ここはとある町の小さな時計店。
むかしむかし、ある町にひとりの男の子がいました。
男の子の家は時計屋でした。
その時計屋は男の子のお父さん、おじいさん、おじいさんのお父さん、ととても昔からある、とてもとても古い時計屋でした。
町の端っこにある時計屋に、お客さんは時々しか来ません。丸一日、お客さんが来ない日もあります。
男の子の家はびんぼうでした。
お店の窓にはどこもひびが入っているので、どうしても雨の日は窓から雨がしみてきますし、寒い冬の日は暖炉に薪をくべても冷たい風のせいでガタガタと震える時もあります。男の子の家は貧しかったので、新しい窓を買うことができません。
それでもお父さんやおじいさんが時計を修理する姿が、そして直った時計に喜ぶ人の笑顔に、男の子は誇らしく、そして自分もなんだか笑顔になるのでした。
男の子はお父さんやお母さん、おじいさんと同じくらいに時計が大好きでした。
男の子の家は時計屋ですので、たくさんの時計の音がどこからも聞こえてきます。
一番古いのは、お店の角にある大きな振り子の時計でした。時計は毎日ねじを巻かないといけないのですが、その一番古い時計のねじはいつもおじいさんが巻いています。
男の子はなんだか羨ましくなって、ある日おじいさんに言いました。
「ねぇおじいさん、僕にも時計のねじを巻かせてくれない?」
男の子はまだ幼いですから、お父さんとおじいさんのお手伝いはできませんでした。しかし幼い男の子にも、お手伝いをできる事があったのです。
それは時計のねじ巻きでした。
男の子は毎日時計のねじを巻くお手伝いをします。毎日毎日ねじを巻いているからでしょうか、時計の音が一つずつ違うことに気が付きました。どの時計も、同じ音はひとつもなかったのです。
だから男の子は、いつもはおじいさんが巻いている一番古い時計のねじも巻きたくなったのでした。
しかしおじいさんは言いました。
「この時計は気難しいから、わしが巻かないと動かないんだ」
「そんなはずはない」
男の子は声を上げて笑いました。
だって時計が気難しいだなんて、まるで人間のようで、なんともおかしいではありませんか。
しかし男の子は一番古いその時計のねじを巻くことをあきらめました。なぜなら時計は貴重なものだと、男の子は幼くとも知っていたからです。
大抵の家にある時計は、おじいさんからお父さんに、お母さんから娘に、そうやって受け継がれているものでした。お金持ちの家にはたくさんの綺麗な時計がありますが、ふつうは家族に一つしかないのが当たり前です。いいえいいえ、男の子の家のようにびんぼうな所は、時計のない家もあるかもしれません。
時計を作るのにはたくさんの材料と時間がかかりました。もちろん時計はひとつひとつ丁寧に、人間の手によってつくられます。
だから男の子の家のような時計屋がどの町にもいくつかあります。新しい時計も作りますし、古い時計を修理したりもします。
少し調子が悪くても、時計屋で直してもらうのです。そうやって大切に大切に使われる時計は、持ち主が何度も変わるほど、長い間使われ続けていくのです。
ある冬の日の朝のことです。お店の中で時計の針と暖炉の薪が弾ける音を聞きながら、ひびのある窓越しに男の子は外を見ていました。雪が降っているので外を歩く人はほとんどいません。ずっと外を見ていますが近所の花屋の友達も魚屋の友達も他のみんなも今日は外に出ていません。
しばらく男の子がつまらなさそうに外を見ていますと、ひとりの老人が時計屋へやってきました。老人は片手で持てるほどの掛け時計を持っていました。
「どうも調子が悪いようだ。ねじを巻いても動かない時がある。どうにか直してくれないか」
寒そうにしながら、そういう老人から時計を受け取ったのは男の子のお父さんでした。
上も下も横もじっくりと眺めたお父さんは最後に時計の音を聞いて、「なるほどなるほど」と頷きました。
「ちょっと中を覗いてみましょう」
時計のふちを外したお父さんは、細い針を使ってなにやら時計の内部をつつきます。
