月の乙女と聖なる守人
昔書いた物語のラストを、大幅に改稿して投稿してみました。楽しんで頂ければ幸いです❤
静かな夜の闇の中、満月がそのまま降りて来たかの如くに、湖面が光を放っていた。
((そなたのその美しさも生まれも武器とすることは叶わぬが、それでも良いのか?))
湖面からそう語りかける声に、少女が頷く。
すると次の瞬間、光の渦が彼女の身体を包み始め・・・再び闇が戻った後の湖畔には、少年らしき子供がただ独り、横たわっていた。
シルヴィアン王国の聖地である峻嶮なるテーゼ山。月光を集めて創られたと伝えられる、聖なるリアナ湖を頂上に抱くその山は、月の女神リアナを守護神とする王国にとっては信仰の象徴である。
満月の晩にリアナ湖で願い事をすると、女神リアナがそれを叶えてくれるという伝説があるが、引き換えに人は時としてその命さえ要求されるとも言われている。
テーゼ山の守人は代々王族が勤めるのが習わしだ。5年前には、品行方正かつ眉目秀麗との噂の高い第三王子のアレクセイ殿下が選ばれ、その栄誉を与えられた。
当時17歳であった彼には、隣国のラグアナ王国に顔も知らぬ12歳の婚約者がいた。だが、彼の入山によりこの婚姻の誓約は、第四王子に肩代わりされたのだという。
聖なる山は王族以外の侵入を頑なに拒否する。よってひとたび入山した後は、アレクセイ王子は独り寂しく守人としての隠遁生活を送る予定だったのだが・・・・。
「何考えてるの、アレク?」
「わっ、ヴィー!いつの間にまた僕のベッドに?!」
初春の肌寒さを残す朝、何やらぬくぬくとした生き物がくっついているのに気付いた王子は、目を覚ますや否や反射的に跳び起きた。
その隣で、ヴィーと呼ばれた天使の様な子供が、短いブロンドの髪を揺らしながら、悪戯っぽく彼に笑いかける。5年前にアレクが湖畔で拾った、記憶喪失の少女だ。
彼女はシルヴィアン王国の王族では無い。アレクも含めたこの国の王族の、漆黒の髪と瞳という特徴は欠片も見当たらない。それなのに、テーゼ山がなぜ彼女の入山を拒まなかったのかは、いまだに謎のままだ。
ヴィーに関してはもう一つ不思議な事がある。当時10歳位の少年にしか見えなかった彼女だが、5年経った今でも全く成長してはいないのだ。外見どころか振る舞いまで、まるで出会った時の少年そのままだ。
その言動は可憐な容姿に似合わず、お世辞にもレディと呼ぶには程遠い。
「ヴィー!君はもうそろそろ、17歳位にはなっている筈だね?大人の女性は夫以外の男性の寝室に入ってはいけないと、何度も言っているだろう?」
シルヴィアン王国では17歳で成人になる。だがヴィーは全く悪びれた様子も無く、再び王子に抱きついて来た。
「じゃあ、アレクがお嫁に貰ってよ。そうすればずっと一緒に居られるもの!」
金色の瞳を輝かせてそう訊ねる彼女をむりやり自分から引き剥がすと、彼は真面目くさってこれに答える。
「先ずは君にかけられている魔法らしき物を解いて記憶を取り戻す事が、聖なる守人としての僕の役目だよ。」
「じゃあ、もしボクの記憶が戻ったら?」
「そうしたら、君には申し分無い嫁ぎ先を探してあげなくてはね。それより、今日は君の『誕生日』だ。ハッピーバースデー、僕の大切なヴィー!」
アレクはヴィーをリアナ湖畔で拾った日を、彼女の『誕生日』としている。
頬に祝福のキスを受けたヴィーはしかし、一瞬だけ悲しそうな表情でアレクを見上げると、今度は怒ったように乱暴に言った。
「ボクでもなかったら、アレクみたいな朴念仁になんか、湖のアヒルくらいしか嫁に来てくれるもんか!」
クァックァッ、とアヒルの真似をしてから思いっきり舌を出すと、実は内心ちょっとだけ傷ついているアレクを残したまま、彼女は勢いよく外へと飛び出して行った。
この日の午後。ヴィーの『誕生日』を祝う為に、久し振りに街へ下りて行ったアレクは、抱えきれない程の御馳走と贈り物を運んで山荘へ帰って来た。
今日は近衛隊長である悪友のジークも、ささやかな誕生日パーティーに参加する予定だ。
日焼けした肌に、明るいプラチナブロンドと優雅なエメラルドグリーンの瞳が魅力的なジークは、有力貴族の三男坊である。その美貌も相まって女性との艶聞が絶えない彼だが、選り好みが激しい為、23歳になった今でも独身のままだ。
王族とは縁戚にあたる彼の入山をテーゼ山は拒まない為、アレクの様子を見に来るのは、専ら彼の役目でもある。
