はじまりの日 2
いくら子どもとはいえ、全体重をかけられた蔦が耐えきるかなどわかったものではない。途中で千切れないにしても、なにしろぶっつけの行動だ。シミュレーションもなにもない。
一本の蔦を頼りに飛び出して、自分の身体がどのように運ばれるかという計算があったわけでもなかった。そもそも、そのために必要な知識自体がない。ただ、蔦にぶらさがって飛び出した先に運良くモンスターの姿が近づいてくる幸運を、カリュは感謝した。
「ジニィに、手をだすなあああ」
蔦を持ったままでは、直接ゴブリンにまでは届かない。加速の最下点を越え、視点が一瞬、空を上向いた瞬間に手を離して、そのまま宙を舞った。
横合いから体当たり。
カリュはゴブリンと一緒くたになってもつれた。
受けた衝撃は大きかったが、不意をつかれなかった分カリュのほうがダメージは軽減されている。地面を転がってなんとか受身らしいものをとり、ふらつきながら立ち上がった。
「カリュ!」
駆け寄ってきたジニィは涙目だった。
「バカ! なんで村に行かなかっ――」
たんだ、と言い切ることがカリュはできなかった。わきばらに衝撃を受け、痛みを感じる前に身体ごと吹き飛ばされていた。
息が詰まる。
全身がしびれて受身を取れず、顔で地面をこすりながら地面を滑った。土のにおいをかぐことがなかったのは、呼吸自体ができていないからだった。遅れて全身に響いた激痛に身悶える。
「カリュ!」
涙にぬれた視界に、自分に駆け寄る幼なじみの姿が見えた。その後ろには、奇襲を受けて平然とした顔のゴブリン。
「カリュ、カリュ!」
助け起こされながら、いまだに呼吸はととのわない。息もたえだえにカリュはジニィに言った。
「……火、出して」
「はやく――はやく逃げようよぅ」
「だして!」
びくりと肩を震わせたジニィが、目を閉じて集中。
ぽうっと頼りげのない火の玉が浮かんだ。
それを見たゴブリンが鼻を鳴らす。速度もなければ威力もない。追い詰めた獲物を前に完全にあなどった態度だった。
上等だ。歯を食いしばり、カリュは立ち上がる。ふらりとよろけそうになるのを横から支えられ、つっけんどんに突き放した。
「ジニィは村にいって」
「カリュ……」
「大丈夫」
にやっと笑う。完全にまるっきり、強がりの笑みだった。
「戦利品、持って帰るからさ。――できれば誰か呼んできてくれたら嬉しいけど」
はっと気づいた様子で、ジニィが唇を噛み締めた。うなずく表情に後悔の影がさすのを吹き飛ばすように、もう一度笑った。
「ほら、いって!」
言いながら、自分はゴブリンにむかって駆け出した。
手には取り出したつぶてがいくつか。腰の袋はすでに空っぽで、弾はいま握った分だけで全部だった。
予備動作が必要なスリンガーは使えない。
痛みのある身体では投てきも満足にできやしない。たとえカリュの五体が満足でも、たかたが子どもの力で投げつけた石ころでは、よほど幸運に恵まれない限り相手を昏倒させることはむずかしかった。
そんなやぶれかぶれに、命を賭けるわけにはいかない。自分のものだけならまだしも。今はまだ、すぐ近くにジニィがいるのだから。
少年を迎え撃つようにゴブリンが棍棒をかまえる。その途中、ふよふよとたよりなく宙をいく火の玉が見えた。相手との直線上にあって邪魔なそれを、カリュは虫を払うようにあいた左手で握りつぶした。
貧弱とはいえ、火。てのひらに激痛が走った。視界がにじむ。
しかし視界を閉じたら敵が見えなくなる。涙をぬぐえば隙ができる。だからカリュは涙を流しながら歯をくいしばって痛みに耐え、渾身の力で右手を振りかぶった。
つぶてが放たれる。
飛来したそれを、ゴブリンはあっさりと盾で防いてみせた。
棍棒での反撃。
大上段からの打ちおろしが振り下ろされた。
ぎりぎりのところで避ける。手持ちの武器を使い果たしたかに見えたカリュは、そこからさらに踏みこんだ。加速して飛び上がる。
右手に残ったつぶてはない。徒手で殴り合おうという蛮勇でもない。それよりはもう少しだけ、ましな考えだった。
武器ならまだ残っている。
