Chapter 03
艦内の通路は、淡い照明の中を静かに続いていた。
足元にはかすかな振動、頭上には機械音の低い唸りが漂う。
レナール・カサマツは、隣を歩く短髪の女と並んでいた。
彼女は引き締まった細身の体格に、挑発的な笑み。
耳にピアス、目の下にひとつ、そして舌には銀のバー。
喋るたびに、それがちらりと光る。
ジャケットに縫い付けられた名札には──「エンバー」とあった。
「で、なんて呼べばいいの? レナール? カサマツ中尉? それとも……フレッシュミート?」
ニヤリと笑いながら、彼女が言う。
レナールは無表情のまま視線を向けた。
「レナールでいい」
「ふーん。せっかくピカピカの階級もらったのに、もう捨てるの?」
「ここでは意味がない。OSI〈オーエスアイ〉のエージェントは、通常の軍制下にいない」
「まーね。でも、うちのメンバーは元軍人とか現役も多いし。気分的にはまだ軍属って感じかな。
混沌多め、ティータイム多めってとこ?」
前方では、女性の整備士らしきふたりが、長い金属シャフトを担いで通り過ぎようとしていた。
その視線が、レナールに一瞬だけ向けられる。
値踏みするような、計るような──女特有の無遠慮さがにじむ、明らかに無礼な目つきだった。
「ジロジロ見てんじゃねーよ、あばずれ共が」
エンバーが吐き捨てるように怒鳴った。
通り過ぎた整備士のひとりが肩をすくめて言った。
「落ち着けよ、エンバー。あんたの問題じゃないでしょ」
もうひとりは、振り返りもせず中指を立てた。
エンバーは舌打ちしながらぼやいた。
「ったく、グリースモンキーどもが……。気にすんな。クルーがピリついてんのは、
“男”がもう一人増えたからよ」
「……もう一人?」
レナールが聞き返す。
「そう。これまで“男”って意味じゃ、ボスだけだった。
で、今あんたが二人目。そりゃ、皆そわそわもするわな」
レナールは眉をひそめた。
「あからさまに歓迎されてなかったな」
エンバーは肩をすくめた。
「まあね。うちのクルーは全員、ボスの直選だし。しかも女ばっか。
そこに急に現れた、正体不明の新入りの男?……ヘンな奴だと思われても当然でしょ」
レナールは無言で前を見つめた。
「……そうか」
「そのうち慣れるって」
エンバーは軽く笑って肩をすくめた。
「あたしも最初は浮いてたけど、すぐ馴染んだし」
「適応が早いな」
「そりゃまあ……“忠誠心だけは全員一致”ってね?」
エンバーの乾いた笑いには、どこか皮肉が混じっていた。
そこでレナールは足を止めた。
そして右手を胸に当て、拳を固く握る。
「──一つの国家〈ワン・ネイション〉のために」
その敬礼に、エンバーは一瞬だけ目を細め──
「……そっか。そうだね、“人類の栄光〈グローリー・オブ・マンカインド〉”ってな」
と、小さく手を上げて返す。
その声には、皮肉とも誠意ともつかない、妙な温度があった。
レナールが何か言いかける前に、エンバーは部屋の方を顎で示す。
「あたしはヴェレナにデータカードに行ってくるから、そこで待っててもいいし、先に調べ始めてもいい。お好きに」
そう言って、やる気なさげな敬礼を残しながら通路の先へと消えていった。
レナールは指定された部屋へと足を踏み入れる。
室内は薄暗く、壁沿いに並んだ端末と山積みのデータカードがちらついていた。
プラスチックと焼けた基盤の匂いが、わずかに漂う。
彼は一度だけ部屋を見渡し、ため息をひとつ。
そして、黙って作業に取りかかった。
◇◆◇
エンバーはモニター群の間を軽快に移動しながら、ホログラフィックキーボードを叩いていた。
次々と流れるデータの列。ひとつの画面で指を止めると、すぐに別の端末へ飛び移る。
ガラスに映る彼女の反射が揺らぎ、欠けた爪でコード列をなぞる姿が見えた。
部屋の反対側では、レナールが椅子に背を預け、机の縁にブーツを引っかけていた。
タブレットをのぞき込みながら、のろのろと物流報告を読み進めている。
時折、別のスレートに何かを書き込み、新しいデータキーを差し込んではため息をついた。
──シュッと音を立てて扉が開いた。
最初に聞こえたのは、エイプリルの声だった。
「バカじゃないの? アンタ、コンピュータ触ったことある?」
レナールとエンバーが同時に顔を上げる。
「は? BOXの計器なんて、ほぼコンピュータだろ。くしゃみで誤作動するくらいにはな」
箱を抱えた女性二人が入ってきた。
エイプリルは隣の赤毛の少女を指差しながら、不機嫌に言う。
「エンバー、このバカに説明して。なんで物理カードが必要なのか、子供でも分かるようにな!」
エンバーは椅子でくるりと一回転してから、面倒くさそうに応じた。
「またそれ? ……いいわよ。
たとえばさ、自分の好きなキャンディーを探す時、いきなり棚に行くと、他の人に“あ、あれ欲しいんだな”ってバレるでしょ?