急いで戻って来たアレクが山荘のドアを開けると、いつもなら彼に飛び付いて迎えに来るヴィーの姿が無い。彼女の沓はあるのに、家の中も静かだ。眠っているのだろうか。
アレクは荷物を降ろすと、真直ぐヴィーの部屋へ向かい、ドアをノックした。だが返事は無い。
何度目かのノックの後、「ヴィー?入るよ」そう言って、躊躇いがちにドアを開ける。
部屋の中は静かで薄暗かった。まだ昼間なのに、カーテンが閉まっている。小さな木のベッドの上で、まるい塊が、びくりと動いた。
「ヴィー、寝ているのかい・・・?」
声をかけたが返事は無い。もしやさっきの件でまだ拗ねているのだろうか。
だが、近付いて見ると彼女の姿はそこには無かった。代わりに羽根布団にくるまっているのは、みごとな蜂蜜色の髪を豊かに垂らし、長い睫毛に縁取られた瞳を涙で濡らしている、宮廷でさえ見た事も無いほどの美少女だ。
ほのかにバラ色をさしたミルク色の頬に、澄んだ湖の如き不思議な金色の瞳。形の良い鼻梁の先にある紅い唇は、可憐に咲いた花のように愛らしい。これほど愛くるしい容姿はこの世に二つと無いだろうなどと思いながら、しばし我を忘れて彼女を見つめていたアレクは、「・・・失礼!」ようやく我に帰ると、急いで部屋から出てドアを閉めた。
「すまない。てっきりヴィーが居るものだと思って……君はヴィーの友人かい?彼女がどこにいるのか教えてくれないか?」
ドア越しにそう訊ねたが、返事は無かった。代わりにひっく、と幼い子供のように泣きじゃくる声が中から聞こえて来る。
とまどいがちに、再びアレクが声をかける。
「君、大丈夫かい……?」
だが、その問いかけに泣き声は一層大きくなると、やがて彼女がハープの調べの様な澄んだ声でぽつりと呟いた。
「ひっく……アレク、やっぱりボクが分からないんだ……」
(今、何て…………?)
とまどう彼に向かって訴えかけるように、少女が声を大にして叫んだ。
「ボク、ヴィーだよ、アレク!」
ヴィーの『誕生日』から、早くも数日が経とうとしていた。
彼女の記憶は依然として戻らないままではあるが、ヴィーを取り巻く状況はあれから大きく変わっていた。その一つが、毎朝恒例の行事となったジークの訪問だ。
「お早う、ヴィー!」
「ジーク!」
今朝も朝っぱらから、純白に金糸を施した華美な近衛の制服で、花束を抱えて山荘に立ち寄る彼に、裸足のままのヴィーが駆け寄る。
これまでいつもそうしていた通り、飛びついて彼に抱きつこうとする彼女の後ろから、今日もまたアレクが声を掛けた。
「ストーップ!そこまでだよ、ヴィー!」
両手を広げて、満面の笑顔で彼女を受け止めようとしていたジークが、不満そうにアレクを睨む。
「またおあずけかい?一体いつになったら僕は、この世話焼きばあやのような男無しで君に会えるのだろうね、ヴィー?」
「君の場合は下心が見え見えだからね。ヴィーが成長したとたん、急に毎日通い始めたのがいい証拠さ」
だがジークは全く悪びれずに答える。
「仕方がないだろう?こんなに美しい女性がここに居るのに、一目も見ずにあのムサ苦しい男集団の中で一日中過ごすだなんて、それこそ僕は窒息死してしまうよ」
ジークはヴィーの白魚の指をそっと手にとると、手の甲にキスをする。
「だいたい、僕はどうあれ、君の方はどうなんだい?僕としては、大切なヴィーをこの山荘に君と二人きりにして置く方が、よほど危険なんじゃないかと心配だよ。それに君、気のせいか、目が赤いし、大きな隈が出来ているようだけれど?」
ジークが疑惑の眼差しをアレクに向ける。
「まさかとは思うけれど……君、今でもヴィーと一緒に寝ているわけじゃあ無いだろうね?」
アレクの眼がわずかに宙を泳ぐと、一拍置いた後に白状する。
「…………そのまさかだよ」
「なんてことだ、僕としたことが! 品行方正と言えば聞こえがいいけれど、要するに救いようの無い朴念仁の君に油断をしている隙に、何も知らない清らかなヴィーがあんな事やこんな事まで……!」
絶望したかのように頭を手で覆い、おおげさなジェスチャーで歎く彼に、アレクが抗議した。
「違う、僕は無実だ! 言っておくが、襲っているのは誓って僕じゃない。ヴィーの方なんだ! 昨夜なんて、僕は危うく下着まで脱がされそうになったんだぞ!」
ジークは目を丸くすると、信じられないといった表情で、アレクの腕にじゃれついて来る彼女に訊ねる。
「本当なのかい、ヴィー?」
