5歳編・第7話:夏の雨と、妹リリィの笑顔
事故から一月。
リオンの頭の傷はすっかり治り、日常が少しずつ戻ってきた。
けれど彼の中では、何かが確実に変わっていた。
時折ふとした瞬間に、前世の記憶の残滓が蘇るのだ。
キーボードの打鍵音。
パソコンのモニター。
焦げたカップ麺の匂い。
そして、あの孤独な夜の光景。
(……あれは夢じゃない。俺は、確かに“別の世界”にいた)
けれど、ここには“家族”がいる。
笑顔で迎えてくれる母。
黙って支えてくれる父。
そして――小さな妹、リリィ。
それが、何よりも嬉しかった。
***
その日、村には夏の雨が降っていた。
空はどんよりと曇り、屋根に当たる雨粒の音がぽつぽつと響く。
エルナは縫い物をしており、父のダリウスは納屋で農具の修理をしていた。
リオンは家の縁側で、リリィを膝に乗せながら外を眺めていた。
「おにいちゃん、あめのにおい、すきー!」
「うん、ぼくもすきだよ。なんか、やさしい匂いがするね」
リリィは小さな指で雨の滴をつまもうとして笑う。
「つかまえた!」
「え、ほんとに? どれどれ……」
リオンは手を伸ばすが、リリィの掌にあるのは水滴ではなく、淡い光の粒だった。
「……え?」
それは、雨に混じるようにして漂う小さな光――まるで“精霊”そのものだった。
淡い青と緑の光が、リリィの周りでふわふわと踊っている。
「きれい……」
リリィの瞳がキラキラと輝く。
リオンの胸にざわめきが走った。
(まさか、リリィも……?)
その瞬間、光の粒たちはふっと消えた。
まるで、彼女の純粋な笑顔に導かれるように消滅したのだ。
「……“癒しの子”……」
風が、確かにそう囁いた。
「癒しの……?」
リオンがつぶやくと、声は消える。
しかしその意味を知るのは、もう少し先のことだった。
***
「リオン、手を貸してくれ!」
父の声が納屋から響く。
「はい!」
彼はリリィを母に預け、納屋に走った。
そこでは、古い鋤の刃が錆びついていた。
「この雨で道具がやられちまった。明日の作業の前に直しておきたい」
リオンは工具を手渡しながら、ふと思った。
(この刃……青銅だ。すぐに欠けるし、磨いても限界がある)
前世の知識が頭をよぎる。
(もし、鉄を精製できたら――もっと効率よく農作業ができるのに)
だが、ここではそんな技術は知られていない。
火を扱う鍛冶屋が一人いるだけで、道具の素材は“神から授かったもの”と信じられていた。
(この世界の常識を壊さないように……でも、いつかきっと改善できる)
父と並んで作業をしながら、リオンはそんな未来を思い描いていた。
「よし、これで当分は使えるな」
ダリウスが額の汗をぬぐう。
「リオン、助かった。お前、ほんとに器用になったな」
リオンは照れ笑いを浮かべた。
(いや、前世でネジ一本締めるのに比べたら、こんなの簡単だよ)
だが、言葉にはしなかった。
今の自分は“リオン”なのだ。
***
夜。
雨はやみ、窓の外には静かな月明かりが差し込んでいた。
リオンはリリィを抱きかかえ、縁側に座る。
「リリィ、今日は楽しかったね」
小さな妹が笑顔でうなずく。
「うん、おにいちゃんと遊べたから、たのしかった!」
リオンはふと、前世の孤独な日々を思い出す。
会社のオフィス。
誰も褒めてくれない成果。
疲れ切った自分。
(あの頃に比べたら、今は……ずっと幸せだ)
雨上がりの空気には、微かな香りが混じる。
森の草や土の匂い、花の香り、そして水の匂い。
その全てが、彼の胸の奥を静かに満たした。
「……これが、生きるってことなのかな」
リリィはリオンの手を握り、柔らかく笑った。
その温もりに、少年は思わず目を閉じる。
「リリィ、約束するよ。おにいちゃん、ずっと守るからね」
「守る……」
風がささやく。
「その力は、やがて世界を変える」
リオンは肩をすくめ、微笑む。
(まだよくわからないけど……でも、なんだか嬉しい)
その夜、縁側に座る二人の影は、柔らかい月光に包まれていた。
世界はまだ小さく、未完成だ。
だが、少年の心には、確かな希望が芽生えていた。
――前世の痛みも孤独も、今ここでは意味を持たない。
この世界で生きる自分、リオン・レインフォードとして、
彼は家族と共に歩むことを選んだのだった。




