6 二択
これも一種のランナーズハイであろう。アドレナリン全開となった私は、蹴破るがごとくドアを開けて部屋のなかにもどってきた。紳士の振る舞いではなかったが、全力疾走を経て分泌された脳内麻薬が、内に秘めたる闘争本能を呼び覚まし、闇を撃ち滅ぼす騎士とならんことを要求している。
ここはプライベート空間の極みである私の部屋。
ここは孤独な戦場である。
ならばいまは闇を討つため、紳士の衣を脱ぎ捨てると私は誓おう。
服を脱ぎ捨てて半裸となった私は、水を飲み、流れ落ちる汗をそのままに、勢いのままにワイルドにクローゼットを開け放った。闇穴はない。床部分を丹念に調べたが痕跡は見当たらない。しかし、こうして異世界にいる以上、闇穴の存在を疑う余地はない。
「消滅したか、それともどこかへ移動したのか」
もとの世界にもどり、彼女とともに平和に暮らす。私は確固たる決意をもって部屋のなかを探索した。世界の旅人である彼女にどんな掟があったとしても、私は彼女を手放さない。たとえどんな障害があろうとも、騎士となって彼女を守り抜くのだ。
私はソファーの中が無性に気になり、取り出したる包丁を逆手に構えた。
『いや、さすがにそれは笑えへんで?』
私の熱意に応えるように、オッサンの声がきこえた。幻聴ではない。私はすぐさま声のほうを探り、奇妙な確信とともにベッドの下をのぞき込んだ。影となったその場所に、ワープホールのような闇穴がみえる。
私は勝利の雄叫びをあげた。
手にした包丁を布団に突き刺し、ベッドを引きずり、それを踏み台として闇穴に飛び込んだ。
落ちていく。
暗闇のなかを落ちていく。
落ちているのか浮いているのかも分からなくなったころ、頭上から発光体が降りてきた。
『怖いわぁ……布団に包丁とかホンマに怖いわぁ……』
光を放ちながら、くまのぬいぐるみがオッサンの声に合わせて首をふっていた。私はSFの範疇に収まらない怪奇現象を前にしているのだろうか? 『ホラーやん。あんなもん完璧にホラーやん』、と、まるでぬいぐるみが意志をもち、ぶつぶつと愚痴っているかのようにみえる。
『なんのためらいもなく飛び込みやがってからに……アホの恐ろしさは底が知れんな』
私は前回もいた不思議な発光体を冷静に観察し、騎士道のなんたるかを理解できない畜生もどきであることを知りえたあと、「貴様はいったいなにものなのだ?」、と正体を問うた。
『なにものて、俺やん。くまタンやん』
胸を叩いて存在をアピールする、このオッサン声のぬいぐるみが?
彼女のお気に入りである「くまタン」だと?
『正体を明かすなら、妖精いうのが一番近い存在やな。すぴりちゅある的存在やから、ぬいぐるみに憑依することで「くまタン」もやっていけるわけや。まあ、このボディも古くなってきたからなぁ。そろそろ新しいもんを見繕わなあかんねんけど、そうそううまいこと拝借できるもんでもない……フィーリングいうのかな。とにかく見た目にはこだわる派やねん。そもそも憑依する必要もないし、「くまタン」に愛着もあるさかい、好みに合うもんがないとなかなかチェンジはでけへんな』
「貴様、嘘をつくなら身の程をわきまえろ。くまタンは貴様が語っていいような名前ではない」
『妖精うんぬんをスルーしてそこに食いつくて、お前のなかの「くまタン」はどんだけ偉大やねん』
「姿形や色褪せ具合を完全コピーしたことは認めよう。だが、なにをどれだけ真似しようとも、私は騙されん。くまタンは彼女の高度な腹話術によってのみ生き生きと語りだすことを許された存在なのだ」
『腹話術て、あんなもん嘘じゃ。いまみたいに普通にしゃべっとっただけや』
「貴様、彼女が嘘をついていたというのか!?」
『いや、そもそもあんな子おらへんしな』
『あれはお前の願望を反映させた虚像や。いうてもただの幻術やないで、自然エネルギーをアホみたいに投入してつくりだした、物質干渉も可能な最高傑作や。実際、お前を蹴り落とすくらいは余裕やった』
「……この私が、貴様の言葉を信用するとでも?」
『信じるかどうかはお前次第やけど、お前も薄々は感じとったはずや。あれはお前の揺るぎない妄想力が柱となる代物。お前が存在を疑わへんかぎり、姿が消えることはなかった』