「うん。だってボク、アレクの子供が欲しいんだもの」
無邪気に答えるその横で、アレクが紅茶を吹き出した。
「だって、せっかくボクが子供を作れる身体になれたっていうのに、アレクってば、赤ちゃんはどうしたら出来るのか、具体的に教えてくれないんだもの。いくら何でも、こうのとりが赤ちゃんを運んで来るっていうことが嘘なくらい、子供だって知ってるよ。」
「こうのとり・・・それはまた古風な・・・」
ジークがぶっと吹き出し、肩を震わせながら笑いをこらえる。だがアレクは憮然としたまま、彼女に言い聞かせた。
「いいかい?僕以外の男に絶対にそんな事を聞くんじゃないよ」
「じゃあ、アレクが教えてくれるの?」
「昨日ちゃんと雄しべと雌しべを使って説明したじゃないか!」
「あれじゃあ余計に分からなくなるよ!だから実際にアレクのを見せてって頼んだのに、ダメだって言うんだもの。アレクのケチ!」
二人のやり取りを聞いていたジークが、とうとう我慢が出来ないといった風に、涙を流して笑い出した。
「こうのとりに、雄しべと雌しべ・・・ぷぷっ、失礼……!ヴィー、何もこんな生きた化石に聞かなくたって、子供の作り方なら僕が手とり足とり教えてあげるよ」
「本当?!」
「本当さ。君のベッドに案内さえしてくれれば、今直ぐにでもね」
ヴィーの肩に手を回してそう囁く彼の頬に、後ろからピタリと冷たい刃が当てられた。
「冗談はそこまでにしてくれないか、ジーク。ヴィー、来るんだ!」
険しい表情で剣を握りしめるアレクを、ジークが両手を挙げたままチラリと見遣る。
去り際に彼は、「ヴィー、一ついい事を教えてあげるよ」そう言って素早く耳打ちをした。
害虫を駆除するかの如くにジークを追い出した後、アレクは椅子に身体を投げ出すと、がくりと脱力する。
ヴィーが世間知らずなのは、確実に自分の教育のせいなのは分かっている。だが成長した彼女に、まさか子供を作ってくれと頼まれる事になるだなんて、思っても見なかった。
(一体何でこんな事になったんだ……?!)
ヴィーがアレクに近付いて来た。そっと彼の肩に手をのせると、何か囁くかのように、唇を耳朶に寄せて来る。
「あのね、ジークが……」彼女の言葉に耳を傾けようとしたアレクの耳へ、ヴィーが突然ふうっと息を吹きかけた。
思わずびくん、と反応してしまった彼は、真赤になって耳を押さえながら、振り返る。
「ヴィーッ!」
彼女は『してやったり』と満足そうににんまり笑うと、きゃーっと楽しげな歓声を上げながら自室へと逃げて行く。
「アレクにこうしてみてって言ってたのー!」
今日もまた成長したヴィーに振り回され続け、げっそりとやつれ果てたアレクは、ジークには打ち明けなかった、ここ数日間の数多の苦難を思い起こす。
試練は最初、一人では大人用の下着もドレスも身に付けられなかったヴィーの着衣の手伝いから始まった。
この山中にはヴィーとアレクの二人しか居ない。仕方無しに眼隠しをして、顔を赤らめながら手伝うアレクの反応に味をしめた彼女が、それからありとあらゆる方法で彼を誘惑し始めたのだ。
いつの間にかどこかから、『夫をその気にさせる新妻の誘惑法《メロメロ編》』などという本まで借りて来て、片っ端から試して行くのだから、心臓に悪いことこの上ない。
更にはアレクの薬学の本から探し出したレシピをもとに、強烈な催淫剤の調合までして、密かに彼に試す始末。
(あの時はさすがに危なかった……)
期待に目を輝かせて追って来るヴィーをどうにか振り切り、なけなしの理性をかき集めて山荘を出て行ったものの、近くの木にまで欲情しそうになる自分に対して、後で激しく自己嫌悪に陥った。
あの後しばらくの間、外で木を見るのさえ耐えられなかったのだ。あんな経験は二度と御免こうむりたい。
(第一、ヴィーは見かけはどうあれ中身はまだ子供だ。子供に手を出すなんて、正気の沙汰じゃない)
近々弟である第四王子の婚礼の儀で、花嫁が月の女神の祝福を授かりに湖へとやって来る。この機会にヴィーを王宮へ行儀見習いに出してみるのもいいかも知れない。寂しくはなるが、それが彼女の為なのだろう。
そんな事を考えながら一日を過ごしたアレクは、夕方になるとジークから土産にもらった鹿のローストとプディングを食卓に並べた。ヴィーを呼びに部屋へ行ったが、彼女の姿はどこにも無かった。
(こんな時間に一体どこへ?まさかまた湖に行っているのか……?)