それを、カリュはさきほど手に入れたばかりだった。
重い棍棒で地面を打ち、前のめりにゴブリンの頭がさがっていた。もともと小柄なこともあり、その顔面はカリュの身長でも手が届く範囲にあった。
カリュは腕を振るった。
振るわれたのは利き腕でもなければ握りこぶしでもなく、掌ていのふうになっているのは、拳が傷むのを避けたからでもない。
手のひらに包んで燃える火の玉以下のそのかたまりを、カリュはゴブリンの目めがけて押しつけた。
耳をつんざくような悲鳴。
貧弱とはいえ、火だ。生木を燃やすどころか、枯れ木相手の火種にもなりそうにないそれだったが、さすがに目にぶつけられてはただではすまない。
とはいえダメージは期待できない。
せいぜい、相手をびっくりさせてひるませるくらいが関の山だった。
カリュは息をつく間も惜しみ、無防備に急所をさらした相手の股間を蹴り上げた。
今度こそ痛みによる悲鳴。右手の武器をとりおとして、ゴブリンはその場にうずくまった。
地面の棍棒を遠くに蹴り飛ばし、カリュはすぐそばに垂れ下がった蔦をつかんでゴブリンの足に結んだ。その腰に短剣を見つけ、手を伸ばす途中でゴブリンが腕を振るった。
片腕でなぎ払われ、ごろごろと地面を転がる。
「へへっ」
立ち上がったその口元に笑み。手には間一髪、ゴブリンの腰から手に入れた短剣が鞘ごと握られている。
「――っ」
「やだよ。返してほしければ、かかってこいよ」
憤慨した形相に挑発した口調で応えて、ちらりと背後をふりかえった。
ジニィの姿はない。森をいく足音も聞こえない。
よし、と安堵の息をもらす。これで最低限、果たすべき目的はクリアした。
さあどうする。逃げる?
それとも――
胸中の問いに自ら無言で、カリュは鞘から短剣を抜き払った。
「――おのこよの」
不意に響いた言葉に、ぎょっとカリュは周囲を見渡した。
誰の姿もない。
声もない。
幻聴か、と思ったところで、ゴブリンが吠えた。
「――!」
突進してくる。数歩走ったところで結われた蔦につんのめった。
態勢を崩したゴブリンの隙を見逃さず、カリュは飛び掛った。腰だめにかまえた短剣で、身体ごとぶつかる。
狙いははずれようがなかった。胸当ての脇をねらった短剣の刃がモンスターの身体に突き刺さる。
しかし、それでもその一撃は、致命傷にはほどとおい深さでしかなかった。
「!」
至近距離で振るわれた拳がカリュの身体を吹き飛ばした。
意識がとびそうになるのをこらえて、なんとか起き上がる。張られた頬が熱かった。口の中に血の味が広がっている。手には短剣がなくなっていた。
「おろかでもある。連れの逃げる時間をかせぐのが目的だったはずなのに、どうして逃げださんかった」
再び、声。今度はカリュは意識を揺さぶられなかった。
幻聴か、あるいは森で人間を惑わす妖精のささやきか。確かに耳に聞こえるその声を無視した幼い眼差しは、一心に目の前のモンスターに向けられている。
怒り心頭のゴブリンが、自分の血に濡れた短剣で蔦を切り払った。
――さあ、どうする。
あやしく響く声とはなんら関わりなく、この場に至って、逃げ出すという選択肢はカリュにはなかった。
罠はばれ、武器はつき、目の前には傷ついてなお強大な敵が立つ。
それでもなお自分を奮い立たせるものがなにか、カリュは不思議に思ったが、深くは考えなかった。
身体の奥に熱いなにかがたぎっている。それをなんと呼ぶものか、知っている気がした。
父が、祖父が言っていた。
なにがあっても、それだけは決して失くすなと。
女を守る。モンスターと戦う。男が男であるために必要な、その偉大な感情の名は――
「あほぅ。そんなものは勇気といわん。蛮勇というのよ」
声に、わずかに怒気がこもったように聞こえた。
ゴブリンの咆哮。
カリュも雄たけびをあげてそれに応えた。今度こそなんの策もない徒手空拳。握った拳でゴブリンに立ち向かい、その目の前で、不意にゴブリンの全身が火を噴いた。
「……っ」
火柱が荒れ狂い、熱気がカリュの髪を灼く。
ぽかんとして、カリュはその場に立ちつくした。
