5 平和国家
私は真相を探るべく部屋を離れた。紳士たるもの礼節と優雅さを欠いてはならず、ゆったりと散歩をするような心持ちで書店へ向かった、わけではあるが、しかし。
「どうやら、今日は汗を流したい気分らしい」
そして優秀な人物とは、どんな小さな目標にでも集中力を発揮してしまうものである。目的地である大型書店の辞書コーナーまで、私の早歩きが止まることはなかった。勢いをそのままに国語辞典で「稲妻」を調べ、そこに記載されていた「いなじゅま☆」を目にするまで、私の集中力が途切れることはなかった。
「……ありえない」
稲妻とは稲光。雷が起こす発光現象。そして稲妻とは稲の妻。落雷の多い土地は豊作になるという経験則があり、お天道様や雨神様と同様、雷神様は恵みをもたらす存在として敬われていたはず。神社のしめ縄は雲と雨と雷を表現しているという説もあったはずだ。
そんな稲作国家である我が国が、いなじゅま☆だと?
青いイナジュマ☆が私を責めるだと?
古来より信仰を集めてきた雷神様とは、いったいどのような萌えキャラだというのか?
虚像に支配され、されど私は己を信じた。
世界の方が間違っているのではないか?
よもや私は、似て非なる世界にいるのではないか?
「なんということだ……こんなにも明確な心当たりが存在するとは……」
私は国語辞典をもとの場所にしまいながら、夢と信じていた出来事を思い返してみた。
あのワープホールのような闇穴は、異世界への入り口であったのか?
あの穴を探し出せば、もとの世界に帰れるのだろうか?
いやまて。
彼女とはすでに出会っている?
ならば、彼女はもとの世界にいるのだろうか?
それとも彼女は、もともとこちらの世界の住人……闇穴の存在を知っていたことから察するに、彼女が異世界の旅人である可能性は濃厚。もしも彼女に、旅の終わりが迫っていたとしたら? 私との別れを惜しむあまり、私をこの世界に送り込んだのだとしたら?
「……待つにせよ帰るにせよ、しばらく様子をみるべきだな」
結論を出すにはまだ早い。
この似て非なる世界について、相違点や危険性を調べる必要がある。
いや、まずは彼女と闇穴の存在を確かめるべく、部屋のなかを入念に調べてみるべきか……。
目的が定まらず集中力を欠いていた私は、辞書コーナーを離れ、出口に向かって店内を歩くさなか、目につく場所に山と積まれた、とある書籍の存在に気がついた。
『日本全国殺人事件』
相当に売れる本でなければ、ここまで山積みにはされない。
ダブルミリオン突破の超大作という派手なPOPも目に入った。
すべての話題作を追いかける癖はなく、読書を楽しむような心境でもないが……危険に対して敏感となっている現在、物騒なタイトルには目を奪われる。
フィクション?
ノンフィクション?
私は店内に流れる軽快なメロディを聞き流しながら呼吸を整えた。紹介文に目を通すことで世界の実情を探ろうとした私は、作品のジャンルを目端にとらえた。
「……トラベルミステリー、だと!?」
ただただ治安が悪いだけの、日本のアンダーグラウンドを描いた作品ではないというのか? 地方それぞれの風習や逸話や観光スポットが醍醐味となるようなトラベルミステリーというジャンルにおいて、日本全国を舞台にするとはどういうことか? もしやあれか? 交通手段を活用してアリバイをつくるほうなのか? いやいや、どちらにせよ異常だ。最低でも47人が殺されるような……無理だ。深刻な社会情勢を背景とした猟奇的な殺人事件が起きるとしか想像できない。
「……いやまて。ほんとうに治安が悪ければ、こんなタイトルの作品が売れるはずもない」
この世界の日本は、もとの世界の日本よりも平和に違いない。
聡明さをいかんなく発揮した私は、この世界で暮らした場合、妻のことを「じゅま☆」と呼ばねばならぬ可能性に思い至った。もしもそうであるならば、「美人妻」や「幼な妻」と紹介する際、それなりの覚悟が求められるではないか。
店内に流れていた、ベリースウィートな少女の歌声がそうさせるのであろう。
私は苦笑を禁じ得ないまま、世界の違いを、生活の変化を楽しもうという境地に至っていた。
「……読んでみるか」
私は新たな一歩を踏み出すべく、この世界の話題作品に手をのばそうとした。
流れていた楽曲がぷつりと途切れる。あまりにも不自然な終わり方に疑問を抱いた私は、あとに続く「緊急放送」というアナウンスを聞き、警戒レベルを引き上げた。
災害?