近頃彼女はこうして、夜中にふと姿を消すことがある。何をしていたのか訊ねた事は無いが、万が一の事かあってはいけない。テーゼ山に人気は無いが、山には野性の獣もいるのだ。アレクはヴィーを追って外へ出た。
今夜は満月がやたらに大きく見える。まるで月の女神リアナが地上に舞い降りて来ようとしているかのようだ。
リアナ湖に近付くと直ぐ、木々の間からヴィーらしき人影が見えた。安堵の息を漏らして声を掛けようと歩を早める。
「ヴィー……」
だが、彼の足はそこで動かなくなった。
湖面が、まるで月そのものと化したかの如くに眩い光を放っているのだ。
そしてその傍らには、湖に向かって祈りを捧げているヴィーの姿があった。まるで湖から放たれる澄んだ光が、彼女の身体を闇から切り離しているかのようだ。
そこに居るのは確かにヴィーだった。だが、憂いを秘めた大人びた彼女の横顔は、どこか別人のようにも見える。
彼が声を掛けるのを躊躇う間に。気が付くと湖の光は、彼女の祈りに呼応するかの如くにその身に纏わり始めていた。
あたかも神に召されるかのように、徐々にヴィーの身体は光の渦にかき消されて行く。
刹那、思わずアレクは大声で叫んでいた。
「ヴィー!」
突然、光が弾けるように消滅すると、夜の静けさが戻って来た。
先程までは一切聞こえなかった梟の声が、再び静寂に響いている。
(何だったんだ、今のは・・・?)
「ヴィー、大丈夫かい?」
気を取り直したアレクが、彼女に駆け寄った。
月明かりに照らされたヴィーが、アレクの姿を見たとたん、一瞬この上なく幸せそうに微笑んだ。
まるで二度とは会えない幻を見ているかのように、切なく、愛おしそうに彼を見詰めながら、彼女は訊ねる。
「アレク、どうしたの?こんなところで」
普段とは別人のような彼女の表情に戸惑いながらも、彼はほっと安堵の息を漏らす。
「ヴィーこそどうしたんだい?急に居なくなったから心配したよ。さあ、早く戻ろう」
「ボクが居なくなって心配したの?」
「当たり前だよ。君は僕の大切なお姫様なんだから」
じゃじゃ馬だけれどね、と一言付け加えられたにも係わらず、彼女は嬉しそうに声を上げて笑った。
だが、山荘へ戻ろうとするアレクに付いて来ようとはしない。
振り向いた彼が、訝しげに彼女の名を呼んだ。
「ヴィー……?」
「アレク……ボクね、本当は記憶が戻ってるんだ」
「……本当かい、ヴィー?!」
驚きながらもアレクは、嬉しそうに破顔する。
だが彼とは対照的に、これまで見た事も無い程悲しそうな表情で彼女は言った。
「うん・・・だけど約束の時が来たから、もうアレクとはお別れしなくちゃいけないんだ」
(え…………?)
突然の言葉に事態が呑み込めないまま、とまどう彼が立ちつくす。
そんなアレクの頬を優しく両手で包み込むと、ヴィーが花の様な唇を、そっとぎこちなく彼の唇に重ねた。
「さよなら。大好きだよ、アレク」
最後に泣き笑いを浮かべてぱっとアレクから離れると、彼女は湖へと駆けて行った。
水面に向かって何やら呟くと、とたんに湖水が強烈な光を放ち出し、ヴィーの身体に纏わり始める。
「何をしているんだ、ヴィー……?!」
光は再び彼女の周りを渦巻いて行き、その瞳を隠すと、次の瞬間、爆発するような閃光を辺りに放ち・・・再び夜の闇が戻った時には、彼女の姿はもう湖のどこにも見られなかった。
ヴィーがテーゼ山より突然姿を消してから、数日後。
久し振りにジークが、公務の為にアレクの山荘に立ち寄った。
第四王子の婚礼の儀の支度を手伝うべく、山守のアレクに必要な物を届けに来たのだ。
「アレク、明日は君の弟君の婚礼の日だというのに、いつまでこの山奥に籠っているつもりだい?今日ぐらいは宮殿へ祝福に駆け付けるのも許される筈だけれど?」
「手紙で説明しただろう?ヴィーが急に姿を消したんだ。なのに僕はこの山から出て、彼女を探しに行く事さえままならない。聖なる湖での禊の儀式は山守の義務として執り行うけれど、祝い事のお祭り騒ぎにまで顔を出す気分には到底なれないよ」
だが、あれほどヴィーに熱を上げていたジークは、あっけらかんと言う。
「ふうん、それは残念なことだね。ラグアナ王国は我が国同様、リアナ神を守護神とするけれど、花嫁のセシリア王女は、幼い頃から女神リアナの加護を受けていることで名高いそうだ。僕も本人を見て来たが、この世に二人と無い美女だったよ。君も見に来れば良かったのに」
「悪いが、興味は無いね」
本当は全く興味が無いわけではない。幼い頃から自分の花嫁になると言い聞かされて来た相手だ。だが、今のアレクにとっては、消えてしまったヴィーの方が遥かに大切だった。
「ふうん、興味が無い、ねえ。せっかく君の為に、花嫁の麗しい絵姿だけでも見せてあげようと、わざわざここまで運んで来てあげたのに」
