7歳編・第93話:影、村へ近づく ― 違和感の朝
訓練場の土を踏みしめると、リオンは軽く肩を回した。
体調は万全、どころかむしろ軽い。
昨夜深く眠ったおかげか、胸の重さも感じない。
(ほんとに……影がおとなしい)
まるで誰かに押さえつけられているようでもあり、
あるいは別の場所へ引き離されたかのようでもある。
だが――その“静けさ”が、すでに不吉な兆しだった。
◆◆◆
「よし、今日もやるぞ!」
ロウガが木剣を肩に担ぐ。
いつもの豪快な笑顔だ。
「ロウガ、昨日よりずいぶん元気だね」
「当然だろ! 気合い入れて寝たからな!」
(“気合いで寝る”ってなんなんだろ……)
リオンが苦笑していると、ロウガは突然言った。
「リオン、今日は反応速度の強化だ! 昨日よりも本気でいくから覚悟しろ!」
ほんの一瞬、胸が躍る。
こんな普通の朝が続くだけで十分幸せだ――
リオンはそう思いながら構えた。
「いくぞッ!」
ロウガが地を蹴る。
その踏み込みの音と同時に、風が裂ける。
――ガン!
木剣と木剣がぶつかり、衝撃が腕を痺れさせた。
「お、いい反応じゃねぇか!」
「まだまだッ!」
ふたりの木剣が交差し、弾き合い、ぶつかり合う。
訓練場には乾いた音が響き続けた。
だが――
その楽しげな衝突の音とは裏腹に、
リオンは時折、
“胸の奥がひどく冷たくなる”瞬間があった。
(……なに? この感じ……)
まるで誰かに呼ばれているような。
遠くから引っ張られるような。
胸の冷たさに気を取られた一瞬――
「リオンッ! 隙あり!」
「わっ!」
ドン、と木剣がリオンの肩に軽く当たった。
「ぐっ……!」
「おい、大丈夫か?」
「う、うん。ちょっとぼーっとしてただけ」
ロウガは目を細めた。
「なんか……お前、今日は集中が切れやすいな」
「……ごめん。なんか、変な感じがして」
リオンは胸を押さえた。
ロウガが歩み寄り、
「変な感じって、影のやつか?」
と低く問う。
「わかんない。暴れてるわけじゃないんだけど……」
言葉を探しながら、リオンは自分の胸の奥に意識を沈める。
(……呼ばれてる?
誰に?
なんで?)
その“冷気”は昨日まで感じなかったものだ。
胸の奥底――暗く、重い、音のない場所で、
何かが「こっちへ来い」と手招いているような錯覚。
そして――
(この冷たさ……どこかで……)
思い当たった瞬間、背筋が凍りついた。
――昨夜、影を押しとどめた“あの瞬間”。
影が壊れたとき確かに聞こえた、あの声。
……リオン……
……返セ……
(まさか……来てる……?)
ロウガが眉間に皺を寄せた。
「おい、やっぱ変だろ。無理すんな」
「ううん、大丈夫。すぐ治ると思うよ」
そう言いながら笑うが、ロウガは納得していない表情だ。
だが次の瞬間――
「ん?」
ロウガが顔を上げた。
「どうしたの?」
「……いや、なんか妙じゃねえか?」
ロウガは訓練場の外――森の方向を見る。
その表情は真剣で、動物の気配でも察知した獣のような鋭さ。
「空気が……変だ」
リオンもつられて森を見る。
鳥の声がしない。
風の揺らぐ音もしない。
森の色が、どこか“重い”。
(……これって)
胸の冷たさが一気に強くなる。
呼ばれている。
確実に、近づいている。
ロウガがつぶやく。
「森の奥から……でっかい魔素反応が来てる」
「えっ……!」
「いや……魔物の気配じゃねぇ。本能がざわつく……“危険”。そういうやつだ」
その瞬間、
リオンの胸が“ドクン”と脈打ち、強烈な寒気が体を貫いた。
「ッ……!」
倒れそうになり、ロウガが支える。
「リオン!」
「……ロウガ、これ……多分、僕のせいだ……」
震える声でそう言った瞬間――
『――ギィィィィ……』
耳の奥で、
誰のものでもないノイズが鳴った。
まるで空気そのものが軋むような、
異質で、歪んだ音。
ロウガもその音を耳にしたのか、険しい顔をする。
「……聞こえたか?」
「うん」
ふたりはゆっくりと森の方向を見る。
その奥――
木々がざわり、と風でもない“何か”に押されて揺れている。
黒い霧のような影が、わずかに浮かび上がった。
リオンの心臓が握られたように締めつけられる。
(……あれは)
影の抜け殻。
失われた影核を求めて、森の深奥から村へ迫りつつある。
ロウガが木剣を握り直し、低く言った。
「リオン、準備しろ。
……これは、普通の魔物じゃねぇ」
リオンも震える手を握りしめた。
「わかってる。
……たぶん、僕が向き合わなきゃいけないやつだ」
森の奥で、黒い影が蠢く。
村に近づくたび、空気は重く、冷たく、濁っていく。
そして――
影の“眼”が、確かにリオンを捉えていた。
『……リオン……』
声にならない声が、風に乗って届く。
影は近づく。
リオンの“核”を取り戻すために。
――光と影の距離は、もう数百メートル。
村を包むはずの平和は静かに破られ、
リオンの心の奥に眠る影は、応じるように微かに蠢き始めた。
これは、回避できない運命の再会。
影と光が、再び衝突する朝が訪れようとしていた。