『あんときは俺も驚いたで。いうほど催眠術もつかわへん段階から同居生活を受け入れた男や。いろいろ試して遊んだあとやったさかい、完全に油断しとったわ。まさかお前にアドバイスをしてくれる友人がおったとは……敗北いうもんは、勝利を確信したあとにやってきよる』
『お前が現実を受け入れつつあると仮定して、気になるんは理由やろな。あの子をつくりだした理由は……まあ、部屋賃代わりや。部屋のなかにデンジャラスな大穴を開けたうえ、自由気ままに暮らすことになる。夢くらいはみせたろう思うんが妖精の心意気や』
妖精を語る畜生もどきは、自らを『管理者』と名のった。
『異世界とかパラレルワールドとかはどっちでもでええ。世界は無数に存在しとる。それで、世界同士のエネルギー調整いうんかな。お前が言うところの闇穴、この狭間世界の入り口が発生するのは誰にも止められへん。それやったら、人間の寄りつかへんところで作為的に穴を開けといたほうが管理はしやすい』
彼女がどこにもいない。
私の想い出の中にしか存在しないなど、受け入れるわけにはいかない。
だが、こうして不思議体験をしている以上、妖精や管理者の話は信じてやってもいい。
『世界の秩序を守ろうおもたら、人間に知られてええもんではないからな』
『もちろん管理者は無数におる。山の中を選ぶ奴が多いんやけど、頭のええ奴は都会を選びよるわ。きっちり結界をつくっとけば発見されることはないし、日常のなかで異質なものを見ても、見間違いやおもうてスルーしよる。まあ、うまいこと人間の目を盗んでシティライフを満喫できるようになったら一流やな』
『最近の若い奴で、都会の廃墟を選びよった半端者がおってな。肝試しにきよる人間を幻術で追い払って、心霊スポットとして有名になっとんねん。本末転倒いうか、ただのアホやな。未熟者の分際で調子にのりやがってからに、なにがテレビ撮影や。なにが心霊特集や……あんなもんなぁ、集まりだした浮遊霊に絡まれて、撤退しよるに決まってんねん』
「……ぺらぺらとよくしゃべる。貴様、私に情報を与えてどうするつもりだ?」
『べつにどうもせへんわ。お前にはこの空間から退出してもらうし、お前がどこの世界を選んで暮らし、誰になにをいうたところで笑い話にしかならへんと踏んだだけや』
「どこの世界? 私が世界を選ぶのか?」
『そうや。注文があんなら聞くけど、ファンタジー世界はやめとけよ。下手にいっても死亡確定やから』
「そんな世界に興味はない。私が望むのはもとの世界だ……貴様が本物のくまタンであったとしても、私は帰る……彼女の待つ、もとの世界へ」
『未練がましい男や、と、言いたいとこやけど、それが無難やろな』
「いちいちうるさい奴だ。とっとと帰してくれ」
『わかったわかった。ただし、もとの世界に連れていけ言われて、ハイわかりましたとはいかんねん。世界にはそれぞれルールがある。狭間の世界である亜空間でもそれは同じや。ルールには逆らえへんようにできとる。まあ、ここにやってくる人間自体めったにおらんし、現場の案内役が自由に裁量できるよう、かなりゆるいルールやけどな』
『ここに迷い込んだ人間は、こちらが出す質問に答えることで世界を渡る』
『そういう決まり事があんねん。必死こいて考えて、自分らしい答えを導き出すことにより、無数に存在する世界の中から自分にぴったりの世界に行くっちゅう寸法やな。せやけど、まあ心配すんなや。そんなもん、こちらの質問の出し方によっていくらでも調整できんねん』
『それこそイエスかノーかの二択問題でもオーケーやからな。世界の傾向はもちろん、どっち転んでも同じ世界に行きそうな質問でもだいじょうぶや』
『こいつやったら騙しとおせると思って油断したり、なんかイラッときて蹴り落としたり、ついつい不用意に質問をして世界を渡したり……こっちに落ち度がなかったといえば嘘になる。もとの世界に戻れるよう、お前にふさわしい問題を出したるさかい、まあ、気軽に答えろや』
私は大人しく質問を待った。
問い詰めたい部分もあったが、彼女と暮らした世界へ帰るため、問答はとっとと終わらせたい。
私は考える発光体……くまタンの姿を見守っていた。
『よっしゃ決まった。ほんなら、いくで……』
『最高の変態と最低の変態、性質が悪いのはどっちやと思う?』
質問の意味を汲み取れないでいると、ふいに光が弱まった。
『先に行っとるさかい、答えが出たら叫べや』
私が二の句も継げないうちに、畜生もどきは遠ざかりどこかへ消えた。