そう言うと彼は、懐から取り出した、丸めた肖像画を、わざとらしくひらひらとアレクの目の前に広げて見せる。
そんな物に興味は無いとばかり、手振りでそれを拒絶しようとしたアレクはしかし、絵の中の花嫁を一目見るや否や、その姿に釘付けになった。
「これは……ヴィーじゃないか!どうして彼女が……?!」
「彼女は正真正銘のお姫様だったっていうわけさ。しかも、君の元婚約者のね。」
「まさか、ヴィーがセシリア王女だっていうのか?!もしや彼女がテーゼ山に入れたのは、リアナ神の守護を受けていたから・・・?」
「もしくは、シルヴィアン王国の未来の花嫁だからだったのかもね。噂によると彼女は、生まれた時からの婚約者の君に会いに、何度もこっそり宮殿を抜け出した事があるそうだ。君がテーゼの山守になると知ってからは、可哀そうなくらい落ち込んでいたらしいよ。彼女の不在は、婚礼直前まで極秘にされて来たそうだ。行方不明になる直前の肖像画も借りて来たから、良かったら見てみるかい?」
ジークが差し出した小さな絵の中には、愛らしい薄紅色のドレスで無邪気に笑いかけてくる、妖精のような美しい少女が居た。
髪も長く、少年らしさはどこにも見られないが、この笑顔は間違いなくヴィーのものだ。
「見てごらんよ、この愛らしさを!恐らくヴィーはこの後リアナ神と契約を結んだのだろうね。代償として差し出したのは、さしずめ彼女の記憶と、成人するまでの女の子としての人生っていうところかな」
「それなら確かに辻褄は合うが……馬鹿な、彼女は一体何でそんな事をしたんだ?!」
ふいに、アレクに向けられるジークの眼が、冷やかにつり上がった。
「救いようの無い馬鹿なのは、僕の目の前に居るこの朴念仁の方だろうね!どうしてヴィーがそんな事をしたかって?もちろん、幼い頃から恋焦がれて来た婚約者の君の傍に居るために決まっているだろう?!」
「じゃあ、まさか記憶が戻ったヴィーがしきりに子供を欲しがっていたのは……」
「恐らく君が考えている通りさ。成人してしまえば、王女としての婚姻の義務から逃れられない。だが既成事実さえ作ってしまえば、君とずっと一緒に居られるかも知れないと思ったんだろうね」
アレクはヴィーが最後にくれた、ぎこちないキスを思い出す。
恐らく彼女にとってはあれが、生まれて初めてのキスたったに違いない……。
記憶をなぞるかのように、アレクは自分の唇に触れていた。
唇が熱くて、胸が苦しくなる。
そんな彼の様子を、他人事のように見ているジークが言う。
「まっ、ヴィーもようやく君が男として役立たずだと悟って、見限ったのかもしれないよ。どちらにしろ、君に彼女ほどの覚悟がないのなら、このまま放っておくことだね」
僕も彼女を妻にしたかったのに、残念だよ。
そう嘯く彼の言葉さえ耳に入らないまま。
アレクは独り、湖へと駆け出して行った。
婚礼の日の朝は、瞬く間にやって来た。
シルヴィアン王国では、王族に嫁ぐ花嫁はテーゼ山の聖なる湖で禊を済ませ、リアナ神の祝福を受けてから王宮での婚礼の儀に向かうという習わしがある。
湖での儀式が恙無く執り行われるように采配するのは、山守の義務の一つだ。
そして花嫁にとっては、宮廷では会う事の出来ない王族の山守に、挨拶をする唯一の機会でもある。
花嫁行列の輿に乗せられて山を上るヴィーは、この日何度目かの溜息をついた。
(アレク、急に出て行ったこと、怒ってるだろうな……)
アレクは最後までヴィーを女性として愛そうとはしなかった。
彼女はそのことが苦しくて彼の傍に居られず、婚礼の日まではまだ猶予があったのに山から逃げたのだ。
だがそんなヴィーの胸の内など、彼女を子供としか見ていなかった彼には一生解らないに違いない。
輿はやがて頂上に着くと、湖のほとりでヴィーは外に出された。
湖畔に敷かれた豪奢なカーペットの先には、シルヴィアン王国の純白の正装に身を包んだアレクの姿があった。
品の良い漆黒の髪と優しい黒曜石の瞳を揺らして優雅に礼をとる彼は、まるで物語に登場する王子様そのものだ。
思わず見とれてしまったヴィーに、アレクがゆっくりと近付いて来る。
この後彼から祝福の言葉を受ける時が、婚姻前にアレクと話せる最後の機会となるのだろう。
アレクが眼前で止まると、ヴィーも優美にお辞儀をする。
挨拶の口上が終わると、ヴィーが恭しく彼に向って手を差し出した。
これで聖なる山守が祝福の言葉とともに花嫁の手の甲にキスをすれば、儀式は無事終了だ。
ラグアナ王国から花嫁に付き添って来た王族と、彼女を出迎えるシルヴィアン王国の王族や神官達が、儀式の要とも言えるこの光景を、固唾を飲んで見守っている。
(アレク、これで本当にさよならだね……)
アレクの硬い手が、震える彼女の手にゆっくりと近付いて来た。
彼の瞳をもう一目だけ間近で見たいと思うのに、ヴェールが邪魔をしてよく見えない。
(アレク、愛してる……!)