でも、在庫室の奥から直接引っ張ってくれば、誰にも見られない。
つまり、サーバーからリアルタイムでデータ見ると、アクセス履歴が残る。
でも、アーカイブから物理ログを引っ張れば──」
指先でカードを回しながら続けた。
「……誰にも見られず、好きに調べられるってわけ」
「つまり、ストックルームから直接キャンディー取っていいってこと?」
メイがぽかんとした顔で言う。
「違うし。バカなの?」
エイプリルが即座に突っ込む。
「それができるのは、あんたじゃなくて“ボス”だけ。アクセス権限が違うのよ」
「……うーん、わかんない。あとでボスに聞こーっと」
「やめろ」
エイプリルとエンバーが同時に言った。
エイプリルが続ける。
「アンタのくだらない例えで話しかけられたら、ボスの機嫌悪くなって」
「三日前からこの部屋にいるけど、まだ一言も話せてないんだから……」
エンバーが背もたれに寄りかかりながらぼやく。
「くだらない雑談入れたら、あたしの頼みも聞いてもらえなくなるでしょ」
エイプリルは彼女を横目で見て。
「……あんたも十分バカじゃん」
レナールが、資料から目を離しながら口を開いた。
「是正者〈コレクター〉が雑談に応じるとは思えません。
私が知る限り、彼が言葉を発したのは──一度きり。私の将官に対してでした」
三人が同時に瞬きをした。
「──マジで? 一度も直接話してないの?」
エイプリルが怪訝そうに尋ねる。
レナールは頷く。
「はい。任務も報告も、すべてミス・ヴェレナ経由です」
それを聞いて、三人は顔を見合わせる。
「やっぱ、そうなるよね~」
メイがにやりと笑った。
話題を変えようと、無理に明るく振る舞う。
「で? メン・ド・フェールでの生活はどう?」
「……微妙だな。食堂では誰も近づかない」
「あー、それは気にすんな。今度からあたしたちのとこ座ればいいよ」
エイプリルが軽く流す。
彼女たちはカードの箱をレナールのそばに置くと、隅の端末に向かって椅子を引いた。
エイプリルがタブレットを開き、なにやらコードを入力する。
後ろを向いたまま、エンバーがつぶやいた。
「しばらく居座るつもり?」
「キャプテンから呼ばれるまでね」
エイプリルが余裕の笑みで返す。
エンバーが耳元の通信端末を指差した。
「静かにしろよ。じゃないと──」
「いいからつけてつけて!」
メイが急かすように言う。
タブレットの画面が点灯し、砂漠を疾走するマシンたちのレース中継が流れ出す。
──レナールは横目でそのロゴを見た。
それは、HVL公認の娯楽チャンネルには存在しないもの。
──つまり、違法なブラックマーケット由来のコアリション映像信号だった。
だが、誰ひとりとして気にする様子はなかった。
罪悪感もなければ、恐れもない。
まるで──それが“当然”であるかのように、無防備に楽しんでいた。
レナールは何も言わなかった。
──自分がまだ“この艦の異物”であることを、強く意識していた。
だからこそ、他の者が見逃すものに、自然と気づいてしまうのかもしれない。
◇◆◇
朝の食堂は静かだった。
天井の照明が微かに唸り、人工的な光が空間を満たしている。
レナールとエンバーは並んで入室した。
どちらも目の下にくっきりとしたクマを浮かべ、明らかに寝不足の様子だった。
エンバーの足取りは重く、レナールの普段の直立姿勢にもわずかな乱れが見られる。
カウンターへ向かい、順に注文を告げる。
「フルーツとシリアルで……」
エンバーは目をこすりながらぼんやり呟いた。
「コーヒー大きめと、ベーグルサンドを一つ」
レナールが続ける。
そして一瞬の間の後に、
「──いや、五つください」
「まだそんなに食えるの?」
エンバーが眉を上げた。
「あと数件、データ検証を済ませてから寝るつもりです」
レナールが淡々と返す。
「……ま、好きにしなよ。寝坊すんなよ?
