3 隠れ穴
私は外出中であろう彼女の身の上を案じていた。
成仏できない男の呪怨が、心配する私の心を侵食していった。
「エア彼女? 私の妄想の産物?」
そんな馬鹿なと振り払う思考を、目を覚ませ、という呪いの返信メールが拾いあげる。幾度も幾度も、女に捨てられた男の怨念が、私を引きずり降ろさんとしてしがみついてくる。ああ、この世に救いはないというのか? 世界に彼女はいないというのか?
私はソファーの前で立ち尽くしていた。
ソファーでゆったりとテレビ観賞をしていたかのような、くまのぬいぐるみの見事な配置具合に感心しながら、どこまでも可愛らしい女子であったなと、再会をあきらめかけていることに気づき自嘲していた。
長々とシャワーを浴びながら、私は逡巡していた。
エア彼女であるはずはない。想像をこえた可愛らしさをもつ、私の愛しい恋人が、妄想の産物であろうはずがない……しかし、気づいたときには部屋にいて、自然と同居生活を営んできた存在ではある。自然発生した恋人が自然に消えていくのは、この世の摂理なのかもしれん。
「……私はもう、彼女との愛を完結させていたのかもしれない」
彼女がいかなる存在であったとしても、彼女との想い出までは消えたりしない。どこまでも可愛らしい女子に対して、愚痴ることなどひとつもない。捨てられたわけでもなんでもないのだ。あのような惨めな男にだけは決してなるまい。
シャワーを止めて、私は決断する。
幻となってしまった彼女の姿をひとつひとつ思い出しながら、顔をあげて浴室を離れた。
「くまタン……だと……?」
洗面所の鏡のなかに、驚き唖然とする男前がいた。
なぜ私の部屋にくまのぬいぐるみがあるのか?
私はぬいぐるみを飾るような少女趣味を持ち合わせてはいない。
あのくまのぬいぐるみは、彼女が持ち込んだものではなかったか?
天啓である。
神に導かれし私は、半裸状態でソファーへといそいだ。
しかし、いない。ソファーに置かれていたはずの、くまのぬいぐるみが姿を消している。
どこにいったというのか。あのぬいぐるみが幻であるはずがない。そんな無意味な二段構えの妄想劇などあろうはずがない。ならば、知れたこと。やはり彼女は実在するのだ。どこかに潜んでいた彼女が、私が浴室にいた隙をつき、ぬいぐるみを隠したのだ。
「やれやれ、なんという遊びを企むのだ」
彼女は私の帰宅が遅いことに御立腹であり、私を驚かしてやろうと考えたにちがいない。
私は己を大いに恥じた。
友人の呪いに抗いきれず、彼女にひとりかくれんぼをさせようとは。
私はパジャマを着こなして、抱きしめる準備を整えた。
この部屋で隠れられる場所など、クローゼットのなかだけである。
もっとも、想定外の可愛らしさを発揮して、違うところに潜んでいる可能性がなくもない。
「さて、くまのぬいぐるみを抱え、いったいどこに隠れたのか……」
これ以上、彼女を待たせるわけにはいかない。私は本命であるクローゼットの扉をジェントルマンらしく静かに開放した……しかし、どうやら状況を整理するために、捜索を中断する必要があるらしい。
まず、彼女はいない。
想定の範囲内なのでこれはよしとしよう。
衣類等々が消えうせていることは完全に想定の範囲外であるが、それもとりあえずよしとしよう。問題は、クローゼットの床に直径一メートルほどの暗い穴が……いや、闇があるのはどういうことか? もはや想定がどうというレベルではなく、理解の範疇にもとどまらない事態である。
SFを想起させる、不思議な大穴。
工具をつかってどうこうしたものでないのは一目瞭然。
まさかとは思うが、彼女はこの穴のなかに隠れ潜んでいるのであろうか?
私は闇のなかをのぞき込んだ。
身を乗り出した私は、直後、何者かに背後から蹴られバランスを崩した。
落ちる。
助からんと試みて身体をひねり、私は目にした。
くまのぬいぐるみを抱きかかえ、ぷんぷん怒っている彼女の姿を。
落ちていく。
暗闇の中を落ちていく。
いや、落ちているのか、浮いているのかも不明である。
私はパニックに陥りながらも大いに悔いていた。
可愛らしい女子を放置するなど、闇穴に蹴り落とされても仕方のない所業ではないか。
「すまない。君をそんなにも怒らせていたとは……君をそんなにも傷つけていたとは……」
どれほど懺悔を繰り返したであろう。
淡い光がみえた。
私の頭上から淡い光が降りてくる。
私の前に発光体が、くまのぬいぐるみが降りてくる。
『お前さっき、ぷんぷんした顔もめっちゃかわいいとか思ったやろ?』
突如きこえてきた、聞き覚えのあるオッサンの声。
その問いかけが、非現実的な渦中にある私の脳髄を雷鳴のごとく駆け抜ける。
理解を超えた直感が瞬時に答えを導き出し、
「当たり前だ!!」
私を衝動のままに叫ばせていた。