7歳編・第92話:影の目覚め ― 森の奥で蠢くもの
翌朝。
リオンは胸の痛みもなく、驚くほどスッキリした目覚めを迎えた。
「……ほんとうに落ち着いてる」
胸に手を当てても、昨夜の黒いざわつきは感じられない。
まるで深い水底に沈んで、影が息を潜めているようだった。
(ロウガのおかげ、だよね……)
思い出すだけで胸の奥がじんわり温かくなる。
あの“つながり”の感覚が、黒残滓を押さえ込んでいるのだと直感で分かった。
階下へ降りると、父と母、そしてミレーヌもすでに食卓にいた。
「おはよう、リオン」
エルナが微笑む。
その声を聞くだけで胸の影が弱まるのが分かる。
(ほんとうに……こういうのが大事なんだ)
穏やかな朝食の空気を噛みしめながら、リオンは昨夜の出来事には触れず静かに食べた。
ただ――
その穏やかな朝の裏で、別の場所では“異変”が始まっていた。
◆◆◆
森の奥。
光の届かぬほど深く濃い森域〈ディープ・グロット〉。
そこは人も魔物も踏み込まぬ禁域であり、魔素の濃度が“別格”の場所。
その中心付近で――闇が震えた。
◆
……ドロ、ドロロ……
黒い液状の影が地表を覆うように広がっていた。
まるで地面そのものが腐っていくよう。
影は脈打つように揺れ、形を変え、やがて――
――ギョロリ。
光のない“眼”をひらいた。
『……ァ……リ……オン……』
生まれたばかりの声はひどく濁り、途切れ、とぎれとぎれで。
自然界のものとは思えないほど不気味だった。
『……リオン……ヲ……モド……セ……』
それは怒り。
執着。
そして――“喪失の痛み”。
昨日、リオンの中で崩壊した影の王〈シャドウロード〉の残滓が、
ほんのわずかだが本体にも跳ね返っていたのだろう。
これはその“反応の一部”……
あるいは“代替の依代”だ。
影は地を這い回り、黒い枝のように樹木へ絡みつく。
樹は腐り、数秒で枯れ、倒れた。
『リオン……リオン……リオン……』
ただひたすらリオンを呼びながら、形を変え続ける影。
やがてそれは人の上半身のような形をとり、脚の代わりに黒霧を揺らめかせながら立ち上がる。
『……取り込マレた……
……奪ワレた……』
かすれた声とともに、胸のあたりが大きく裂けた。
ぽっかり空いた裂け目の中には、
本来あるはずの“核”――シャドウロードの影核が存在しない。
黒い残滓はそれを失い、
半ば本能だけで動く“影の抜け殻”になっていた。
だが抜け殻でさえ――力は健在。
周囲の魔素が吸い込まれ、影はさらに濃く、強くなる。
『トリ戻ス……
我ガ、核……
リオン……リオン……オマエ……』
影は顔を引き裂くように歪め、叫んだ。
『オマエハ……我ノ……モノ――!!』
その咆哮は、森の魔物たちを怯えさせ、鳥が一斉に飛び立つほどの衝撃を生んだ。
だが――その叫びは、まだ誰も知らない。
ただ、森の奥で、
リオンの胸の影と「呼応する何か」が生まれたというだけ。
◆◆◆
一方その頃。
村の外れではロウガが大声を張り上げていた。
「おいリオン! 遅いぞ!」
「ご、ごめん! 急いでる!」
昨日より体調は良い。
むしろ軽いくらい。
ふたりは訓練場に向かって駆け出した。
リオンは胸の残滓がいまも静かに眠っているのを感じながら、小さく思う。
(このまま……静かにしててくれればいいんだけど)
しかし同時に、
森の奥で先ほど生まれた“影の抜け殻”が、
遠く離れた場所からリオンの存在を確かに感じ取った。
黒い“眼”が細められる。
『……ミツケタ……』
その瞬間、森の空気がびりびり震えた。
リオンは訓練場へ走りながらふと胸を押さえる。
「……?」
微かな冷気を感じた。
だが、それが何を意味するのか――
悟るのは、まだ少し先のこと。
森の奥で蠢く影はゆっくりと、しかし確実に“リオン”へ向かい、
世界の均衡を乱す足音を深い森に響かせていた。
――これは始まりにすぎない。
黒い残滓は目覚め、
失われた“核”を求めて動き出した。
その行き着く先にあるのは、
リオンと影――
光と闇の“再会”だった。




