第1話「一緒に生きてほしい」
石造りの回廊を抜けると、王城の広間から響いていた拍手と歓声が、夜の空気の向こうへ遠ざかった。
森宮花帆は、手入れされた庭の低い石垣に背を預け、深く息を吐き出した。張りつめていた肩から、ようやく力が抜けていく。
式典用に整えられた服の袖口を少しだけ緩めると、夜風が熱を持った頬を撫でた。
魔王の核を浄化し、王都へ戻ってからまだ幾日も経っていない。城の中はどこも祝福の灯りで満ちていて、顔を合わせる誰もが聖女と勇者の功績を称えてくれた。
けれど、花帆が一番ほっとするのは、こうして人波から離れた静かな場所だ。
「やはりここだったか」
聞き慣れた落ち着いた声がして、花帆は顔を上げた。
回廊の影から歩いてきたアレクシスは、両手に白い陶器の杯を持っている。明るい茶色の髪が庭の灯りを受け、灰青の目が花帆を捉えてやわらかく細められた。
礼装の上着のボタンを一つ外した姿は、広間で大勢の視線を受けていた時よりもずっと普段の彼に近い。
「アレク。抜け出してきて大丈夫だったの?」
「挨拶は一通り済ませた。それに、君が風に当たりたそうな顔をしていたからね」
彼は隣へ歩み寄ると、片方の杯を差し出した。受け取った陶器からは、湯気と一緒に甘い柑橘と蜂蜜の香りが立ちのぼる。
「ありがとう。これ、前に町の宿で飲んだのと同じ匂いがする」
「よく覚えているな。果実の皮を少し入れてもらったんだ。君は、ただ甘いだけより香りが立つ方が好きだろう」
「うん。すごくおいしい」
一口飲むと、温かい甘みが喉から胸へ広がった。旅の途中で一度だけ口にして、花帆が気に入った飲み物だ。
何気なく言った好みを彼がいつも覚えていることがうれしくて、花帆は杯を両手で包み込んだまま微笑んだ。
アレクシスも自分の杯に口をつけ、花帆のすぐ隣に並んだ。空いた方の手が自然に伸びてきて、花帆の指先に触れる。
冷えていた指を確かめるように、大きくて温かい掌が片手を包んだ。花帆が指を絡めて握り返すと、彼は少しだけ口元を緩めた。
この世界に召喚されてから、十二か月が過ぎた。
最初は言葉も土地の名前も分からず、無事に役目を果たせるかどうかも不安だった。
それが今では、彼の歩幅も、考え事をする時に少しだけ視線を落とす癖も、隣に立った時の体温も、当たり前のように馴染んでいる。
「ようやく、終わったんだな」
アレクシスが夜空を見上げて言った。
「来月の道順も、野営の見張り番も、結界の汚染度も、もう心配しなくていい」
「本当にね。明日の朝、地図を広げて近道かどうか言い合わなくていいなんて、まだ少し変な感じがする」
「あれは言い合いではなく、作戦会議だ」
「あ、そうだった。ごめんなさい、勇者様」
花帆が冗談めかして笑うと、彼も小さく噴き出した。肩が触れ合う距離で笑う度、戦いが終わったのだと実感できた。
「これからは、急いで馬車を走らせる必要もない」
アレクシスは杯を石垣の上に置き、花帆の方へ向き直った。
「落ち着いたら、王城の近くではなく、もう少し静かな町に家を持とうと思っている。大きな屋敷はいらない。庭に少し木があって、日当たりのいい食堂があれば十分だ」
「窓の近くに、本を置く棚も作れる?」
「ああ、好きなだけ並べればいい。朝は同じ食卓でパンとスープを食べて、昼は市場を歩いたり、まだ読んだことのない本を探したりしよう。雨が降ったら、またあの盤上遊びで勝負してもいい」
「この前は私の勝ちで終わっているから、次はアレクが挑戦者ね」
「手厳しいな。なら、毎日でも再戦を申し込むさ」
彼が思い描く暮らしは、豪華な褒美や名誉とは関係がない。
朝起きて、同じテーブルで食事をして、今日見つけた面白いものや美味しかった菓子の話をする。今日までの旅の中で、二人が少しずつ積み重ねてきた時間の続きだ。
彼が勇者として背負ってきた重責。それに押しつぶされそうになりながらも決して逃げ出さなかった背中を、花帆は一番近くで見てきた。
自分自身のことはいつも後回しにする彼が、今、自分のために小さな家と静かな朝食を望んでいる。その穏やかな日々を誰よりも彼に与えてあげたい。
そして、その隣に自分がいることを許されるなら、どれほど嬉しいだろうか。
花帆の胸の奥が、甘い熱で満たされていく。
日差しの入る窓辺で本を開き、顔を上げれば彼がいて、夕方には二人で献立を決める。
そんな毎日がもし本当に訪れたら、どんなに幸せだろう。そう思った瞬間、唇が自然と「うん」と動きかけた。
「花帆」
アレクシスは、花帆の両手を自分の両手で包み込んだ。
