7歳編・第89話:魂のひび割れ ― 見えない後遺症
リオンが眠りについて、部屋に静けさが戻ると――
エルナは隣のキッチンで小さく肩を震わせていた。
「あんな……あんな顔色で帰ってくるなんて……」
テーブルに手をつき、必死に涙をこらえる。
ダリウスはそれ以上言葉をかけず、そっと背をさすった。
「無理もないさ……俺だって、心臓が締め付けられるかと思ったよ」
「リオンは強い子だけど……まだ七歳なのよ……?
なんで、あんな無茶を……」
「理由は、あとで本人に聞こう」
ダリウスは深呼吸して言った。
「だが……ロウガとミレーヌが一緒でよかった。
一人だったら、もっと危ないことになっていた」
エルナは涙を指先でぬぐい、二階の寝室に目を向ける。
「……明日になっても具合が悪いようなら、レーネに診てもらわなきゃ」
「そうだな」
二人の会話は落ち着いていたが、胸の奥の不安はまったく拭えていなかった。
その頃――。
布団に横たわるリオンの意識は、静かな暗闇をさまよっていた。
夢ではない。
しかし正確には意識でもない。
視界に広がるのは、星も光もない、ただの“深さ”。
胸に手を当てると、奥でかすかに金色の火が燈っていた。
(……ここは、ぼくの中……?)
すると、その暗闇の奥から“音”が聞こえた。
――ひび。
細かいガラスが割れるような音。
胸の奥を走る痛み。
さっきまでよりも、明らかに鋭い。
(……ひび……って、もしかして……)
魂に刻まれた亀裂。
フェンリルの力と、もうひとつの黒い影の力――
正反対の魔力を同時に受け止めた結果、リオンの魂には負担が残った。
創始の火がそれを繋ぎとめているが、完全ではない。
(これ……放っておいたら、やばいんじゃ……)
またひびの音。
リオンは胸を押さえ、眉をひそめた。
痛みは耐えられる。しかし、問題は別にある。
(このままだと……ぼく、魔力のコントロールができなくなる……?)
白い光。
黒い影。
創始の火。
三つがバランスを崩せば――
魔力暴走。
あるいは、もう一度あの“融合”が起きるかもしれない。
その時、暗闇にもう一つの光が現れた。
金色でも白でも黒でもない。
やわらかな薄紫の光。
(――あ……)
知っている光。
【妖精の里】で出会った、小さな妖精王リアノンの“気配”だった。
『……心配、しすぎ……ですよぉ……』
ふわりと風が吹くように、耳元で声が響く。
(リアノン……?)
『魂、ちょっとだけ傷ついてるけど……あなたなら、まだ大丈夫……。
でも……ケアしないと、もっとひび、増えますよ』
(どうしたら治せるの……?)
『教えられません……。
いまのあなたは、まだ“触れちゃいけない場所”にいるから』
(じゃあ、どうすればいいの!?)
少し間が空いた。
そして――
『――“守られること”、です』
(……守られる?)
『そうです。
あなた、自分でなんでも抱え込みすぎ……。
ちゃんと頼ること……それが、あなたの火を守る……』
光が弱まっていく。
『……ちゃんと、起きて……。
あなたの周り、泣きそうな人たち……いっぱいいるから』
(リアノン……!)
呼びかけようとした瞬間、意識がふっと浮かび上がった。
パチッ、と目が覚める。
天井。
薄暗い寝室。
自分の胸に乗る温かい布。
(……夢……?)
いや、違う。
胸の奥のひびはまだ残っている。
しかし、さっきより痛みは弱まっていた。
階下から小さな話し声がする。
「……本当に心配したのよ」
「大丈夫だ、エルナ。あいつは強い」
「強いから余計に怖いのよ……」
リオンはそっと布団から手を出した。
(……守られること、か……)
思えば、前世でも。
この世界に来てからも。
ずっと“誰かを守る側”でいようとしていた。
(でも、みんな……こんなに心配してくれてるのに……)
胸のひびの痛みが、少しだけ別の意味を持つ。
(……ぼくも、頼っていいのかな……)
階段の方へ視線を向け、そっと息を吸った。
「……おかあ、さん……?」
か細い声だったが、すぐに階段を駆け上がる足音が聞こえた。
「リオン!?起きたの!?」
エルナが飛び込むように部屋に入ってきて、リオンの手をぎゅっと握る。
「もう……!どれだけ心配したと思ってるの……!」
そのまま胸に抱きしめられ、リオンは驚いたまま固まってしまう。
「……ごめんね……」
「謝らなくていいの……。
ただ……お願いだから、あなたの辛さを隠さないで……?」
リオンの胸の奥で、金色の火が静かに揺れる。
リアノンの言葉が、やわらかく響いた。
――守られること。
きっと、それも強さの一つなんだ。
「……うん。
ちゃんと言うよ。
ぼく、ちょっと……体の奥が、痛いんだ」
エルナは一瞬驚いたあと、優しくリオンをもう一度抱きしめた。
「ありがとう……リオン。
ちゃんと話してくれて、嬉しいわ」
胸のひびはまだ治らない。
創始の火も完全じゃない。
だけど、リオンの心は少しだけ軽くなっていた。
そして――
その小さな一歩が、後に訪れる“運命の分岐”を左右することになるとは、この時まだ誰も知らなかった。




