をかわして羽武沢を誘導できる状況なら逆に危険性は低いだろうし、刀剣持って暴れなければ警察沙汰にもならんさ。なんにせよ動きがあったら連絡するからその時は曽我と合流してくれ」

 そう言って雨崎はまごつく静川を引きずるようにからす屋の外へ出すと、停めてあった車の助手席に押し込んだ。見送りに出た白野が運転席の雨崎に言う。

「帽子屋の方によろしく言っといてくれ。合流する時は、その紛らわしい頭でうちの店に来るなってな」


 大黒池へ向かう車の中、ハンドルを握る雨崎の隣で静川が念を押すように言った。

「ところで私が手伝う事は、悪い事では無いんでしょうね」

「ああ。俺は遊び人だが、ならず者じゃない。坊さんに悪事をさせるような真似はできんよ。地獄に落っこちんのも怖いしな」

「まだ対策も考えてないのに、これからどうするんですか」

「考えてからじゃ遅いんだよ。とりあえずは大黒池駅に先回りして小沼ウォッチングだ。一人が至近距離で奴の動きを把握、もう一人がそれを見てるはずの真弓子嬢を探す。彼女に限らず他のお嬢さん方がいたとしても、知らないオジサンがいきなり取り押さえるより面識あるお坊様が保護して説教する方がいいだろう?」

 国道へ抜けるために混雑した通りを徐行すると、道行く人々が不吉なものを見たような顔で僧侶とサングラスの男が乗ったベンツを見る。窓から目を逸らしながら静川が言った。

「……雨崎さんの思ってるような話じゃなかった場合はどうするんですか」

「さあな。真弓子嬢が死体を井戸に放り込んで屋敷に火をつける可能性も無い訳じゃないが、その時はその時だ。責任持って事後処理させてもらうさ」

「……私の役目は僧侶としての私でよろしいのですか」

「井戸から死体が出てきた時には宜しく頼む。だが、それじゃ俺がいくらご祝儀はずんだところでお前さんも丸儲けって訳にはいかんのだろう?」

「お布施はお預かりするもので私個人が頂くものではありませんから」

 そう言って静川が念珠を揺らす。雨崎は国道に出ると車線を変えながら肯いた。

「それならもっとシンプルに行こうや。僧侶である前の、一人の人間としてのお前でいい。そして人間らしくもっとダイレクトに報酬を受け取ってもらいたい」

「少し、言っている事がわかりません」

 静川が複雑な顔で雨崎を見る。本当は少しなんてものではないが、あまり詳しく説明されたくないような嫌な予感がした。雨崎はさらに楽しそうな声を出す。

「人間的かつシンプルな提案だ。あの荘子ってお嬢さんはお前の何なんだ?」

「ですから高校時代の先輩です」

「そんなつまらん事聞いてるんじゃねえよ。お前、あの綺麗な姐さんの脚とか太腿とか、むちむちぷりんな姿なんかを拝んでみたいとか思わないのか?」

「そういう風に荘子さんを見るようなことはしません」

 膝の上で念珠をぐっと握りながら静川が雨崎を睨む。その視線をまったく気にせずに雨崎はスピードを上げた。

「解ってねえな、脚線美っていうだろ? 女の脚も泥から生まれた蓮の花も、美しきものの一つだ。美しいと素直に認めることをなぜためらう必要がある? まあ、それでも見たくないなら無理強いはしないが、俺は今回彼女にお願いされてる立場だからな、上手くいったお礼として、常夏のビーチで一緒に泳ごうって話をしてもいい」

「あの、私はですね」

「今、お前に求められてるのは僧侶としてのお前じゃない。ちょっとくらいルールを逸脱しようが、俺もお前も地獄に落ちることはない。それより美しきものを眺め、素直に賛美することで極楽浄土に思いを馳せようじゃないか。無論、美しき女体を見たからといって揉んだり触ったりできる訳じゃないが、この世にはこんなに素晴らしいモノがあると知るだけでも前向きになれるってもんだろ?」

 ハンドルを切りながら雨崎が歌うように問いかける。まばゆい光と色彩豊かな花の咲く、臨死体験のような光景を思い浮かべた静川が自信なさげに言った。

「……話がわかりませんが、お手伝いすることで、そういう御縁があるんでしょうか」

「ああ、その為にも何かあったらうまくやろう」

「……承知しました」

「よし、こっちの契約も成立だな。若い奴は釣りやすくていい」

 坊主が釣れるとは、と笑いながら雨崎が大黒池駅の駅ビルに車を入れる。釣れないのを坊主って言うんですよ、と静川がため息をついた。屋上の駐車場に車を停め、改札の見えそうな場所へ向かう。

「まあ、あのお嬢さんと付き合うのは骨が折れそうだからな。そう悪い関係でもなさそうだが、太腿も見れない付き合いしかしてないのか」

「そもそも付き合いがありません。彼女が卒業する時、私は交際を断られているんです」

 

 白野がいいと言ってくれたら、彼女との時間を視野に入れた日常のためにも寺のことは後継の兄に任せよう。兄には申し訳ないが密かにそう決めていた。

 桜が咲きかけた薄曇りの日、たいして未練も無さそうに校門を出て行こうとする白野を追いかける。家は近いしむきになって学校で捉まえる必要は無かったが、今のつながりが消える前に繋ぎとめておきたかった。

 先輩、と呼びとめると白野はゆっくり振り向いた。何も言わずに穏やかな目で静川を見る。いつもと違う、卒業証書を持った白野の前に立ち、なぜか悲しくなるのを堪えながらその目を見た。返ってくる答えが解っていたのかもしれない。

 これからも、先輩と一緒にいてもいいですか。

 それ以上の言葉が出てこなかった。もっと深い所にある言葉を拒否されるのが怖くて、それ以上を口にしようとすると震えてしまう。それでも白野は察したのか解っていたのか、辛そうな表情で小さく首を左右に振った。風が鳴り、白野の髪が横へ靡く。だめだろ、と風の音に混じって聞こえた気がした。まるで泣いているような目で笑う白野を見て、この返事は本気なんだと思った。


「そして次の日から頭を丸めたのか。すげえな」

「違います」

 静川が否定しながら息をつく。そんな思い切りの良さがあれば、当時からもっと自分を変えることができている。彼女の望むような人間でありたいと思いながらも、今のままの自分では駄目だという現実が嫌だった。時間の経過や僧侶となることが、そういうものを薄れさせると期待していた。それでも、根本は未だ変わっていない。

 雨崎は改札を見渡せる屋外の喫煙エリアに立ち、コートから真鍮のシガレットケースを取り出して黙ったまま煙草を咥えた。蓋を閉じると微かに小気味の良い音が聞こえる。静川がなにげなくそれに目を止めると、雨崎は煙草を咥えたまま笑ってシガレットケースをちらりと見せた。