燃え盛る炎のうちから、悲鳴じみたものが切れ切れに届く。あるいはそれは、ものが燃えている音そのものかもしれなかった。
やがて火が収まったあと、声もなく崩れ落ちたゴブリンは完全に炭化してしまっていた。
皮膚を焼く程度ではない、圧倒的なまでの火力。
ぞっと身を振るわせたカリュは、見知らぬ何者かが立っていることに気づいた。
麻織りのローブに身を包んだ、旅人の装いをした人物だった。フードに隠された顔までは見えなかったが、流れるような銀髪と浅黒い肌がのぞいている。声で女性だということはわかった。
「あ、ありがとう――ございます」
あわてててお礼をいいながら、カリュは目の前の人物の素性に気づいていた。
――冒険者。
冒険者の、魔法使い。ジニィのような無手勝流ではない、本物の。恐れと感謝をないまぜにして頭をさげるカリュに、その女性はふんと鼻を鳴らした。
「ぬしゃあ、こんなことをいったい何度くりかえしておるのかよ」
「え?」
質問の意味がわからず、きょとんとする。苛立たしそうな舌打ちが聞こえた。
「……まあいいわ。わっぱ、このあたりで腹に怪我をした女を見なかったか? 竜でもかまわん」
竜。
そんな大層なモンスターなんて、もちろん見たことがあるはずがない。激しく首を振るカリュに、女性はならどうでもいいとばかりに背中を向けた。
「ほれ、はよう帰れ。女を泣かすな。せっかく助けてやった今生じゃ。ありもしない頭で考えられるなら、次に捨てるときはもう少しマシに扱うがいい」
言い捨てて、女性は森の奥へと消えていった。
残されたカリュはしばし呆然と女性の消えたやぶを眺めていた。
緊張がとぎれたせいで頭が働かない。
どうやら命拾いをしたらしいという実感も沸かず、全身には奇妙な空虚感がある。敵を倒したのは少年ではないのだから、それも当然かもしれなかった。
どれほどのあいだそうしていただろうか。
懸命に自分の名前を呼ぶ声を遠くに聞き、カリュはようやく茫然自失から回復した。
ジニィの声だった。大人たちもいる。村から助けがやってきたらしかった。もう、その必要はなくなってしまったけれど。
村の方角へのろのろと歩きはじめ、その途中で思い出したようにゴブリンを振り返った。
モンスターの死骸は完全に炭化してしまっている。戦利品など手に入る様子ではなかった。そのことに残念さをおぼえるのでもなく、カリュはその場から離れてジニィたちとの合流をはかった。
もう一度振り返る。
執着はゴブリンではなく、そこで出会った旅人、正確にはその言い放った台詞に残っていた。
ほどなくジニィに引き連れられた大人たちと合流したカリュは、さんざんに叱られた。
父親がわりのジニィの父親から思い切りどつかれ、村に帰ったら親父さんからもっと殴ってもらえとすごまれてげんなりとなる。
しかし、村の大人たちはカリュの身を案じてのことだったから、それがわかるカリュはごめんなさいと頭をさげることしかできなかった。
一番相手にこまったのはジニィだった。
涙をいっぱいにためて抱きついてくるジニィをもてあましながら、カリュは危ないところを冒険者風の誰かに助けられたことを大人たちに話した。
カリュが外に出るまで、村にはそうした冒険者は来ていなかった。自分がいないあいだに訪れたのかと思ったが、そんな客はやってきていないという。
ということは、これから来るのか。それとも近くに寄っただけかもしれない。
寄ってくれればお礼をするんだがなぁ、と残念そうな大人たちに護られながら、カリュとジニィは村への帰路についた。
お礼。そう言われて、それならまた話ができるかなと考える。もちろんお礼も言わないといけないのだけれども。
しかし、カリュにはそういうことにはならないような気がしてならなかった。
もう自分はあの人と出会えないという予感があった。
理由はない。なぜそう思うのかもわからなかった。勘というしかない。
それを残念とも思わなかった。
ただ、胸のなかにはさきほど聞いた台詞、その単語が強く残っていた。
――竜。
竜が、いる?




