三億年前の石
「綾、あなた本当に明日帰るの?」
「うん、お母さんごめんね。また明後日から仕事だから」
「まぁ、それは仕方ないんだけど、たまには帰ってきなさいね、孫の顔も見たいんだから」
久しぶりの我が家である。サービス業の旦那とはなかなか休みが合わず、今年は数年ぶりに十歳になる息子と二人だけで帰ってきた。私たちが住む名古屋からこの東京までは車で三時間程で着く。親不孝とは思う。でも、渋滞だのなんだと考えだすと、ついつい足が遠のいてしまう。
私の部屋は結婚してここを出て行った時のまま手付かずで残されている。主のいなくなった部屋は何処か色あせて埃っぽい。私は窓を開け新鮮な空気を取り込んで部屋を見渡した。今はまだ両親とも元気だが、いつかはここを引き払う日も来るのだろうか。そんな事をつらつらと考えながら学生時代のことを思い出す。
うわー懐かしいな。昔のアルバムを引っ張り出して眺めていると、カランッ、と小さな缶が落ちた。何処かで見たような小さな四角の缶。開けてみると、中には直径二センチほどの真っ黒な丸い石が入っていた。私の脳裏に懐かしい記憶が蘇る。むせかえるほどの草の匂い、土の匂い、そして満点の星空。それは、甘く切ない記憶。
私が幼いころ、毎年夏には京都にある母の実家に行き、一人で住む祖母のところで一週間ほど泊まっていた。京都とは言っても北部の山中にある小さな村である。いかにも日本人の故郷といった風情のその村が私は大好きだった。
そこでいつも会う「コーちゃん」という男の子がいた。遠縁の親戚で、歳は私の一つか二つ上だったと記憶している。
私はコーちゃんのことが大好きで、いつも後をついていた。コーちゃんは都会では出来ないようないろいろな遊びを教えてくれた。魚取り、ザリガニ釣り、蝉やトンボを素手で捕まえたり。都会暮らしの私にとってコーちゃんはちょっとしたヒーローだった。
たしか、私が十歳の時だったと思うが、コーちゃんは宝物を見せてくれた。それは真っ黒な丸い石だった。
「これはな、三億年前の石なんやで」
「へぇー。すごい!三億年前かぁ。」
当時、化石に興味のあった私は目をキラキラさせながらコーちゃんの話を聞いていた。
「ねぇ、三億年前って、恐竜とかがいたのかなぁ?」
「あほ、恐竜とかはもっと後の時代や、三億年前はカンブリア紀っていうて、この世に三葉虫とか昆虫みたいな生物が初めて産まれた時やな」
「へぇー、そうなんだ」
私はその黒い石を手にしながら人類の起源よりはるか遠くの時代に想いを馳せていた。
「これ欲しいなぁ。ちょうだい」
「あほっ、それは俺の宝物やで。あげられるかぁ」
コーちゃんはそう言うと私の手から石を奪い取ると、大切そうにポケットにしまい込んだ。
その翌日の午後、コーちゃんは私にそっと言った。
「なあ、綾、あの石ほんまに欲しいんか?」
「えっ、くれるの?」
「あほっ、アレはあげられへん。けど、ある場所やったら分かる。一緒に探しに行くか?」
願ってもない申し出だった。私は二つ返事で了承し、一時間後、軍手とスコップを持って待ち合わせた。
夏休みの終わりを告げるツクツクボーシの鳴き声が響く中、コーちゃんはいつもの近鉄バファローズの野球帽をかぶり、遊び場の神社がある公園で待っていた。日に焼けた姿は少し大きく見えた。
神社から田んぼのあぜ道を歩き、舗装された県道の脇から森を抜けて山に入った。道はかなり狭く、両側から枝が伸びている。コーちゃんは私が怪我をしないように、邪魔な枝を払いのけて私の道を作ってくれた。しかし、いつまで経っても辿り着く気配はない。
「多分こっちや」
多分?私は少し不安を感じながらも何も言わずコーちゃんについて行く。
「こっちや」
「あれ、多分こっちや」
どれだけ歩いただろうか。太陽は陰り始め、辺りからは虫の声が聞こえてきた。
「コーちゃん、もう今日はいいよ。帰ろうよ」