空襲?
なれば撤退のときであり、一歩たりとも前進してはならない。
世界に不慣れな私は周囲の人々に注目した。立ち読みをやめている、落ち着いた様子の客たちを観察する。どうやら避難は不要であるらしいが、この世界では緊急放送が頻繁にあるのだろうか? 日本政府が全国民にむけて緊急発表を行うとアナウンスされているというのに……。
「国民のみんな、元気してる~? みんなのアイドル♡ ぱみゅー首相だよ☆」
幻聴だろうか? アニメ声の女子が内閣総理大臣を自称したように聞こえたが……店内から歓声が聞こえるが、これも幻聴だろうか? いやまて。私は勘違いをしているのだ。いまのは総理ではない。ぱみゅー首相という名のアイドルが、凝った演出をしているだけに過ぎない。一国の指導者たるもの、どれだけ可愛らしい女子であったとて……もっとも、私は世界を受け入れるほどの度量をもった男。これが世界の相違点であると、受け入れる心構えはしておこう。
よし、オーケーだ。
万が一そうであるとして、この国は平和であるに違いない。
「そろそろ総選挙も近いから、ぱみゅー、いっぱい考えたの。そうしたらね、やっぱり男は顔だとおもったの。この国の未来のためにも、つまんない顔のモテない男は処分した方がいいんじゃない? ってひらめいたから、メンバーに相談したのね。だいたいは賛成してくれたんだけど、ノンちゃんなんかは、死刑にしちゃうと痴漢と区別がつかなくなる~っていうし、マニアックな人たちも大切にしなさいよ~って、エミリーはぷんぷん怒るの」
「だ・か・ら、メンバーでいっぱい相談して、ぱみゅー、決めました☆」
「少数意見は大切にしたいところだけど、日本は多数決国家なのです。かわいそうな男の子がいなくなるよう、たくさんの人たちが気持ちよく暮らせるよう、みんなで男の人を選別しちゃいましょう♡」
「まずは日本在住の女性から処分候補の男の人、その顔写真を投稿してもらいま~す。あとはこっちでいろいろ調べて~、登録した顔写真と情報を公開して~、女性限定のアンケートをとって~、95パーセント以上の人がアウトを選んだら~、処分決定♡ パイプカットしちゃいます☆」
ふたたび楽曲が流れたあと、私は周囲の視線に気がついた。あらためて確認したところ、男性客がほとんどいない。ひそひそと相談していた若い女子たちが、失礼極まりないことに無断で私を撮りはじめる。
私は公共マナーというものを伝えようとしたが、すぐに深々と嘆息することとなった。
教養のない女性が多すぎる、この国の未来は危ういと。
「あの放送……アイドルが口にしてはいけない単語が出てきたということは……」
日本政府の発表であった、とみるべきであろう。私が男前であることを疑う余地など微塵もありはしないが、私の魅力がすべての女性に伝わるかといえばそうでもない。断じてモテないわけではなく、常識的に考えればアウトとなる可能性はひとつとしてないが、ここは異世界である。美醜の基準が逆転している可能性も考慮に入れねばなるまい。
しかし、そもそもモテない男というのは繁殖の機会が著しく少ない存在。そういった男から生殖能力を奪うとは……嫌がらせ以外になにがある? 残念遺伝子を根絶したいのなら、残念な男だけを標的にしても無駄であるはずだ。残念な女性はどうする? この国の首脳陣はどこまで本気なのか? いやまて。先の放送ではなにか作為的なものも感じた……この国の平和は、恐るべき暗部によって保たれているのかもしれん。
もっとも、この国の闇がなんであれ、生物種というものは危機に対応するため多様性を必要としている。似たような存在は似たような弱点を有しているものであり、顔という一点のみに基準をおいているこの国は、将来、深刻な性病が蔓延して滅ぶにちがいない。
「……それに、して、もだ」
全力で走りながら私は考える。
今日という日は、どれだけ汗を流したい気分であるのかと。