たとえ彼が、彼女を女性として愛してはいなくても。たとえ彼女が今日から他の男の妻になったとしても。
彼女が生涯本気で愛せるのは、きっとこの先もただ一人だけ――――。
涙で曇った視界で、彼の姿がぼんやりと霞んだ。
これでもう、彼の表情を読み取ることすら出来なくなった。
(でも、きっとこの方がいい……)
ここに居るのは、ヴィーと過ごしたアレクではなく、シルヴィアン王国の第三王子にして栄誉あるテーゼ山の山守である、アレクセイ殿下なのだから。
愛するアレクより今から受ける、彼の弟との婚姻を祝福する残酷な言葉に耐えるべく、彼女が身構える。
しきたり通りに守人が、花嫁の手を厳かにとった。
(さよなら、アレク……!)
このテーゼ山で彼と過ごした幸福な日々が、走馬灯のように彼女の脳裏を駆け抜けて行く。
儀式はいよいよクライマックスを迎えていた。
山守であるアレクが、花嫁に祝福のキスを授けるべく、彼女の手の甲に唇を近付けて行く。
そして、誰もがその一瞬を待ち望み、二人の挙動を注目していた、その時。
守人が突然、その手をぐいと彼の方に強く引っ張ると、彼の胸に倒れこんで来た彼女を抱き締めて囁いた。
「おかえり、僕の大事なヴィー」
(えっ……?!)
彼女が弾けたように彼の顔を見上げた。
驚く一行の間に、にどよめきが広がる。
随行していたジークが、こっそり口笛を吹くのが視界に入った。
「どうしたの、アレク……?!」
ラグアナ王国の神官達が、彼を花嫁から引き離すべく駆け付けて来る。
ラグアナ王国の賓客から、悲鳴と怒号が次々に上がった。
だが、守人は花嫁をしっかりと抱き締めたまま、離そうとする気配すらない。
彼が彼女の手を握りしめたまま、湖に向って叫んだ。
「リアナ神よ、どうか!」
すると、まるで彼の願いを女神が聞き届けたかの如くに。
ふいに彼等の周りの風景が、不自然に歪んだ。
そして、次の刹那。テーゼ山の湖畔に再び静寂が訪れる。
気が付くと王家縁の付人達の姿はどこにも無かった。
今や壮麗な花嫁の一行の、気配ですらも感じ取れない。
花嫁姿のままヴィーは、いつの間にか見慣れた家の中に立っていた。
アレクとヴィーが5年間一緒に過ごした懐かしい山荘だ。
「おかえり、ヴィー」
花嫁のヴェールをとった彼が、驚いた様子も無くそう笑いかけてくる。
彼女の頬に優しくキスするアレクに、とまどうヴィーが訊ねた。
「アレク、一体どうなってるの、これ?!」
だが彼は、狐につままれたような顔をしている彼女を愛おしそうに抱き締めると、答える代わりにそっと彼女の涙の痕に唇を寄せた。
ヴィーの頬に、そして額にと、彼女の存在を確かめるかのようにキスを繰り返した後。
ようやく顔を上げた彼が、返事をした。
「昔の君と同じ事をしたんだ。リアナ神に頼んで、君が出て行く前に時を戻して貰った。」
「――――!」
驚きのあまりに息を飲んだヴィーが、雷に打たれたようにアレクを見上げた。
リアナ神は願いを叶える代わりに、時には願い手の命すらも奪って行く。
少なくとも、手痛い代償も差し出さずに願いを叶えて貰えることなど有り得ない。
蒼い顔をして彼女が縋りついた。
「じゃあ、アレクは引きかえに何を捧げたの……?」
「僕の命」
「アレクッ……!」
ヴィーが絞り出すような声で悲鳴を上げた。
「……じゃなくて、本当は、君が僕の弟の花嫁だったという皆の記憶を女神に捧げたんだ」
涙を滲ませたヴィーは、ほっと安堵の息を漏らしたかと思うと。
今度は彼を睨んで責めた。
「ええっ、ずるっ!自分のじゃなくて人様の記憶を引き換えにしたの?!」
だが彼は、真直ぐに彼女の瞳を見詰めながら、真摯な声音で続けた。
「……それと、僕の君への恋が実らなかった時には、この命を神に差し出すこともね」
「え……?」
彼女の瞳が戸惑いに揺れた。
熱を帯びた双眸でヴィーを捉えながら、アレクは静かに彼女の手を取り、ゆっくりと跪いた。
「ヴィー……セシリア王女。君を心から愛している。ずっと待たせていてすまなかった。どうか今すぐ僕の花嫁になってくれないかい?」
「――――アレク?!」
君にラグアナ王国の王族らしい生活は、保障してあげられないけれど。
そう付け足す彼の口調は、シルヴィアン王国のアレクセイ王子のそれではなく、これまで一緒に暮らして来た懐かしいアレクのものだ。