「あのお嬢さんの仕事だよ。あれで結構、色々と細かい事が気になったり、思い入れする性質らしいな。仕事に限らず」

「……真弓子さんや流華さんのことは他人に思えないんです。荘子さんも、母親に置いていかれた人ですから」

 そう言って静川が小さく白い息を吐く。雨崎は火をつけた煙草から口を離し、大きく煙を吐いた。

「おたくも色々気を揉んだんだな」

「いえ、私がそういうことを知ったのも後になってからです。当時はなにも知らずにへらへらと荘子さんに付きまとっていただけですから」

「そこは仕方ないさ、悩むこたない」

「……私に解決できる可能性があったなら、悩んだかもしれません」

 何もできない自分が嫌だ。役に立たない自分が嫌だ。求めるばかりでは誰にも望まれないのに、足りない自分はどうしても埋まらない。

 負荷をかければ価値は生まれるものだろうか。自分に価値が生まれれば、求めることを手離せるだろうか。安楽な場所に届くだろうか。本当は早く、楽になりたい。

 僧侶として周囲や寺に尽くすことがその近道だと思った。寺から一生離れることはできないが、人に求められているのはそういう自分だ。兄やその家族が強いられることもない。足りないものは何もないし、なくしたものなど何もない。はじめから自分のものでないのなら、無くて苦しいはずはない。苦しみを生むのは貪る心だ。愛を貪欲に欲しがることは迷いの根源だと釈尊も説いている。

 美しいと思えるものが在ればいい。そう思える人が生きていればいい。それがこの世にまだ在るだけで、この世界には価値がある。

 いつかはそれも失われる。その頃にはそれなりに、与えられるものをすべて飲み込めるようになるだろう。縁があれば、彼女の葬式で読経することもあるかもしれない。

「あっ」

 どこまでも遠い彼方へと想いを馳せていた静川が、突如襲った強い震動に懐を押さえた。祖母からです、と懐から取り出した携帯電話を雨崎に見せて電話に出る。

『昌之介? まだ外にいるんでしょ、頼みたい事があるのよ』

「壷ならからす屋さんに無事届けましたよ」

『そんなことわかってるわよ。それより、ついでに宝くじ買っといてくれない? 連番とバラ二十枚ずつね』

 園の声の後方からは同年代と思わしき婦人達の快活な笑い声が聞こえた。いいですけど、と静川が自分の首から下を眺めて言う。

「……私がこの格好で買うんですか」

『……ツキが逃げるかもねえ』

 そうじゃなくて、と言おうとする静川を制して、じゃあお願いね、と園が強引に電話を切る。曽我と連絡を取っていた雨崎も何度か肯いて通話を切った。携帯を閉じる雨崎に、静川は近くの宝くじ売り場を指さす。

「後で寄らなくてはならないところができました」

「そうか。小沼はあとちょっと、羽武沢にはまだ動きがないとさ。携帯に着信した気配や独り言らしき声も無し。人形に話しかけるほど可愛い性格でもないらしい」

 にやりとして雨崎が二本目の煙草を咥える。それなんですけど、と曇った空をぼんやり見ながら静川が言った。

「その人形というのは、どういうものなんですか? 羽武沢さんのお気に入りであるならナマズ的な要素は含まれているでしょうが、星尾さんを利用して計画的に盗むくらいです、別の価値もあるんでしょう。でも製作者は有名な職人さんという訳ではないんですよね。弟子の雨崎さんも職人には見えませんし、どういう師匠なんですか?」

「そうだな、話せば長くなるが……ウルトラマンと言えばエースだった頃の話だが」

「……わかりません」

「……築地本願寺で三島由紀夫の葬式があった次の年だ」

「あ、一九七二年ですね。理解しました」

 ぽんと手を叩く静川に、俺もお前と話すコツがわかった、と雨崎が煙を吐いた。

「俺の師匠は『守衛ヒナ』って日本名で通っていたが、星尾や真弓子嬢みたいな目と髪をした色白美人で、れっきとした西洋人だった。そして恐らく、当時あの辺で活動していた窃盗団なんかとも繋がりがあった。金に替えにくい、出所がバレたら困るような品物や、売る訳にはいかない事情があるもの、偉い人からの賜りものなんかを流す市場に通じてて、彼女はそういうものを別物に作り変えたり、買い手に合わせて細工したり、壊れたやつの直しなんかを請け負っていた。腕がいいから評判も良かったらしい。その辺りの仲間内でかなり慕われていた」

「ちょっと、それ雨崎さんが小学生の頃の話ですよね。雨崎さんなにしてたんですか」

「別に、学校帰りに師匠の店に入り浸って、プラモの上手な作り方なんかを教わったり、紅茶や焼き菓子なんかを御馳走になってただけさ。俺は昔から可愛い少年だったからな」

「……店、だったんですか」

 なんとなくからす屋を思い浮かべた静川が首を傾げる。雨崎は灰皿に灰を落としながら小さく笑った。

「表向きは、ちょっと高級な工芸品や雑貨なんかを扱う店の女主人さ。小五の冬にすげえ三笠を見つけて知り合ってから、最後に会ったのは六年の冬だったかな。あとで思えば、ちっと痩せてたんだよな」


 十二月に入って横浜の市営地下鉄が開業した頃。君彦が店に入ると、師匠は作業台でマリア像のような人形に緑色の衣を着せていた。

「おとといの奴と違うじゃん。改造してたフクロウの壁掛け時計はどこいったんだよ」

「あれは後回し。面白い拾い物があったから、面白そうな方を先に仕上げてるの。ちょっと時間も無さそうだし」

「よくわかんないけど結構適当なんだな。好き嫌いで仕事選んでたら儲からないってウチのおやじが言ってたよ」

「いいのよ、今は頼まれてる仕事もないし。それにこういう商売は繁盛しちゃいけないの」

 そう言って師匠は楽しそうに人形の腕を調整する。これからパーツを付け足すらしく、人形はバイオリンを弾くようなポーズで関節が固定されていた。君彦は作業台の前の椅子に座り、頬杖をつきながらその仕事を眺める。

「今度のはなんだろ。実はどっかの美術品かな。……今まで師匠が言ってた冗談ってさ、実は本当の話だったりするんだろ」

 冗談っぽく言いながらも、少しだけ真面目な目をして師匠を見る。君彦が店にいる時に現れることはないが、時折入れ違いに入ってゆく客達はどこか雰囲気が違っていて、工芸品を買いに来た客のようには見えなかった。その客と話す師匠も別人のようで、雑貨屋の女主人には見えなかったのを覚えている。