「そうやな。綾、スマン」
半ば泣きそうな私の声にコーちゃんは歩みを止めて、頭を下げた。責めるつもりなど毛頭無い。私のために探してくれるその思いが嬉しかった。
私たちは来た道を帰り始めた。しかし、道を下ってみたもののいつまで経っても山から抜けられない。そのうちに辺りはすっかり闇に包まれてしまった。
コーちゃんが懐中電灯を付けると周りは少しだけ明るくなったが、その光は電池が切れかけているかのようにチラチラと頼りなく、光が当たらない闇が余計に強調された。
闇への恐怖と、夜の肌寒い空気に震える私の手を強く握り締めながらコーちゃんは前を歩いていた。その手は汗ばんで熱く、そこにコーちゃんの存在を感じ、少し安心だった。
「コーちゃん。お腹空いたよ〜」
「コーちゃん。もう歩けないよ〜」
虫の声やフクロウたちの鳴く声に混じって私の声が辺りに響く。コーちゃんは何も言わず、私の手を握りながら黙々と歩いていた。
「んっ!」
コーちゃんが差し出してきた掌には、アメ玉が載っていた。それを口の中に入れると、オレンジの甘い味が広がった。
それにしても、もう何時間歩いただろうか。少し開けた場所へ出た時には私の体力も限界を迎え、その場に座りこんだ。口には出さなかったが、コーちゃんも限界だったのだろう。疲れ果てた私たちはついに歩けなくなって草の上にへたり込んでしまった。
グーー
辺りに小さな音が響いた。コーちゃんのお腹の音だろう。
コーちゃんも我慢してるんだ。そりゃそうだよね。私と同じで何も食べてないんだもの。
そう思うと、コーちゃんに申し訳ないと思う気持ちでいっぱいになり、我儘ばかり言っている自分が情けなく感じてしまった。
私は舐めていたアメ玉を掌に出し、コーちゃんに手を伸ばした。
「コーちゃん、これ」
と言って掌を差し出すと、コーちゃんは何も言わずそれを自分の口に入れた。
ジジジ………
チラチラと瞬いていた懐中電灯はついに切れ、辺りは真っ暗になった。
しかし、次の瞬間、信じられないものが私の目に飛び込んできた。
「うわーっ」
それは見たこともない満天の星空だった。夜空を埋め尽くす数え切れないほどの星、星、星。それは様々な形で折り重なり、まるで全てが一つの存在として融合されているかのように空を明るく輝やかせている。東京で見るのとは全く違う空に私は息をのみ、しばらくの間見惚れていた。
「凄いね!コーちゃん!」
「ああ、凄いなぁ」
コーちゃんと私は並んで寝転び、星空をしばらく見上げていた。コーちゃんは、無数の星たちを指差し、天の川、さそり座、北斗七星などいろいろな星座などを教えてくれた。
私たちは包み込む周囲の闇への恐怖を紛らすため止めどなく話し続けた。星の話からテレビ番組の話、好きな歌手の話、そして、未来の話へと話題は変わった。
「ねえ、三億年後の地球ってどうなってるのかなぁ?」
「あほっ、そんなん人間は誰もおらんって、それどころか、1999年に人類は滅亡するんやで」
「えー!そうなのぉ?」
「そうや、ノストラダムスっていう人が予言してんねん」
「ってことは、私は二十五歳で死んじゃうんだ。嫌だなぁ」
「うん。まぁ、しゃあないな」
「結婚して、子供が産まれて、四十歳くらいまでは生きたいなぁ」
「うん。でも、人類が滅びたらしゃあないな」
そう言ったコーちゃんの声は何処か投げやりに聞こえた。
私たちの周りには虫の音だけが響いていた。
「死んだら、もうコーちゃんとも会えないね」
「うん。まぁ、しゃあないな」
そして、また少しの沈黙の後、ふっと満点の星空が途切れ、真っ暗な影が私に覆い被さった。
汗の匂いと土の匂い、草の匂い、それら全てがコーちゃんの匂いとなって私を包んだ。そして口の中にオレンジの甘い味が広がった。密着したコーちゃんの身体は熱く、ドクドクという心臓の鼓動が私にも感じられた。そして息遣いは徐々に荒くなり、その手が私の胸に触れた。
