Chapter 06 ─First Part
微かな音。
ガラスの向こうに霧が晴れていく。冷たい睡眠から目覚めるその膜のすぐ先に、曇った形が揺れていた。
意識は重く、鈍い。
コン、とガラスを叩く音──そこにいたのは、あの人。
教師、エリク・サファイア博士。
彼の眼鏡には遠くの炎が映っていたが、その笑顔は変わらず穏やかで、優しく、安心を与えるものだった。
彼のすぐ後ろでは、まだ目覚めきれない子どもたちが数人、制御パネルの前に集まっていた。
一人はエリクのコートにしがみつき、もう一人はエリオのポッドを指さしていた。
口が動く──訴えるように、必死に何かを伝えている。
エリクは即座に応えた。声は真空とガラスに遮られ聞こえなかったが、手の動きは鋭くも優しかった──
「下がっていなさい。私がやる」
──その静寂は、悪夢によって引き裂かれた。
背後から突如、白い光が船体を貫いた。
音はなかった。ただ、圧倒的な輝き。
金属は紙のようにめくれ、空気は一気に吸い出され、体も装置も無数の物が闇へと引き込まれた。
エリクが振り返る。目を見開き、口を開け──声なき叫び。
小さな手が必死に彼のコートにしがみつく。
子供たちの顔が恐怖に染まったまま、彼らは──
消えた。
音もなく、闇へと飲まれていった。
エリオは叫ぼうとした。手を伸ばそうとした。
だがその手は、ただ冷たいガラスを打つばかり。
涙が視界をぼやけさせ、心臓が胸を激しく叩いた。
──その時、闇の向こうに影が現れた。
星を覆うような、威容。
それは、〈ヘリオス〉だった。
通常の戦闘用フレームではない。
金色の装甲は熱を帯びて煌めき、肋の奥で光る排気孔。
その頭部は王冠のような輪飾に囲まれ、まるで太陽の炎の化身のようだった。
仮面の奥、細いスリットが輝きを放ち、静かに彼を照らしていた。
胸部装甲が花のように開いていく。
中心には、柔らかな琥珀色の光に満ちたコックピット。
そこから現れたのは──彼女だった。
混乱も、重力も、彼女を縛らない。
重さのない宇宙を漂うように、彼女は静かにエリオの元へと向かっていた。
ヘルメット越しに見えるその緑の瞳は、灯火のように静かに光り、影に染まることがなかった。
優しく、確かに、そこにあった。
胸が締めつけられる。
嬉しさと、悲しみの狭間で揺れる心。
彼女を見て、思い出す。
笑い合った時間、共に過ごした日々。
それは、光だった。痛みではない、ただ温かく包むもの。
彼女の指先が、ポッドの冷たいガラスに触れた。
エリオも必死に手を伸ばす──ほんの一枚の隔たり。
唇が動く──音はない。
だが、聞こえなくてもわかる。
「大丈夫。迎えに来たよ、エリオ」
その瞬間、〈ヘリオス〉の光に包まれて、
胸の痛みが少しだけ、和らいだ気がした。
恐怖も、喪失も、ただ彼女の存在が──
少しだけ、それらを遠ざけてくれた。
けれど、心の奥にはまだ、なにかが残っていた。
あの人は、彼のために来てくれた。
──それでも。
意識が溶けていく。
温かさの中へ、安堵の中へ──
だが、記憶の片隅にはまだ、失われた顔たちが浮かんでいた。
目を開ける。
息が浅く、肩が震えていた。
ひび割れた石の隙間から、淡い光が差し込む。
外では、波が教会の壁を撫でていた。
──朝が、来ていた。
古びた教会の壁越しに、人々の声が聞こえてくる。
穏やかな会話、足音、道具の音。
村の一日が、静かに始まろうとしていた。
──ただの悪夢だったのか。
それとも、失われた記憶なのか。
エリオは天井を見上げていた。
胸の鼓動はまだ早く、だが少しずつ落ち着いていく。
それが、今自分が「ここにいる」ことを教えてくれた。
いつも同じだった。
毎晩、夢に現れる顔。助けられなかった人たちの──顔。
「……先生……みんな……」