 さあね? と師匠は甘い声を出すと、試すような目をして悪戯っぽく笑った。本気で答えられても困るか、と君彦も冗談にしたまま歯を見せて笑う。

「でもさ、そういうのってヤバくないの、師匠」

「ヤバいわよ。でも、思っているほど世界は完璧に管理されてないわよ。それがどこから来て誰のものだったかなんて、ちょっといじれば誰もわからない。人もおんなじ。全くの別人になることだってカンタンよ」

「それでも、バレたらどうしようって落ち着かないじゃん」

「それなら真面目に生きるのが一番よ。悪い事する必要なんかないもの。生き方なんて自分で選べばいいじゃない。結果がどうなろうと、覚悟が出来てれば後悔なんてしないわ」

「師匠も?」

「もちろん」

 他の客には見せないような笑顔で師匠がにっこり笑う。いつもなら頼もしい褐色の目に、なぜか違う色が見えたような気がした。笑顔のまま師匠が続ける。

「真面目に、人の望む人間になれば周りは誉めてくれるかもしれないけど、どれだけ他人の期待に応えたかなんてどうでもいいって、死ぬ時に気付くわ。どうして仕事にばっかり時間を使ってたんだろうって後悔してる男ばっかりよ」

 兄は別だったけどね、と笑いながら師匠は胸元に手をやり、首から下げていた十字架を外した。椅子から降りて君彦の前に立つ。

「ね、約束できる?」

 どこか不安な気持ちを押しやりながら、君彦は黙ったまま師匠の目を見る。師匠は十字架を君彦の首にかけて静かに言った。

「どんな環境や立場にあっても、自分を幸せにしてあげることはできるわ。私の弟子なら、あなたは私以上に人生を楽しむことよ」

「なんだよいきなり。人生って言われても、俺にわかるかよ」

「ご機嫌でいればいいの。良く寝て、体を大事にして。悪い事をするなとは言えないけど、するならバレないように。でも疑われたり嫌われたくないなら、嫌な気持ちになることはしない。身も心も身軽でいれば、幸せなんて簡単よ、キミヒコ」


 それからしばらく師匠に会えない日が続いた。店もずっと閉まっていて人の気配はない。ショーウインドーのガラスに顔を付けて覗くが、キャラメル色の三笠も見当たらなかった。まさか本当にヤバかったのかよ、と焦っていると、おい、と後ろから陰気な男の声がした。

「ヒナの弟子だかボーイフレンドだかっていうのはお前か」

「え、ヒナって、守衛のヒナさん?」

 弟子はあってるけど、と君彦が困ったように後ろ頭を掻く。男は地味なズボンに鼠色の上着を着こみ、見た目や言葉からすると日本人らしい。こいつも真っ当な客の方じゃないな、と失礼な事を思っていると、男は陰気な声でぽつりと言った。

「ヒナが死ぬ前に言っていた」

「師匠、……死んだのか?」

 驚きながらも想像がつかずに、ぼんやりと暗いままのショーウインドウを見る。表情の無い男は君彦に尋ねた。

「名前は」

「君彦」

「なら間違いないな。お前に渡すよう頼まれてる物がある。入れ」

 そう言って男は持っていた鍵で店のドアを開ける。師匠の店はほとんど片付けられて、別の店のようにがらんとしていた。うそだろ、と師匠がいつも座っていた作業台を見てもその気配を残すような物は何も残っていない。もういない、という感覚がわかりかけて、込みあげそうな感情を押し込める。

 あれで心臓は弱かったらしいな、と男が奥から出してきた三笠と木箱を作業台に置いた。木箱には完成した緑衣の人形が納まっていて、いつか君彦が渡したナマズを抱いている。なにしてんだ、と君彦は木箱の中を覗いたまま呟いた。

「師匠……ヒナさん、どんなだったんですか」

「病院でもそれを弄ってた。最後の仕事が間に合ったって満足していたよ」

「……あの人、いくつだったんですか」

「五十九だったかな」

「うそだろ、俺のばあちゃんと同い年かよ」

 普通の人間じゃねえ、と驚いて思わず顔をあげる。四十歳くらいだと思っていたのに、おばさん呼ばわりという段階じゃなかった。男は三笠と人形を君彦が持ち帰りやすいよう風呂敷で包み、初めて少し笑った。

「ヒナは魔法使いみたいなところがあったからな」


「下手に事情を聞くのは厄介事の種になると言って、その男も俺に詳しくは話さなかった。仕事の流儀なのか、師匠も商品の出所や元の持ち主だのに興味はなかったみたいだが、そんな師匠がどこにも流せない宝石だの美術品だのを素材にして作ったのが『ヒナ人形』さ。一見普通の西洋人形にしか見えないが、とんでもない素材を思わぬところに使ってたり、宝石なんかを妙な仕掛けで内側に隠したりしてたな」

「じゃ、雨崎さん……というか友枝さんの……現在羽武沢さんの所にある人形も?」

「どうなんだろうな。俺がもらった最後の『ヒナ人形』は西洋人形じゃないし、俺限定の子供用かもしれない。もともと師匠は遊びでやってたんだよ。瓶に入れた手紙を海に流すみたいに、ちょっとしたイタズラで無駄に豪華な人形を蚤の市に流したのさ」

 困った人ですね、と静川が合掌して目を閉じる。まったくだ、と雨崎も肯いて続けた。

「『ヒナ人形』の存在が知られたのは、それから十年以上も経った後だ。『守衛ヒナ』って流れ者の職人が作った西洋人形には、訳ありの高価なブツが仕込んであるって噂が、一部関係者の間で本当だったと確認されてしまった。そこに、死ぬ直前に作って弟子に託した人形が存在するらしい、なんて話が流出すれば夢も広がるわな。まあ、俺も詳しいことがわかったのは手離した後だったから、未確認なんだ」

「なんでそんな貴重なものを手離したんですか」

「取られたんだよ。師匠が死んだ後、俺の方も親の会社が駄目になってな。借金取りが押し掛けるようになった。当時は何でもアリだったから、子供の物だろうが容赦なく金目の物は持ってかれてたんだ。三笠も人形も子供のおもちゃには見えないしな。日に日に物が無くなって、寒いのにずいぶん風通しが良くなったのを覚えてる」

「……苦労されたんですね。ご家族はご無事でしたか」

「ああ、親兄弟とは離れて暮らすようになった。親父は遠くに働きに行ったまま、母親も同じだったかな、そのうちどっちにも会えなくなったな。弟は遠い親戚に貰われることになったから、向こうに迷惑かけないように俺の戦艦や戦車を全部弟に持たせてやったのさ。パットンもキューベルワーゲンもシュビムワーゲンも」

