47.撤回
ヒューの眼差しは、真摯であり、そして甘さをも孕んでいた。
二人でいる時に沈黙が訪れることなど珍しくはない。だが、こんな風に見つめられた状態での静寂は経験がない。エディスは緊張のあまり、小さく喉を鳴らした。
「エディス」
「ひゃい!」
盛大に噛んだ。
(ぎゃあああ! 噛んだ、噛んじゃった! いやあああああ!)
穴があったら入りたい。
エディスは頭を抱えて俯いた。しかし──
「あはははははは!」
頭上から聞こえるのは、ヒューの爆笑。
恥ずかしすぎて逃げ出したくなるが、それは叶わない。何故なら、エディスの腕はヒューにしっかり捉えられていたからだ。
「……おかしいのはわかりますけど、あんまり笑わないでいただけると嬉しいんですが」
「いや、悪い。でも、ひゃい、ひゃいって……っ」
「うう……」
「普段がしっかりしてるだけに、ギャップがすごいな」
「……ヒューが緊張させるような雰囲気を作るからっ」
「そうだな、悪い」
ヒューが、エディスの顔を上げさせる。まだ少し笑いを含んでいるが、その表情は先ほどよりも甘さが増している。
ヒューの右手が、エディスの左頬を包み込んだ。エディスは思わず呼吸を止めてしまう。
(! また変な声が出るとこだった!)
「俺は、一生結婚などしなくていいと思っていた」
エディスの瞳が大きく見開く。ヒューは、エディスの頬を優しく撫でた。
「夜会にはパートナーが必要だ。だから、ほとんど参加しなかった。どうしても必要な場合は一人で参加することもあったし、可能なら妹に付き合ってもらっていた。一度、親戚筋の令嬢に頼んだことがあったが、その後でややこしいことになったんで、それ以降はない。……女性が嫌いなわけじゃない。だが、苦手ではあった。下心なしで近づいてくる女は皆無だったから」
「ヒュー……」
これだけの美形で、高い身分の令息であり、しかもすでに子爵を継承していた。おまけに、希少な緑手持ちで、魔石番でもあって、魔導士でもある。ヒューは、あまりにも高スペックなのだ。
令嬢たちが放っておくわけがない。隙あらば、その隣に立ちたいと皆が狙ったはずだ。下心なしなんてありえない。
しかし、ヒューからすると、それは鬱陶しいことこの上ない。下心ありありで近づく人間になど心を許せないし、深く付き合おうとも思えないだろう。
貴族の婚姻は政略であることが多い。だが、ヒューはそれさえも厭い、婚約者も作らずさっさとマクニール侯爵家を出た。
「ヒューは、女性よりも魔石獣が好きなんじゃ?」
「そうだな。そのとおりだ」
ヒューが笑う。警戒も何もない、屈託のない表情。
ヒューは、エディスに心を許していた。本音を明かせる、信頼できる相手として認めていた。
側にいても警戒する必要がない、落ち着ける、安らぐ、心地いい……この世に、家族以外でそんな存在がいるとは思ってもみなかった。
だから、あのような「ありえない」ことをしたのだ。
「あの夜会も、パートナーが必要だった。だが、いつものように一人で参加しようと思っていた。でも、エセルバート殿下にエディスを伴えばいいと言われ、俺はそれに頷いていたんだ」
エディスならいいと思った。そう思えた女性は、エディスが初めてだった。
ヒューは、初めて身内ではない女性をパートナーにした。だから、この話を聞いたマクニール侯爵夫妻は、ついに息子が婚約者を決めたと思ったのだ。
「両親も勘違いするよな。突然、パートナーの女性を決めたなんて聞けば。でも、実際はそれが本当ではなく、その場しのぎだったことはすでにバレていたみたいだ。兄だけには明かしていたが、両親には内緒にしていたのに」
「え? バレてたんですか?」
「ああ。さっき、母上から言われた」
先ほど、侯爵夫人がヒューに耳打ちしていたのはそのことだったのだろう。
だとすると、どうして彼女は、いや、侯爵夫妻は騙されたフリをしていたのだろうか。
「だったらどうして……」
「俺たちは仮初のつもりだった。でも、両親はそうは思っていなかったってことだ」
「どういうことですか?」
「つまり……両親は最初から、俺の気持ちなどお見通しだったんだ」
「ヒューの……気持ち?」
ヒューは一度立ち上がり、そしてエディスの前で跪いた。
「ヒュー!」
「意識したのは後だったが、俺は、最初からエディスを婚約者にしたいと思っていたようだ」
「え……」
ヒューはエディスを見上げ、右手を伸ばす。
「仮初の関係は、俺に本当に好きな女ができるまでってことだったよな? ……できたよ。俺は、エディスが好きだ」
「……っ」
「仮初じゃない、本当の婚約者になってほしい」
エディスは呆然とする。今言われていることが、夢のように感じられてならない。
部下としての信頼は勝ち得ていると思っていたが、まさか異性として意識してもらえていたとは……。
(時々すごく甘かったり、ドキドキさせられることはあったし、意識せずにはいられない時もたくさんあって……どうしようって、好きにならずにいられないって……)
気のせいだと思っていた。思おうとしていた。そうでなければ、自分を抑えられそうになかったから。
しかし、それはエディスの気のせいなどではなかったのか。
「いいなら、この手を取ってほしい」
ヒューに乞われ、エディスは我に返る。そして、震えながらもヒューの手を取った。
「きゃ!」
「捕まえた」
エディスがヒューの手を取った瞬間、強く引き寄せられ、あっという間に腕の中に囲われる。
「本当にいいんだな?」
「……はい」
「今更嫌だと言っても、離してやれないぞ」
「嫌なんて……言いません」
エディスはヒューを見上げ、精一杯の笑顔を見せた。
そう、エディスもこの気持ちを打ち明けなければならない。
「私は……ヒューを、お慕いしています」
「エディス」
ヒューの顔が近づき、吐息さえも間近に──
エディスは、静かに瞳を閉じる。やがて触れる、愛おしいぬくもり。
こうして、二人の間で「仮初」は撤回された。
──仮初だと思っていたのは本人たちばかりで、周囲の人間は、それが「真実」だと最初から知っていた。
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