Chapter 04
「はい、あ〜ん♡」
その声はふざけていて甘ったるく、そして軍のブリーフィングルームにはあまりにも場違いだった。
長机と、その周囲に並ぶ椅子。
壁一面に設置された戦術モニター。
その中央で、艶やかな漆黒の長髪を揺らした女が、必要以上に身を乗り出していた。
制服は完璧。勲章も飾られていた。
だが、所作には微塵も軍人らしさがない。
手袋をはめた指先で、彼女は小さなダークチョコレートの欠片をつまみ、隣に座る男へと差し出す。
ジャン・ヴェルヴォーは、顔を動かさなかった。視線すら向けない。
ただ黙ってチョコを口に含み、タブレットに流れるデータへと指を滑らせ続ける。
彼の親指が画面をなぞるたび、インシデント報告と軌道予測が静かに切り替わっていった。
ユン・ミンジ司令は、そんな彼を見て満足げに微笑む。
──これが、彼女にとっての日常だった。
彼女は「PSMメン・ド・フェール」の公式な指揮官。
かつては軍の通信巡洋艦として設計され、現在は大幅に改装された多目的艦。
ヒューマン・レギオン・ヴァンガードの時代においては、もはや別の役割を持つ。
──一部、大使館。
──一部、作戦司令部。
──一部、空飛ぶ“処刑室”。
世間では「艦」と呼ばれている。
だがジャンとその部隊にとっては、ただの“空中オフィス”だった。
メン・ド・フェールは、東南アジア上空を低速で滑るように飛行していた。
4日間、気流を抱くようにして雲の下を滑り続けている。
眼下には、ジャングルと海岸線、工業都市のパッチワーク。
すべてはヴァンガード政権下の管理区域だ。
空は静かだった。
ジャンは太めのストローでチョコレートドリンクを啜り、カラになったグラスから最後の音が鳴るのも気にせずタブレットを操作し続けた。
ユンは当然のように、無言でリフィルを注いだ。
「今日は冷たいのね?」
彼女はささやくように言った。
「お礼のひとつもないなんて」
ジャンは答えない。
ユンは気にしない。
長髪をかき上げながら、また彼に身を寄せ、悪戯っぽくチョコを差し出す。
その様子を、部屋の隅から冷ややかな視線が見下ろしていた。
椅子にだらしなく座るコルネリアは、腕を組み、片脚をもう一方の脚に乗せていた。
ジャンプスーツの上半身は腰に巻かれ、タンクトップからは、鍛えられた体と古傷の残る肩が覗いている。
その目が細くなる。
「ほんと、恥ってもんがないのね……」
向かいの席では、ヴェレナが冷静にメガネを整えながら、指先でタブレットをリズミカルにタップしていた。
「ユン司令、そろそろお行儀を。まもなく来ます」
ユンはわざとらしく髪をかき上げ、ため息まじりに笑った。
「やだ〜、おばさん二人ってすぐ真面目ぶるんだから。
魂にまで更年期くるんじゃない?」
そしてまたジャンに頬を寄せ、顎を手にのせて甘えるように囁く。
「ねぇ、ダーリン〜?」
ジャンはやはり反応しない。
まるで彼女がそこにいないかのように、レポートをスクロールし続けていた。
──その時、自動ドアが開いた。
静寂を切り裂くような音。
姿を現したのは、整えられた制服を纏ったレナール・カサマツと、
ジッパーを中途半端に締め、金属のピアスを光らせながら歩くエンバー。
彼女は手に数枚のデータカードを持ち、表情はいつも通り読めない。
コルネリアが背筋を伸ばした。
ヴェレナは無言で時計に目を落とした。
ユン・ミンジは、すでにジャンの隣から離れ、テーブルの端に移動していた。
脚を組み、背筋はぴんと伸びている。
つい先ほどまで浮かべていたふざけた笑顔は、跡形もなかった。
レナールは直立不動の姿勢で停止した。
つい数分前まで、この女が──宇宙遠征での指揮記録が各国のニュースを飾っていた“あの”ユン司令が──