 あいつは人の物欲しがるからな、と困ったように雨崎は火の消えた煙草を指で弾いた。それを目で追いながら静川が遠慮がちに尋ねる。

「雨崎さんはどうされたんですか」

「俺は中学出るまでは母方の実家にいたが、遊び人になるという大きな夢を叶える為に色々努力して、別人のように生まれ変わったのさ。もう戸籍上でも弟や親とは他人だしな」

「他人って……ご家族とは、もう」

「生きてるんなら問題ないさ。赤の他人に生まれ変わるのは昔っからある話だ。今は少しばかり面倒だが、大抵の事はどうにかなる。身内がほぼ全滅してる戸籍や身分諸々を都合つけたりとかしてな」

「まさか、雨崎さんという名前も……?」

「名前なんざいいんだよ、ペドロでもカプリシャスでも。そんな訳で、師匠の人形は残念ながらアングラな経路でしか価値はない。『ヒナ人形』って符丁を知ってる奴もそういない。そんな所に七年前、近日入荷の情報が引っ掛かった。その話の出所を追っかけてたら小沼がいた。いつどこから入荷するのかと小沼の周辺を調べてたら、星尾や友枝の坊ちゃんに出会ったのさ。その七年後にはあんたらにもな」

 そう言って雨崎が静川の顔を覗き込むように見た。七年ですか、と静川が物言いたげに黒いサングラスを凝視すると、雨崎は蚊を払うように手を振った。

「色々あんだよ。俺は腕切られるわ、結石で入院するわで散々だったんだ。副業もあるし、星尾も色々と身の振り方を考えたり、タイミングを計らなきゃならんこともあるのさ」

「切られたって、もうそれ警察に頼らなければいけない話ですよね」

「警察やロボット刑事が近くにいたなら頼ってたかもな。ただその時、俺の側にいたのは星尾と剥製の亀しかいなかった。ぶん投げるのに手頃な方を投げたのさ。ガメラは命中、小沼は肩を外して戦闘不能だ。どこからか慌てて出てきたちっさいお嬢ちゃんが小沼を庇って逃げた。おあいこだな」

「それで、腕の怪我は」

「結石に比べれば大した事はないさ。この通り、こっちの腕を切り落とすほどの腕前でも無かったらしい。星尾の持ってたガムテープでとりあえず応急処置して、あとは自分で始末したのさ。刀剣の傷は医者が通報するからな。努力してやっと遊び人に転職できたんだ、自由を失いたくない」

「……星尾竹人さんも曽我さんに転職ですか?」

 じっ、と咎めるような目でをする静川に、おや、と雨崎がとぼけたように首を傾げる。

「星尾の顔をご存知だったか?」

「存じませんが……サングラスとヘアスタイルで目と髪の色は隠せます。肌の色もセルフタンニングとかサンレスタンニングという薬剤によるものでしょう。雑誌で読みましたが、その薬剤で肌を小麦色にしても、頻繁に洗う手の甲は色が落ちやすいとありました。いつも手袋なしで運転しているなら、いちばん日焼けするのは手の甲です。でも、曽我さんのライターを持つ手の甲は妙に白くてムラがあります」

「……ちょっと待て。何の雑誌読んだんだ」

「ブロンズ肌で引き締まったオトコを演出する、という記事にありました」




 静川達が喫煙エリアで男のブロンズ肌について語り合っていた頃、複数の紙袋を持った初老の女性が駅ビルのトイレで手を洗っていた。

 腕にはバッグや紙袋をかけているので思うように手が洗えず、エアータオルを利用しようと苦戦しているうちに重さに耐えきれなかった紙袋が破れてしまう。

 あっ、と女性が慌てて袋を押さえると、あの、と隣にいたキャメルのダッフルコートを着た女子高生が遠慮がちに声をかけた。色白の肌に褐色の髪と目をした少女はポケットを探りながら優しげに微笑む。

「あの、よかったら直しましょうか? こんな感じのテープですけど、今流行ってますし、可愛いからそんなに変じゃないですよ。補強すれば大丈夫だと思うんですけど」

 あら助かるわ、と嬉しそうな初老の女性に、褐色の目をした女子高生はポケットから取り出したクローバー柄のマスキングテープを見せた。可愛いわね、と感心する女性の前で女子高生は持っていた二本の傘と重そうなバッグを化粧台に置き、破れた紙袋をテープで手早く器用に直し始める。女性がふと化粧台に目をやると、少女の傘の片方にも同じテープが巻かれているのが見えた。新型なのか片方の傘は全体が緩やかに反っていて、『J』ではなく『I』型の持ち手にはクローバー柄のマスキングテープがぐるぐると巻かれている。

「重たいと思ったら……あ、これ、蜂蜜の羊羹ですよね」

 紙袋の内側を補強していた少女は中身を見て珍しそうな声を出し、どうですか、とクローバー柄になった紙袋を女性に渡した。女性が何か言う前に少女はふと褐色の目を細め、青い携帯電話を取り出して言った。

「……メール来ちゃったので失礼します。お気をつけて」




 そのころ、小沼は電車に揺られながらメールの返信を待っていた。送信済みのメールを開き、読み返しながら考える。

『借用書を奪う意味も人質を取る意味も無い。今さら鯨井に関わっても困るのは俺くらいだ。お前に何の得がある?』

 何かがおかしい。おかしいのは昨夜からだ。朱鷺子がおかしいのは今さらだが、流華はそれを利用して羽武沢を味方にした。急だとは思うが、いつかはこうなると思っていたし、それを流華に期待していたから不満は無い。気になったのは流華の様子だ。

 普段から感情の起伏に乏しいところはあるが、昨夜から流華はどこか上の空で、かつ追い立てられているような、張りつめた感じがあった。何かの異変を感じていたのかもしれない。

 元木も星尾の気配を感じていた。異変というより、星尾が元木をからかっていただけのような気もするが、元木と流華が消える意味がわからない。朱鷺子と流華を攫ったというならこの状況もありえるが、元木にそれをする理由は無いし、どう考えてもこういう事を思いつく頭があるとは思えなかった。

 だからといって星尾一人が三人を見事に攫えるものだろうか。きちんと鍵のかかった屋敷は片付いたままで、争ったり抵抗した痕跡もなく、金のナマズや刀剣だけでなく元木のトレノも消えている。まるで三人の全面的な協力を得ているかのような状況に、薄気味の悪ささえ感じた。

 今になって星尾が借用書を手にする意味は無い。娘の真弓子にとっても全く無意味だろう。もう朱鷺子に人質としての価値は無く、流華や元木がその代わりになる訳でもない。

 意味や価値があるとすればナマズや刀剣だが、星尾がそれをまともな金に替えることはできないし、鯨井にどうこうしたところで星尾には何の得にもならない。こっちが困るだけだ。

 どこか腑に落ちない。恨まれてないとは思っていないが、娘の真弓子には手を出していないし、その首に下がっている十字架だって触れてもいない。生きていたのも意外だが、生き延びるのもやっとのはずの星尾がナマズと白鞘一本だけを盗み、どうでもいい借用書を手にしたくらいで気が済むだろうか。

 目的は金のようでいて金ではない。復讐心とはもっと別の、冷淡な意志のようなものをどこからか感じる。まるで自分と羽武沢を取り除こうとしているような。

 本当に、星尾だろうか?