しばらくするとコロンと小指の爪の半分ほどでしょうか。それくらいの木の欠片が出てきました。
「――さて、これで終わりです。ねじを巻くことも大切ですが、これからは壁から落とさないようにも気を付けてくださいね」
「実はついこの間、手を滑べらせ落としてしまったんだ。妻にはばれなかったが、やはり時計屋さんには気付かれてしまったね。しかし、どうもありがとう」
代金の銅貨を数枚、ポケットから手渡した老人はお辞儀をすると時計をもって帰っていきました。
男の子は時計を両手で抱えた老人を見送ると、お父さんに向かって言いました。
「ねえお父さん、どうして時計を落としたって分かったの?」
たった今の出来事が、男の子にはどうしても不思議でなりませんでした。だってお父さんはあの老人が時計を落としたことなんて、知るはずもないからです。それなのにどうして? 男の子は傾げながらお父さんを見上げます。
「時計が教えてくれるんだよ」
お父さんはたったそれだけ言って、あとはにっこりと笑います。男の子はただ目を丸くするだけです。だって時計はしゃべれませんし、どうやってお父さんに教えたというのでしょう。近くで時計を修理する姿を見ていたのに、男の子はそれがちっともわかりませんでした。
うーん、と両腕を組んで男の子が唸ります。すると丁度、お昼を知らせる午後の鐘が、店内で様々な音色で鳴り響きました。
それはまるで男の子の唸り声に、時計たちがすくすと笑っているようにも聞こえました。
それからしばらく経って、またある雪の日の午後、ひとりの女性が時計を持ってやってきました。
布に巻かれていた時計を女性から受け取ったのは男の子のおじいさんでした。
「どうも最近、時計が動かなくなる時があるんです。壊れてしまったのでしょうか?」
その女性はとても困っているらしく、大きな目に涙を浮かべていました。
おじいさんは布から時計を取り出すと、珍しく眉を上げて驚いていました。もしかすると大切な時計なのかもしれません。
男の子がそう思っていると、元気づけるようにおじいさんは女性に笑いかけていました。
「さて、いつから動かなくなったんだい?」
「1か月前くらいです。ずっと使っていなかったからでしょうか、壊れているようなんです」
直せますか、と女性がおじいさんに尋ねます。いつもならおじいさんはここですぐに「もちろん」と頷くはずなのですが、今日のおじいさんは少し考え込んでいるようでした。
女性が持ってきた時計は木枠が少し日に焼けた置時計でした。
恐らく新しい時計ではなく、少なくとも男の子はもちろん、持ち主である女性よりも古い時計のようです。それは多くの家庭で、いわゆる親から子に伝わっていく時計です。
「すまないが、これはわたしじゃあ直せないなぁ」
そう言ったおじいさんの声を聞いた男の子は驚きました。これまでおじいさんが「直せない」時計はなかったからです。男の子が驚いて目をパチクリさせていると、女性がしょんぼりと肩を落とすのが分かりました。
「そうですか……」
小さくつぶやいて、女性はおじいさんから時計を受け取ります。時計を布で包む姿はなんともいたたまれません。おじいさんはそんな女性が可哀そうだと思ったのか、手を頭に置いて「うーん」と何度もうなっていました。
「その時計は私では直せないだろう。でもあなたなら自分で直すことができると思うんだが」
「――え?」
おじいさんは突然そう言いました。もうお店の出口のところにいた女性が振り返ります。不思議そうに首をかしげる女性に、おじいさんがゆっくりと言いました。
「時計の裏側、そこを開けて覗いてみなさい。壊れてはいないから」
女性は時計を木のテーブルに置くと、おじいさんに工具を借りて時計のねじを外すことになりました。おじいさんの説明を受けながら、ゆっくりと作業を進めていきます。
静かなお店の中ではカチカチカチカチ……と、あちこちで時計たちも音を鳴らしながら見守ります。
「こんな時計の中に、いったい何が入っているんでしょう。もう古いものだから、埃でも入っているんでしょうか」
「さあ、それは私も中を見てみないと分からないなあ」