まるで甘ったれた愛人のようにジャンに寄りかかっていたとは思えない。
今は、どこからどう見ても冷徹な士官だった。
彼はきびすを返すように敬礼する。
「カサマツ・レナール少尉、着任いたしました」
その隣で、エンバーが小さく舌打ちしながらつぶやいた。
「チッ……あの股ゆるビッチが……」
ユンはその声を聞き流したように、丁寧な微笑みで敬礼を返す。
「ようこそ、少尉。でも、ここじゃ階級なんて飾りよ。肩の力抜きなさい」
ジャンは相変わらずタブレットから目を離さず、
グラスのチョコドリンクを静かにすすっていた。
コルネリアが腕を組み、呟く。
「さっさと始めてくれない?」
ユンの目が細くなった。
だが、それ以上何も言わず、軽く顎を引いて言った。
「じゃあ──始めましょうか」
ヴェレナの声が鋭く響く。
「エンバー、データを表示して」
睨んでいた目線をふと解き、エンバーは無言で前に出た。
手にしていたデータカードを中央のコンソールに差し込む。
ヴェレナがタブレットをスワイプし、ファイルを同期させると、
テーブル中央の大型スクリーンが起動した。
黒いインタフェースに並ぶのは、OSIの機密コードと物流管理タグがついたデータログの数々。
エンバーが最初に前へ出た。腕は組んだままだが、
その声からは、いつもの退屈そうな空気は感じられなかった。
「じゃ、基本からいくわよ」
彼女は手短に言った。
「“マーレ・ヌビウム”──月面植民地ハブに関わる全トランジットログを洗ったわ。
あそこは原材料の中継地で、地球・火星・他の月面拠点を繋ぐ物流の要。
戦略的にも重要だし、本来は厳重に監視されてる……んだけど、
今は“平和維持”の名目で、誰もろくにチェックしてない」
レナールが隣に並び、一歩前へ出る。
姿勢は正しく、声も抑制された調子だった。
「本来、マーレ・ヌビウムを通過する全ての輸送は秒単位でスケジュール管理されており、
逸脱にはハブ知事本人の許可が必要です。問題は、ここから始まります」
彼が手元のタブレットをタップすると、エンバーが素早く画面に同期させる。
「ここ見て」
エンバーが指差したのは、タイムスタンプと重量の欄だった。
「この航路、通常なら秒単位でスケジュールが合ってるはず。
でも、“完成品”とか“機密系”の積荷に限って、出発も到着も毎回6時間以上ズレてるの」
レナールが隣で小さく頷き、冷静に続ける。
「当初は、整備や補給による遅延と報告されていた。標準的な物流手続きだ。
だが精査すると──不審点が見つかった」
ジャンの視線はスクリーンから動かず、
ただ一言、柔らかく尋ねた。
「どんな“不審点”だ?」
エンバーは、その問いかけに込められた“含み”を察したのか、
片眉を上げ、口元にわずかな笑みを浮かべると──さらに踏み込んだ。
「質量と密度のミスマッチ。
マーレ・ヌビウムを出発する積荷は、申告された質量と正確に一致してなきゃおかしいの。
でも、ここ──」
彼女は指先をすばやくスクロールさせ、
スクリーン上に複数の記録をハイライトする。
「全部、申告重量より1〜2%ずつ軽いの。
ランダムじゃなくて、いつもその範囲。
自動システムじゃ検出されにくいギリギリのライン。
でも、積もれば馬鹿にならない量よ」
ジャンは表情を変えず、
少しだけ頷いた。
その反応は「当然」と言いたげだった。
レナールがすかさず補足を入れる。
「物流には多少の誤差がつきものです。
だが、ここまで一定しているのは──人為的で、意図的な改ざんを意味する」
エンバーはジャンに向き直る。目を細めたまま、冷たく言う。
「問題なのは、その積荷ログに毎回“ガバナー本人”の承認サインが入ってるってこと。
それなのに、監査も調査も一切入ってない。