 徐行運転の電車の中、小沼は気味の悪さを感じながら携帯電話を睨んでいた。




 大黒池駅東口宝くじ売り場では、静川と雨崎が篤伸と合流していた。

 真弓子はどうですか、と到着するなり篤伸が言い、小沼を見張るのが先だな、と雨崎が腕時計を見る。先刻白野から連絡があり、篤伸の二本あとの電車に小沼が乗ったらしい。

「俺は改札を見てくる」

「では、私は今のうちに宝くじを」

 えっ、と怪訝な顔をする篤伸をよそに静川は宝くじ売り場に並ぶ。静川の前に並んでいた初老の女性は財布を取り出すのに難儀したのか、お先にどうぞ、と一度列から外れた。

 お先に失礼いたします、と合掌した静川が念珠を揺らして深く頭を下げる。そのやり取りを見ていた篤伸が、あれっ、と女性の持っている紙袋に目を止めた。重そうな紙袋には見覚えのある幅広のマスキングテープが綺麗に貼られていて、幼稚ではないクローバーのデザインが洒落たアクセントになっている。

「真弓子が持ってたのと同じだ。……これ、どうされたんですか」

「これ? さっき破けちゃったのを、目も髪も茶色のフランス人形みたいな若い女の子が直してくれたのよ。素敵でしょ」

「……真弓子だ」

 篤伸が険しい顔をして呟く。羊羹ですね、と静川も補修された紙袋の中身を見て肯いた。

「……すみませんご婦人、その娘さんはどちらで?」

 突如話に割り込んだ雨崎が静川を押さえて尋ねる。あっちのビルで上に、と西口側の駅ビルを指さす女性に礼を言うと、小沼もそろそろ到着だ、と雨崎が西口に向かって急ぎながら携帯電話を取り出す。

「おい曽我、やっぱりこっちがビンゴだ。からす屋のお嬢さんにも伝えろ」




 冷たく白い空の下、大黒池駅西口を出た所では、銀縁眼鏡にグレーのコートを着た男がどこか不満気な表情でポケットを探っていた。携帯電話を取り出し、開いた画面を睨むと控えめに周囲を見回す。

「やっぱり小沼を一旦外に出したな」

 喧騒の中、ガラス越しに小沼を見ながら雨崎が呟いた。耳元には携帯電話を押し当て、曽我の応答に集中する。白野に急かされた曽我もすでに移動していたらしく、改札近くの花屋で待機していた。

「奴を遠くに連れ出すにしろ、真弓子嬢は今、小沼を見てるはずだ」

 さあどこにいる? と雨崎は窓越しに小沼を見た。大黒池駅の西口は地上二階の歩行者回廊に直結していて、周囲の商業施設へと通じる広場として作られている。ここで小沼が再び駅の構内に戻るようなら曽我が後を追うが、小沼はメールを確認しながら周囲を見回していた。真弓子が小沼の姿を確認した上で次の指示を出す可能性は高い。

 喧騒というにはうるさすぎる騒音の中、雨崎の背後で耐えかねたように静川が言った。

「場所変えましょうよ。教育にも良くありませんし」

「別にいいじゃん。俺がついてんだから」

 そう言って雨崎が一瞬だけ後ろを見ると、篤伸も困り果てたような顔で肩をすくめる。雨崎達がいるのは大黒池駅の西口真向かいにあるパチンコ店の二階で、デッキに直結こそしていないが、西口に立つ小沼とその周辺を観察するには最適の場所だった。

「でもさっきから目立つというか、驚かれるというか、営業妨害をしているようで」

「だったらお前も打ってろよ。この階はスロットだぞ、……おう、ちょっと待て」

 お嬢さんから、と雨崎が話していた携帯電話を静川に渡す。曽我のすぐ隣にいるらしい白野が静川の声を確認して言った。

『そこなら小沼が見えるし、真弓子も入ってこれないんだから我慢しろ。私は駅ビル内で真弓子が隠れてそうな場所を探すから、そっちが先に見つけたら私か帽子屋にすぐ教えろ。目立つんだからそれまで出てくるなよ。友枝と隠れてろ』

「……わかりました」

 ここにいるのはもっと目立つんですけど、と静川がパチンコ店のガラスに顔を近付ける。その先には広く造られた歩行者用デッキや交番があり、駅を利用する人々だけでなくビラ配りやストリートミュージシャン、選挙演説する女性などで賑わっていた。




 駅の西口デッキに立っている小沼はメールを読みながら考えていた。

『しばらくそこで待っていて下さい。うるさいのが苦手なら、南側の交番前のベンチへ移動してもいいですよ』

 画面から顔を上げずに目だけで周囲を見回す。小沼の目の前では拡声器を持った女性がたすきをかけて必死に演説をしていた。目の前にいる演説者と、少し離れた南側の交番前のベンチ。どこからか星尾は自分を見ているらしい。

 トイレに行かせて欲しい、と送信して、寒がるようなポーズを取りながら星尾の視界を推測する。交番前はうるさくないと判断したのなら、そのすぐ側でギターをかき鳴らして歌っている青年が星尾には見えていない。ならばこのデッキ上や周辺の施設ではなく、先刻自分が出てきた駅の真上から見ている可能性がある。

 小沼はトイレを探すような顔をしてさりげなく自分の後ろの建物を盗み見た。西口側の外観は新しく、壁面の一部にガラスを配した作りになっている。南側には窓が無く、交番前のベンチが見えているなら中央から北側にかけての商業店舗にいる可能性が高い。さらにその向かいにいるギター青年が見えていないなら、星尾の位置はより絞られるはずだ。

 小沼は震えるフリをしながらメールの返信を待つ。一度姿を隠すことが可能ならば、星尾の後ろに立ってやることもできるかもしれない。

 

 

 

「どうして執着してしまうんでしょうか、静川さん。離れるのが苦しいとか、好きなのに辛いとか、本来は繋がりのない人間のはずなのに」

「……愛は煩悩であり、苦でもあります。苦しみや喜びというものは、私達の中で別個に存在しているのではなく、色々なものが集まってできている状態ですから、『好き』で『苦しい』のはおかしなことではないんです。執着は苦しいものですが、それですら『ずっとある』ものではありません。いつかは必ず無くなるものですし、その時は必ず訪れます」