口をついて出た声は、かすれていた。
誰も答えなかった。
ただ、朝の空気の中に溶けて、消えていく。
聞こえてくるのは、遠くの声と、生き続ける世界の音だけ。
◇◆◇
木立の向こうから、鶏の鳴き声が重なり合い、波の音とともに響く。
教会の外、壁際には古びた青いウォータードラムが置かれていた。
釘にかかったブリキのカップが、風に揺れてカランと音を立てる。
エリオはそのカップで雨水をすくい、顔に思いきりかけた。
冷たい感触が眠気を吹き飛ばし、首筋を伝って雫が流れる。
彼はそのまましばらく立ち尽くし、目を閉じたまま水の感触を味わっていた。
教会の奥、調理小屋からは煙が上がる。
薪の香り、ココナッツミルクが煮える香り、そして潮気の混ざった匂い。
その匂いは、この村のすべてに染み込んでいた──衣服にも、夢にも、記憶にも。
彼は静かに教会から出て、朝の光の中へ踏み出した。
村はすでに活気に満ちていた。
女たちが、ヴァンガード軍のものらしいストーブの上で大きな鍋をかき混ぜている。
ストーブの側面には、擦り切れたロゴがかすかに残っていた。
子供たちは軍用ジェリカンに水を入れて運び、軍の防水タープに包んだ薪を背負って走っていた。
この即席の集落は、古い石造りの教会を中心に静かに、確かに息づいていた。
白く塗られたその壁は、朝日を柔らかく反射していた。
「やあ、エリオ!」
料理場の方から、年配の女性が手を振る。
鍋をかき混ぜる手を一瞬止め、にこやかに笑った。
「今朝は早いのねぇ」
エリオはかすかに微笑んで手を振り返す。「頑張ってるところです」
彼女は笑いながら言った。
「それはいい、それはいい。ねえ、このココナッツを持ってってくれない? 腰が痛くてねぇ」
エリオはすぐに歩み寄り、ココナッツを抱えた。
彼女の手はごつごつしていたが、温かかった。
ふたりは数歩並んで歩き、やがて日陰になったタープの下の敷物を指差された。
「そこに置いてちょうだい。今日の“ココナッツご飯”に使うから」
「ココナッツ……ご飯?」
エリオが聞き返すと、彼女はふふっと笑った。
「あとで食べてごらん。今日はね、みんな食べるのよ。特に今日はね」
何が「特別」なのかを聞こうとしたときには、彼女はもう別の調理場へ向かい、誰かに指示を飛ばしていた。
その声は、朝の風に溶けていった。
近くでは、子どもたちが大きすぎるヴァンガード軍の白シャツを着て走り回っていた。
その中の一人、小さな男の子が羽ばたく鶏を抱えてエリオの前を駆け抜けた。
「エリオ兄ちゃん! もう起きてたんだ! よく眠れた?」
「うん、ここの朝には少しずつ慣れてきたよ」
エリオはその子が鶏を落とさないように見守りながら微笑んだ。
鶏がバサバサと羽を広げて鳴いた。
「これ見て!」
少年は自慢げに鶏を差し出してきた。
エリオは笑って言った。「知ってるよ。食べたこともある。……でも、なんかこの子、ちょっと違うな。鳥っぽいっていうか……」
少年は吹き出した。「チキンは鳥だよ!」
エリオは照れくさそうに笑った。「そうだね、うん……」
「さわってみて!」
少年は鶏をさらに突き出した。
エリオはそっと手を伸ばし、羽をなでた。
「柔らかいな……あったかいし。かわいいな、こいつ」
「でも、今日はこの子だけじゃなくて、この子たちみんな、まとめて焼いちゃうんだよ!」
エリオの笑顔が一瞬止まり、目を見開いたが、すぐに思い出したように笑い直した。
「……そっか。姉さんが言ってた。今日は子どもたちが白い服着て踊るって」
少年は大きく頷いた。
「うん! 昼に踊って、夜はごちそうなんだよ!」
その顔の明るさに、エリオもつられて笑っていた。
そのとき、上半身裸の青年が近づいてきた。
色あせた軍のカーゴパンツとブーツを身につけ、ヴァンガードの帽子を深くかぶっていた。