「コーちゃん、やめて!」
私は、いつもの優しいコーちゃんとは違う姿に驚き、無意識に彼を突き飛ばしていた。
「ご、ごめん。綾」
私の行動にコーちゃんは毒気を抜かれたかのように小さな声であやまっていた。
「ううん、突然だからびっくりして、ごめんね。コーちゃん」
私はそう言いながらコーちゃんの手を探り、握りしめた。
「ごめん。ほんまにごめん」
コーちゃんの声は消え入りそうに小さくなり、鼻をすする音が聞こえる。私も何故だか涙が溢れ、そのまま私たちは何も言わず、泣き続けた。
気がつくと、もう辺りは明るくなっていた。少し離れたところから車が走る音が聞こえる。
なんの事はない。私たちは県道のすぐ手前まで来ていたのだ。
近くを通るトラックへ手を振り、村まで乗せてもらい、私たちは無事に家まで辿り着く事ができた。父と母に無茶苦茶叱られたのは言うまでも無い。
その夏はもうコーちゃんに会う事はなかった。もしかしたらもう私に近づかないように言われたのかもしれないが、翌日から私が風邪を引いて寝込んでしまったからである。ようやく体調が回復したのは東京に帰る当日だった。
「綾ちゃん。今年は大変やったけどまたきてや」
「うん。ありがとうおばあちゃん」
祖母と挨拶を交わし、車に乗ろうとすると、門のところに封筒があるのに気づいた。小学生らしい文字で「綾さんへ」と書かれている。私は誰にも見られないようにそっとポケットに入れた。
車の後部座席でこっそりと封筒を開けると中に、「ごめんな。さようなら」と書かれた手紙とともに、あの石が入っていた。私が欲しがっていた三億年前の黒い石。
コーちゃん!
思わず窓の外を見ると、少し向こうの田んぼの側に少年が立っているのが見えた。
遠目ではあるが、あの赤と白の野球帽はコーちゃんに間違いなかった。
コーちゃん!コーちゃん!
しかし、私は窓を開けて叫ぶことも、車を停めてくれと両親に懇願することも出来ず、みるみるうちにその姿は小さくなり、やがて見えなくなってしまった。
それが私が最後に見たコーちゃんの姿だった。
その年の冬、祖母が亡くなった。お葬式には出席したが、そこにコーちゃんの姿は無く、結局それ以来京都の家に行くことはなかった。
夏の終わりの涼しい風が私の顔を撫でる。窓の外からはあの時と同じように虫の鳴く声が聞こえている。私は立ち上がり、窓から空を見上げた。東京の星空はあの時見たものとは比べるべくもないが、お盆の澄んだ空に幾つかの星が輝いていた。この星たちは三億年前も同じように輝いていたのだろうか。そして、地上にはもっと大きなこの石があり、虫の音が響いていたのだろうか。私はずっと変わらないであろう自然の姿に包まれながら遥か太古の時代に思いを馳せる。「あほっ。そんな前やったら星座も変わっとるわ」どこかでコーちゃんの声が聞こえたような気がした。
「綾、風邪ひくわよ」
振り返ると母が部屋の入口に立っていた。後ろに息子の姿も見える。
コーちゃん。ノストラダムスの予言は当たらなかったね。私ももう四十歳になっちゃったよ。子供もいるよ。この子もあの時のコーちゃんみたいに誰かにキスをしちゃったりするのかなぁ?
口の中にあの甘いオレンジの味が蘇り、胸がキュンとなった。
「綾、あなた何をニヤニヤしてるの?変な子ねぇ」
「えへへ、ちょっとね」
「お母さん、それなあに?」
息子が私の掌の石を見て尋ねてくる。
私はニッコリと微笑んで、あの時のコーちゃんのように得意そうに教えてあげる。
「これはね、三億年前の石なんだよ……」
最後までお読み頂いてありがとうございます。いつもホラーばかり書いており、純粋な恋愛ものは初めてですので、面白いかどうかも分かりません。こいつ殺さなくていいのか?など悩みまくりながら結局最初の形に落ち着きました。
感想など頂けると嬉しいです。