 静川は力強く言って目を細めると、きらびやかに光るスロットを適当に押して小さく息を吐いた。その隣で篤伸が深く肯きながらメダルを投入する。その鬼気迫る二人の視線は西口の駅ビルだけに向いており、パチンコ店の営業を妨害しないよう配慮しながら小沼の姿を監視していた。その脇で疲れたように雨崎が息を吐く。

「お前もわかって話してないだろ」

「……そうかもしれません。僧侶が仏の立場で話すのは間違いだと教えられていますし、祖母にも言われました。恋人もいないうちからこの手の話はするなと」

「俺もそのお婆様に賛成だ。迷える少年の心を救おうとする心意気は素晴らしいが、お前にはもっと得意なものがある。見えてもいないこの世の真理なんかより、こんな昼行燈のお坊様でも、ちゃんと悩んで大きくなったってのを伝えた方が青少年の励みになることもあるんだ。自分の経験を生かしたほうがいい」

「えっ、静川さんもこういう悩みとかあったんですか」

「あったあった。こいつも一人の時はその手の悩みや苦しみに無駄にのたうち回ってるぞ」

 そう言って雨崎が煙草を咥える。そうなんですか、と目を輝かせる篤伸に、静川は眉を寄せながらスロットのレバーを軽く叩いて言う。

「……まあ、一人の時は好きな人からもらったメールを無駄に何度も読み返したりとかはしてました。未だにメールが消せなくて、古い携帯電話を捨てられなかったりします」

「あ、それ僕もわかります。どんなメールなんですか」

 少しだけ嬉しそうに篤伸が身を乗り出すと、静川は地蔵のような表情で答えた。

「一行だけです。『好き。今から行く』と」

「両想いだったんですね」

「……いえ、『酸味が苦手な人も多いようですが、キリマンジャロは好きですか? あと今日はジャックに行くんですか?』という質問の返信です」

 そう言って静川は図柄の揃わないリールを見つめる。電子音が鳴り響く中、篤伸がメダルを握りしめて言った。

「……でもわかります。共有できる話題もなくて、僕も気がつくと真弓子に質問ばっかりしてました。あと、名前を見かけただけで少し嬉しくなったり、本のタイトルに反応して立ち止まったりもしました。『星を継ぐもの』とか」

「解ります。『シラノ・ド・ベルジュラック』とか」

「お前ら少し気持ち悪いな」

 もう少し太腿とか胸元とかに考えが行ってもいいだろ、と雨崎が呆れたように煙を吐く。静川と篤伸が声を揃えて言った。

「そういう風に考えるのも辛いんです」

「ああそうかい」

 山籠りでも滝修業でもやってこい、と雨崎がどうでもよさそうに煙草を咥える。篤伸は駅ビルの窓に目をやりながら言った。

「でも、そういうのを抜きにしても、僕は真弓子に求めてばかりでした。世話して欲しいなんて思いませんが、真弓子におやつ作ってもらうと嬉しいし、近くにいて欲しいんです。白野さんに言われた通りで、僕は真弓子に頼ってたんですね」

「それは私も同じですよ。何も求めずにいられる人間はいません。どんなに徳を積んだとしても、人が得られるものは他者から与えられるものです。仏の本願は他力によって果たされるように」

「これ以上頼ったり当てにしてばかりじゃ駄目なんです、僕は」

 悔しげに篤伸がため息をつく。静川はガラス越しに駅前を眺めながら言った。

「他力本願という言葉は、他人の力をあてにすることのように思われがちですが、本来は阿弥陀様の力で成仏させてもらうことです。ざっくり言うと、お念仏を唱えれば行いに関係なく阿弥陀様が救って下さるというものですが、他人を当てにしろとか努力は無駄だという話ではありません。人は他力によってのみ救われる、という事を教えているんです」

「仏教での他力って、たしか仏様の力の事ですよね」

「本当はもうちょっと色々あるんですけど、自力ではないもの、と考えればいいんです。悪人でも善人でも、人は自力だけで苦しみから逃れたり、本当に望むものを得ることはできません。救いというものは他者から与えられるものです。水に溺れている時に、自分で自分を救えないでしょう。浮き輪を投げてくれるのは自分ではない誰かなんです。私達は、自分のものではないものを求めて苦しみますが、それを与えあうこともできるんです」

 静川は回っているリールのボタンを押すと、くるりと篤伸の方へ向き直って微笑んだ。びかびかと派手に光りはじめた台を後光のように背負う静川の横で、雨崎が煙草をもみ消しながら立ち上がる。

「小沼が動いた。出るぞ」

「なんか揃いましたよ」

 静川が珍しそうに画面を見る。放っとけんなもん、と雨崎は携帯電話を耳に当てながら外へ出た。急いで駅前のデッキへ上り、静川も冷えた風に目を細めながら駅ビルの窓を確認する。雨崎は小沼を目で追いながら曽我に指示を出した。

「改札じゃないな。向こうはトイレだぞ、腹でも冷えたか?」

 僕が後を追います、と走り出そうとする篤伸の首元を押さえ、雨崎は慎重に真弓子の気配を窺う。駅ビルの窓だけを集中して見ていた静川が、あ、と声をあげて食い入るように一点を見つめた。四階の中央近辺と思われるガラス窓に、小さく手を振る白野がいる。

「荘子さんが真弓子さんを見つけたみたいです」

「どこですか?」

 荘子さんはあそこです、と静川がガラス窓を指差した瞬間に篤伸が全力疾走してゆく。目が良いな、と携帯電話を耳に当てたまま感心する雨崎に、なんとなくわかります、と静川が白野のいた窓を祈るような目で見つめた。雨崎がのんびりと言う。

「お前も参加しないの」

「雨崎さんこそ」

「……あんまり近付きたくないな。俺達が行くには目立ちすぎる」

「まるで異次元空間のようです」

 ため息をついた静川と雨崎は駅ビルの窓から目を逸らし、小沼の向かった男子トイレを遠巻きに眺める。小沼はトイレに入ったかと思うと、なぜか急いで駅ビルの階段へ向かって行った。慌てて静川が後を追い、雨崎も曽我に指示しながら階段を上る。小沼が三階へ向かうのを確認すると、雨崎はにやりと笑いながら言った。

「多少は小沼も見当付けてたらしいな。こうなったら曽我、奴を遠くに引き離せ。異次元空間から脱出しちまえ」




 小沼が三階中央フォーマルウェアの売り場を確認している頃、その真上である四階中央フロアのランジェリーショップの隅で、真弓子が険しい顔をして立っていた。その手には青い携帯電話がある。

 花畑のように色彩豊かなランジェリーに紛れ、白野が真弓子の側に立つ。窓の外に目をやると、どういう指示なのか小沼の姿はデッキ上になかった。念のために、早く真弓子を目立たない所へ移動させた方がいい。