話しながらしばらくすると、ようやく全てのネジが外れました。女性がゆっくりと時計の蓋を取ります。
「……まあ!」
女性は開けてすぐに驚いた声を上げました。そして小さな箱の中から、さらにまた小さな何かを取り出します。手に取ったそれをじっと見つめて、それから暫くしてから女性は囁くようにつぶやきました。
「何でこんなものが、こんなところに」
「きっとそれが時計の中に入っていたから動かなくなったんだろう。無くさないように時計の中にいれていたのかもしれないね」
「これはずっと前、まだ私が子供の時に母に渡したものなんです。手作りの、子供が作るような……そんなおもちゃの指輪です」
女性とおじいさんの間から覗き込むように、男の子は女性の指元を見ました。少しだけ錆びた円形の針金にくすんだガラスの欠片がくっついた、一見ガラクタのような、そんな指輪でした。
「私が11歳の冬、奉公に行く前に渡したんです。働いている間はずっと会えないから。結婚することが決まって、それで母からこの時計を貰ったんですが……きっと母も忘れていたんでしょうね」
くすくす笑う女性に、おじいさんが尋ねました。
「……お母さんとは?」
「数年ぶりに会ったので歳をとっていましたが、元気でした。これからは母の近くに住まうことも決まったので、たくさん会うことができます」
笑う女性に、不格好なおもちゃの指輪はまるで不釣合いなのに、なぜか男の子の目にはとっても素敵な指輪に見えたのでした。
時計から出てきた指輪と、時計を大切に布に包んで、お代に銅貨を数枚渡します。店を後にしようとドアノブに片手をかけた女性は「あっ」と、振り返り最後に言いました。
「時計屋さん、どうもありがとうございました」
女性が入口のドアを開くと、隙間から影の長くなった夕日がお店の中に入ります。静かに降っていた雪はいつの間にか粉雪になり、夕日に照らされてキラキラと輝いています。
今の時間は午後5時。店の中の時計が時間を知らせるために一斉に鳴り響きました。
『ありがとう、ありがとう……』
「あれ? おじいさん、今何か言った?」
時計たちの音の中から、なにか声がしたようで、男の子は不思議になって聞きました。
「さあ、一体何の音だろう」
その音はとても小さくて男の子は聞き取れませんでしたが、それはそれは優しげな声でした。男の子はもう一度聞きたくなって、時計の音が鳴りやむまでじっと耳を澄ませるのでした。
それから冬が終わり、暖かな新緑の季節を迎えるころ、町の隅の小さな時計屋に若い夫婦が訪れました。出迎えるのはこの春から一人で店番ができるようになった男の子です。
「いらっしゃいませー」
「こんにちは、小さな時計屋さん。私のこと、覚えているかしら」
「あ!」
ニコニコと笑う女性に、男の子は冬の日のおもちゃの指輪の女性を思い出しました。
「今日は新しい時計を作りにきたの」
そう話す女性に、男の子は大きく頷くと「すこしおまちください!」と伝えて、店の奥にいたおじいさんを呼びました。
「――おやおや、お久しぶりですな。それに随分と大きくなって」
ゆっくりと歩いてきたおじいさんは女性を見るなり、そう呟きました。
「予定は夏頃だと言われてます」
女性は言いながら優しげにお腹を抱いています。
「なのでこの子が生まれる記念に時計がほしいのです」
「あかちゃん?」
女性のお腹をじっと見つめていた男の子は思わず尋ねました。
「そうだよ」
女性の隣にいた男性が男の子の前で屈むと、笑いながら頭を撫でました。その男性の手は大きく、それに優しくて、まるで男の子のお父さんと同じようでした。
「もしこれからずっと先、このお腹の中にいる子が時計を修理に持ってくることがあるかもしれない。その時は君にお願いしてもいいかな」
「もちろんだよ! だってぼく時計屋だもん!」
そう男の子が大きく言うと、大人たちは楽しそうに笑い出すのでした。
この夫婦が再び時計屋を訪れるのは、また2つ、3つ季節が巡るころ。今度は女性が腕に小さな可愛らしい女の子の赤ちゃんを抱いて。そしてさらにもう少し先の季節、小さな恋が芽生えるのはまた別のお話。