午後には新しいデータカードが届くって話だし」
二人がトレイを受け取る頃、
食堂の隅ではクルーたちが朝食を済ませたり、これから食べ始めたりしていた。
「ボス。」
「おはようございます、ボス。」
「先にどうぞ、ボス。」
「……まさか、まだ寝てないんですか、ボス?」
食堂の最奥、ボス──ジャンはタブレットを前に、わずかに前屈みになっていた。
一言も発さず、小さな動きで応じる。
首を少し傾けたり、指先で軽く合図したり。
その表情は相変わらず無表情で、端末をじっと見つめている。
レナールとエンバーは、彼の見える位置のテーブルに座った。
「……あー、ボスと一緒に朝飯食いたいけど、あの顔じゃ無理かぁ」
エンバーがスプーンを構えながらこぼす。
「是正者〈コレクター〉は表情を見せません。分かりませんね」
レナールが正直に返した。
「は? アンタ目ぇついてんの? あれ、どう見ても機嫌悪いでしょ」
エンバーが即ツッコミ。
レナールは目を細めてジャンを観察するが──
やはり何を考えているのかは分からなかった。
ジャンは読み続けている。
唯一聞こえたのは、空になったグラスのストローが吸い込む「カラ…」という乾いた音だけだった。
そのとき、足音がジャンのテーブルへ近づいた。
真っ白な制服を着た女性が横に立つ。
名札には、流れるような筆記体で「ドミニク・ロス」と刺繍されていた。
「……詰まってんのか?」
彼女が言う。
ジャンは顔を上げず、無言でグラスを差し出す。
ドミニクはしばらく注がずに立ち止まり、ジャンと無言で目を合わせた。
何層にも意味が重なったような沈黙──
レナールには到底、解釈できるものではなかった。
やがて、ジャンが疲れたように小さく息を吐いた。
「……市民腐敗監視機構。急に予算が増えてる。
記録も完璧に“クリーン”過ぎる。気持ち悪いくらいにね」
「なら、見るのやめて寝ろ。
あんたが倒れたら、尻拭いするのはヴェレナなんだから」
ドミニクがようやく注ぎ、あっさりと立ち去った。
ジャンはまた息を吐き、新しく注がれた飲み物を静かに啜る。
誰にも目をやらず、ひとことも発さない。
──その瞬間、艦内放送が鳴った。
「是正者、ブリーフィングルームへ。直ちに」
ヴェレナの声だった。
ジャンは即座に立ち上がる。
誰にも目を向けず、何も言わず、ただ無言で食堂を出ていった。
そのコートが椅子の背を軽く揺らし、彼の姿はすぐに廊下の奥へと消えていった。
「……ちょっと、嬉しそうだったかも」
エンバーがスプーンを止めたまま、ぽつりとつぶやく。
レナールも彼の背を見送っていたが──
やはり、何を考えているのかは読み取れなかった。
◇◆◇
部屋の中では、メイとエイプリルがいつものようにだらけながら、
タブレットをテーブルに立てて、その画面に夢中になっていた。
画面の中では、派手なカラーリングのレーシングマシンたちが、砂煙を上げて乾いたコースを疾走している。
「ほら見ろ! 言ったでしょ、ダウンで抜くって!」
エイプリルがメイの肩を叩いた。
画面では、1台の車両が正確な加速で追い抜き、
その後ろの車がスリップして砂丘に突っ込んでいく様子が映っていた。
「運が良かっただけじゃん」
メイは興味なさげに返す。
「違うって、バカ。あれはフュージョン・バランサーの効果だよ。先週スポンサー変わったんだってば──FCUの新技術ブランドにさ。エミレーツが追加資金まで投げたのに、それでも乗り換えたんだから!」
「ふーん。二度目の内戦中のくせに、アメ公もやるじゃん」
メイが鼻で笑った。
エンバーは空の紙コップをつかむと、メイの額めがけて放り投げた。軽い音を立ててコップが跳ねる。
「あんたら、うるさい」
「あいたっ──ごめん、ごめん!」と、メイは笑いながら両手を振った。
一方、エンバーとレナールは相変わらずの作業を続けていた。
すると、エンバーの端末が小さく鳴った。彼女は左手首を持ち上げると、小型のホロパネルに表示されたメッセージを素早く確認した。
目を走らせ、次の瞬間には端末をシャットダウンして立ち上がる。
「レナール」と彼女は言った。「『雨の海』月面植民地の調査結果をまとめておいて。そろそろボスに呼ばれるっぽい」
レナールは黙って頷く。
すぐに二人はデータを圧縮し、暗号化されたカードにまとめ始めた。
性格も作業スタイルも違うが、今や動きは驚くほどスムーズだ。
──数分後。
『サファイア・エンバー教授博士、レナール・カサマツ少尉、至急ブリーフィングルームへ』
メイが部屋の向こうから、まだレース中継に目を向けながら口を挟んだ。
「あ、コーネリアだ。」
エイプリルは片眉を上げる。
「珍しいね。キャプテンも来るのかな?直接ブリーフィングをやるなんて」
エンバーは立ち上がり、ジャケットの裾を軽く払った。
「ほら、行くよレナール。またボスが面倒くさいこと言い出すに決まってる」
レナールは襟元を整えながら言った。
「君、教授に博士まで持ってたのか?」
エンバーはドアへ向かいながら、ちらりと彼を見る。
「お前こそ、名前だけ立派な少尉じゃん。」
それだけ言って、ふたりは廊下へ踏み出した。
歩きながら、レナールは改めて隣を行くエンバーの横顔を見つめた。
もう何日も、このピアスだらけで口の悪い女性と一緒に過ごしていたが、彼女がそんな立派な学位を持っているとは想像もしていなかった。
あの息をするようなデータ処理能力は、肩書き通り。
だが、それでも納得がいかない。
話し方も、他人への態度も、すぐに皮肉を飛ばす癖も。
そのギャップは、思わず忘れかけてしまうほどだった──
この船には、まともじゃない連中ばかりが乗っていることを。
そして彼らの全員が、それぞれの物語を背負っているということを。