「真弓子!」

 白野が小声で話しかけようとした瞬間、それをかき消す大声とともに篤伸がランジェリーの花畑をかき分けて走ってくる。あのバカ、と白野が慌てて真弓子の腕を左手で掴み、向かってきた篤伸の首根を右手で押さえ睨みつけた。篤伸と白野を交互に見ながら真弓子が混乱する。

「え……あ、篤伸さん? え?」

 少し黙ってろ、と白野は外の通路を見回した。視界の右手には追いついた曽我が視線を送り、左手奥ではマッチ棒のような頭とサングラスの男がストッキング売り場を指さしている。その先には携帯電話を手にした小沼がエスカレーターで上ってくるのが見えた。

 真弓子の持つ携帯電話が振動する。白野はとっさにそれを奪い取ると、真弓子と篤伸を後ろのフィッティングルームに押し込んだ。振り向きざま曽我に携帯電話を投げる。

「帽子屋!」

 カラフルなランジェリーの花畑の中、青い携帯電話が振動しながら宙を舞った。それを黒い帽子にサングラスの曽我がキャッチし、通話をオンにしながら走り去る。入れ違いに小沼が険しい表情で店に入り、携帯電話を耳に当てたまま、鋭い目つきでパステルカラーの空間に問いかける。

「……本当に、星尾なのか? ……ふざけるな、今どこにいる?」

 えっ、と白野の背後で真弓子の息をのむような声と、しっ、と間近で篤伸がそれを制する声が微かに聞こえた。フィッティングルームのカーテンを後ろ手に握りしめる白野の前には黒や紫のセクシーな下着が並び、その向こうにはフェアリー・ピンクやプリムローズ・イエローの愛らしいブラジャーの中に立つ小沼の姿がある。小沼は忌々しげな声を出しながらも姿なき誘拐犯の指示に従い、通路へ出た。

「どこへ行かせる気だ、星尾。いい加減に……」

「……うそ、」

 遠ざかる小沼を目で追う白野の背後で、真弓子の呟きが聞こえた。呆然としながらフィッティングルームの外へ出てくる真弓子を白野が支えると、続けて出てきた篤伸がおもむろに真弓子と向かい合って言った。

「やっと追い付いたよ、真弓子。僕は、僕はね……」

「うるさい、いいから出るぞ。話は後にしろ」

 白野は周囲に頭を下げながら篤伸と真弓子を引きずって通路に出ると、無事でよかったです、と近付いてきた静川に真弓子の荷物を渡して息をつく。奥で話していた雨崎が携帯電話を閉じながら戻ってくると、驚いている真弓子に白い歯を見せながら言った。

「小沼は星尾が遠い所に連れてってる。待たせたな、お嬢さん」




「知ってたんですか、全部」

 光の色が重く移ろう夕刻、力が抜けたように遠くを見ていた真弓子が言った。大体はな、と傘に偽装した白鞘を白野が感心したように眺める。

 小沼の誘導は曽我に任せたまま、静川達は屋上駐車場へ移動していた。ここなら存分に煙草が吸える、と車に寄りかかり悠々と煙を吐く雨崎の横で、篤伸が優しく言った。

「僕が本当の事を隠してたから、真弓子も本当の事を話せなくなってたね。ごめん、僕が早く伝えればよかった。真弓子は羽武沢家にある骨董なんて忘れていいんだよ」

「そういう訳にはいきません。私は、ずっと篤伸さんやおじさまを利用していたんです。あの部屋の鍵を開けておいたり、お屋敷で迷子になったり、あの時ゲームに誘ったのも、盗みをするために私がわざとしてたことです」

 真弓子は宙を見つめながら冷たい声を出すと、篤伸は明るい声で返した。

「覚えてるよ。だから真弓子は、北の部屋に行った僕を慌てて追いかけて来たんだよね。僕はあの時、星尾さんの事情を知ったうえで真弓子に嘘をついた。お父さんは必ず迎えに来るから一緒に待っていようって。骨董なんていらないんだ」

「でも私は、篤伸さん達のような、優しくしてくれる人達を騙してたんです。本当の私は泥棒の娘なんですよ」

「違う、真弓子は友枝の家族だよ。あの時真弓子は十歳だった。お父さんと十年いたんだよね。でももう僕達と一緒にいて七年経ったんだよ。もう少し一緒に居れば、僕達といる時間の方が長くなる」

 よく飽きないな、と煙を吐きながら雨崎が呟く。静川は困ったように雨崎を軽く睨むと、暗い目をする真弓子に声をかけた。

「何をしても『自分は悪くない』と言い続ける人もいれば、何もしていないのに『自分は罪深い』と悩む人もいます。自分の知っている自分だけが本質だと思い込むことは妄想と同じです。どちらもいいことではありませんよ」

「確かに妄想だな。星尾も似たようなもんだったぞ。今は生まれ変わったように明るいが」

 上司の影響だろうな、と白野が呆れたように雨崎を見る。父が? と首を傾げる真弓子に雨崎が肩をすくめて言った。

「ああ、あいつも自分のことを盗人のクズ以下だって責めてた。だが奴は、思ってるほど悪い奴でもダメ人間でもないし、お嬢さんを捨てた訳でもない。奴を無理矢理失踪させたのはこっちだ、無理に嫌いになろうとしなくていい。星尾は逃げ道がなかっただけなのさ。逃げ道がないと暴走するだろ? お嬢さんも」

 そう言って雨崎は白野が手にしている白鞘と金のナマズが入ったバッグに目をやった。それは、と真弓子が申し訳無さそうに説明する。

「流華ちゃんが持ち出してくれたんです。羽武沢さんだけならともかく、小沼さんを相手にするのはちょっと大変だからって。七年前に人形と一緒に盗まれたのがなんだったのか私も流華ちゃんもわからなくて、代わりのカードが必要だったんです」

「旦那が言ってたのはそれだな。数千万になるかもしれないんだろ? もう金に変わってても不思議じゃないぞ」

「それが、小沼さんはお金にしようと考えてたらしいんですが、羽武沢さんが気に入って自分のコレクションに加えてしまったそうです。流華ちゃんも蔵にはあまり近付けなくてそれ以上はわからないそうです」

 真弓子が遠慮がちに篤伸を見る。篤伸は申し訳無さそうに首を振った。

「友枝家の骨董は祖父が生前集めた物で、正式な目録などはないんです。あるのは祖父の覚え書きのようなもので、それを見ても確かな事はわかりません。例の人形も『ヒナ人形』ではなく『魚籃マリア』とありましたし、一緒に持ち出されたと思われる品も『くじら石』とあるだけで、価値以前にどんなものかもわからないんです」