見落とされたんじゃない──見逃されたか、うまく誤魔化してるのよ。
どっちにしても、怪しいにもほどがある」
レナールがすぐに言葉をつなぐ。エンバーの分析と噛み合うように、自然なテンポで続ける。
「さらに積荷の種類にも注目する必要があります。
対象の便はほとんどが、工業用の高級製品──
マイクロプロセッサー、融合炉コンポーネント、先端医療部品など。
いずれもブラックマーケットで高値がつく上、
戦略的リスクを孕む品目です」
エンバーが指で画面をタップすると、
新たに赤くハイライトされた航路がいくつも表示される。
「追跡対象の便をすべて洗った。で、見えてきたのがこれ。
正規のルート──ヌビウムから地球、火星、または他の月面拠点に向かうルートは、
外見上、問題ない」
彼女は間を置かずに言葉を続ける。
「でも、いくつかの便が“途中”で変な動きをしてる。
オセアニア圏をぐるっと遠回りしてて、どう見ても最短ルートじゃないのよ」
レナールがスクリーンに歩み寄り、指を差した。
「そういう航路の便は、決まって“通信遮断”と重なってる。
太陽フレアや気象干渉ってことになってるが、タイミングが妙にピンポイントなんだ」
コルネリアの目が鋭くなる。
「なぜオセアニア?」
エンバーは即答する。
「反統一勢力の活動が集中してるから。
オーストラリア周辺の諸島──そこがいちばん不穏。
で、不思議なことに、そういう地域でだけ積荷のログが“一時的に消える”のよ。
でも定刻にはしっかり到着してる。検査済みの状態で」
レナールの軍靴が一度、コツンと床を叩いた。
反射的な癖のような動き。
「軍事的に見れば、理想的な潜伏拠点だ。
孤立してて監視しにくく、ゲリラ作戦の前例も多い。
もし俺が補給ルートを裏で回すなら、同じような場所を選ぶ」
ヴェレナが問いかける。
「抵抗勢力との直接的な関与は確認できてるの?」
レナールははっきりとヴェレナを見て言う。
「まだ確証はありません。だが、可能性は極めて高い」
そのとき──ジャンが、静かにテーブルを指で叩いた。
打つ音は小さい。だが、確実に場を支配するリズムだった。
低い声が部屋に響く。
「市民腐敗監視機構も、
マーレ・ヌビウムのガバナーを、横領・汚職・非公式取引の疑いで調査中だ。
進行はかなり速い」
重たい沈黙が流れた。
レナールは黙ったまま、思考を巡らせる。
──俺たちの発見と、この腐敗捜査。
一体どこで繋がる?
その時、ジャンがわずかに身を乗り出した。
その目は、静かに、だが鋭く何かを捉えようとしていた。
ジャンが静かに言った。
「仮に──この件全体を、市民腐敗監視機構の精査にかけたとして。
それでもガバナーに不正なし、と結論を出させたいとしたら……少尉、君ならどう動く?」
レナールは一瞬まばたきした。少し面食らった表情になる。
「是正者、それはつまり──ガバナーを“守る”方法を、という意味でしょうか?」
その場にいた全員の視線が、一斉にレナールへ向けられた。
空気がぴりついた。
その緊張を断ち切るように、ユン司令の鋭い声が飛ぶ。
「カサマツ少尉。是正者の質問に答えて」
レナールはわずかに躊躇したが、すぐに姿勢を正した。
乗艦してから初めてのジャンとの直接対話──
しかも想定外の展開だった。
だが、頭の中でその構造がパズルのように整っていく。
彼は一度息を整え、はっきりと口を開いた。
「まず第一に、全ての貨物異常について、現地管理体制の責任を回避できる説明が必要です」
彼は画面を操作しながら続ける。
「たとえば──このHL-317便。
積荷重量がちょうど2%少なく申告され、
遅延の理由として“太陽フレア”が記録されています。
ここでは、宇宙通信局と後付けで報告を調整し、