手には重そうなプラスチック袋と、へこみのある段ボール箱を抱えている。
「モーゼ、お前な……」
青年はため息まじりに少年のシャツ姿を見て、首を振った。
「朝っぱらから白シャツなんて着るなよ。汚れるぞ」
「ヘンリー!」
モーゼは嬉しそうに叫び、彼が持つ荷物に目を輝かせた。
「それ、なに?」
「叫ぶなっての」
ヘンリーは舌打ちしながら、手に持っていた大きなビニール袋をモーゼに差し出した。
「残りのシャツだ。神父さんに持ってけ。今日はみんなでお揃いだぞ。マティオとレビィの分もある」
「じゃあ、箱は?」
モーゼは目を輝かせながら聞いた。
ヘンリーは呆れたようにため息をついた。
「お前の知ったこっちゃないよ、チビ。ほら、さっさと行け」
「はーい!」
モーゼは駆け出したが、すぐにバランスを崩しそうになって立ち止まり、手に持った荷物を持ち直した。
そしてエリオの方を振り返る。
「あっ、ねえエリオ。ブタって見たことある?」
エリオは少し首をかしげた。
「まだ、ないな」
「じゃあ、これ渡したらマティオとレビィと一緒に見に行こう! 神父さんが捌くところ! 楽しいよ!」
エリオは一瞬迷ってから、少し引きつった笑顔で返した。
「……うん。たぶん、楽しい……よね」
モーゼが再び駆け出す。鶏を脇に抱え、ビニール袋を地面に引きずりながら。
「引きずるなー!」
ヘンリーが後ろから叫ぶ。
「それシャツだぞ! 砂利じゃない!」
モーゼはふんっと顔をしかめながら、袋を片手で持ち上げて走り出す。
数歩は空中に保ったが、すぐにまたズルッと地面に落ちた。
エリオはくすりと笑った。
ヘンリーもつられて小さく笑い、箱を脇に抱え直しながらポケットを探った。
取り出したのは、くしゃっと曲がったタバコ。器用に火をつけ、ふぅっと長く一服する。
「あいつら、やけに浮かれてるな」
彼は慣れた手つきで曲がった煙草に火をつけ、深く吸い込む。子どもたちが道の先に消えていくのを見つめながら、ぽつりと続けた。
「こんなふうに堂々とできるのは、何年ぶりかだ」
エリオは彼の横顔をちらと見て、少し眉をひそめた。
「HLV下の地球って、いつもこんな感じなのか?」
ヘンリーは鼻から息を吐いた。
「場所によるけど、もっと酷いとこもある」
彼はまた一服しながら、帽子を直し、首の後ろを軽くこすった。
その仕草には、静かな疲れがにじんでいた。
その視線の先には、にぎわう村の様子。
誰かが笑い、誰かが鍋をかき混ぜ、煙が風にのって広がっていく。
エリオも、その光景を見た。
「“君たちのため”だって言うんだ。
より良い教育、医療、明るい未来……だってさ」
ヘンリーはタバコの灰を指先で軽く落とした。
「でも実際は、自由を奪ってるだけなんだよ。
自分の島に留まる自由、生まれた土地で生きる自由、
自分たちの“やり方”を忘れずにいる自由──それが奪われる」
彼はエリオを見た。目に、静かな怒りが宿っていた。
「だから、ここに残った。
たとえ不便でも、たとえ隠れるように生きるしかなくても──
ここが“俺たちの場所”だからだよ」
エリオは何も言わなかった。
ヘンリーの声に宿る苦味を、言葉の奥にある感情を、ただ黙って受け止めていた。
自分はまだ、何も知らない。
だが、この村の匂い、声、光──そのすべてが「本物」に感じられた。
ヘンリーはふっと微笑み、エリオの肩を軽く叩いた。
「難しいことは考えんな。今はここにいるんだろ?
だったら、姉を探してこい。海辺にいるはずだ。漁師の手伝いしてる。
昨夜、ECMノードの通信がちょっと変でな。修理してると思うぜ」
エリオは頷き、ようやく笑顔を浮かべた。
「うん、行ってみるよ」
ヘンリーは彼の背を見送った後、再び自分の作業へと向き直った。
その表情は、一瞬だけ柔らかくなっていた。