 ふーん、と肯きながら篤伸の話を聞いていた雨崎が真弓子の方を向いて尋ねた。

「羽武沢にはどんな指示を?」

「お手伝いさん達のお休みを延長するようにと、携帯電話の充電とメールの練習、借用書と外出の用意です。羽武沢さんより小沼さんを遠ざけることが重要だったので、特急電車に乗り換えてもらってから逆の方向に羽武沢さんを誘導するつもりでした。流華ちゃんが教えてくれたんです。小沼さんは鋭いから気をつけた方がいいって。父の話やピエールの声を聞かせるのも元木さんの方がいいって」

「その元木は?」

「流華ちゃんにうまく連れ出してもらって、連絡の取れない状態にしてあります。緊急事態だから携帯の電源を入れないように言い含めて」

 生きてるのか、と白野が小声で言うと、改めてその存在を思い出した静川は目を閉じて合掌する。どこかに閉じ込めたのか、と納得する雨崎に真弓子が肯いた。

「少し遠いですけど、青松ユークロニアホテルのグランドデラックスに。携帯は同じ型色のサンプル用のモックとすり替えてあります。朱鷺子さんと流華ちゃんは自分達でお屋敷に戻ることになってます。洗濯物も取り込まないといけないって言ってたし」

 これは羽武沢さんとの連絡用です、と真弓子が赤い携帯電話を差し出す。静川は揺れる林檎のストラップに手を伸ばすと、深く息を吐いて言った。

「では、このまま二人が無事に帰れば何も無かった事になるんですね。よかった」




 その頃、ユークロニアホテルのグランドデラックスルームでは、落ち着いた色調の内装と調度の中、元木は大型液晶フラットテレビと高性能ホームシアタースピーカーで映画を見ながらエスプレッソを楽しんでいた。

 部屋の隅には固く紐が結び直された『黄金楠福鯰置物』の箱と、三百円で売られていた青い携帯電話のモックが置かれている。

 その後ろではルームサービスで軽食を済ませた朱鷺子と流華がしばらく休んでいたが、時計を見た流華は手荷物をまとめながら言った。

「元木さん、私達はそろそろ戻らないと怪しまれるので失礼します。どうぞ大事なお勤め、がんばってください」

「あ、え、朱鷺子様と二人で大丈夫?」

「はい、タクシーも電車もありますから」

「なんか俺だけ悪いなあ。ここ風呂も大理石だし、温泉みたいにお湯が出るよ。テレビも大きくて音響いいし、カーテンもリモコンで動くんだよ? コーヒーメーカーもあるし」

 元木が寛いだ姿勢のままリモコンを操作してカーテンを開け閉めして見せた。朱鷺子がどうでもいいように息をつくと、エスプレッソマシンって言ってましたけど、と流華が呟きながらドアを開ける。朱鷺子が小さな声で聞いた。

「これからどうするつもりなの、流華」




 送ろうか、という雨崎の申し出を激しく遠慮した篤伸は、颯爽と真弓子をエスコートしながら電車で鮒山町へと戻って行った。では私達も、と静川が黒いベンツに目をやる。

 まあ待てよ、と雨崎は静川の肩を抱えるように腕を回しながら言った。

「このままじゃ、なにも取り返せない上に『美しきもの』は見れないぜ?」

「ですが、篤伸君もそれは構わないと」

「俺の欲しい人形はまだ羽武沢家だ。邪魔な小沼は遠出してて、羽武沢は昔の証文まで用意してお出掛け準備ができてる。そして奴の欲しいナマズと白鞘は俺達の手にあるんだ。あとはわかるな?」

 わかりません、と静川が姿勢を正して答える横で、白野が鼻を鳴らしながら腕を組む。

「真弓子に止めさせといて、続きをやるつもりか?」

「そりゃ真弓子嬢に悪さはさせられないが、俺が引き継ぐ分には構わないだろう? せっかくここまでお膳立てしてあるんだ、羽武沢に人形とナマズの交換を持ちかけるくらいは問題ないさ。交渉がうまく行ったらラッキーだ。羽武沢家のお嬢様方の安否も未確認だし、もう少し俺と付き合っても損はないぜ?」

「……真弓子や流華がやらかした後始末も約束のうちだしな」

 仕方ない、と息を吐く白野を心配そうに見る静川に雨崎が言った。

「改めて俺からのお願いだ。さっきの約束もある、引き続き付き合ってもらえるか?」

「お役に立てるかわかりませんが、悪いことではないんですよね?」

「……羽武沢にお願いして、接待して説得して納得してもらえれば、な。もし駄目でも、今なら何やっても星尾竹人の仕業になる」

「お呼びですか」

 いつの間にか戻ってきた曽我が背後から顔を出すと、雨崎が白い歯を見せて笑った。

「おう御苦労。お前を探し続ける悲しいマラソン選手はどうした」

「小沼さんにはとりあえず、信州方面行きの特急電車に乗って頂きました」

「ならば、小沼があずさ二号とかそういうので春まだ浅い信濃路へ旅に出てる間、俺達は羽武沢で遊べるな。そんな訳で曽我、星尾のフリをしてやれ」

 何か言いたげな静川と白野をよそに、曽我は渡された赤い携帯電話で羽武沢を呼び出す。星尾です、と林檎のストラップを揺らしながら曽我は雨崎の指示通りに話した。

「お待たせしました羽武沢さん。これから言う場所に一人でいらして下さい。場所は、」

 青松町、と雨崎が新しい煙草に火をつけながら言い、曽我がその通りに羽武沢へ伝える。ここがどこだと思ってるんだ、と喚くような声が携帯電話から漏れた。

「昔は青松町に納品してましたよね。その頃の思い出が詰まった大事な品をお預かりしています。今から鯨井の事務所に羽武沢さんの名札付きで放り込んで来てもいいんですよ」

 お願いする気はまるでないだろ、と白野が冷ややかな目で曽我と雨崎を見る。羽武沢は盾つくのをやめたらしく、曽我が確認するように雨崎を見た。煙草を咥えた雨崎が肯く。

「せっかくだ、奴をいい所に連れてってやろう」

「通りから一本外れた所にある、クイーンオブハート。詳しい場所はタクシーの運転手が知ってます」

 ではまた後で、と曽我が携帯電話の通話を切ると、白野が雨崎に聞いた。

「いい所って、あの世行きとかそういう話じゃないよな?」

「きれいなお姉ちゃんが一杯いて、いい酒が飲めるんだから極楽だ」

 雨崎が車のドアを開け白野に勧める。黒いキーを曽我に渡してエンジンを掛けさせると、後部座席に乗り込んだ白野が帯を気にしながら雨崎に尋ねた。

「クイーンなんとかってのはキャバクラかなんかか」

「ご名答。そんな訳でキャストとしてご協力をお願いしたい」


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