“当該時間帯に偶発的な衛星干渉があった”という記録を出させます」
彼はもう一度操作し、航路一覧を表示した。
「次に、オセアニア圏を通過した便についてですが、
航路の不自然な迂回や燃料消費の変動に対しては、
“緊急経路調整”として工務局から事後報告を発行させます。
整備上の再調整や軌道修正といった名目で、
すべて“計画内の処置”に見せかけることが可能です」
ジャンが静かに頷いた。
レナールに、さらに続けるよう促す。
「加えて、現地の警備巡察部隊にも協力を仰ぎます。
“航行経路の再調整に伴う通常確認を実施、異常なし”という報告書を提出させ、
全体の整合性を補強します。
巡察部隊は整備局の報告に依存する傾向が強いため、作業量は最小限で済みます」
エンバーが、レナールの方をちらりと見る。
その目にはわずかな驚きと、認めるような色が浮かんでいたが──口には出さない。
レナールは、さらに押し切るように続けた。
「最後に、中央物流司令部と事前調整して、
“マーレ・ヌビウムの貨物管理システムに一時的なキャリブレーション誤差が発生していた”
という全域告知を発行させます。
複数のマニフェストに共通する重量誤差を、
“人為的・あるいはシステム的なミス”として説明できるわけです」
彼は口を閉じると、まっすぐジャンの目を見た。
「これらを組み合わせれば──
“官僚的な裏付け、整備による根拠、警備記録による証明、
中央からの公式告知”が全て揃います。
市民腐敗監視機構が調査に来ても、書類上は一点の曇りもない構成になる」
そして──
「つまり、コレクター。
ガバナーには一切の汚点も残らず、
“最初から不正などなかった”という公式な結論を導けます」
再び、室内には重たい沈黙が落ちた。
全員の視線が、ジャンへと向かう。
ジャンはゆっくりと頷いた。
「書類と行政上の処理なら、それで片が付く」
だが、次の瞬間、その目がわずかに鋭さを帯びる。
「では──“現物”が見つかった場合はどうする?
あの島で、ガバナーと直接繋がる証拠が発見されたとしたら?」
その一言に、レナールの背筋がピンと伸びる。
頭の中で、即座に対処プロトコルが回転しはじめる。
軍人としての思考が、次の動きを探り出す──
レナールが口を開いた。
その声は落ち着いており、内容は明確だった。
「その場合、我々自身で該当エリアを特定し、速やかに確保する必要があります。
証拠が他者に発見される前に、速攻で制圧または破壊。
それが唯一の選択肢です」
彼は一息ついて、さらに続けた。
「迅速かつ断固とした対応により、外部からの暴露や外交的余波の可能性を完全に排除できます。
先制的に島嶼を掌握すれば、情報漏洩も暴動も、同情による世論操作も起こらない。
つまり──ガバナーと反乱分子との繋がりが実証されることによって生まれる一切のリスクを無効化できる、ということです」
ジャンは顎に指を当てたまま、じっとレナールを見つめていた。
やがて低く呟く。
「……合理的で、即応的だな。ユン──島の特定は可能か?」
ユン司令はすぐに操作に入った。
手元のパネルをすばやくタップし、会議室中央の大型ディスプレイが切り替わる。
オセアニア圏の詳細地図が、衛星解析のオーバーレイと共に映し出された。
「輸送ログから対象を絞り込めば、範囲内のリコン展開は可能です」
ユンはオーストラリア北東の島嶼群を指し示す。
「前回の補給で受領したX9スペクターも含め、全リコン機をAO(作戦区域)に展開します。
14時間以内に全面スキャン完了予定──
ただし、電磁妨害がなければの話ですが」
彼女の視線が鋭くなる。
「問題は、民間の妨害じゃありません。
軍用ECM、あるいは光学遮蔽に近いパターンが検出されてます。
ああいうのは、偶然じゃ出てこない」