ヴィーは信じられないといった風に思わず両手で顔を抑えると、震える声で抗議した。
「……これじゃあまるで脅迫じゃないか!第一ボクの事だって、今迄ずっと子供扱いして来たくせに!」
「ようやく気が付いたんだ。君に出会った時から、僕はとっくに他の誰でもなく、君だけを見ているんだってね。」
「ずるいよ、今さら・・・!」
あふれる涙を拭いながら、ヴィーがこくりと頷くと、アレクが再び彼女を抱き締めた。
しばらくして彼が彼女を離すと、顔を上げたヴィーに、愛しげに微笑むアレクの面がゆっくりと近付いて来る。
目を閉じたヴィーの唇を、彼がそっと優しくついばんだ。
最初は優しく、蕩けるように甘いキス。そして堰を切ったように情熱的なキスの嵐が、彼女の全身を敏感に絡め取って行く。
やがてアレクは唇を離すと、無言でヴィーを抱き上げた。
そして、ふと何かを思い付いたような顔になると。
彼が、ぼうっと呆けてている彼女の耳朶に、ふいに息を吹きかけた。
「きゃあっ!」
思わずびくん、と反応したヴィーが、真赤な顔でアレクを睨みつける。
「いつかのお返しだよ」
だが、悪戯っぽくそう言ってのける彼に、彼女は真顔で返した。
「ダメだよ。アレクは子供が作れない身体なのに、そんなボクを誘うような事をしたら」
「……一体誰が君にそんな事を吹き込んだんだい?」
「ジークが。アレクには内緒だよって」
アレクが一つ、それはそれは大きな溜息をついた。
「今からジークがいかに嘘つきかっていう事を証明して見せるよ……覚悟はいいかい?」
これから何が起こるか分かってはいても、改めてそう言われてしまうと、何だか急に落ち着かなくなって来る。
心臓の鼓動が早鐘を打ち始め、思わず体を固くした彼女の様子に気づいた彼が、優しく目を細めると耳元で囁いた。
「愛しているよ、ヴィー」
二人が入って行った寝室のドアが、ぱたりと音を立てて閉まった。
**********
あれから三たび季節は巡り――――。
満月が皓皓と下界を照らしている、ある夏の晩に。
人気の無いテーゼ山の湖畔で、再び一人の少女がリアナ神に祈りを捧げていた。
彼女の熱心な祈りに応えて女神が姿を現わすと、亜麻色の髪と瞳を持った美しいその少女が、願いを告げる。
リアナ神が、願いを叶える代償としてある物を要求すると、しばし迷った後に彼女が頷いた。
リアナ神が、彼女に念を押す。
((あの者が男を愛することは決してないが、それでも良いのか))
「……それでも構いません、どうかわたくしを、せめて成人して嫁がされる日が来るまでの一年間は、あの方のお傍に……」
((その願い、しかと聞き届けた))
女神がそう答えると、湖を照らす月の光がまるで昼間のように周囲を照らし出した。
光の渦に飲み込まれてゆく少女を残したまま、リアナ神が何処へと去って行く。
そして、いつしか湖畔に元の静寂が戻った時。
その場には意識を失った一人の少年が、闇に溶け込むようにして横たわっていた。
翌日の朝。
テーゼ山にある山荘では新しい守人が、シルヴィアン王国第四王子であるウィリアム王子の訪問を受けていた。
ドアをノックしてからしばらくすると、眠そうな顔をしたジークが扉を開ける。
「ウィル、どうしたんだい、こんな朝早くに……」
「お早うございます、ジーク。その様子だとやはり、今日は月湖祭の日だということは、きれいさっぱり忘れている様子ですね」
アレクによく似た黒曜石の瞳を眇めると、几帳面なウィリアムが責めるように答えた。
「お蔭でアレクは今日、夜明け前から祭りの準備で大わらわです。本来ならばこれは、あなたが昨日やるべき仕事でしたのに……」
「ああ、それはすまなかった。何しろここにいると退屈で、日づけすら分からなくなることがよくあるのでね」
アレクとセシリアの長男であるハリー王子が三歳になった時。アレクは、テーゼ山では王族としての教育が出来ないという理由で、家族ごと王宮へ戻って行った。
そして、代わりの山守として白羽の矢が当たったのが、未だに独身近衛として浮き名を流していた親戚のジークだった。
王命とあっては逆らうことも出来ずに、泣く泣く守人となったジークである。
本人には悪気は無いのだが、やる気ももちろん皆無な為、これまでにも度々こんな事が起こっていた。
かといって、独身の適任者が他に居ない今、周囲は彼の行状を苦々しくは思いつつも、大目に見るしかないのが現状だ。