灰青の瞳が、まっすぐに花帆を見つめている。冗談を言っていた時の柔らかい目ではなく、少し緊張した、けれど迷いのない眼差しだった。
「役目が終わったから言うんじゃない。旅の途中で、君と話し、君と笑い、君が隣にいてくれる毎日を知るうちに、ずっとそう願うようになった」
彼の手の平が、花帆の指先を強く、けれど痛くない力で握りしめた。
「ここで、俺と一緒に生きてほしい。俺と結婚してください」
風が木々の葉を揺らす音だけが、はっきりと聞こえた。
花帆は息を呑み、彼の顔を見上げる。
好かれていることは分かっていたし、自分も彼を愛していると伝えていた。
それでも、全ての戦いを終えたこの夜に、生涯を共にする言葉をまっすぐに向けられて、胸がいっぱいになる。
「……アレク」
視界が熱く滲み、こらえるより先に涙が一粒、頬を伝って落ちた。
彼が自分の手を握り、当たり前の日常を一緒に過ごしたいと願ってくれたことが、たまらなく嬉しい。
花帆が自分のために何かを望み、誰かの隣でただ笑って暮らす未来を、これほど真剣に求めてくれる人が目の前にいる。
頷きたい。
このまま彼の手を握り返して、あなたの側にいると答えてしまえたら、どれほどいいだろう。
繋がれた彼の手の温もりにすがりつき、もう何も考えずにこの幸福な世界へ身を委ねてしまいたい衝動が、波のように押し寄せる。
けれど、言葉にしようと開いた唇が、途中で止まった。
涙で揺れる視界の奥に、まったく別の景色がはっきりと浮かび上がったからだ。
白いシーツの上で、浅く息をしていた妹の寝顔。
夕方になってもカーテンを開けられない部屋に漂う、独特の苦い薬の匂い。静まり返った家の中で、時折鳴る小さな医療機器の電子音。何もできず、ただ傍らで手を握ることしかできなかった自分自身の無力感。
そして、出勤前の慌ただしい時間に、病院からの書類を確かめていた母の疲れた背中。
今、魔王を討伐したことで、元の世界へ繋がる帰還窓がようやく開こうとしている。だが、その窓が開いている期間は限られている。
数日間のうちに儀式を終えなければ、花帆が召喚された日に戻ることは二度とできなくなる。
さらに、世界を救った報酬として守護存在から与えられる恩恵は、ただ一つきりだ。
この場所に残ることを選べば、花帆はアレクシスと生きていける。
彼の優しさに包まれて、温かい食卓を囲むことができる。
けれど、それでは妹を救うことはできない。ただ一つの恩恵を使わなければ、病気の原因を取り除くエリクサーは手に入らない。自分だけがこの世界で幸せになり、日本で苦しむ家族を永遠に見捨てることになる。
どちらを選んでも、大切なものを永遠に失う。逃げ場のない二者択一が、花帆の胸を鋭く締め上げた。
「……ごめんなさい」
あふれ続ける涙を拭うこともできず、花帆はかすれた声を出した。
彼の手を握り返そうとした指先から、すっと力が抜けていく。繋ぎ止めたいのに、自分から手を離さなければならない痛みに、胸の奥が引き裂かれそうだ。
「嬉しいの。すごく、嬉しいのに……」
握られたままの指先が、小さく震える。
アレクシスは手を離さなかった。驚きや不満をぶつけることもせず、花帆の頬を濡らす涙をそっと拭ってくれた。
「謝らなくていい。今すぐ答えを出せと言っているんじゃない」
彼の声は、驚くほど静かで優しい。
けれど、花帆に触れる指先がほんのわずかに震えていることに、花帆は気づいた。彼は花帆が何を迷い、誰の顔を思い出しているのか、分かっているのだ。
「君が何を大切にしてここまで来たのか、俺は知っている。だから、君が言葉にできるまで待つ」
その誠実さが、かえって胸を締めつけた。
彼が無理に引き止めようとしたり、家族のことなど忘れろと言ったりしたなら、きっとこんなふうには苦しくならない。
彼は花帆の願いを知った上で、それでも自分の人生に花帆がいてほしいと願っている。そして花帆もまた、彼と暮らす未来を本気で欲しいと思ってしまっている。
花帆は深く息を吸い、濡れたまつげを上げた。
まだ返事はできない。けれど、彼の手を握ったまま黙り込むのではなく、今自分の胸にあるものを、きちんとこの人に聴いてほしいから。
「あのね、アレク」
「ああ」
「妹のことを話してもいい?」
花帆が尋ねると、アレクシスは迷わず頷いた。
彼は花帆の手を包んだまま、すぐ隣の石垣へ腰を下ろし、花帆が話し始めるのを待つようにまっすぐ視線を合わせてきた。
二人がまだ聖女と勇者ですらなかった、一年前から、この恋と願いは始まっていた。