「BOXに空中移動と遮蔽用の外部モジュールを組み合わせれば、
広域リコンの速度はさらに加速できます」
その言葉に、コーネリアの目が一瞬で光を宿す。
「ボス。だったら──ハミングバードのプロトタイプ、実戦投入するチャンスじゃないですか」
ジャンは一言で彼女を制した。
「却下。ヘスティアを使え」
コーネリアの肩がわずかに落ち、不満げに口をつぐんだ。
ユンがすかさず話を繋げる。
「ただし、さらに絞り込む方法があります。
不正輸送が本当に海上ルートを経由しているなら──」
彼女は地図上の航路を指でなぞる。
「この付近の島々が最も適した“拠点候補”になります。
ここを優先スキャンすれば、所要時間は半分以下に短縮できる可能性もあります」
「加えて、輸送対象の“性質”を考えれば──
相応の警備体制を取っている可能性も高く、空からの探知は逆にしやすいはずです」
ジャンはコーネリアとレナールに目を向けた。
「想定される敵戦力は?」
先に口を開いたのはコーネリアだった。
彼女は身を乗り出し、即答する。
「重要物資の輸送で、かつHLV圏に近いなら──
一カ所に戦力を集中してる可能性が高いと思います。
専用の司令拠点に、BOX部隊、それと駐留兵。
主力はそこ一点に集めて、防衛重視の設計かと」
ジャンは視線をレナールに向ける。
「カサマツ少尉?」
レナールは一瞬だけ考え、首を横に振った。
「失礼ながら──私は異なる見解を持ちます。
戦力を一つの島に集中すれば、逆に目立ちすぎる。
偽装輸送の基本は“分散と冗長化”です。
複数の小規模な拠点を、それぞれ別の島に配置し、互いに独立運用している可能性が高いです」
「各拠点には、地上兵が少数。
BOXは配備しても1~2機程度で、あくまで目立たず、即応できる構成。
それが理にかなってます」
ジャンは満足げに頷いた。
「……同意だ。
分散型の構成の方が、奴らの戦術と一致している。
コーネリア、部隊編成をそれに合わせて再調整しろ」
コーネリアは小さく眉をひそめた。
「ですが──ボス。
ルビーはまだバレンタインと“テキサス便”の任務中です。
人員が一人足りてません。
戦力は“全快”じゃありませんよ」
ジャンは一拍置き、何かを思い出すように視線をレナールに向けた。
「……カサマツ少尉。
君、アカデミーでのBOXスコアは上位だったな?」
レナールは条件反射のように背筋を伸ばす。
「はい。 コレクター」
ジャンの次の言葉は、まるで提案のようで、実質は命令だった。
「よろしい。君も、コーネリアのチームに加われ」
胸の奥がきつく締めつけられるような感覚が、レナールを襲った。
アドレナリンが流れる一方で、どこか拭えない不安が心をざわつかせていた。
このタイミングでの実戦配備など、まったく想定していなかった。
ましてや、是正者本人からの直接命令とは──
ジャンの声が、静かに、冷たく、そして何より明確に響いた。
一語一語が刃のように研ぎ澄まされている。
「違法投下の証拠をすべて破壊しろ。
敵BOXユニットは音もなく排除。
作戦の痕跡は一切残すな。
──生存者も、目撃者も、存在してはならない」
生存者も、目撃者も──
その言葉が、レナールの内側に鋭く食い込んだ。
これはもう訓練でも演習でもない。
現実だ。明確な“現場”の話だ。
彼の脳裏には、ジャンと初めて会った日のことがよみがえった。
ホーフバウアー将軍の懸念を軽々と無視し、
人ひとりの存在や記録さえ“消去”することを当然のように語っていた男。
レナールは歯を食いしばり、不快感を飲み込む。
最初から分かっていた。
OSIに入るとは、そういう意味だ。
──疑念の入り込む余地は、どこにもない。
会議卓の端で、ヴェレナがユンと目を合わせ、何も言わず頷き合う。