ジークもそれを見越しているせいか、いつまで経っても彼は一向に聖職者らしくなろうとはしない。
「失礼」
そう断ってから、ジークが大きなあくびをすると、ウィリアム王子が不快そうに顔を顰めた。
「――――酒くさい! ジーク、あなたまたお酒を飲んでいるんですか?!」
彼が全く悪びずにしれっと返す。
「仕方ないだろう? 毎年セシリア妃に子供を産ませているアレクと違って、ここには僕を慰めてくれる美女など一人もいないのだからね」
(それにしても、あの真面目くさったアレクがもうすぐ三人の子持ちになるとはね……世の中、何が起こるか分からないものだ)
それに比べて、とジークは我が身を省みる。
(僕はどうやら、つくづく女性運には恵まれていないらしい)
求愛してくる女性にはこと欠かないとはいえ、その中に彼のお眼鏡に適う女性など、まず居ない。
万が一そんな女性に出会えたとしても、彼女が彼の物になるとは限らない。
つい先日も、暴漢に襲われていた馬車を助けた時、中に乗っていた可憐な美女に強く心を動かされたのだが、蓋を開けてみれば彼女は、セシリア妃の従姉妹でラグアナ王国の王族だった。
(確か、クリスティーナという名だったっけ……)
ジークは名門貴族の子息であり、王族の血も流れているとはいえ、本物の王子どころか三男坊のしがない近衛だ。
「セシリアからお話しを伺っており、お会い出来るのを楽しみにしておりました」などと笑顔を向けられたところで、久し振りに彼に芽生えた恋心は、身分の差に一瞬にして摘み取られてしまったのである。
酔っ払った彼の体たらくに、ウィリアムが諦めたように大きな溜息をつくと言った。
「そんな酒くさい息をして、今から王宮の祭司を努めるなど無理です! 今日のところはアレクが代わりを努めますから、せめてあなたは、山でリアナ神への供物だけはきちんと捧げておいて下さいね!」
ウィリアム王子が、祭祀に必要な物資を幾つか残して去った後。
ジークはそれらをまとめて袋に放り込むと、重い頭を抱えたままリアナ湖へとやって来た。
山の退屈さには辟易していた彼だが、この湖の静謐な美しさは、決して嫌いではない。
湖畔に建てられた小さな神殿に供物を捧げると、夏の日差しに目を細めながら、彼はアレクが昔セシリア妃を「拾った」という湖の周囲を、当て所もなく歩いて行った。
そういえばこの辺りは、彼が当時ヴィーと呼んでいたセシリア妃が、まるで少年のような姿のまま倒れていたという場所だった。
歩きながらジークが独り呟く。
「ああ、リアナ神よ、どうかしがない僕にもいつの日か、セシリア妃のような清らかな美女を与え賜え!」
芝居がかった調子で本気とも冗談ともとれるような科白を口にした時。
ふいに、行く手の木陰に人が倒れているのが目に止まって、彼が軽く息を飲んだ。
(こんなところに、人が……?!)
だがテーゼ山は、女神が認めた者以外の入山を頑なに拒む。
この者がただの行き倒れである可能性は、限り無く低かった。
(もしや彼女(、、)は、リアナ神が僕に与え賜うた美女なのか?!)
一瞬だけ期待に胸を躍らせたジークはしかし、はだけた少年のシャツから覗いている、紛れもなく平らな胸を見たとたん、がっくりと肩を落とした。
(そんなうまい話が、そうそうあるわけないか……)
それでも彼は急いで少年の息を確かめると、そっと彼を抱き起こして声をかけた。
「おい君、大丈夫かい?」
「う……ん……」
少年の髪と同じ亜麻色の瞳がゆっくりと開かれると、次第に眼前のジークに焦点を合わせて行く。
開かれた彼の瞳がジークを捉えた時。
少年が、この上なく嬉しそうな笑顔をジークに向けて来た。
ジークの胸が一瞬、トクンと高鳴る。
(似ている、クリスティーナに……!)
ふと彼の脳裏に、アレクとともに居たいが為にリアナ神と取引をしたという、セシリア妃の一件が浮かび上がった。
(まさか、ね……)
そんな都合のいい話が、そうそう転がっているわけなどない。
酔いを追い払うべく頭を振ると、彼が少年に訊ねた。
「見たところ、特に怪我はなさそうだね。僕はこのテーゼ山の守人のジークだよ。君の名前は?」
「クリス」
「え……?」
「僕のことは、クリスと呼んで下さい」
焦がれるような瞳を真直ぐに彼に向けながら、少年はそう答えた。
そして物語はまた、ここから始まる――――。