だがジャンはすでに椅子にもたれ、ゆっくりと天井を見上げていた。
その顔に感情の色はほとんどなく、ただ思索に沈んだ眼差しだけが残されていた。
数秒後、ユンが静かに立ち上がる。
「──以上で、ブリーフィングを終了します」
その視線がレナールへと向けられる。
レナールは即座に直立し、軍人の礼を取った。
ユンが鋭く声をかける。
「ワン・ネイション」
空気が一変した。
コーネリアとレナールが同時に姿勢を正し、声を揃える。
「ザ・グローリー・オブ・マンカインド!」
だがその間も──
レナールの視線は、ただ一人だけ動かぬ人物に注がれていた。
ジャン・ヴェルヴォーは、依然として無言。
遠くを見つめるまま、答礼の言葉すら口にしなかった。
「さあ、行こうか少尉」
コーネリアが軽く笑い、親しげにレナールの肩に腕を回した。
「新しいチーム、紹介してあげる」
ふたりが出口へ向かおうとしたそのとき──
レナールは、エンバーがまだその場から一歩も動いていないことに気づいた。
彼女は卓のそばに立ち尽くし、俯いたまま、かすかに震える声で呟いた。
「ボス……あたし、もうお役御免?」
その場の空気がぴたりと静まる。
ヴェレナはふと足を止め、エンバーを見やる。
その目には、かすかな驚きというよりも、“察した”ような気配が宿っていた。
一方で、ジャンに向かって軽やかに歩いていたユンは、途中でぱたんと動きを止め、
目を細めながら「……ん?」と小さく首を傾げた。
だが──
ジャンは椅子をくるりと回しながら、視線も向けずに答えた。
「何の話だ?」
天井を見たまま、軽く手を振る。
「ヴェレナ、エンバーに新しいデータカードを渡しておいてくれ」
ヴェレナは微かに眼鏡を持ち上げ、静かに口元を緩めた。
「データ室まで来なさい、エンバー」
その瞬間、エンバーの肩から力が抜けたように見えた。
顔にぱっと光が戻り、彼女は小さく頷く。
「──はい」
その様子を横目に、レナールは心の奥に妙な感触を残す。
ふたりのあいだにある“何か”──
それは明らかに深く、そして彼には立ち入れないものだった。
だがコーネリアは、そんな空気を読むことなく(あるいは無視して)、
レナールの背をぽんと押す。
「メイとエイプリルにはもう会ってるんでしょ?
じゃあ、残るはジューンだけ。ふふっ、楽しみでしょ?」
冗談めかして笑うコーネリアに、レナールは苦笑を返しつつ、部屋を後にした。
背後では、エンバーがふと表情を和らげ、ヴェレナと共に廊下へと歩いていった。
あまりにも自然で、そして穏やかなその笑顔。
──レナールには、それが単なる安心から来るものとは思えなかった。
あの一言で、彼女の中の何かが救われたようにも見えた。
そこには“個人的なやり取り”という言葉だけでは語れない、
もっと深くて、誰にも触れられない何かが──確かにあった。
だが、それが何なのかを考えるには、彼はあまりにも外側にいた。
踏み込む理由も、資格も、存在していない。
──そのころ。
ユンはいつの間にかジャンの隣に戻っていた。
彼の前にある小さなボウルからチョコレートを一粒つまみ、くるくると回る椅子の動きに合わせて身体を傾ける。
「ほら、ダーリン、あーんして~」
ジャンは天井を見上げたまま、反応を示さない。
「そんなに回ってたら、チョコ落ちちゃうでしょ?」
やや拗ねたような声に、ようやくジャンはため息をひとつつき、
回転を緩め、椅子の動きを止めた。
ユンはその隙を逃さず、チョコレートを彼の口元へと運ぶ。
彼は受け取ったが、依然として視線は宙をさまよっている。
その瞳はこの部屋を見ていない。
報告書でも、作戦でもない。
遥か先、あるいは──誰にも届かない、もっと深い場所を見ていた。